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ポロネーズ第六番「英雄」を弾いて

 店舗面積二万八千坪、テナント数二百五十店の大型ショッピングモールは大勢の人で賑わっていた。一階から三階まである建物にはファッションブランドショップやインテリア、生活雑貨、スポーツ用品、家電、ホビー、アミューズ、レストラン、シネマ、カルチャー教室、ヘアサロン、クリニックなど並んでいる。

 水島音樹は、首もとがゆるんだ白のトレーナー、皺の入った黒いスラックス、古びた白のスニーカーで店内に足を踏み入れた。いつ来てもこの広さに圧倒される。一階に食品を扱うテナントがある。そこで今夜の食材を買うのが目的だ。

 水島は無口だった。顔に笑顔はない。職にも就かず、毎日を無駄に繰り返している。


 三年前、水島は大学でピアノを弾いていた。講師に才能が認められ国際ピアノコンクールへの出場を推薦してくれた。

 その日から時間も忘れてレッスンに集中した。同じ練習曲を一日五十回弾き続けたこともあった。

 ピアノコンクール予備予選第一次の前日もレッスンは続いた。いつもは深夜まで続くレッスンだが、その日は明日のために夕方までに切り上げた。ピアノスタジオから自宅のアパートまで、自分の車で通っていた。深夜まで続くレッスンに鉄道の利用ができないことから、スタジオまで来る手段として先生から了承を得ていた。

 外へ出ると雨が強く振っていた。十二月になると日が落ちるのも早い。雨のおかげもあって真っ暗になっている。

 しかし、気持ちは晴れていた。いつもより早い帰宅。明日は今日までの練習を発表する日。胸がわくわくした。頭の中からピアノのことが離れない。ハンドルを握る両腕も、ハンドルの上で指が演奏を繰り返す。

 窓にあたる雨をワイパーが掃う。ヘッドライトの照明が道路に広がる水幕に吸い取られ、視界を狭くする。

 前方交差点、青信号。そのまま通過。そのとき、突然目の前に横断中の自転車が現れた。あわてて急ブレーキを踏んだ。自転車は車の下に視界から消え、ゴツンという衝撃をシャーシに感じた。

 水島は動揺した。一瞬なにが起こったのか分からない。人をはねた? ドアを開け、降り続く雨の中にあわてて飛び出した。後ろを振り返り軌跡を追った。自転車が無残に潰れている。人が倒れている。動きがない。

 心臓の鼓動が治まらない。水島は倒れた人に向かって走った。目の前の光景を事実として受け入れられなかった。


 ショッピングモールの一階をゆっくり歩いていると時間を告げる金が鳴り響いた。

 吹き抜けの中央広場に建つ、からくり時計の金だ。時間表示板の下に鼓笛隊の姿をした人形が楽しそうに体を動かしている。時間を見ると五時。水島は、まだ夕食までには時間があると思い、気の向くまま食品店へ向かう足取りを変えた。

 三階へ行ってみようと思った。書店がある。そこでしばらく時間を潰せる。

 エスカレーターを使い三階まで上がった。三階も人でいっぱいだった。十二月も終わりに近づきに、各店舗も年明けに向けた飾り付けがされている。しかし、水島にはどうでもよかった。また、今年一年が終わる。それだけに過ぎない。

 書店は建物の一番奥にある。エスカレーターを降りた所から三十メートルくらいだ。ゆっくり歩いた。

 楽しそうに話しながら歩くカップル。家族と一緒にはしゃぎ廻る子供たち。水島には縁のない世界だと感じていた。

 書店の入口前は少し広めの空間がある。いつもはベンチソファーが置かれ休息の場となっているが、今日はイベントがあるようだ。近づくと、いろいろなピアノが展示してあった。書店の一つ手前のテナントは楽器店でピアノフェアーを開催中のようだ。所狭しとピアノが十数台置かれている。

 水島はピアノを見るのは久しぶりだった。

 あの事故以来、ピアノに触れるのをやめていた。

 目の前に一台のピアノがある。ピアノといっても電子ピアノだ。水島は鍵盤のMiddle C(真ん中のド)を右手親指でそっと弾いた。鍵盤の暖かさ、鍵盤が戻ろうとする反発の強さが指に伝わる。心地良い。懐かしいとさえ思えた。しかし、水島は自分に弾く資格はないと思った。指を鍵盤から離し、となりの書店へ足を向けた。

 楽器店の店頭にあるピアノから柔らかい演奏の音が聞こえる。水島はなにげなくその音へと耳を傾けた。そこには白いカーデガンに白いスカートを身につけた小さい女の子の背中が見える。右となりにその子の母親と思えるスーツ姿の女性が立っている。女性はピアノの音に合わせて頭をふり、リズムに乗っている。

 水島は女の子が気になった。女の子が弾いているのは、ショパンの”別れの曲”エチュード第三番ホ長調。エチュードは練習曲とも訳される。演奏の技巧習得のために作られた曲という意味だ。別れの曲とタイトルが付くが、けして悲しい曲ではない。別れの曲という映画の中で全編に使われたことから、そう呼ばれるようになっただけだ。曲はむしろ、あたたかい。そのあたたかさを女の子の演奏に感じる。まだ左手は覚えていないのか、右手だけで一つ一つの鍵を確かめながらメロディーをゆっくり弾いている。右手だから、ト音記号のパートだけでの演奏だ。でも、音のつながりがきれいだ。切れ目なくなめらかに流れていく。水島は自然とその女の子が弾くピアノの側へと歩み寄った。

 女の子の左に少し離れて立った。背筋を伸ばして手首の力を抜いている。演奏する姿勢がきれいだ。曲は十小節まで進んでいる。水島は無意識に左手がピアノに伸びた。十三小節から女の子に合わせて鍵を弾いた。女の子が弾くト音記号パートに乗せて、ヘ音記号のパートを合わせた。女の子はびっくりして演奏を止めた。となりに人がいることに今気が付いた様子で、だれだかを確認するように水島を見た。

 水島は自分の行為に驚いた。勝手に割り込んでピアノを弾いてしまった。あれほどピアノに触れるのはやめようと思っていたのに……。

 女の子の視線を感じた。せっかくの演奏を邪魔してしまったと水島は思った。罪の意識を感じながら鍵から指を離そうとしたとき、女の子は笑顔で水島を見てうなずきながら十三小節の続きから演奏を始めた。水島は女の子の笑顔から、一緒に弾こう、と言っているように聞こえた。水島は離そうとした指でまた鍵を弾いた。十五小節から十六小節へ。ト音とヘ音ともに十六分音符が連続して重なり活気が増す。水島は女の子のペースに合わせた。ゆっくりと、一つ一つの音を大切に弾き進める。

 二十一小節に入ったところで女の子の手が止った。それを感じた水島も手を止めた。

 ぼくの演奏がじゃまになった?

 やはり、機嫌を損ねたか。一緒に弾いたぼくは、出しゃばりだった?

 罪悪感を感じ、気持ちが落ち込んできた水島に女の子が笑顔で話しかけてきた。

「わたし、ここまでしか弾けないんだっ」

 その言葉を聞いた水島は女の子に振り向いた。楽しそうに体を揺らしている。

 二十一小節から中間部に入り雰囲気が変わる。冒頭からの前半部のメロディを女の子は練習しているのだろう。嫌われたわけではなさそうだ。そう思い、水島はホッとした。でも、こんな小さな子供がこれほどまでに演奏できるためには、毎日のように練習しないと弾けるものではない。水島はますます女の子に興味を持った。

「お嬢ちゃん、何歳?」

 女の子は右手をパーにして答えた。「五歳!」

 水島は感心した。五歳でピアノが弾ける。見れば、女の子の手は細くて小さい。その手で八十八鍵フルサイズの鍵盤を使うのは大変なことだ。思えば、ぼくもピアノを始めたのは五歳からだった。そのころのぼくに別れの曲はとても弾けなかった。

 女の子はにこにこしながら水島を見た。

「アンサンブル楽しかったね!」

 女の子の言葉に思わず水島の頬もゆるんだ。水島は笑顔でうなずいた。

「おにいちゃん、ピアノ好き?」

 女の子の質問に、水島のゆるんだ頬がさびしさに戻り視線を落とした。好きと答えていいのか、今の水島には言える言葉ではなかった。

 さびしそうに顔をふせた水島の顔をのぞき込むように女の子は見上げた。

「どうしたの?」

 のぞき見る女の子の視線を感じ水島は顔を上げた。

「なんでもないよっ」作り笑顔で答えた。

 女の子はピアノを弾けるおにいちゃんに興味津々だった。

「おにいちゃんのピアノ聞いてみたい!」

 女の子の言葉に驚いた。ぼくのピアノを聞きたい。嬉しい言葉だった。しかし、水島はピアノを弾くことを自重している。さっきは女の子の音に聞かされて自然に指が動いてしまった。今は後悔している。自分があの日してしまったことを考えれば、軽々しくピアノに振れるべきではなかったのだ。

 でも、女の子は過去の水島を知らない。女の子にとってはピアノの弾ける、おにいちゃんなのだ。

「ぼくは弾けない……」水島は女の子から視線をはずし、ささやいた。

 そんな水島を見て、女の子は語りかけた。

「ちゃんと弾けなくてもいいんだよ。毎日の練習が大事なんだよ」

 女の子の純粋な目が水島を諭している。

 毎日の練習が大事か。きっと、この子も母親から同じことを言われているのだろう。母親の顔を見ると苦笑いしている。ごめんなさい、というように水島に会釈をした。

 水島も答えるように会釈する。

 女の子の目は期待で輝いていた。

「無理なお願いしないの」母親は、ピアノを弾いてくれた人を、困らせないように女の子に言い聞かせる。

「無理じゃないもん! おにいちゃんピアノ弾けるもん!」

 女の子は頬を膨らませて母親に背を向ける。女の子は怒ったような強い視線で水島をにらむ。

 水島はその視線に期待と強要を感じた。

 女の子は座っていた椅子を降り、水島に譲った。

 水島は命令されるように空けた椅子に座った。

 水島は思った。ぼくにピアノを弾く資格はない。あの事故は、ぼくがピアノのことしか考えていなかったから起きたんだ。ぼくがもっと注意していれば、あのようなことにはならなかった。ぼくはピアノを弾ける立場じゃない。でも、今だけは願いたい。この女の子のためだけに、ピアノを弾くことを。そして、許してほしい。この女の子の目を見ていると感じる。ピアノが本当に好きだということが。この子のピアノへの思いを大切にしてあげたい。それが、ぼくで答えられるのならば、ぼくは弾きたい。

「別れの曲でいいかい?」水島は女の子に聞いた。

 女の子は首を振った。今弾いていた曲を聴きたいのではないのか?

「”英雄”がいいよ!」

 女の子の言葉に心臓が痛んだ。過去を思い出す、つらい曲目だった。

 母親は女の子に顔を向けると、そんな難しい曲お願いしても無理よ、という顔をしていた。

「ごめんなさい」母親は水島に頭を下げた。

 水島は首を横に振り、母親に頭を上げてもらった。「いいんですよ」

 水島は女の子に語りかけた。

「ショパン、好きなんだ」

「うん、大好き! いつもおかあさんと一緒にCD聞いてるの」

「そうなんだ」水島はうれしかった。

 女の子は話し始めた。「今ね、ピアノ教室に通ってるの。それでね、来年、わたし小学生になるから、そのときピアノ買ってもらうの。そしたら、もっとショパンの曲、上手になるように練習するの」

「そうなんだ。いいなー。でも、今も上手だよ。もっともっと練習すれば、もっともっと上手になるね」

「うん! だから、おにいちゃんもさびしい顔しないで、練習してっ」

 水島は女の子の言葉にやさしさを感じた。学生のころは、時間があればピアノの練習。コンクール前も練習。練習に次ぐ練習で、練習という響きに疲れすら感じたが、今はあの練習があったからピアノが楽しめるようになった。今また、練習して、と言ってくれる人がいる。この子に応えたい。

 英雄。ポロネーズ 第六番 変イ長調 作品五十三。ショパンが書くポロネーズ作品のなかでも最高傑作と唱われる。力強い序奏から始まり、軽快なリズム、壮大なテーマ。コンクール演奏のため、あの事故を起こす当日まで必死に練習をしていた曲だ。

「あの……大丈夫ですか?」

 母親が心配そうに尋ねてきた。ピアノに楽譜の用意はない。なにを見て演奏しようとするのか。不思議でしかたがない。この曲の演奏は難易度が非常に高い。

 水島はゆっくり頭を下げて応えた。

 目の前のピアノを見つめた。

 学生のころ弾いていた一台六百万円するグランドピアノとは違う。今は電子ピアノだ。本来ピアノは、内部に張られた弦が鍵盤を通してハンマーにより叩かれ、その振動が駒に伝わり、響板が音を出す。その振動は側板や支柱、フレームなどに共鳴して豊かな音を広げていく。鍵にタッチするときの繊細な振動は、ピアニストの感情を伝え、音色に変化を与える。感情や気持ちを伝えられるのがピアノの特徴だ。しかし、電子ピアノは鍵につながるスイッチが押されICチップに録音されたデジタル音をスピーカーを通して再生しているにすぎない。音を出す仕組みが根本的に違う。繊細な感情を伝えにくい。電子ピアノはピアノではないという人もいる。しかし、今の水島には十分だった。八十八鍵の鍵盤に指を乗せられるうれしさに心が清らかになった。背筋を伸ばし、肩、ひじ、手首の力を抜き、両手の指を弾き始めの鍵にそっと触れた。右手はト音の”ミ”と、オクターブ下がった”ミ”。左手はさらにオクターブ下がった”ミ”とまたさらにオクターブ下がった”ミ”。店内にはあちらこちらで、他のピアノで音を楽しんでいる人たちの曲が鳴り響く。フェアーを盛り上げるためのクラシック音楽が店内スピーカーから流れている。人々のざわめき声が聞こえる。水島は演奏に集中するため、目を閉じ、周りから耳に入り込む音を遮断するように意識を集中した。

 水島は演奏を始めた。

 母親は演奏の邪魔にならないように、女の子の手を握り、ピアノから一歩後ろに下がった。


 冒頭。

 四オクターブの”ミ”を打ち、半音上行する和音。リズミカルに繰り返す十六分音符の連続。

 閉じた目が練習していたあのころを思い出させる。意識の中に楽譜が見える。指が音を覚えている。楽譜に合わせて指が自然に走る。


 あの雨の中、走り寄った交差点には事故を目撃した人々が倒れた人を囲んでいた。水島は取り囲む人をかき分け、倒れた人に手を伸ばし、声を掛けた。男の子だった。黒い制服。中学生か?

 返事がない。意識がない。死んだ!? そんなことがあってたまるか!

 すぐに救急車が来た。目撃者の一人が119番してくれたのだろう。男の子はすぐに病院へと運ばれていった。

 水島は後から来た警察官に連行された。

 予定していたピアノコンクール予備予選はキャンセルとなった。

 その日、男の子の死亡が確認された。

 後日、死亡事故による裁判が行なわれた。目撃者の証言で、自転車で交差点を横断した中学生は、信号が赤であることに気づいていながら進入したことが分かった。自転車は無灯火であり、中学生はヘルメット着用の校則も違反していた。当日の雨による視界不良と被害者の服装が黒い学生服であったことから発見が遅れ、事故につながったと事故調査報告が行なわれた。また、加害者、水島は、事故後、車を止め、被害者の救護にあたったこと。事故の事実を認め反省の態度を示し、被害者の冥福を祈り、遺族への誠意ある慰謝を努めていきたいと誓ったこと。結果、有罪となったが、前科や前歴はなく、被害者側にも落ち度があるところから、禁錮一年二ヶ月、執行猶予三年と判決が付いた。

 裁判確定後、遺族の元へ謝罪に行った。

 仏壇には死んだ中学生の遺影が飾ってある。

 水島は遺影に目をやるといたたまれなく目を伏せた。その目は涙で濡れていた。反省と後悔の念にとても頭を上げていられない。遺影の側に立つ両親の前で土下座をしてひたすら謝り続けた。母親は、息子に落ち度があった。けして恨んではいない。と言ってくれたが、崩れ落ちるように膝を付き、泣き出した母親の姿を見て、自分の罪の重さに押しつぶされそうになった。


 十七小節。

 序奏の盛り上がりから壮大な主題へとつながる。

 同じ音型を連続しながら、期待感とともに高揚感が高まっていく。

 三十小節。

 一オクターズずらした左右の手で同時に三オクターズをなめらかに滑らせる。そのしなやかな指、華麗なタッチに、それを見ている母親は、感動のあまり、手をそろえて口元をおさえた。


 水島はピアノを離れてからも、頭の中ではいつもピアノを弾いていた。目をつぶれば鍵盤がよみがえる。その鍵盤を叩く。音のない鍵盤。水島にはその音が聞こえる。ドの音。シャープ、フラット。アルペジオ、スーラー。音の変化、音のつながりが耳に届く。それが、演奏のためのシャドートレーニングになっていた。しかし、一曲を弾き終わることはなかった。ピアノの音を耳に感じるとあの事故を思い起こさせ手が止まる。罪の念から部屋からも出られず頭をふせる毎日が続いた。

 しかし、今は違う。今、水島は女の子のために演奏を続けている。自分のピアノが人のためになるのなら、それが犯した罪を少しでも許してもらえることならば、聞いてほしい。大きなコンサートホールでの演奏ではなくてもいい。多くの人から歓声を浴びるようなことなどなくていい。ピアノで世界の舞台に立つようなことはなくていい。今は、一人の女の子の心に、ぼくのピアノの音が届けば、それだけでうれしい。


 四十九小節。

 曲調に変化を作り、音をつなげていく。六十五小節で主題に戻る。


 課題を練習していたあのころを思い出す。先生がぼくのために夜遅くまでレッスンしてくれたこと。先生は、ぼくの国際ピアノコンクールへの挑戦を心から喜んでくれた。指、手首、腕の使い方を一から鍛え直してくれた。演奏表現の緊張とリラックス、音楽への感情と想い、ピアノを弾ける喜びを教えてくれた。それなのに、あんな事故を起こしてしまった。ぼくは先生の期待まで裏切った。ぼくはピアノで不幸しか生まなかった。人を幸せにするのがピアノではないのか。その気持ちでずっと練習してきた。なのに、なにひとつ幸せにできたことなどない。ぼくがピアノを弾く価値など、なにひとつない……。

 女の子へぼくの想いが届けばうれしい。その願いで今、ピアノを弾き始めた。でも、ぼくの演奏でピアノのすばらしさが届くのか。また、不幸にしてしまうのではないか。


 八十一小節。

 音型が変わり、中間部(トリオ)へと進む。

 八十三小節から左手はオクターブの繰り返し。一小節内に和音十二の連打。これは百から百二小節の分散和音を除いて百十九小節まで続く。水島の左手が鍵盤の上を踊るように回っている。出走する汽車のイメージ。右手の和音がやわらかく色を添える。

 

 水島は演奏が進むにつれ悩みに縛られ始めた。

 ぼくは、小さいころからピアノしか興味がなかった。ピアノのすばらしさを知り、それを弾くことだけが生き甲斐だった。そのピアノを弾くことをやめた。ぼくのピアノは不幸でしかない。ぼくにはピアノを弾く資格がない。でも、ぼくはピアノしか知らない。ピアノのないぼくに、他になにができる。なにをして生きていけばいいのか分からない。ぼくに生きる資格があるのか。生きていく価値があるのか。そんな悩みで絶望する。

 しかし、今、資格の無いぼくが、こうしてピアノを弾いている。これは、罪なことではないのか。ピアノを弾くことを自重していたのではないのか。演奏を終えるべきではないのか。

 水島は苦しんだ。だが、音がとぎれることはない。指のタッチは寸分の狂いもなく鍵の上を走っていく。

 水島は女の子の視線を感じていた。

 演奏を続けて。と見つめるその視線に後押しされ指が動いた。

 女の子の期待に応えたい。でも。

 ……演奏をやめなくていいよ……。

 男の子の声が聞こえた。男の子の声に聞き覚えはない。そのとき、遺影に映った写真が瞼をよぎった。あの子か?

 心が震えた。指先が熱くなる。

 きみか?

 ……なにも聞こえない。しかし、感じた。あの子も聞いていると。

 水島は演奏に魂をこめた。一心にピアノに向かい、女の子にも、あの子にも、自分の感情をぶつけた。今、自分が出来ることはピアノしかない。感動をあたえるのも。懺悔をするのも。


 百六十小節。

 音型は主題へと戻り、壮大な音型が音を豊かに広げる。希望に満ちたメロディー。爽快なハーモニー。


 十本の指が独立して動く。やわらかく、無駄な力のないゆるめた指先に緊張感はない。しなやかな手首は柔軟に働き、指自体を鍵に運ぶ。

 水島は感じた。

 ピアノを弾くと分かる。ピアノはぼくの一部だ。ぼくの心をピアノは音にして表現してくれる。電子ピアノでも感情を伝えることができる。この電子ピアノは、弾き方で音量だけでなく、音色も華やかになったり、柔らかくなったりと答えてくれる。やさしい音、たくましい音、伸びやかな広がり、減衰するはかなさ。

 やっぱりぼくはピアノが好きだ。


 百八十小節。

 主部の音型からコーダへ続き、終止線を迎える。


 演奏を終えた。ノーミスで七分の演奏を弾ききった。水島はそっと鍵から指をはなす。閉じていた目をゆっくりを開いた。ここは楽器店の中だったことを思い出した。店のピアノで最後まで演奏してしまってよかったのか気になった。罪の意識が沸き、すぐにその席を立とうとした。そのとき、女の子が声をかけてきた。

「ピアノ上手だね!」

 立つことを忘れ、その声に反応して振り向いた。

「おにいちゃん、ピアニストなの?」

 女の子の問いになんて答えればよいか分からなかった。ピアノが好きなだけではピアニストとはいえない。言える資格はない。

「ちがうよ」

 水島はそう答えるしかなかった。

 女の子の見つめる目が辛くなった。視線を外し、隣の母親に目をそらした。母親は合わせた手を顔に当て、指は流れ出る涙をおさえていた。

「感動しました」

 合わせた手はゆっくりと静かに拍手へと変わった。母親の拍手を追うように、周りからも拍手の音が聞こえる。見回せば水島のピアノの周りには何重にも重なった人々の姿があった。みんなが水島を見て囲んでいる。拍手の音が広がった。さっきまで流れていた店内音楽も止んでいる。店員が、演奏に集中できるようにと、オーディオの電源を切っていた。店員たちも水島に拍手を送る。店の外から足を止めて聞いていた多くの人たちから拍手が沸きおこる。水島は盛大な拍手に囲まれた。涙で目を濡らす人、感動で体を震わせる人。

 女の子は母親が拍手するのは見て、一緒になって拍手をした。最高の笑顔を乗せて。

 水島も、女の子の目に目線を戻して、笑顔を見せながら涙した。

 水島は感じていた。ぼくのピアノにこれだけの人たちが拍手をしてくれる。ぼくの手は汚れているかもしれない。でも、ぼくのピアノの音を聞いてくれる人たちがこんなに大勢いてくれる。ピアノは捨てなくていい。きっとあの子も許してくれる。いや、罪を償い、ピアノで供養を続けていく。ぼくにできることはそれしかない。

 演奏者としてのぼくの評価はどうでもいい。ただ、ピアノのすばらしさを人に伝えられれば、こんなうれしいことはない。今も一人の女の子に喜んでもらえている。母親にも、足を止めて聞いてくれた多くの人たちからも笑顔がもらえる。感動したのはぼくのほうだ。ありがとう。

 もう、絶望する日々を送ることはない。ピアノを弾けることに感謝して、これからも弾き続けよう。

 そして、過去の人生を悔い改め、これからの人生を見つめ直そう。

 この人たちがいれば、ぼくはまだ生きていける。


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