表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

天国への螺旋階段      :約10000文字 :天国

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/06/29

 ここは……いや、おれは……。


 気がつくと、おれは雲のように白く柔らかな地面に横たわっていた。身体はわずかに沈み込み、まるでベッドに身を預けているようで寝心地は悪くない。一瞬、このまま眠ってしまおうかと思ったほどだ。

 だが、そうしている場合ではない。おれはむくりと上体を起こし、地面に触れ、次に頭上を見上げた。

 そこには青空が広がっていた。その空を突き刺すように鯨の尾びれの形をした巨大な雲のアーチが悠然と弧を描いている。現実離れした光景のはずなのに、まるで遥か昔からそこに存在し続けていた自然の景観のような妙な説得力があった。

 まだ頭の中には薄い靄がかかっているようだった。起きて少し時間が経ち、夢の内容を思い出そうとするみたいに記憶の輪郭がぼやけ、掴もうとしても指の間からこぼれ落ちていく。

 それでも、おれはこの状況を漠然とながらも理解し始めていた。同時に胸の奥にじわじわと言いようのない重苦しさが沈殿していった。

 これは夢なんかじゃない。そして、さっき起きたこともおそらく現実だ。つまり、おれは――。


「俺たち死んだみたいだな。はははっ」


「えっ」


 背後から聞こえた声に、おれは反射的に振り返った。そこには友人の田畑が胡坐をかいていた。いつもと何一つ変わらない調子で「よっ」と軽く片手を上げたので、おれもつられて「おう……」と返した。

 あまりに普段通りだったせいで、むしろ現実感が薄れた。

 周囲を見渡すと、他にも点々と人影があった。呆然と立ち尽くしている者、落ち着きなく辺りを見回している者、自分の身体を触って確かめている者。誰もが戸惑いを隠せず、何かを失ったような表情を浮かべていた。

 それも当然だろう。彼らは死んだのだ……いや、おれもだ。そうだ、おれたちは死んだのだ。


「ここが天国なのか……?」


 おれは喉元に手を当て、調子を確かめるように呟いた。寝起きのように少し乾いている気がしたが、おそらく気のせいだろう。試しに手首をつねってみると、感覚はあったが痛みはほとんどない上に伝わるのが遅かった。夢の中にいるときのように全身の感覚が曖昧で、どこか浮遊感がある。


「さあな。ううーん……っと」


 田畑は立ち上がり、大きく腰を反らせた。骨が鳴る音が聞こえそうなほど大げさに体を伸ばしている。

 相変わらずマイペースなやつだ。それとも、こいつもまだ現実感がないのか、あるいは受け入れられていないのかもしれない。

 おれも膝に手を当て、ゆっくりと立ち上がった。 

 しかし妙だ、とおれは首を傾げた。

 見たところ、ここにはおれたち以外に人間がいないのだ。

 死者が集まる場所ならもっと人がいてもいいはずだ。いや、それどころか元から天国で暮らしている連中――いわば先住者の姿がどこにも見当たらない。

 景色そのものはおれが漠然と思い描いていた天国のイメージとそれほど離れてはいないが、妙に寂しく感じる。広大であるがゆえに人の気配のなさがかえって際立っていた。


「……ん? おい、あれなんだ?」


 田畑が遠くを指差した。おれは目を細めてその先を見つめた。

 白い何かが立っている。細長くて高い。一本の塔のように見えた。


「わからん……。だが、他には何もなさそうだな」


「だな」


 行くしかない――そんな空気が自然と生まれ、おれと田畑、そして他の連中もその白い物体を目指して歩き始めた。


「なるほど……な。ほー」 


 それの前まで来ると、田畑は合点がいったとばかりに何度も頷いた。

 それは塔ではなかった。

 遠くからは一本の白い塔にしか見えなかったが、近づくにつれてその構造がはっきりしてきた。

 扉も窓もない。ただ中央の巨大な支柱を取り巻くように階段が延々と上へ続いているのだ。 

 蹴込み板のないスケルトン階段だ。象牙のように白く滑らかな段が一定の間隔で並び、巨大な支柱をぐるぐると取り囲みながら螺旋を描いていた。

 なるほど、とおれも内心で頷いた。

 これが『天国への階段』というやつなのだろう。つまりここは待合所のような場所で、本当の天国はさらに上にあるのだ。


「うっし」


 小太りで厳つい顔つきの男が先陣を切って階段に足をかけた。支柱に手を添え、足元を確かめながら慎重に一段ずつ上がっていく。最初はおそるおそるだったが、やがて慣れたらしい――あるいはおれたちが見ているから虚勢を張ったのか――。ふん、と鼻を鳴らして階段の中央へ移動し、そのまま軽快な足取りで上がっていった。

 次に若い男が、その次は会社員風の男――と続々と階段に足をかけた。


「俺たちも行くか」


 上を見上げていた田畑が振り返り、言った。おれは小さく頷き、田畑のあとに続いて階段に足をかけた。

 手すりはない。だから最初のうちは支柱に手をつきながら慎重に進んだ。だが、しばらくすると自然に慣れてきた。階段の中央を歩けるようになり、足取りも軽くなった。

 まだ頭がぼやけているせいか、それとも死んだからなのか、高所にいる恐怖はほとんど感じない。

 他の連中も同じらしい。スーツ姿の会社員風の男や若い男女はすでに中央付近を普通に歩いていた。一方で、痩せぎすの男や母娘らしき親子、腰の曲がった老婆などは支柱にしがみつくようにして慎重に進んでいた。不安そうではあったものの、取り乱すほどではないように見えた。

 もちろん、おれも高所恐怖症ではないとはいえ、生きていた頃ならこんな場所を平然と歩けるはずもない。ちらと視線を落とし、階段の隙間から下を覗くと、地上――もっとも、そこもまた雲の上なのかもしれないが――からすでにかなり遠ざかっていた。

 足を滑らせれば間違いなくただでは済まない高さだ。それなのに不思議と恐怖が湧いてこなかった。まるで子供の頃に戻ったかのようだった。

 どこまで続いているのかもわからないが疲労はまったく感じない。息も乱れず、足も重くならない。このままいくらでも上り続けられそうだった。


「天国ってどんなところだろうな!」


「ふふっ。そりゃあ、最高の場所なんじゃないか」


 田畑は時折振り返って話しかけてきた。おれはそれに応じつつ、まだ見ぬ頂上――天国の光景を想像し、一段一段しっかりと板を踏みしめていった。

 白く輝く街並み。どこからかハープの音色が響き、天使たちが甘い蜜や果実を運んでくる。それから、そうだ――。


 ――ミシッ。


 ふいに足元で小さな音がした。

 おれは思わず「ん?」と声を漏らした。


「どした?」


 田畑が振り返り、眉をひそめた。


「いや……今、なんか――おっ、おおっ?」


 足元へ視線を落とした瞬間、おれは目を見開いた。踏んでいた板に一本の細い亀裂が走っていたのだ。そしてそれは枝分かれしながら白い表面を這っていき――。


「お、おうおっ!」


 みしり、みしりと嫌な音が足元から響き、おれは慌てて前へ踏み出した。板から足が離れた次の瞬間だった。バキッと乾いた破裂音が鳴り、板が崩れ落ちていった。

 おれは勢いを殺しきれず、前にいた田畑にぶつかった。そのまま巻き込む形で、二人でよろけながら支柱にしがみついた。

 な、なんだ、今のは。どうなっているんだ。天国への階段が壊れるなんて……。


「おいおい……」


 田畑が低く呟いた。吐息が頬にかかり、おれは反射的に顔を背けた。

 その声には戸惑いが滲んでいた。いつもの田畑ならへらへらと笑いながら「太ったんじゃないか?」とでも言ってくるところだ。しかし今の顔にはそんな余裕は見当たらなかった。

 むろん、太った覚えはないし、強く踏み込んだつもりもない。おれはただ普通に階段を上がっていただけだ。天国で美女と遊べたりなんてことを考えながら――。


 ――ミシミシ。


 再び足元で軋む音が聞こえた。おれたちは顔を見合わせ、ゆっくりと視線を落とした――次の瞬間、板の表面に亀裂が走った。


「やばい!」


 二人同時に叫び、上の段へ飛び移った。直後、さっきまで立っていた板が真っ二つに割れて、そのまま真下へ落ちていった。だが飛び移った先も安全ではなかった。着地した途端、またしても細かなひびが入ったのだ。


「上だ、上!」


 田畑がさらに上の段へ飛び乗り、おれもすぐに続いた。するとまた亀裂が走り――飛ぶ。割れる。飛ぶ。割れる。おれたちは逃げるように上へ上へと駆け上がった。

 やがて勢いが尽きると、おれは慎重に板を踏み、右足を一段上に、左足を下の段に残して体重を分散させて立ち止まった。じっと足元を見つめる。亀裂が現れないことを確認すると、おれはようやく肺の奥に溜まっていた息を吐き出した。


「あ、あのー、大丈夫ですか……?」


 おれは振り返り、後続の連中へ声をかけた。少し間が空いたあと、「え、ええ、まあ……」と怯えと困惑の入り混じった声が返ってきた。


「だ、大丈夫なわけあるかよ。どうすんだよ……」


 支柱の陰から男の声がした。やがて痩せぎすの男がぬるっと顔を覗かせた。眉間には深い皺が刻まれ、その表情には露骨な苛立ちが浮かんでいる。まるでおれたちが原因だと言いたげであった。


「あ、あの、端のほうならまだ結構残っていますし、支柱に手をついて進めば、たぶん――」


「言われなくてもわかってるよ!」


 おれは申し訳なくてそう言ったが、怒鳴り返されて肩をすくめた。

 なんなんだ。別におれのせいじゃないだろうが……クソ。

 そう思い、小さく息を吐いたそのときだった。

 先を進んでいた会社員風の男が支柱の陰からひょっこり顔を出した。


「どうしました?」


「い、いや、階段が――」


「お、おい」


 田畑が声をかけてきた。二段ほど上で支柱に片手をつき、もう片方の手でおれの足元を指差している。

 視線を落とした瞬間、ミシリと嫌な音が鳴った。

 おれは慌ててさらに一段上に移動した。

 直後、さっきまで立っていた場所が崩れ落ちた。砕けた板はゆるやかに回転しながら落下していった。おれは下を覗き込み、その軌跡を目で追った。白い階段の残骸は次第に小さくなり、やがて下に広がる雲の大地に到達した。だが板は跳ね返ることもなく、そのまま呑み込まれるように消えた。


「あっ!」


 ふいに頭上から声がして、おれは反射的に顔を上げた。

 一瞬だけ目が合った――落ちてくる若者と。

 次の瞬間、その身体はおれの数段後方の階段に顔面から激突した。鈍い衝撃音が響き、若者は「ぎゃっ」と短い悲鳴を上げた。そしてそのまま跳ね落ちる寸前で両腕を伸ばし、かろうじて板にしがみついた。

 顔はひどい有様だった。鼻か歯、あるいは両方折れたのだろう。口元から顎にかけて血がべっとりと広がり、まるでピエロのメイクのようだった。眉間には深い皺が刻まれ、こめかみに血管が浮かび上がっている。食いしばった歯の隙間からは血が糸を引いて垂れ、板にぼたぼたと落ちていた。

 おれは思わず手を伸ばそうとした――だが、そのときだった。若者がしがみついている板の表面に、ぴきりと亀裂が走った。


「た、助け――」


 言葉は最後まで続かなかった。板は乾いた音を立てて真っ二つに折れた。

 若者は喉を引き裂くような悲鳴を上げながら落下していった。水に落ちた虫のようにもがくその姿も声もあっという間に雲に呑まれて消えた。


「なるほど……な」


 しばらくして、田畑がぽつりと呟いた。


「これは神が用意した試練なんだ」


「試練……?」


 おれは田畑を見上げ、眉をひそめた。


「あの下にあるのは地獄だ」


 田畑は下をじっと見つめながら言った。


「足を踏み外したら終わり。地獄へ落ちるんだよ。おそらく心の穢れに応じて階段の強度が変わるんだろう」


 その口調はおれに説明しているというより、自分自身に言い聞かせるようだった。

 田畑はそれだけ言うとしばし黙り込み、やがて再び前を向いて無言で階段を上がり始めた。

 ……地獄。根拠のない話だが、その言葉が妙に耳に残った。

 おれは視線を落とした――が、すぐに顔を上げた。じっと下を見つめていると引き込まれそうになるのだ。雲がゆっくりと渦を巻き、だんだんと近づいてくる――そんな感覚がした。

 おれはぶるりと身を震わせ唾を飲み込み、胸の奥でざわつく不安を押し込めるようにゆっくりと深呼吸した。


 それからは余計なことを考えないよう努めながら階段を上がり続けた。

 一段、また一段。ただそれだけを繰り返した。

 板は相変わらず軋み、踏み越えるたびにひびが走り、割れて落ちていった。時おり背後から悲鳴が聞こえたが、おれは振り返らなかった。そうしたところでどうにもならないのだ。そう、もうどうにも。

 上へ進むにつれて、階段の様子も変わってきた。まるで乳歯の抜けた子供の口のように、最初から板が折れている場所が増えてきたのだ。

 おそらくおれたちより先にここに来た連中が折ってしまったのだろう。そして落ちていったのだ。


 これが試練……。

 おれと田畑は支柱に手を添え、足先で探るようにしながら慎重に進んだ。田畑が先を歩いているとはいえ、あいつが無事だった場所がおれにとっても安全とは限らない。

 実際、おれが踏みしめた直後に折れたことが何度もあった。膝がガクンと崩れ、体勢を崩してそのまま落ちかけたものの、なんとかその場に踏みとどまった。

 時には一段飛ばして進まなければならないこともあった。板の表面に亀裂が浮いており、今にも崩れそうになっていたからだ。

 そんな場所を跳び越えるたびに、ひやりと背筋に冷たいものが走った。同時に生きているという実感のようなものが湧いた。死んでいるのに――そう思うと妙におかしくなり、おれは思わず笑い声を漏らした。

 すると田畑が振り返り、怪訝な顔をした。おれが狂ったと思ったのかもしれない。おれは首を横に振ったものの、田畑はすぐに背を向けたので、それを見たかどうかはわからなかった。

 三段続けて階段が折れていることもあった。そんなときは、かろうじて残った根元に足をかけて進むか、一気に跳び越えるしかなかった。

 そうしておれたちはしばらく進んだ。


「はははは! こうすりゃ、お前ら上がってこられないだろ!」


 ふいに頭上から笑い声が降ってきた。同時に、ドスドスと板を踏み鳴らす音も。

 おれはぞっとした。あの声には聞き覚えがあった。おそらく先頭を歩いていた小太りの男だ。あいつが階段を壊しているのだ。どうやら狂ったらしい。死後でも人は狂うのか。そのことがなぜか他人事には思えず、それがまたおれの背筋を冷たくした。


「はははは! ――あっ!」


 笑い声が途切れた次の瞬間だった。板の破片とともに巨大な影が上から降ってきた。

 おれの予想どおりだった。落ちてきたのは、やはりあの小太りの男だった。男はおれの目の前の段に激突し、板を派手にへし折った。そしてその勢いのままさらに下へと落ちていった。絶叫と破砕音が反響しながら遠ざかり、やがて完全に途絶えた。

 まあ、そうなるだろうな。おれは小さく息を吐き、残されたわずかな足場を慎重に見定めながら、一段ずつ進んでいった。


「お、おい、田畑」


 しばらくして、おれは前を行く田畑に声をかけた。


「できればもう少し真ん中寄りを踏んでくれないか。もし折れても根元が残るかもしれないだろ」


 ここまでの道中で、すでに何段も田畑に折られていた。そのせいで何度か肝を冷やしたのだ。

 しかし田畑は一瞬動きを止めただけで振り返りもせず、そのまま上がり続けた。

 無視……だと。怒声が喉元まで込み上げたものの、おれはなんとかそれを飲み込み、大きく息を吐くにとどめた。ここで感情を乱すのはまずい。ましてや罵声など吐き出そうものなら、たちまち足元の板は砕け、真っ逆さまに落ちるだろう。

 足元でミシリと音が鳴り、おれは慌てて雑念を振り払い、次の段に移った。


 ん……?

 さらにしばらく進んだときだった。おれはふと足を止め、前方を見つめた。

 田畑が立ち止まっている。妙に背筋を伸ばし、胸の前で両手を合わせ、何やらぶつぶつと呟いていた。


「田畑、どうしたんだ……?」


 おれは訊ねた。


「……静かになさい」


「は?」


「えー……私は罪を犯しました。子供の頃、お菓子を万引きしたことが――うおっ! ……あります。大変申し訳ございませんでした」


 そう言って、田畑は小さく一礼した。

 そしてまた呟きながら上がり続けた。板が軋むたびに言葉は途切れたものの、手を合わせたまま姿勢を崩さなかった。

 やがておれは理解した。

 あれは告解だ。そうか。そういうことか。心を無にするだけでは足りない。自分の穢れを認め、向き合わなければならないのだ。

 なぜか妙に腑に落ちた。きっと、ここまで無心で階段を上がり続けてきたせいだろう。どこか悟りを開いたような気分だった。

 おれも胸の前で手を合わせ、小さく咳払いをした。


「えー、幼稚園の頃、女子のスカートをめくったことが――」


 おれは自分の罪を一つずつ並べながら足を動かし続けた。記憶を手繰り寄せ、できるだけ軽そうなものから選んでいく。板が割れそうになるたびに飛び退き、時に踏み外しかけたが必死に呟きながら上がり続けた。

 そうしているうちに、どれほどの時間が経っただろうか。

 気がつけば、聞こえる足音は二つ――おれと田畑のものだけになっていた。

 立ち止まって耳を澄ませてみたが、人の声も息遣いも聞こえない。……いや、無心でいようと努めていたから考えないようにしていただけで、途中、何度も悲鳴を聞いていた。上からも下からも。おそらく他の連中は全員落ちたのだろう。罪深い連中である。


「……ん?」


 ふと、おれは足を止めた。田畑が階段の中央に立っていた。こちらを向き、おれを見下ろしている。どうも様子がおかしい。目が妙に据わっているように見えた。


「田畑……?」


「落ちてくれないか?」


「は……?」


「思ったんだよ……いや、気づいたんだ」


 田畑は静かな声で言った。


「お前は天国に行くべきじゃない」


「はあ?」


「お前はクソ野郎だ」


「はあ!?」


「友人としてなんとなく付き合っていたが、お前の失言癖には正直うんざりしていた。頭も性根も悪いんだろうな」


「いや……お前、今とんでもないことを言っているぞ」


「落ちてくれ。できれば自分の意思で。罪を悔いながらな」


 そう言って田畑は腕をゆっくりと上げ、おれを指差した。


「でないと、おれがお前を落とす」


「いや……いやいやいや、お前、何言ってんだよ。これはデスゲームでもなんでもないぞ。一緒に上がればいいだろ」


 おれはへらへら笑いながら言った。田畑が何を言っているのか、まだ理解が追いついていない。しかし困惑と同時に、胸の奥では別の感情がふつふつと沸き上がっていた。

 そう、これは怒りだ。腹の底から込み上げた怒りが胸を越え、一気に喉元までせり上がった。


「お、お前こそどうなんだ。自分が天国に行くに値する人間だとでも?」


 おれは語気を強めた。


「いいや」


「えっ?」


「俺も落ちる」


 その言葉を聞いた瞬間、ぞわりと冷たいものが背筋を這い上がった。ああ、すでに死んでいるはずなのに、おれは今確かに恐怖していた。

 田畑の目は暗く、それでいてその奥には異様なほど強い光が宿っていた。何かに取り憑かれたような、あるいは狂信者のそれのようだった。

 そして次の瞬間、田畑は雪崩れ込むような勢いで飛びかかってきた。


「人間は! 罪深い!」


 田畑の手がおれの喉元へ伸びた。おれはその腕を必死に払いのけ、脛を思いきり蹴りつけた。「ぐっ」と短い呻き声を漏らし、田畑の身体がくの字に折れ曲がった。おれはその隙に一段上に飛び乗った。そして振り向きざまに後頭部に蹴りを叩き込んだ。

 田畑の身体がぐらりと揺れ、やつはそのまま階段に倒れ込んだ。


 ――ミシッ。


 田畑の呻き声に嫌な音が重なった。



 ◇ ◇ ◇



「つ、着いたのか……?」


 おれは荒い息を吐きながら顔を上げた。頭上には灰色の分厚い雲が重く垂れ込め、階段の先を呑み込んでいた。ただし、完全に行く手を塞いでいるわけではなく、表面は靄のようにゆっくりと揺らいでおり、その向こうにまだ空間が続いている気配があった。

 ついにここまで来た……。

 おれはごくりと唾を飲み込み、後ろを振り返った。

 ここまでの道はもはや道と呼べるものではなかった。上るにつれて階段は脆くなり、ほとんどが崩れ落ちていた。かろうじて残っている部分も無数のひびに覆われ、踏めばすぐに砕けた。支柱にまで亀裂が走り、ところどころ大きく欠けていた。

 それでも先に進むしかなかった。もっとも、引き返そうという気持ちなど欠片もなかった。

 前へ。ただ前へ進む。その一心でここまで登ってきたのだ。もしかするとおれは何かから逃れたかったのかもしれない。それはおそらく罪悪感――いや、今は考えまい。

 ようやく、ようやくだ……。

 おれは頬の緩みを抑えきれず、跳ねるような勢いで最後の階段を駆け上った。

 視界が開けた。

 そこにあったのは巨大な門だった。見上げるだけで首が痛くなりそうなほど大きく、左右にそびえる柱には天使の姿が彫られていた。

 やった。ついにやった。天国の門と思しき場所までたどり着いたのだ。だが――。


「どうなっているんだ……」


 おれは呆然と立ち尽くした。

 片側の門扉は根元から外れ、地面に倒れ伏し、もう片方も大きく傾き、かろうじて柱にもたれかかっていた。もはや門の体を成していない。さらに異様なのは空だ。まるで灰が舞い上がったかのように濁り、薄暗い。見ているだけで気分が沈み込みそうな重苦しい色だった。


「ここが天国……? いや、それともまだ試練が――」


「ん、あんた、何してんだ?」


 門へ近づき、中を覗き込んでいると、ふいに横から声をかけられた。おれはびくりと肩を跳ねさせ、振り向いた。白い服を着た男がこちらへ歩いてきた。制服のようにも見える格好だ。天国の職員かもしれない。

 おれはそう思い、慌てて背筋を伸ばした。


「あ、ど、どうもこんにちは。その階段を上ってきたんですけど……」


「その階段って……」


 男はおれの指差す方向へ顔を向けた。雲の靄が揺らぎ、ぽっかりと黒い穴が口を開けていた。


「あれをかい!?」


 男は目を丸くして声を上げた。それからおれのほうへ向き直り、じろじろ眺めまわしながら「ほー」と感心したように何度も頷いた。


「え、ええ。まあね。いやあ大変でしたよ」


 おれは少し胸を張って答えた。


「あの廃棄物をねえ」


「えっ……?」


「うん? 当然でしょ。天国はとっくの昔に廃業したんだもの」


「は!?」


「いやあ、あれを登って来るとはねえ……。使用禁止の札があったはずだけどなあ……いや、なかったかな。ははは」


「あ、あの、なんで、え? え? どうして?」


 言葉がうまくまとまらない。おれは息が詰まりそうになりながら訊ねた。


「なんでって、ははは。だーれも天国に入れないんじゃ意味ないじゃん」


「誰も……?」


「そうそう。まー、基準が高すぎたんだよね。善人の基準がさ」


 男は肩をすくめた。


「そんな人、いてもほんの一握りだし、だったらすぐに地上へ転生させたほうが効率がいいでしょ。管理の手間もかからないしね」


「手間って、そんな……」


 おれは呆然とした。視界が揺れていると思ったら、足ががくがくと震えていた。ここまで登ってきた疲労ではないことだけは確かだった。


「せ、せっかくここまで来たんですよ」


 おれは震え声で言った。


「バ、バス! 乗っていたバスが事故に遭って、それで仲間たちと助け合いながらここまで……。田畑なんて、あ、友人なんですけど、おれを助けるために犠牲になったんですよ。ははは」


 おれはまとまりもなく喋り続けた。男は「まあまあ」「なるほどねえ」と軽い相槌を打ちながら、おれの背中をぽんぽんと叩き、押し始めた。


「はいはいっと、なるほどねえ、バスの事故。普通なら一旦地獄直行なんだけどね。まあ、たまにあるんだよねえ。大勢が一気に死ぬと、こうやって変なルートに迷い込んじゃうことがさ。あ、ちなみにおれ警備員ね。まあ仕事なんてほとんどないんだけどさ。それが逆につらいんだよねえ。暇で暇で、まさに暇地獄。なんつって」


 男は喋りながらおれの背中を押し続けた。自分の冗談にへらへら笑い、おれもそれに合わせるように笑った。

 気づけばおれは、階段へ続く穴の縁まで追いやられていた。


「あ、あの! だから――」


「ほい、お疲れさま」


 男はにこやかに言った。そして次の瞬間、ドンと強い衝撃が背中に走った。

 おれの身体は宙へ放り出された。


 真っ逆さまに落ちていく。風が耳元で唸りを上げた。

 途中、まだ残っていた階段に顔面から激突した。鈍い音とともに板がへし折れ、無数の破片が飛び散った。その一つが目の前をくるくる回りながら飛んでいった。

 おれの歯だった。

 ぶつかり、砕き、折り、折られ――勢いは殺されることなく、おれは落ち続けた。

 やがて、どこからともなく笑い声が聞こえてきた。

 歓声、あるいは嘲笑か。それは地上――雲の大地――が近づくにつれ大きくなっていき、風の唸りに混じっておれの鼓膜を叩いた。


 その声はおれ自身のものなのか、それとも先に落ちていった連中のものなのか。

 おれには判別がつかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ