繰り返す悪夢
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夜になり、みなもはベッドへ体を横たえて目を閉じる。
何も見えない、完全な闇がみなもの視界に広がる。
そして取り留めのない心の声が、何かの呪文を唱えるかのように延々と流れ続けた。
これからどうすれば良いんだろう?
どの道を選べばいいんだろう?
姉さんと一緒にいたい。
でも、そのためにはバルディグの毒を認めなくてはいけない。
好きな人を苦しめている毒を、受け入れないと……。
レオニードと一緒にいたい。
でも、彼の元に戻れば、姉さんに会うことはできなくなる。
ずっと守り葉として、久遠の花を、姉さんを守りたいと願い続けた思いを、断ち切らないと……。
自分が眠りに落ちているという実感はある。
だから、これは夢なのだ。
答えの出ない心の声だけが流れる夢。
眠りの中でさえ、考えを止めることが許されない悪夢。
心のつぶやきに紛れ、かすかにチッ、チッ、という音が聞こえる。
部屋に置かれた時計と同じ音。
夢の中に流れる異質な音は、耳障りだった。
(あの時計、止めたほうが良さそうだ)
みなもは重くなった瞼を開けて、体を起こそうとする。
しかし体は仰向けのまま、指一本すら動かせなくなっていた。
そして闇の中にはっきりと浮かんだナウムの顔が、人の悪い笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
(ナウム……!?)
彼と目を合わせた瞬間、みなもの体に人の重みがのしかかる。
押し倒されているのだと気づき、全身から血の気が引いた。
早く逃れなければと、みなもは身をよじろうとする。
けれど体は動かず、ただナウムを見上げることしかできなかった。
ゆっくりとナウムの顔が近づき、目と鼻の先で止まる。
『いい加減に諦めて、オレのものになれよ。大好きな姉さんと一緒にいたいだろ? なあに、何も考えずにオレの言うことを聞けば良いんだ。簡単だろ?』
甘い声で一言を発する度に、ナウムの生温かな吐息が顔にかかる。
咄嗟に口を開こうとしたが、みなもの唇は硬く閉じたままで、声を上げることすらできなかった。
(これは……夢、なのか? でも、こんな生々しい夢なんて――)
『そう、夢だ。お前に望まれて、オレは今ここにいる』
こちらが考えたことにナウムが答える。
確かにこれは夢なのだろうと分かった途端、みなもの頭に冷静さが戻ってくる。
(お前の夢なんて最悪だよ。俺がお前を望んでいるって? ……ああ確かにそうかもね。お前を殴りたくてしょうがない)
『クク……本当にそうなら、今頃オレの顔に拳がめり込んでるだろうな。だが――』
顔だけしか見えなかったナウムに、上半身がぼんやりと現れる。
そしてゆっくり手を伸ばし、人差し指でみなもの唇をなぞった。
『どうしてオレから逃げようとしないんだ? 本当はオレにこうされる事を望んでいるように見えるぜ』
血の気が引いて冷めていたみなもの体に、羞恥とも、怒りとも取れる熱が駆け巡った。
(馬鹿を言うな! 体が動かなくて逃げられないんだ。動けばさっさと逃げ出している)
『そこまで言うなら試してやろうか? お前がどれだけオレを求めているのか、体で教えてやるよ』
ナウムは口端をニィィと上げ、みなもの首筋を口づけた。
逃げられない現状に耐えられず、咄嗟にみなもは目をきつく閉じる。
顔が見えなくなった分、余計にナウムの息遣いや温もりが伝わってきてしまう。
(嫌だ……お前にだけは、触られたくない)
『じゃあレオニードってヤツなら、こんな風にお前へ触れてもいいんだな?』
問われた瞬間、初めてレオニードと一夜を共にした時のことを思い出す。
互いの吐息が、温もりが混じり合い、体すら溶けて繋がっていくような感覚。
もっと彼に触れたい。
もっと彼を知りたい。
もっと彼と一つになりたい。
あの時ほど、激しく人の温もりを渇望したことはなかった。
許されるなら、あの時の中で生き続けたかった。
心は今も彼を求めている。
けれど、手を伸ばしても彼はいない。
頭がおかしくなりそうなほどの喜びを思い出しながら、みなもは絶望を噛み締める。
『落ち込むなよ。オレはアイツになれねぇが、お前を満たすことはできる。なんてったて、オレとお前は同じだからな』
色めきだっていたナウムの声が、急におとなしくなる。
小さく唸ってから、みなもの耳元で囁いた。
『誰にも言えない秘密を抱えて、キツい思いをし続けて、ずっと独りで戦い続けて……大変だったろ? 寂しかっただろ? オレもそうだったから人事とは思えねぇんだよ』
思いのほか優しく、どこか苦しげなナウムの声に、みなもの胸奥の強張ったものが少しだけ解けた。
(……お前は姉さんと一緒にいられたから良いじゃないか)
『確かにいずみがいたから、オレはここまで生きることができた。本当に感謝してるぜ――でもな、アイツへの想いを完全に殺して、アイツに言えない秘密も山ほど抱えて、隣に居続けるっていうのはキツいもんだ。居れば居るだけ心が飢えていくからなあ』
諦めの混じったナウムの吐息が、みなもの頬を撫でた。
と、ゆっくりこちらの体に腕を滑りこませ、真綿を包むように優しく抱きしめられた。
『でもな、お前と一緒にいると飢えが治まるんだ。どんな悪態をつかれようが、嫌味を言われようが、嫌悪の目で見られようが……嬉しいんだ。愛しくて、愛しくて、気が狂いそうになるけどな』
軽く自虐気味にナウムが笑う。
いつもの反発や嫌悪感が出てこない自分に、みなもは息を詰まらせる。
おかしい。
ナウムの言葉を聞くにつれて、自分の何かが麻痺していく感じがする。
これ以上ナウムの声を聞いてはいけない。
聞けば自分を奪われそうな気がして――。
『これはただの夢だ。夢でどうなろうが、現実は何も変わらねぇよ』
困惑の渦に呑まれかけたみなもを、ナウムの一言が救い上げる。
これは、ただの夢。
この奇妙な感覚も、ナウムの言葉も、すべて現実ではない。
だから無理に足掻いたところで意味のないこと。心労を重ねるだけの無駄なこと。
そう悟った瞬間、みなもの体を眠気とも脱力ともとれない浮遊感に包まれた。
(もう考えるは疲れた……夢ならお前の勝手にすればいい)
『クク……つれないこと言いながら、大分オレを受け入れてるのな。まあ、言われなくても勝手にさせてもらうぜ』
ナウムがみなもの首元に顔を埋めると、上から下へ、吐息とともに舌先が首筋をなぞる。
夢なのに、熱い。
ずっと抱擁していたナウムの右腕がゆっくりと腰まで下がり、大腿をさすっていく。
触れられたところが、体の奥が、次々と熱が生まれていく。
温かくて、心地よくて、思考が奪われていく。
いっそこのまま流されてしまえば楽なのに……と思いかけて、踏みとどまる。
いくら夢でも、それを認めてしまえば終わりのような気がした。
『認めてしまえよ。オレのものになって、何の迷いもなくいずみを守りたいってな――アイツのことも、こうやって忘れさせてやるから……』
服のボタンを外され、ナウムの手が直接肌を愛撫してくる。
拒まなければ。
このまま夢でもナウムを受け入れてしまえば、本当に戻れなくなるのに――。
目を開くと同時に、みなもは勢いよく体を起こす。
息は乱れ、早まった鼓動と室内の時計の音が耳に響く。
窓から差し込む朝日が部屋の中を明るくし、ここが現実なのだと教えてくれる。
何度か深呼吸して息を整えてから、みなもは己の体を見回す。
特に変わった様子がないと分かった途端、重いため息が口から出た。
(またあの夢を見るなんて……最悪だ)
ここ数日、同じような悪夢ばかり見続けている。
身動きの取れない体を、ここぞとばかりにナウムが触ってくる夢。
そして次第に心が抵抗しなくなり、その愛撫を受け入れてしまった直後、こうして目が覚める。
夢で良かったと思う一方で、何度もこんな夢を見てしまう自分が信じられない。
目覚めれば、ナウムに組み敷かれるなど、考えたくもないし望んでもいないのに。
ただ、夢が終わる瞬間だけは、彼を受け入れている。
何度も聞かされる言葉があまりに優しくて、痛いほど共感できて、夢の中だけなら応えても構わないという気すらしていた。
レオニードの隣に居られないなら、それでいいのかもしれない。
夢の中であったとしても、ほんの一瞬そう考えてしまったことが悔しくて、情けなくて――怖くなってくる。
(夢でナウムが言ってたように、俺はアイツのものになってしまいたいと望んでいるのか? ……いや、それは絶対にない。あんな夢が俺の本心だなんてありえない)
みなもは取り憑いてくる不安を払おうと、首を何度も横に振る。
身に付けていた首飾りが、首元で小刻みに揺れた。
服の下から首飾りの石を摘むと、視線を下げてそれを見つめる。
レオニードの瞳と同じ色の石。
彼に見守られているようで、今にも折れそうな心に芯が戻ってきた。
(大丈夫。この石が見守ってくれる限り、俺は自分を失わない)
暗示をかけるように、その言葉を何度も心で繰り返す。
次第に気分も落ち着き始め、冷静な思考が働き始めた。
(このまま答えを先延ばす訳にはいかない。俺がおかしくなる前に動き出さないと――)
みなもは背伸びをしてからベッドを離れる。
部屋の隅に置いていた荷袋に目を向けると、表情を硬くした。
(――俺の答えは、もう決まっている。ただ、やっと手にしたものを手放すのが惜しいだけで……)