出会い
天使の声、だと思った。
二年保育で、キリスト教系の幼稚園に入った年のことだった。
「バスに乗って、お出かけしようか」
母さんはそう言って、ボクの手を引いて公園の前のバス停へと向かった。
窓から、流れる風景を眺めて。見たことのない駅の前でバスを降りると、母さんは商店街のアーケードを抜けて、とあるビルの薄暗い階段を上がった。
立ち止まった母さんにあわせて、ボクも足を止める。母さんはドアに書かれた文字を眺めて、一つうなずくと、
「こんにちはー」
そろっと伺うような声を出しながら、ドアを押し開けた。
中には、病院の受付のような机があって。
だまされた。注射だ。きっと。
そう思って、逃げかけたけど。母さんに腕をつかまれて、逃げ損ねた。
「こんにちわ」
机の向こうから、おばさんがやってきてボクの前にひざを付いて、顔を覗き込んできた。
「お名前、言えるかな?」
「なかお まさし」
おばさんは胸に抱えたノートを見て、フムフムとうなずくとボールペンでピッと印を入れたみたいだった。
「じゃぁ、こっちのお部屋にどうぞ」
そう言って重たそうなドアを、ぐっと引いた。
部屋の中には、
ボクが初めて見る物が、ずらっと並んでいた。
母さんが使っている足踏みミシンより少し大きめで、テーブルみたいな形をしている。そして、透明なプラスチックのふたが付いていて、足元にはペダルが行儀よく並んでいる。
それぞれの前に、椅子が二つずつおいてあった。
「どこでも空いている席に座ってね」
部屋の奥にいたお姉さんの声に頷いて、母さんと真ん中辺りのいすに座った。
ふた越しに、目の前のモノを眺める。ふたの下にはシマウマみたいな白と黒の棒が並んでいた。少し右よりに並ぶ上の段と、左寄りに並ぶ下の段の二段。それから、一杯のスイッチみたいなのと。
なんだろ。これ。
注射かもって思ったことなんて、どっかに吹っ飛んで。目の前の物に、惹きつけられた。
「じゃぁ、そろそろ始めましょうか」
お姉さんの声で顔を上げた。いつの間にか、部屋には何人もボクと同じくらいの子が集まっていた。
お姉さんは『西村先生』。これから毎週、この音楽教室で教えてくれる人。
「じゃぁ、お名前呼ぶから。大きな声でお返事してね」
西村先生が、鉛筆を持った手を高く上げながら言う。
「なかお まさし くん」
「は、い」
ボクの名前が呼ばれたので、そっと手を上げる。先生はボクの顔をじっと見て、ひとつ頷いた。
「なかむら ゆり ちゃん」
「わたし、ゆりじゃない!」
ボクの隣の席の女の子が、大きな声を出した。びっくりして、その子の顔を見る。
「わたしは、”ゆ・う・り”なの!」
「あ、ごめんね。なかむら ゆうり ちゃん」
「はい!」
女の子がにこっと笑って、手を上げる。
なんだったんだろ。
『ゆ・う・り』
彼女の声を心の中で再現する。
聞いたことの無い”音”だった。
忘れたくない音。
幼い心に刻み込んだ
ボクにとって、初めての”音”だった。
そうやって始まった音楽教室に、ボクは夢中になった。
歌う、のはまあまあ、かな。
大きな声で歌う ゆうりちゃんの声を聞いているほうが、自分が歌うより好きだけど。
多分、クラスで一番、ゆうりちゃんの歌が上手。周りの子の歌がメチャメチャでも、絶対間違えないキレイなメロディーだし、何よりすごくキレイな声なんだ。幼稚園のお遊戯室の壁に描いてある天使って、きっとこんな声なんだろうなって。
それから。
あの日初めて目にした”電子オルガン”。ふたの下にあった白と黒の棒は、押す場所によって少しずつ音が違った。お茶碗を持つほうの手に近いところは、ドーンとした象の足音みたい。お箸を持つほうの手に近いところは、ピーンとした鳥の声みたい。
たくさん並んだスイッチを先生が操作したら、それがボンボン時計の音になったり、カッコウの声になったり。
足元のペダルは、何が出てくるんだろう? 形は、手元の”鍵盤”と一緒だから……これも、少しずつ音が違うんだろうか。
ボクにとって電子オルガンは、まるで魔法の箱だった。
「正志。今年は誕生日とクリスマスのプレゼント、一緒にまとめるけどいいか?」
父さんがそう聞いてきたのは、誕生日の一ヶ月ほど前。
「えー。一緒?」
なんか、損した気分。
「電子オルガン、欲しくないか?」
あれ、買ってくれるの? 本当に? 教室じゃなくっても買えるものなの?
「ほ、しい」
「ただな。誕生日プレゼントにはちょーっと高いから。クリスマスプレゼントは無しだぞ」
「うん」
クリスマスだろうが、お年玉だろうが。あれ、が、ボクの物になるなら。いっくらでも、まとめてくれてかまわない。
うわー。
電子オルガンが
ボクの物になる。
八月に入って、電子オルガンがうちにやってきた。
足元にある、鍵盤みたいなペダルを順番に踏んでみる。やっぱり。少しずつ音が違うんだ。
ペダルの奥側の短いのと、手元の鍵盤の黒。並びが同じ。っていうことは。
ペダルの一番外側が、手元のこれと同じ?
足と手を一緒に押さえてみる。
お、やっぱり。
じゃぁ。足のほうだけひとつ隣の音を。
なんだ、これ。気持ち悪い音。
手のほうの音も、一つ隣に移動。
あ、同じ音になった。
そんなことをやって、遊んでいる窓の外をサイレンを鳴らしながら救急車が通る。
ピーポーピーポー、パーポーパーポー。
あれ、今サイレンの音が変わった。
うーん。
鍵盤を順番に押えてみる。
あった。”ピー”の音。”ポー”の音が、えーっと。
これ、かな?
だったら……。
「母さん、聞いて。救急車できた!」
ボクがはじめて、”音程”を知った瞬間だった。
音楽教室も順調に通って。
一緒のクラスの子が六人いるらしいことが分かった。
幼稚園も一緒の『あっちゃん』と、ボク。それから『よっちゃん』の三人が男の子。
女の子が『まり ちゃん』と『なお ちゃん』と『ゆうり ちゃん』の三人。
ゆうりちゃんは、みんなが『ゆーりちゃん』とか『ゆりちゃん』って呼ぶのを、怒ったみたいな顔をしながら返事している。
だから、ボクはがんばって、ちゃんと『ゆ・う・りちゃん』って呼ぶんだ。
ただ、あの日聞いたみたいな、”天使の音”がボクには出せないことが、悔しい。
ボクの声の代わりに、電子オルガンで弾いてみようとするんだけど。
どうしても、”う”の音が違う。
ラとソの間にある黒鍵じゃ高すぎて、ソだったら低すぎるなんて。音が足りない。
どうやれば、あの”音”になるんだろう。
音楽教室も二年目になって、新しく増えたレッスンに”音当て”があった。
教室の前に、みんなで並んで。
先生が
「これが、真ん中のドね。じゃあ、これは?」
って、ポーンって弾く音を当てっこするゲーム。
何で、みんな分からないの?
ソ、だよ。低いほうのラだよ?
特に、ゆうりちゃんはこれが苦手みたいで。横にいるなおちゃんと、
「わかる?」
「ううん、ぜんぜん」
毎回こそこそ言っている。だから、
「じゃぁ、ゆーりちゃん。この音は?」
って、先生の声に、首をかしげている ゆうりちゃんに『ラ』とか『高いほうのレ』とか。こっそり囁く。時々先生にばれて、
「まっくん、静かにね。いまはゆーりちゃんの番よ」
って叱られるけど。
席に戻る ゆうりちゃんが
「ありがとう。まっくん」
そう言って、ニコって笑ってくれるから。ボクは、そのままずっと答えを教え続けていた。ゆうりちゃんが、泣きそうな困った顔でボクのほうを見る度に。
子供だったボクは、ゆうりちゃんに頼ってもらって単純にうれしかった。
あんな形で、つけが回ってくるなんて知らずに。
学年が進むにつれて、一人、また一人とクラスから仲間が減っていって。
気がつくと、まりちゃんと、ゆうりちゃんとボクの三人になっていた。
そのころ、だったかな。
たまたま、出張だとかでボクが朝ごはんを食べ終わっても、父さんが家にいた日があった。
登校時間まで、まだ十分ほど余裕があったボクは、ヘッドフォンをつけて電子オルガンのふたを開けた。だんだんと難しくなってきたテキストは、その分たくさんの曲が載っていて、片っ端から弾いてみるのがボクの楽しみだった。
トントンと、肩を叩かれたのは、気づいていた。
もう少しだけ。あと十小節でこの曲、終わるから。ちょっと待って。
ヘッドフォンを毟り取られた。
「正志、いい加減にしろ!」
ゴツン、と脳天に拳骨が降ってきた。
ズキズキする頭を両手で押さえて、横に立った父さんを見上げる。
「おまえ、今何時だと思っている。母さんがさっきから何度も呼んでいるだろうが」
はっと、壁の時計を見上げる。
「うわ、学校!! 行ってきます」
玄関に置いてあったランドセルをつかんで、靴を突っかけてドアを開ける。
やばい。先週も二回ほど遅刻して、担任の石田先生に叱られているのに。連絡帳にまで書かれて、母さんにも叱られたのに。
「車、気をつけなさいよ!」
後ろから母さんの声が追いかけてくるのが、聞こえた。
その晩。父さんと向かい合って座らされた。
「正志。おまえが音楽が好きなのは、父さんたちも見ていてすごく分かっている」
腕組みをした父さんが、じっとボクの顔を見る。
「だけどな。好きなことだけをして、生きて行くことはできないんだ」
「どうして?」
音楽だけ、あれば他のもの。おもちゃも何もボクは要らないのに。
「たとえば。おまえが演奏家になったとするだろ? レコードの売り上げをどんな配分でみんなで分け合うのか。そんな約束事を、忘れないように書類にまとめるんだけどな。それ、何語で書いてある?」
「日本語、でしょ?」
「本当に?」
え、だって。
「レコード、作るのは日本だけか? 他の国のスタッフが仲間にいれば、英語だったりするぞ。逆に、おまえだけが日本人なら、絶対日本語で書いてはくれない。だったら、おまえが英語を勉強しなくちゃいけないし。そもそも、日本語の書類だって、小学生が読んで分かるようには書いてくれないぞ」
「……」
「たとえば。おまえが音の研究者になったら。正志、音って、何か知っているか?」
「音は音じゃない」
「あれはな、空気の振動なんだ。だから、こう、波になっている」
父さんが空中に、ウネウネと蛇みたいな模様を描く。
「その研究をするには数学 ―― 算数の難しいやつ ―― が必要になってくるし、理科だって要る」
って、いうことは。とりあえず、算数と国語と理科、あと英語さえすれば何とかなる。
「演奏するには体力だって要るし」
体育と。
「他の国で演奏するには、その国のこと。政治とか経済とか地理・歴史も知ってないとトラブルに巻き込まれる」
社会科。って。残るの図工だけじゃない。
「レコードのデザインに、美的なセンスも要るしな」
「って、事は。全部……」
「そう。”学校”ってそういうことだよ。それを疎かにするなら、絶対おまえは音楽を続けていけなくなる。それにな」
「まだあるの?」
ちょっと、うんざりした声が出てしまった。
「どんな仕事でも、たとえば音楽じゃなくっても、時間の守れない奴に仕事は任せられない」
父さんはそう言って、口を閉じた。
ボクは……。
時間を忘れてしまう、ボクは。大人になっても、仕事、できない?
「正志。学校に行く前だけは、電子オルガン触らないようにしない?」
父さんの横から言った、母さんの顔を見る。
「学校に行く前?」
「そう。大切な約束の前には、楽器を触らないようにすれば、時間、守れるんじゃないかな?」
音楽教室の時間は守れているでしょ? って、母さんが微笑む。
だって、学校よりも音楽教室のほうが楽しいもん。
音楽にどっぷりと浸かれる時間だし、ゆうりちゃんがいるし。
でも、これも”勉強”なんだ。きっと。
「わかった。学校の前は弾かない」
ボクが一生頭を悩ませることになる、音楽と他の生活とのバランスを考えた最初の出来事だった。
音楽教室の課題は段々と演奏に重点が置かれるようになって、ゆうりちゃんの歌を聴く機会が減っていった。
でも、その代わりに自由にできることが増えてきた。
Aメロディーの後の続きを作ってみましょうとか。メロディーだけが書いてある楽譜に、伴奏をつけなさいとか。
メロディーを作るのが、とにかく楽しくって楽しくって。いくつものパターンが浮かんで、その中で一番気に入ったのを楽譜に書いて持って行く。
伴奏をつけるのなんて、正しいカデンツを探して当てはめるパズルみたいだし。
ゆうりちゃんはこれがどうにも苦手らしくって。
「まっくん、伴奏って、どうやって考えてる?」
って、レッスンの帰り道に尋ねられたことがあった。
音当ての手伝いをしてきたみたいに、『ゆうりちゃんの役に立てる』って、一生懸命にボクのやり方を説明した。
「伴奏はメロディーラインから、なんとなく? 『これかな』ってのを弾いてみて、おかしかったら変えればいいだけだし」
そう言いながら見た、ゆうりちゃんの顔がなんだろ。ガッカリしてる?
あ、そうだ。音当てのできないゆうりちゃんは、楽譜の和音が途中で変わっていても、気づかずにそのまま弾いちゃうんだった。
「ゆうりちゃんには、ムリか」
伴奏が違っているときの違和感って、どうにも説明が難しい。”違和感”でしかないんだよ。三角の穴に、丸い積み木を無理やり突っ込んでいるみたいな。前にもそう言って説明して、『まっくん、わけわかんない』って言われたし。
二人で、うーんって考えながら、駅まで歩いた。
どうすれば、ゆうりちゃんに伝わるんだろう?
毎週少しずつ進んで行く課題だけじゃなくって、ボクたちが通う音楽教室では年に二回、発表会がある。いくつかのクラスが一緒に合奏をするアンサンブルと、一人ずつのソロと。
アンサンブルはいつもの三倍くらいの長さの曲を、三ヶ月ほどかけて完成させる。
「まっくん、じゃぁAパートね。ゆーりちゃんとまりちゃんはCパート」
毎年、先生が、楽譜を配るなりチャッチャとパートを振り分ける。何でか知らないけど、ボクはいつだって一人。男の子がボクだけだからかなとか、思って我慢してるけど。一回くらい ゆうりちゃんと一緒のパート、やりたいな。
まぁ、新しい曲だから。家に帰って、オルガンのふたを開けた瞬間にはもう、そんなこと忘れてるんだけど。
そして、これも毎年のこと。
次の週から、
「まっくん、ヘッドフォンつけて一人で弾いておいて」
そう言って先生はゆうりちゃんと、まりちゃんレッスンにかかる。
「ゆーりちゃん。先週渡したばっかりの曲だから、すぐに弾けなくっても仕方ないから。来週、もう少し弾けるようになろう。ね?」
泣く、のかなって顔でこっくりとうなずく ゆうりちゃん。
ボクは、ゆうりちゃんにそんな顔をして欲しくなくって、何か言ってあげたいんだけど。今にも血が流れそうなほど、ぎゅっと唇をかみ締めている姿に何も言えなくって。
ただ、黙って。目をそらすしかできない。
そして、そんな自分が情けなくって、ため息しか出ない。
アンサンブルの半年後のソロはクラスごとに、名前の五十音順で出番がくる。”なかお”の次が”なかむら”だから、ボクの次が ゆうりちゃん。
自分の出番が終わって、ほっとする間もなくドキドキしながらゆうりちゃんを見る。
あ、詰まった。曲がとまっちゃった。
がんばれ、泣かないで、って。
そして毎年、終わったら先生がゆうりちゃんに言っている。
「ゆーりちゃん、がんばったね。来年は、もう少し詰まらないようになろうね」
ボクだって、『がんばったね』って言いたい。
でも、悔しそうにポロポロ涙を流しながら頷いている ゆうりちゃんの顔を見ると何を言えばいいのか分からなくなる。
メロディーみたいに、言いたい事。出てきてくれたらいいのに。
四年生の秋、まりちゃんが、教室をやめて引っ越した。
まりちゃんとは話をしたことがなかったから、『ふーん、そうか』くらいに思っていた。
ただ、ゆうりちゃんと二人だけが残ったんだな、って。それだけ。
今年の発表会は、一緒のパートをさせてもらえたらいいな、とか。そんなのんきな事を、ボクは考えていたんだけど。ゆうりちゃんは、まりちゃんがいなくなったのがショックだったのか、練習も宿題もだんだんとして来なくなってきて。
「ゆーりちゃん。ほら、リズムが直ってない」
「ゆーりちゃん。来週は、ちゃんと伴奏つけて来てね」
先生の声が、ちょっとずつ怖くなってきた。
そして ゆうりちゃんはレッスンが終わると、一人でさっさと帰っていく。『待って、一緒に帰ろう』って、言いたいのに。ゆうりちゃんは、何を怒っているのかボクを睨む。その眼に、何も言えなくなっちゃって……気がつくと、いつも居なくなっている。
そして、五年生の夏休み。
ゆうりちゃんが、レッスンに来なかった。
「風邪、かなぁって、お母さんが言ってらしたのだけどね。ゆうりちゃん、お腹が痛いんだって」
西村先生がそう言って、その日はボク一人でレッスンを受けた。発表会前のゆうりちゃんみたいに。
一時間、みっちりと先生とマンツーマンでのレッスンは。はっきり言って、面白くなかった。
来週は、ゆうりちゃん、元気になって来たらいいな。って、そんなことばっかりを考えていた。
なのに。
それっきり。
ゆうりちゃんに会うことはなかった。
レッスンに通うのがしんどくって、これ以上音楽教室を続けられないって、先生宛に ゆうりちゃんのお母さんから連絡があったのが、二学期に入ってから。
そしてボクは、自分が無力な子供なことを思い知った。
ゆうりちゃんのことを、名前しか知らない。
どこに住んでいて、どこの小学校で。ボクは何一つ、ゆうりちゃんのことを知らなかった。
二度とボクは ゆうりちゃんに会えないんだ。
クラス替えを打診されたのを機会に、電子オルガンのレッスンをやめた。
ゆうりちゃんの記憶と一緒にオルガンは封印して。
”俺”は。
ギターで音楽を始めた。