支える骨と、形作る血肉と
俺が倒れて以来、由梨は食事の心配をしてくれていることを周囲に隠さなくなった。JINたちが居ようが頓着せずに、俺と顔を合わせるとまず、
「まっくん、ご飯食べた? 水飲んでる?」
って、尋ねながら、五百ミリリットルのペットボトルを差し出してくる。
JINは、
「なるほど。確かに大切にして貰ってるな」
って、古い話を引っ張り出してくるし、RYOは生温ーい微笑で眺めているし。
自分が蒔いた種とはいえ。由梨に惚気られているようで……穴を掘って埋まりたい。
地道な活動が実って、俺を”束縛”するバイトをしなくっても生活ができるようになった頃。
「そろそろ、えっちゃんと結婚しようかな、って」
二人で飲んでいる時、YUKIがそんなことを口にした。
「悦子さんは、OKくれたのか?」
「いや、まだ。プロポーズもできてへんけど」
顔を隠すように俯いて、YUKIがサキイカの袋を開ける。
「結婚、かぁ」
「MASAは、どないするん?」
「うーん」
結婚、するなら由梨としか考えられないけど、なぁ。俺の収入で、暮らしていけるのか?
「まったく考えてへんの?」
「いや、全くってわけじゃないけど」
サキイカを指でつまんで。グニャグニャと弄びながら、
「もうちょっと、こう……踏み切るための、きっかけが欲しいっていうか」
「きっかけなぁ」
「YUKIは、何がきっかけだった?」
「震災」
するっと出てきた言葉に、マジマジとYUKIの顔を見直す。
YUKIは、至極まじめな顔で
「俺、毎年言うてるやん? 明日が来る保証は無いでって」
JINのコーラスが入るようになったりと、小さなアレンジはあるものの、あのレクイエムは、一月の恒例になった。
そしてレクイエムを歌った後、必ずYUKIはMCを入れる。最近では、標準語を使っているけど、内容は初回と変わらず、『後悔しないように。行動しよう』って。
「えっちゃんと、このままズルズルと関係を続けとって。明日、”何か”が有ったら、俺、絶対後悔する」
「後悔、か」
「うん。だから、一日でも早く、ちゃんと意思表示しとかんと」
受けてくれるかは、自信ないけど。
そう苦笑しながら、ビールを空ける。
自信が無いといいながらも、YUKIの目には迷いが無かった。
「YUKIは、生活の不安とか無いのか?」
「有るよ。当たり前やん。こんな稼業やし」
平然と言いながら、サキイカを片手にリズムをとるように、手が動く。
「でも、それを含めてOKしてくれるか、って話やろ?」
「そんなものかなぁ?」
「MASA。ゆりさん、やで? それくらいバーンと受け入れる人と違うか? デビューのときも悩まんと、付き合いを続けてくれたやろ?」
「うーん」
「違うん?」
「俺が何やっても、『まっくんだから、仕方ない』って、許してくれるから。その器の大きさが、逆に怖い」
「何が怖いん?」
「大きい分、溢れたり決壊したりすると、大惨事になりそう。ある日、突然、ザバーってきたら怖いなって」
変なプレッシャーにつぶされるんじゃないかって。
音楽が毒になったみたいに。
泣きながら電話をかけてきたあの夜みたいに。
「そこを決壊せんように守るのが、男と違うん?」
「俺は、お前みたいに”全力で”守ってきてないし。むしろ俺が守ってもらってるかもしれない」
『俺の全力、守れる限り』なんて、言い続けてきたYUKIみたいには俺は強くない。
YUKIとそんなことを話してから、俺の頭の片隅にはずっと”由梨を守る”のは、どういうことかって疑問が張り付いていた。
ふっと空いたような、ちょっとした時間に、由梨との時間を思い返す。
付き合いだして十年、高校時代を入れるともっと長くなる二人で過ごしてきた時間。
最初はほとんど口をきいてくれなくって、何度も睨まれたよな。
JINたちと音楽をするようになって、一緒に買い食いをしたりして。歌えるJINが、羨ましいって呟いたこともあったな。鼻歌を歌って、抓られたことも。
初めてのライブで『楽しかった』って言ってくれて。いつか、由梨が歌えるようになればいいなって思ったっけ。
ああ、そういえば。由梨に『音楽を返してやる』って、口約束をそのまま、なし崩しに忘れてた。これは、ライフワークだな。死ぬまでに俺が奪った”天使の歌”を返してやらないと。
そうやって考えていると、必ず引っかかる場所がある。
折りに触れ、由梨が言っていた言葉。『音楽は、どれだけの犠牲を求めるのだろう』って。
俺に求められる犠牲が、由梨の次の”大決壊”だったりしないだろうか。
そんなことになったら……俺は、お前から今度は何を奪ってしまうことになるんだろう。
途切れ途切れ、考える。
風呂に入りながら。
仕事の合間の移動時間。
腕の中で眠る由梨の顔を眺めながら。
三十歳だもんな。来月の誕生日には。
お前を守る方法か、プロポーズのきっかけを見つけないとな。
どうしようもない音楽馬鹿だけど。
俺も男、だ。
とはいえ。何もつかめないまま、ズルズルと日が過ぎる。
「来月から、外科のチームリーダーをすることになりましたー」
ご機嫌な声で迎えられたのは、翌年の春。
休日だった由梨の部屋に仕事の後、飯を食いに行ったときのことだった。
「練習の成果がでたな」
「練習?」
「忘れたか? 社会人になってすぐに、大泣きしただろう?」
一人前になる日を発表会に例えて。見習いの間に、しっかり”練習”して、ミスをしないようにって。そんな話をしただろ?
オーブンから出したグラタンをテーブルに置きながら、うーんって考えて。
ああ、あれかぁ。って。
おい。あれだけ大騒ぎをしておいて。
「あの時は、お世話になりました」
冗談めかして頭を下げる由梨。
「電話、貰ったときは何事かと思った。初めてかけてきた電話がアレって、なかなか無いぞ」
「すみませんねー」
「でもな、あれで”ゆうりちゃん”の弱さが判った気がしたから、まあいいかって思ってる」
「弱さって?」
「お前、気が強いようでいて、芯に柔らかい部分を持っているんだよ」
その柔らかいところ、守れるようになりたいんだけどな。ってのは、あの日から思っている。
最近は、俺にその自信がつけば……もしかしたら、きっかけが掴めるんじゃないかとも。
「柔らかい、かなぁ?」
「音楽が体に毒になるくらいには、柔らかいんじゃないか」
「そこ?」
「うん、そこ」
掬ったグラタンに息を吹きかける。
向かいで由梨が、納得いかないって顔で首をかしげている。
「それがわかったから、でも無いけど。一生かかってでも由梨の毒にならない曲、作れたらいいなっていうのが、俺のひそかな野望」
「しゃべったら、”密かな”じゃないと思うけど?」
「そうか?」
じゃぁ、決意表明でもいいけど。
「そうでしょ。誰にも言わないから”密かな”野望じゃない?」
「うーん。由梨は、もう俺の一部だからいいと思うけど」
「勝手に一部にしないでくれる?」
「じゃぁ、全部」
俺は、音楽と由梨でできてる。
「訳、わかんない」
いつもの口調で言い返してきた由梨だけど。
どこか、すねて聞こえた。
気がした。
『後悔したくない』って言っていたYUKIは、悦子さんにプロポーズしたものの返事を保留にされ、楽器店の田村さんを追いかけているRYOにも進展がなく。俺自身も相変わらず……って、頃。
JINに変化が現れた。
最初に気づいたのが、SAKUだった。
「JINが最近、打ち上げに出ないことがあるだろ? あれさ、どうも常連の女の子と一緒に帰っているみたいだぜ」
「いつも同じ子か?」
まさか、手当たりしだい……な、わけないよな?
「当たり前だろ」
って、SAKUにデコピンをされた。くー、痛ぇ。
「ええー? どんな子なん?」
「JINが好きそうな、大人しい感じの子。MASAとか、RYOの方からは見えねぇかも。上手の壁際に、いつも居る子なんだけどよ」
SAKUの立ち位置が一番、上手側になるので、『ああ、この子か』って気づいたらしい。
「あー、判った。俺もこの前、ファミレスに居るとこ、見たわ。フワフワした髪の、小さい子やんな?」
「そうそう。多分、その子」
おおーって、盛り上がった俺たち三人に
「あまり、煽るんじゃねぇぞ」
RYOがくぎを刺す。
そんな会話からしばらく経ったある日。
ライブハウスのスタッフとの打ち合わせの関係で、JINとRYOはステージのあと、事務室に立ち寄っていた。俺たち三人が廊下を歩いていたら、廊下に一人の女の子が立っていて、俺たちと目が合うと、すっと会釈をしてきた。
「JIN、やんな? ちょっと遅れるみたいやけど。このまま、待っとくん?」
YUKIが声をかける。
ああ、この子が。なるほど。小さくって、大人しそうで。昔、JINが言っていた、『怖がって逃げて行ってしまいそうな子』だな。JIN好みの。
「お邪魔でなければ、待たせていただいてもいいですか?」
外見からは想像のつかない、はっきりとした声が返る。
「邪魔じゃねぇけど。一人で、大丈夫か?」
尋ねたSAKUに
「はい」
短く返事すると、彼女は俯いてしまった。
「みさ!」
後ろから、JINの声が響く。
ぱっと彼女の顔が上がって、うれしそうな声で
「仁さん」
彼女が応える。
『仁さん』??
「って。そうか。JINって、そんな名前だったか」
つい、呟いた俺にYUKIが、
「あれ? そうやった?」
って怪訝な顔をする。
大またで近づいてきたJINは、
「ごめんな、待たせて」
「いいえ」
「今夜は、時間大丈夫?」
「はい。明日は休みですし」
彼女がJINを見上げる。目と目を見交わして、ふんわりと微笑む。
よかったな。JIN。
ファンとはいえ、おまえを怖がらない子がいて。
そして。
由梨の三十一歳の誕生日も過ぎてしまい。秋も深まった頃。
俺たちがその春に出したアルバムの一曲が、CMに使われることになった。
夕飯に行く約束で俺と駅で待ち合わせていた由梨は、一緒に来ていたRYOから、その話を聞いた。
「ナイスファイト!」
とか言いながら、RYOとハイタッチをしている。ついでに横に居たJINとも。人前だって言うのに、こいつら高校の部活のノリのままだな、って見ていると。
「まっくん、すごいね。良かったね」
くるりと、俺の方を振り返って。『花丸!』って時の笑顔で笑いかけてくる。
その顔を見て、”何か”がストンと胸に落ちた。
由梨が犠牲になることがあるなら。俺と結婚しているかどうかなんてことは、きっと関係がない。
”生け贄”を、求めている”音楽”にとっては、俺が大切にしているものであればいいのだろうから。
由梨との関係が”恋人”であれ、”夫婦”であれ。俺にとっての優先順位は音楽と同等。
だったら。
YUKIの言うように。後悔しない道を、選ぶべきじゃないのかな?
改めて、自分の中の覚悟を問い直す。
『由梨の弱さを、俺は守りきれるのか? 音楽以外何一つ分かっていない俺に』
由梨を俺の人生から切り離すことは考えられない。音楽が俺から切り離せないように。
由梨は俺を支える骨だから。音楽は俺を形作る血肉だから。
ああ、そうか。
骨を守るために、皮があり、肉がある。
由梨のやわらかい芯ごと、俺の芯にして。音楽って俺の肉でずっと守るよ。
どちらかなんて、俺は選ばない。どっちも、とってやる。
そのためなら、他の何もかもを”生け贄”にしてやる。
残るネックは、経済的な問題だけど。
今回のCMの仕事で、なんとかなりそうな気もしてきた。
由梨が、日勤の日。帰宅したころあいを見計らって、電話をかける。
〔もしもし?〕
〔由梨?〕
〔どうしたの?〕
〔今から、そっち行っていいか?〕
〔はぁ? 今から?〕
〔うん〕
〔どうしたのよ。こんな時間に〕
〔着いたら話す〕
って、もうあと五百メートルほどなんだけど。歩きながら、かけてたから。
いつものように、ドアチャイムを押して。
中から、由梨の返事がする。
「どこからかけてたのよ!」
ドアを開けるなり、叫ばれた。
「うん、そこのコンビニの前」
「そんなに、急ぎの用事なわけ?」
サンダルを脱いだ由梨のあとから、部屋に上がる。
由梨は、本当に帰宅したばかりらしくって。髪も仕事仕様にアップになっているし、服装も通勤着のままだった。
流しに向かってヤカンに水を汲んでいる後ろ姿に、
「由梨、結婚してくれるか?」
って言ったら。
由梨は、そのままの姿勢で動かなくなってしまった。
あ、ダメ、かな?
蛇口が閉められて。由梨が振り向く。
けど、俯いていて顔が見えない。
「何で、いきなり」
「うん。織音籠、これで何とかやっていける自信が付いた」
「自信なかったんだ」
「俺、一人なら、何とかなるだろうけど。由梨と結婚して、生活を作れるか、不安だったから」
「まっくんの、ばーか」
鼻が詰まったような声で、言われた。
プロポーズして、『馬鹿』って……。俺、どうしたらいいんだろ。
「自信、持てないままだったらどうするつもりよ」
「いつかは、って思ってたから、大丈夫」
「大丈夫、じゃないの。分かってる? 子供生むのに、女はリミットがあるのよ!」
そんなの、あるなんて。思いもしてなかった。
「……遅かった?」
ひざを曲げるようにして、うつむいたままの由梨の顔を覗き込む。真っ赤な顔で、目が潤んでいた。
リミットって、いったいいつ? 俺生んだとき、母さんは何歳だった?
「まだ、間に合うけど。でも、でも、”いつまでも”は待てなかったわよ!」
やっと顔を上げて。両手を握り締めて全身で、叫ぶ。
待てなかった? って?
「待てずに、どうする気?」
自分の声のトーンが、半音下がったのが分かった。
「どうしてやろうかしら」
”どうする”気だ?
「もっと、甲斐性のある男に乗り換える、とか?」
無い、よな? そんなこと。無い、よな? 無いって、言ってくれ。
「乗り換えて欲しいわけ?」
真っ赤な目で睨みつける由梨。
「そんなわけない。何年かかったか分かってるか。他のやつに譲るわけないだろ」
「何年、って。私のほうこそ、何年、待ったって思ってるのよ」
「……ごめん」
ポロリ、と、音を立てるように。日本人離れした、由梨の大きな目から涙がこぼれた。
その涙の一滴も、床に落ちないように。その涙を、俺にしみこませるように。
抱き寄せる。抱きしめる。
眼下に、あらわになっている彼女の耳に
大切な、三音を。
「ゆ・う・り」
背中に回された手が、シャツをつかんだのが分かった。
「音楽以外、何も判ってない俺だけど。一緒にいてくれるか?」
「まっくんが音楽以外判ってないのは、じゅーぶん知ってる」
くぐもった声が、抱きしめた胸を通して伝わる。
「夫にするには、やっぱり拙いかな?」
「どこがまずいのよ。世界一の人だわ」
「本当に?」
「ああー、もう。ご飯も食べない音楽馬鹿だけど。私の正しい名前も弱いところも、世界の誰よりも私の全てを知ってるのは、まっくんでしょうが!」
一息にそう叫んだ後。威勢のよさを拭い去るように、
「一緒にいて欲しいのは、私のほうよ。『ゆうり』って呼んで欲しいのは、まっくんだけだよ」
って、どこか幼く聞こえる声がつぶやく。
「よかった」
ほっとしたら、腕から力が抜ける。
それに合わせるように、由梨が顔を上げた。まだ湿っているその目を、覗き込む。
互いの顔が近づいて。
この十年、何度も重ねた唇が触れ合う。
「ご飯も水も睡眠も欲しいと思った事のない俺が、ずっと心の底から欲しかったのは、音楽と由梨。この二つだけだよ」
一世一代の、告白。
後にも先にも、もう無いぞ
なのに。由梨の返事はといえば。
「まっくんの、ばーか。生き物としての本能を捧げられても、音楽の神様だっていい迷惑よ」
って。
そうか。俺、そんなものを、”生け贄”にしてたのか。
だったら、もう。
由梨をこの手に掴むことに、躊躇は無い。