Ⅴ 調査の
仕事というものは人生からどれ程の時間を削ぎ落としてしまうのだろう。人間の命は仕事を主役として回っているようにしか思えない。そう考えてしまうほどに一日の仕事の量と費やす時間が多かった。昼の休憩時間には何一つ気休めとなる要素がなく、久利の脳は疲れを抱くことで宙に浮いたような感覚で物事を考え始めていた。今という時間を上手く乗り切り噂話の調査へと進むには可能な限り体力を残すことが大切。
「すみません、昼からのことですがこちら、手伝っていただけませんか」
嫌われること間違いなしだろう。しかしながら頼りにせずにはいられない。これから行なう事は殆どの時間を仕事に費やしてしまう人間という生き物の一人がその重たい事以外の大切なものを取り戻すための戦いなのだから。
「手伝わなければならないほど忙しいのでしょうか」
女は敢えて言葉を散らしてみせるものの久利は頷いてみせるのみ。彼女の心情は正しいものだったがそれでも久利は己の姿勢を貫き通さずにはいられない。人助けという言い訳はそれ程までに強靭なものだった。
疲れは自然と腕を額に当てる仕草を選ばせてしまう。久利の目は重く肩は気怠さを帯びており仕事に挫けそうな人物という構図が出来上がり始めていた。結局仕事を手伝ってくれたのは二人の男のみ。それでも日頃に比べてみると随分楽をさせてもらったと実感できる。礼を告げると相手はお辞儀をして。帰宅の時だと彼らの捻じ曲げられた身体の角度が示していた。
「噂を知ってそうなところは」
思考を巡らせまずはカフェに行ってみることとした。恐らくこの辺りの老舗であれば例の噂話を一度や二度は耳にしているだろうと踏んで地面を踏んで。訪れたそこにて待っていた男の姿をその目に収めてみては驚きを得るばかり。
「身長高いですね」
「ああ、背の低い天上には頭をぶつける」
カフェのマスターはその身長を持っているがためだろうか。この建物のカウンターの造りは見晴らしが良い事を確認する。コーヒーを作っているこの男に気を引き締めて訊ねる。
「キャンプ場にもなってるあの公園の森の魔女の噂をご存知でしょうか」
それまではコーヒー豆の分量を計りお湯を沸かしては幾つかのカップを用意しては何度か湯を移して温度を調整していたものの、急にその手は止められる。凍てついた瞳が久利を捕らえて離さない。しかしながら話しは始まる。
「よく知っている男と連絡を取ろうか、多分バーで待ち合わせになるだろう」
重々しい口は大袈裟に見えるもののそれは彼の飾りではないのだろう。かつてを知る人物たちにとって本来口にすることさえ憚られるような話であるかも知れない。マスターはコーヒーを淹れながら窓の外を眺め、カップを差し出しながら言葉にする。
「詳しい人物に連絡は取るが話を聞き出すことが出来るかは運次第」
ただならぬ出来事でもあったのだろうか。想像を巡らせながらコーヒーを啜り再びマスターに目を向ける。気を引き締めている様が目に見えて寒々しさと痛々しさを感じてしまうも魔女の行動を知っていた久利の口からは何一つ冗談を引き出すことが出来ない。
「俺も同行しよう。これで少しでも助けになればいいが」
マスターは奥へと姿を消し、一人残された。コーヒーを静かに啜りながら香りを堪能する。香ばしさが湯気に乗り鼻腔をくすぐる中、舌を浸す苦味は心をも蝕む毒のように感じられてしまい思わず顔をしかめる。カフェであれば顔も広いだろうという想像は正解、しかしながらその代償に苦しめられることとなっていた。味わいから逃れるように周囲を見渡し日頃であれば少々目にする程度の内装にしっかりと目を凝らしてしまう。窓際には観葉植物が植えられており緑は癒しを図るものの今の久利にとってはあの夜の森と重なって心を不気味な手触りでくすぐってしまう。
顔を逸らして鏡に目を向けたそこに映されていた光景に目を見開いた。久利が映るはずの場所に同じような姿勢で座る老婆の姿が視界を支配してはそっと微笑みかけてくる。
「なんでそんな顔をするんだ」
いっそのこと怨念を大量に込めて睨み付けてくれた方が助かる、そんな想いに駆られていた。優しい顔はあまりにも苦しい。あの森で久利の友人たちを取り込んだ時にも肉のない骸骨という事実に隠して同じ表情を浮かべていたのだろうか。想像するだけで寒気が走った。
しばらく鏡を見つめていた久利を呼ぶマスターの声に気付かされて振り向く。
「大丈夫か、何を見てた」
「いえ、どうすればもっとイケメンになれるかなって」
「絶望するほど崩れた顔でもないだろうに」
再び鏡に目を移すとそこには余裕を失った顔をした久利が映されており、無理やり笑みを浮かべるとともに鏡に写った自身も真似をするように笑みを浮かべていることを確かめ安堵のため息をついた。
それからマスターの案内を受けてバーを目指す。同伴している彼の引き締まった表情を見るからにこれから会う人物に対して仄暗い感情を浮かべてしまう。少なくとも明るい話を聞ける訳ではないと空気が幾度となく告げている。
バーに入りマスターは迷いなく進んでいく。久利は彼の行動の後を追う事しか出来ずもどかしさを巡らせていた。席で待っていたのは怯えるように顔を隠している老いた男の姿。彼が為す小刻みな震えは老人特有のものというわけではないとすぐにでも感じ取れる。
「ああ、酒を、酒をくれ、でなきゃやってられない」
言われるままにマスターはカクテルを注文して。運ばれてくるそれが放つカモミールの香りに久利は思わず顔をしかめてしまう。なぜそのような香りを放つカクテルを頼んだのだろうか。
「カモミールのカクテルなんてあったんですね」
「カモミール、やめてくれ、寒気がする」
「ただのカシオレですが」
マスターの一言によりはっとして改めて見つめるとそこに佇むのはオレンジの香りを微かに放つジュースのような見た目をした酒の姿。先程までのカモミールは気配から何まで姿を消していた。
「お前、もしかして笠音に会ったわけじゃないよな」
笠音とは、力のない声で訊ね返すと老人は皺だらけの顔に更なる皺を刻みながら怯えた表情を浮かべて。開いた口に微かに残された歯が震えてぶつかりかちかちと音を立てている。
「重ねの魔女だ、あれに会ったら死んでしまう」
途端に久利は顔に影を落とす。想像していた事とはいえ口にされると気が重くなってしまうことには変わりない。彼からは生き延びる方法を訊ねようと思っていたものの酒に逃げている姿を見るからに死なないとしてもきれいな結末を迎えられる気がしなかった。
絶望に打ちひしがれている表情を掴まれてしまった久利。対する老人はしわがれた声を震わせながら伝える。
「いいか、生き残りたければ自分を探せ、探して笠音とともに」
それから先は声にもならない。ただ口から出てくる悲鳴にもならない声が耳を刺して二人の顔に歪みを生じさせ、その口も閉じられる。それから突然立ち上がり老人はバーを出る。
「笠音、笠音、重ねよう。ああ、魔女よ、世界には重ねてはならない事もある」
近くの石橋の真ん中で立ち止まり、見下ろしながら老人はただただ魔女の名を繰り返し呟く。不気味な機械の如きと取るべきか加齢に侵食されて正気を失ったと取るべきか。老人はみなもに指を向け、再びその名を口にした。
「笠音、そこにいたのか。黄泉に落ちたのではないだろうか」
落ちていくのは老人の身体、慌てて駆け寄る久利だったものの時は既に遅し。水へと身を沈めた彼が再びこの地の空気を吸うことなどなかった。
マスターは次の日もカフェに来るよう告げ、従うままに向かった。そこに訪れた数人が慰めている中で久利は一瞬、背中を刺すような鋭い視線を感じて振り返るもそこに誰の姿もなかった。




