噂の根源
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みなもの手伝いを終えてから、レオニードはボリスの様子を見に兵営へ向かう。
多くの兵士が敷き詰め合う室内は、一足踏み入れた途端、熱気とともに血や汗の臭いが鼻につく。
解毒剤ができる前は、誰もが呻くばかりで寝返りも一苦労といった状態だった。
しかし今は毒の苦しみから開放されている。回復した人間の中には、体を起こして近くの兵に話しかけている者もいた。
レオニードは部屋の奥まで行くと、隅で仰向けになって寝ている青年――ボリスの元へ向かう。
こちらに気づいた彼は、鈍い動きで包帯だらけの体を起こした。
毒にやられる前と比べ体の筋肉は落ち、腕は細く、頬もこけている。
ただ、小さくも丸い青の瞳だけは、以前のように生気が宿り、人懐っこい愛嬌を滲ませていた。
「やあ、レオニード。ここにいると退屈するから、何度来てくれても嬉しいよ」
「具合はどうなんだ? さっき来た時は、熱にうなされていたが……」
レオニードが枕元にある椅子へ腰かけながら尋ねると、ボリスは小さく頷いた。
「今は落ち着いている。あー早く元気になって、お腹いっぱいゾーヤ叔母さんの料理を食べたいなあ」
ボリスは力なく笑うと、おもむろにレオニードの後ろへ視線を移す。
何を見ているのかと、レオニードはその視線の先を見る。
部屋の中央では、みなもが負傷兵の傷を診ていた。
城では藥師だけでなく、治療を施す医師も不足していると知り、みなもは手伝いたいと申し出てくれたのだ。
色の薄い肌や髪の人間ばかりいる中で、みなもの黒髪はとても目立つ。
その姿にレオニードは目を奪われる。
が、ボリスの含み笑いで我に返った。
「何がおかしいんだ、ボリス?」
「いやー……レオニードも他のみんなと同じかと思って」
レオニードが顔を前に戻すと、ボリスが悪戯めいた笑みを浮かべていた。
「あんなにきれいな人が献身的に治療してくれるからさ、男でもいいから付き合いたいって言うヤツが多いんだよ」
「そんな邪な目で恩人を見ているのか。……嘆かわしいな」
「でも、レオニードもその口なんだろ? 黒髪の藥師さんを見る目がなんか熱っぽいし」
努めて冷静な顔を作っていたが、レオニードは心の中でぎょっとなる。
「誤解しないでくれ、彼は命の恩人なんだ。何か困った事があればすぐに動けるよう、気を配っているだけだ」
「ふうん。ま、そういう事にしておこうか」
おどけたようにボリスは片目を閉じた後、臨時で負傷兵を看護する侍女たちを顎で指す。
「でも気を付けろよ。お前が薬師さんの隣に並ぶだけでも、女性陣が妙に色めき立って騒ぎ出すからな。あの子たちの中じゃあ、もう二人が付き合ってるってことになってると思う」
思い返してみると、みなもと話しながら侍女たちとすれ違う時、こちらを見る目がやけにキラキラしていたような気がする。
まさかそんな目で見られていたとは……。
レオニードが愕然としていると、ボリスに膝をつつかれる。そして彼は指先を左側へ向けた。
示されるままに目を向けると、何やら部屋の隅で談笑している浪司と侍女たちの姿があった。
「あそこのオジサンも、お前と一緒にここまで来たんだろ? 旅先で何があったか、彼女たちに言いふらして煽っているぞ」
……諸悪の根源はお前か。
恐らく浪司のことだ、侍女たちの反応を見て面白がっているのだろう。
自分だけならまだしも、みなもまで巻き込むのはいただけない。
冷ややかになった目付きのまま、レオニードは立ち上がり、浪司の元へ早歩きで向かった。
こちらに気づいた浪司が「お疲れさん」とにこやかに手を振ってくる。
だが、途端に身をすくませ、話をしていた侍女の背中に隠れた。
「ど、どうしてそんなに怒ってんだ? ワシ、何か悪いことでもしたか?」
「……少し話がある。ついて来てくれ」
返事を聞かずにレオニードが背を向けると、侍女たちに「また後でな」と言ってついて来る浪司の足音がした。
廊下に出ると、辺りに人がいないことを確かめてから、レオニードは浪司へ振り向いた。
「侍女たちに妙なことを吹き込まないでくれ。俺をおちょくるだけならまだしも、みなもに迷惑をかけるような真似は――」
「やっぱ頭がカタいなあ、レオニードは」
大きく息をついてから、浪司は腕を組んで胸を張る。
開き直ったのかと思っていたが、彼は苦笑しつつも浮かれた気配は見せていなかった。
「一応これでも、みなものためにやってんだぜ」
「みなもの? ……いったい何の狙いがあるんだ」
「アイツ、薬作るだけじゃなくて、負傷兵の治療もやり始めたが……元気になった野郎どもが、ちょっかい出そうと浮き足立ってんだよ」
やれやれといった感じで、浪司は肩をすくめる。
「知り合った時から妙な色香を出してるが、無自覚だからタチが悪い。いつ野郎どもの魔がさして、取り返しのつかない事態になっちまうか――」
「それは確かに。悪ふざけでも、恩人を傷つけるような真似はさせられない」
レオニードが大きく頷いて同意してみせると、浪司は言いにくそうに口端を引きつらせた。
「うーん……みなもの場合、ちょっかい出したヤツを半殺しにする可能性の方が高いぞ。アイツ、怒ったら本当に容赦ないからな」
……言われてみれば、確かにそうかもしれない。
みなもがニッコリ笑って毒を使う光景が、容易に想像できてしまった。
レオニードは息をつき、眉間に皺を寄せる。
「つまり、みなもが取り返しのつかない事をしかねない、という事か。分からないでもないが……それがどうして噂を流すことに繋がるんだ?」
「既に相手がいるってだけでも牽制できる上に、解毒剤の材料を持ってきた恩人のお前が相手となれば効果は倍増だ。で、さらに侍女も味方につければ、怖いもんなしってもんよ」
もっと他にやりようがあるだろう、と言いたいところだ。
たが、浪司なりに心配してのことだと思うと、レオニードの怒りも弱くなっていく。
しかしみなもの性格を考えると、男相手に妙な噂が立つことを面白く思わない気がした。
「みなもが噂を聞いたら、気を悪くすると思うが……」
「ああ大丈夫、大丈夫。もう知ってるぜ」
浪司は人の悪い笑みを浮かべながら、声を落とした。
「レオニードと噂になるなら悪くないな、って嬉しそうに言ってたぞ」
出会った時は、仇を見るような目で見られたのに――。
わずかに顔を逸らし、レオニードは口元を押さえる。
「……そうか。それなら良かった」
少なくとも嫌われてはいない。
そう思うだけで胸の内が浮かれそうになる。
と、同時に罪悪感も胸をよぎる。
(弱ったな……邪な思いを持っているのは、俺の方じゃないか)
レオニードは目を閉じてため息をつく。
今まで通りでいられるよう、どうにか頭に集まりそうな熱を抑えていった。