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重ねの魔女  作者: 焼魚圭
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Ⅳ 目を疑う風聞

 会社へと歩き続けて。平穏だったはずの日々はどこへと潜んでしまったのだろうか、永遠に返ってこないのだろうか。一つの街を抜けてとある駅で降りてはすぐさま辿り着いたそこへ足を踏み入れて。ビルのエレベーターの五階へと続くボタンを押して。彼を運ぶエレベーターはあまりにも静かなものだった事に対し違和感を覚えてしまう。予てよりそのような設計だっただろうか。耳が覚えていた記憶は異なるものだったか。ドアが開かれ廊下を渡った先に見えてくるのは妙に痩せた男。彼の顔は日頃の生活に削られ弱り果てたものであるにもかかわらずどこか頼もしさを帯びているように思えてしまうのだから不思議である。そんな彼に己の味わった出来事を伝えるべきか悩みどころだった。

「雅高さん。おはようございます」

 その上司の名は伊野雅高。彼の顔はいつにも増して重々しく、弱り果てている焦げ茶の目にはそう見えるのが不思議なまでに膨大なエネルギーが閉じ込められており、何度もその目の照り付けに救われてきたものだった。

「何か悩みでもあるのか、少しツラそうな顔をして」

 完全に見破られていた事に面食らい微動さえ出来ずにいた。無駄に使われた数秒間を見つめながら雅高は特に表情を変えたわけでもないもののどこか顔に宿った色を変えたように感じさせる。そんな雅高の事を分かりやすくあるもののどこか分からない人物と受け取ってしまう久利がいた。

「大丈夫、息子の悩みを聞くことでそういうのはしっかり慣れているんだ」

 成人する頃には、今でこそ成人年齢と言えるが当時は成人ではなかったらしいその時点で息子の世話を始めたという雅高が口にした言葉は軽い調子でありながらも重みを持っている。当然のように覚悟を決めることの出来る姿勢に人生経験の差を見せつけられたような気分を味わいながら久利は口を開き始める。

「少し前に森に行ったんです」

 魔女が住んでいるという噂の森、実在しないと言われていたはずの家はまさかまさか森の中にあったという事を知って驚くとともに遭遇した怪奇現象まで話してしまう。仮に相手が雅高でなければ友人と出掛けた先で遭難したとでも言って終了としただろう。飽くまで想像だったもののありありと浮かび上がっていた。

 ただの一言さえ発する事なく耳で音を取り入れて噛み締めていたのだろう。雅高は何度も頷きしっかりと久利を見つめている。ただどこか腑に落ちないといった顔をしているのは何か理由でもあるのだろうか。

「なるほどな。根本的なところに疑問を見ずにはいられないな」

 姿における自分事は鏡でも無ければ分からないものの呆けた顔を向けているであろう事は容易に想像できた。雅高の疑問とは何だろうか。開かれた口からは久利が想像すらしなかった言葉が飛び出してきた。

「そもそもあの森には昔から普通に魔女の住んでたと言われてる家があるぞ」

 それは公園兼バーベキューを楽しむ場所として開かれたそこを管理していた老婆が住んでいた建物だという。その老婆は建物で待機していた時には常に薬草のような香りを漂わせながらカップに注がれ湯気を立てている何かを飲んでいたのだという。

「昔は確かに魔女の薬か何かと思っていたが」

 周りの噂がそう告げていた。人々の話は連鎖を描いて誤解を真実として広めてしまったようで。雅高もまた例外ではないということを聞いて誰もがそのような失敗をするものだと雅高の今の顔からは想像も付かない事実を思い知らされた。

「魔女だと思っていたのがただの老婆だったと気付かされたのは妻の言葉だった、幼い頃からカモミールティーだと知っていたと言ってな」

 つまるところ当時の性別感に価値観を縛られた男たちでは永遠にたどり着かないかも知れない事実。母や彼女の存在もなく誰も気が付かなかったのだろう。一つ久利の脳裏に質問が湧いてしまった。

「カモミールの香りが分からない、金木犀とか銀杏なら分かるのですけど」

「そう、俺達もそうだったんだ」

 逸れた話題にも意味はあるのだろうか。言い訳を探すように建物に忍び込んだ時のことを思い返し、久利はあの時カモミールと思しき香りなど見当たらなかったことともう一つの質問を見出した。

「そう言えばティラミスが好きなんて噂はありませんでしたか」

 それから雅高は思い出を手探りで掘っているのだろう。宙を仰ぎながら口を閉ざしてしばらく沈黙の巨城を作り上げていたもののやがて再び久利を見つめながら言葉にした。

「確かそういう話は聞いてないな。他の人にも訊ねてみてくれ」

 一人の情報を全てとするのは決して善策ではない。人々の口によって語られることの全作を集めてこそ真実が開かれる。当然のことを当然のように告げる彼だったがどこか異質な格好良さを感じてしまう。久利へと目を向けながらも遠くを見つめるその目は果たしてどこへと向かっているのだろうか。久利は気になったものの疑問は口に出せないまま気まずい空気感に覆われ続けた。

「俺も昔は友だちと肝試しで行っていた、恐ろしいまでに懐かしい話だな」

 きっと彼の年齢が半分近い頃のことだろう。魔女と呼ばれた老婆が森を管理していたのは久利が生まれてどれほどの歳を取るまでの話だろう。必要性を感じさせない思考に囚われては何も言い出す事ができない。懐かしさに浸る上司を前に心情を塗り替える真似などしたくなかった。気が付けばそんな久利を見つめている瞳に宿った考えを見抜くことなど出来ないものの、彼が口を開くことで先程の会話に続きをぶら下げようとしている姿勢だけが見えた。

「いいか、あそこはただの廃墟同然の建物だ」

 つまりもう二度と近寄らないこと。雅高が切り込むような鋭さで勧めるのは法律などの関係での事だろう。妙な噂話を暴こうとするために社会に生じた異物となってしまうことは確かに久利も望まない。

「遭難したのなら警察に言うことだ。もしかするとあの森には大きな野生動物でもいるのかも知れない」

 魔女は見間違えで実際には森に潜む動物だということ。それこそが雅高の見立て。現実的に考えればそうなのだろう。人の骨を見たという話についてもかつて襲った人間の骨を咥えていただけかも知れない。そう考えられない久利が冷静でないというのがこの世界に於ける正しい見解。非現実的な意見を並べる人物など寄り添っているように見えて久利を蹴落としているか悪意すら無きまま共に沈んでしまっているか。いずれにせよ人のためにならない人物であることは間違いなかった。

「今日は仕事を休んでもいいから警察に連絡しなさい」

 至極真っ当なアドバイスを頂いてこの会話は幕を閉じたものの久利が踏み入れた世界は正しさだけで読み解くことの出来るものではないと分かっていた。見間違えようもない程に特異な現象があの日あの時を支配していたのだ。助けに行こうとしても現実的な距離を無視して届かなかったあの感覚や森に蔓延る異様な気配に老婆と思しき骸骨の動きに仲間とともに抱いた恐怖感を忘れることなど出来なかった。

「大丈夫です、警察には既に連絡済みです」

 明らかな嘘は雅高を騙すに至ったのだろうか。特に言及はされなかったものの気が付いているだろう。久利の下手な嘘を見抜くことが出来ないはずがない。それでも黙っているのは如何なる理由があるのか。

「止めることなど出来ないのだな」

 そのような一言で締め括り、雅高は己の仕事と向き合い始める。それに続いて久利も仕事という生存のために必要な出来事を回すべく机と向かい合ってキーボードを叩き始める。

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