大人の階段
今年も、うだるような夏が来た。
夏休みに入ってすぐの頃。
「ユキとアイツの彼女との四人で、一緒に晩飯に行かないか?」
そう誘った俺に、
「まっくんから、ご飯に行こうって言葉が聴ける日が来るなんて……」
成長したねぇ、なんて言いながら、俺の頭を母さんみたいに撫でている由梨の都合を聞いて。ユキたちと予定を合わせて、例の定食屋に行った。
「灰島 悦子です」
「中村 由梨です。よろしく」
二人が、自己紹介をする。
”照れ屋”で、なかなか俺たちとは顔を合わせてくれなかった悦子さんのことを、
「仲良うしたってな。リョウやサクの彼女とは波長が合わへんらしくって」
テーブルに手を突いて、由梨に頼み込むように言っているユキ。
二人が一緒にいるところを、まだ数えるほどしか目にしていないけど。ユキが悦子さんのことを、包み込むように大事にしているのは、見ているだけでよく分かる。たまたま顔を合わせてしまったサクの彼女と、”波長の合わなかった”時なんて、『後は、頼んだで』って、さっさと悦子さんを連れて、場を離れたし。
そんなユキの言葉に、
「アレ、は私も合わない」
って、言いながら由梨が、口をへの字に曲げる。この前の一戦を思い出したらしい。
リョウの彼女と路上でにらみ合いをした由梨の武勇伝に、おびえたような悦子さんと、それをなだめるユキと。そんな二人に、『喧嘩を売ったわけじゃないから』って言い訳をする由梨。
「まっくんが、余計なことをバラすから」
「ごめん」
まっくんのばーか、って言いながら、メニューを渡してくれる。
メニューを選ぶだけに、妙に”いちゃついて”いるユキたちに俺たちは当てられ気味で。
「何か、さっぱりした物、ないかな」
って、一緒のメニューを覗いていた由梨がつぶやく。
つい、俺も熱暴走。
「夏バテか? 熱は無いな」
とか言いながら、由梨の額に手を当てて
「なによもう。わけ、わかんない」
って、真っ赤になった由梨に睨まれる。
「マサ、ええ加減にして。えっちゃんがビックリしとる」
呆れたようなユキの声に、
「ユキちゃん、大丈夫。ゆりさんとマサくんが仲いいなって思っているだけだから」
悦子さんが、なだめるような声でユキの腕に手をかける。
お前らこそ、いいかげんにしろよ。
由梨と悦子さんは、どうやら”波長が合った”らしく。料理が届く頃には、二人ともが前からの友人のように笑い声を立てながら、世間話をしてる。
和気藹々と、食事を済ませて。店を出たところで、
「ありがとうな、マサ。ゆりさんも」
ユキが、頭を下げる。
「礼を言われるようなこと、したか?」
「えっちゃんに友達ができた」
って、言ってうれしそうに笑うユキ。その横で、悦子さんが顔を赤らめて、俯いた。
「ユキ。お前、どこまで過保護なんだ」
「さっき、ゆりさんにも答えたやん。俺の全力。守れる限り」
聞いた俺が、馬鹿だった。
「マサってさ。ゆりを大事にしてる?」
突拍子もないことをジンに尋ねられたのは、ツクツクボウシが全力で鳴いている夏休みの終わり頃、だった。
「なんだ? いきなり」
「んー。この前ユキが言ってたことがちょっと引っかかってて」
その日は、他の三人がバイトの間、打ち合わせがてら、ジンの部屋で二人で昼飯を食うことになった。由梨も今日は一日バイトだって言ってたし、ジンが買い置きしていたレトルトカレーの賞味期限がヤバイから、手伝うってことで。
カレー皿を運んできたジンが向かいに座って。
「アイツさ、『ちゃんと好きになった子なら、大事にしてるって伝わるもんだ』って言ってただろ」
「あー。言ってた気がするな」
サクが何人目になるのか、数えるのも馬鹿馬鹿しくなった彼女に振られたって話していたとき、だったか。『音楽と私と、どっちが大切なの!』って詰め寄られた挙句、振られたらしいサクに、ユキが言ったことがどうやら引っかかっているらしい。
大事に、な。
とりあえず、手を出さずに”待て”をしてるのは、”大事にしているつもり”ではあるんだけど。それを言うのは、なんていうか……男としての沽券とかイロイロ、絡んでくるから。
「俺は、由梨に大事にしてもらってる」
「なんだ、それ?」
「とりあえず、『音楽と私のどっちが大切?』って訊くことはないな」
「そうか。ゆり、だもんな」
織音籠のプレ段階から見続けているし、って、ジンが頷きながら麦茶を飲む。
「あとは、そうだな。例えば、昨日の練習中に来ただろ?」
昨日もバイトだった由梨は、帰り道だからって言いながら、二リットルのペットボトルのお茶を下げてきた。
「あの時、差し入れに持ってきたお茶も」
「ん? あれは別にお前にってわけじゃなかっただろ?」
「まぁな。それでも俺にとっては、大事にしてくれてる証拠なんだよ」
脱水の心配をしてくれて。それを周りに気づかせないような心配りをしてくれて。もっと言えば。こぼれて楽器にかからないようにって、蓋のできるペットボトル選んだんだろうなって思う。
そういえば、いつだったか練習を見に来ていたリョウの彼女が、『爪が割れそうで、開けれなーい』って、アイツに炭酸のプルタブ開けさせていた。楽器にかかるからって、部屋からリョウが出て行ったおかげで、練習が一時中断した。
それがリョウにとっての”大切にしている”姿勢なら、俺が文句をつけるのもどうかと思って、黙って見てたけど。
自分で飲むなら、自分で開けろ! 練習の邪魔、するなら持ってくるな。
っていうか。差し入れ、持ってきたことも無いよな?
由梨に影響されたか、俺もあの子は”波長が合わない”。
ただ、そんなリョウの彼女の行動で一つ、気づいたことがあった。
由梨は、絶対、俺に缶飲料を渡さない。由梨自身が缶飲料を口にしている姿を見たこともないけれど。
もしかして、ギターを弾く俺の爪を気にしてくれているのかも、って。
まぁ、ジンたちと呑んでいるときの缶ビールを開けるのは、知らん顔をしているから、気のせいかもしれないけど。
由梨に気を使わせるような柔な爪じゃなくっても、”音楽馬鹿な俺”を大事にしてくれているって気がして。
そして、そんな由梨に甘えている俺がいる。
なにやら考えながらカレーを掬っているジンに、尋ねてみる。
「お前自身は、彼女に大事にされてるって感じあるのか?」
「そこが、っていうか。そこも判らない」
「はぁ?」
「リョウと違って、俺、今までに”もてた”経験がなくってさ。好きになるとか、付き合うって、なんなんだろ」
麦茶が変なところに入って、咽る。俺とは違って、やることはやってるらしいのに、今更何を言うやら。
「じゃぁ、今の彼女となんで付き合っているんだ?」
「付き合って、って言われたから」
「おい」
そこが、間違いだって。
「だって、断るのも悪いかなって」
『悪いかな』、で、好きでもない子と付き合うなよ。
「そんなことを言ってくるようなケバイ女、苦手だとか言ってなかったか」
「おとなしそうな子は、怖がって近寄って来ない。俺、大魔神だし」
声もおっさんだし、って言いながら、カレーをスプーンでぐちゃぐちゃかき混ぜている。
あー。『おっさん』な。
声変わりを迎えた中学生の頃。一部の心無い同級生に『おっさん』とからかわれたせいで、ジンにとって独特の低い声は、コンプレックスでしかなかったらしい。
それで地元に帰るのが苦痛なんじゃないかって、当時を知っているサクは心配していたりするって。これは、リョウから聞いた話だけど。
うーん。根は深い、のか。『好きになるって何?』なんて言っている、ジンの人生経験が浅すぎるのか。
「マサは、ゆりと付き合うようになって、何かが変わった?」
「変わるって?」
「ほら、お前らって高校のうちから、”夫婦”だっただろ?」
「いや、そう言ってたのは、お前らだけ。リョウと噂になってたんだから、周りにはそう見えてなかったわけだろ?」
自分で言いながら、今更、嫉妬で胃がひっくり返りそうになる。
「そこも。わからないんだよな」
グチャグチャになったカレーを掬いながら、ジンが言う。
「お前、リョウの”彼女偽装”より前から、ゆりのこと好きだって言ってただろ? それなのに、なんでゆりが”彼女”になるのを、OKしたんだ?」
「由梨に悪いムシがつかないようにって、ムシ除けにリョウを使わせてもらった。今だったらOKしないし、リョウもそんな提案、出してこないだろ?」
カレーを口に運びながら、自分で言った言葉を頭の中でもう一度繰り返して。
ああ、そうか。答えは、これか。
「ジン」
「ん?」
「付き合うってのはさ。『俺のモン』って、主張するのを許される関係ってことじゃないかな?」
「??」
「リョウの”偽装彼女”がそうだろ? リョウはあの時点で”彼女”のモンだから、他の子は手出しできないわけじゃないか」
「んー。名札、着けるみたいなもんか」
「名札って、幼稚園児じゃあるまいし。でも、まぁそうかな。今の俺は由梨のモンだし、由梨は俺のモン」
俺の言葉で納得がいったのかいかないのか。
ジンは、あの低い声で唸りながら、カレーの残りをかきこんだ。
ジンにそんなことを言ったものの。
本当に、由梨は俺のモンか? って自問自答して。悶々として。
ふと気づくと、由梨も二十歳の誕生日を迎えていた。
そして、今年も学園祭の季節が来た。
今年はユキが加わったので、経済大でもステージを申し込んで、三ヶ所で演奏ができる。
それは、ステージ初日。経済大の文化祭の日のことだった。
軽い打ち上げのつもりで、リョウの部屋に集まって飲んでいると、リョウの彼女が顔を出した。
「今日、来るなんて言ってなかっただろ? 酒も入るし、また明日、部屋に行くから」
今日は帰れって、リョウが諭すのをまるっきり聞かずに我が物顔で上がりこんでくる。つい、ユキと二人で、距離を置いて、部屋の隅に逃げてしまう。
「ねぇ、リョぉウ。ビール開けてよー」
テーブルに並んだ缶ビールを手にしなだれかかる。
「それだけ飲んだら、送って行くからな。おとなしく帰るんだぞ」
苦笑交じりにいいながら、リョウがプルタブに手をかける。おい、返事くらいしろよ。
けんか腰の由梨でも、返事はするぞ。『いやー。もっとのむー』って。
結局、三本ほど開ける彼女をなんとなく遠巻きに眺めながら、ビールを口に運んで。
「そういえば、マサぁ?」
うわ。なんで、俺に絡む。
「あの、地味ぃーな彼女とは、まだ続いているの?」
誰、が地味だ。誰が。
「まぁな」
「ねぇ。私の友達でぇ、マサだったら付き合ってもいいかなーって子がいるんだけどぉ。乗り換えない?」
「……」
「あ、ユキもどう? 結構、美人な子が知り合いにいるんだけどぉ?」
「ごめんな。俺、今の彼女でごっつい満足しとんねん。他の子は、どんな美人さんでもいらんわ」
ユキは目が笑ってない笑顔でいうと、飲み干したらしいビール缶を音を立ててテーブルに置いた。
そして。
「リョウ、わるいけど。えっちゃん思い出して堪らんようになってもたから、ちょっと行ってくるわ」
また明日。って、さっさと帰ってしまった。
悦子さん、自宅生だろうが。どこに行く気だ。晩の八時に。
けど、わかる。ユキのその気持ち。俺も、鼓膜を消毒したい。
『マサぁ』って呼ばれた甘ったるい声を、『まっくんのばーか』って由梨の声で上書き消去がしたい。
「俺も。由梨の声が聞きたくなった」
便乗して立ち上がった俺に、リョウが彼女の後ろで、片手で拝むようにしている。唇が、『悪い』って動くのが見えた。
由梨の声、由梨の声。
駅の公衆電話から、由梨の部屋へと電話をかける。
バイト、って言ってたしな。帰っているかな。
通話が繋がる音がした。
〔もしもし、由梨?〕
〔うん、どうしたの?〕
〔学園祭、あるだろ?〕
〔無かったら、どうするのよ〕
いつものけんか腰。ほっとする。
このまま、俺に”名札”つけて。あんな女に、引っ掻き回されないほど、お前のモンだって。
〔全部のステージが終わる、再来週な。お前の所、泊まってもいいか?〕
〔前もって言ってくるなんて、何?〕
〔”彼氏”として、泊めてくれるか?〕
〔はぁ?〕
くるかな、『わけ、わかんない』って。
〔俺、この八月で二十歳になったし。お前も、先月誕生日だっただろ?〕
〔ああ、うん〕
〔もう、未成年じゃないから、さ〕
わけ、わかるか?
沈黙が落ちる。由梨の反応を待つ。わけ、わかってくれたら。由梨の準備ができたと思える。
〔わか、った。いい……よ〕
〔ありがとう。じゃぁ。お休み〕
学園祭が終わったら。
大人の階段、一緒に上ろう。
学園祭の最終ステージは、総合大。
去年よりも、観客が増えた気がするし。何より、『ジンー』『サクー』ってコールが起きる。あ、たまに『マサ』が聞こえる気がするのは……気のせいだよな。
一部、やっかみ半分で俺たちのことを”移動動物園”って呼んでいる奴らがいるのは知っている。リョウのカラフルすぎる髪がインコのようだとか、俺のつり目がキツネだとか、いいたい放題。ケージを”檻”って誤訳したのが遠因だとかってのは、サクが聞いてきた噂話。
「檻も籠もケージはケージ。”織音檻”は、語呂が悪すぎるけど」
って、外大生ジンは笑っている。
「どうせなら、大学ごとケージで覆ってやろうぜ」
リョウは、大風呂敷を広げている。
移動動物園、上等。
動物園って、結構、集客力あるんだぜ。
その日の打ち上げは、ジンとリョウの彼女が参加で。
由梨に話したら、
「絶対無理。一緒にご飯なんか、食べたくない」
って、ものすごーく嫌そうに拒否された。悦子さんも同様だったらしくって、ユキとまた後日仕切りなおそうなって話になった。
そんなこんなで行った打ち上げは、ステージの余韻で気持ちはすごくハイなんだけど。リョウに甘えかかっている彼女を見てたら、『お前がいるせいで、由梨が参加できないんだろ』って、逆恨みが入ってくる。
だから、リョウたちのほうを見ないように、ユキとテーブルの端で食い物を口に運ぶ。今日は飲まないつもりだから、とにかく食べる。
前もって『先に帰るから』って、皆に言ってあった時間まで、あと三十分くらいになった頃。
「マサぁ」
「なに?」
また、リョウの彼女が絡んでくるし。
とりあえず、営業スマイル。由梨が見たら、いつかみたいに『似合わないー』って、大笑いするんだろうな。
「あの彼女とホントに続いてるのぉ? 今日もこの前も来てなかったしぃ」
お前のせいだろうが。
スマイルがひび割れそう。ファストフードでバイトして、鍛えるべきなんだろうか。
「おい。やめろって」
リョウが話を遮ろうとしてるのを無視して、女の子の口からは聞きたくないような発言が飛び出した。
「この前言ってた子、考えてみてよぉ。結構、床上手らしいしぃ。試しに付き合ってみれば?」
「一度、お試し、って。どう?」
尻馬に乗るようにジンの彼女も横から、口ぞえをしてくる。
ステレオで聞かされる甘ったるい声と下世話な言葉に、一滴も飲んでないのに胸が悪くなる。
「リョウ、悪い」
もう、限界。
ちらりと見渡した席で。ジンが居心地悪そうに目をそらしたのが見えた。
そのまま会費をサクに預けて、俺は一足先に席を立った。
思いの外、早く店を出てしまったので、ブラブラと店を冷やかしながら、由梨との約束まで時間を潰して。
アクセサリーショプに目が留まる。誕生日プレゼント、そういえば何もしてないな。
ジンやサクの彼女だったら速攻で振られているパターンか。そんなことを考えながら覗いたショーケースに、天使の羽をかたどったようなピアスを見つけた。
由梨に似合いそうだけど。
でも、ピアスホール開いてないしな。俺が調子に乗って、三つも開けた時に、思いっきり引いてたし。
クリスマスに今年は何か、プレゼントを考えてみるかな。
「こんばんは」
「どうも」
妙に意識をしてしまって、変な挨拶を交わして一年ぶりに由梨の部屋に上がる。
本棚に、”解剖学”とかの分厚い本が並んでいて。机にかじり付くように勉強していた去年の夏の由梨の後ろ姿が目に浮かぶ。
「お茶、飲む?」
「うん」
相変わらず、第一声は水分。グラスに入れた麦茶を渡されて、一気に飲み干す。打ち上げでは今日は一滴も飲んでいないんだけど。緊張で喉が渇く。
お風呂を借りて。
大事な三音を、口に乗せる。
「ゆ・う・り」
一瞬こわばった背中に、そっと声をかける。
「いい、か?」
「うん」
真っ赤になった由梨に、一歩進んだ大人のキスを。
由梨と今までにない距離で触れ合って。彼女の体温を知って。
「由梨の微妙な音、もう一つ見つけた」
「そう?」
「うん。さっき聞いた声、高い方のレのシャープより少し高くって、でもミじゃなかった」
「なにそれ。訳、わかんない」
「俺だけが、知ってたらいい音だから。わからなくっていい」
縋り付くような『まっくん』の”ま”の音。
この先、誰にも聞かせたくない。俺だけの音。
「まっくん」
いつもの声で由梨が呼ぶ。
「うん?」
「なんでもない。呼んでみただけ」
「なんだそれ。”ゆうりちゃん、わけ わかんない”」
由梨のいつもの口調を真似して、二人で声を潜めるようにクスクス笑い合って。
ぶっつけ本番のたどたどしい睦言で、俺は由梨に一歩近づけた。
俺は、由梨のモノ。
由梨は、俺のモノ。