2 何もない
暗がりは今日も訪れる。久利の帰宅は無事に訪れて胸を撫で下ろす。隣では本康が異様に騒いでいる。話によれば夕方の飲みは五人で行なわれる。いつも通りのメンバーだろう、退屈に思わず溜め息と欠伸を零してしまう。
「そんなに眠いのかよ」
「仕事して疲れないのか」
もしも疲れを感じていないのであれば余程有能な体力や気力を持つ超人か所々で手抜きや勝手な休憩を挟む人物だろう。などと思考を巡らせて一つの結論に至る。本康の事を日頃から見つめている側の意見としては彼が優秀ではないことなど一目瞭然。つまりは仕事への姿勢が雑なのだということだ。
「そうだったな、仕事と称して遊んでたら疲れは違うだろうな、で、なんでそれで疲れてないのか理解できない」
遊ぶことに関してだけは無尽蔵の体力を誇っているのだろうか。直ぐ側でにやりと怪しい笑みを浮かべる彼の真剣な姿などこれまで十年を大幅に超える関係性の時間の中で一度たりとも見たことがなかった。
各々一度家に帰り飲みに行くための準備を始める。電気を点けたそこに迎えたのは犬のポスター。気に入りの一品は蛍光灯の輝きを受けて舌を出した笑顔を更に輝かせている。そんな犬の顔を見つめながら着替えて仕事に持って行っているものとは別のサコッシュに取り替えて貴重品だけを詰め込む。そうして出来上がった準備、犬の描かれた紙にも大量の光を浴びせた後に電気を消す。そこに映された蓄光の猫は薄緑に煌めいて犬はお休みしたのだと勝手な解釈を抱きながら外へと出て、しばらくの間これから行なわれる飲みの企画者を待ち続ける。待ち続ける時間というものが退屈で仕方がなくてつい苛立ちを露わにしてチャットに罵倒を書き連ねてしまうものの彼は待てだの乞うご期待などと送りつけては待たせ続ける。
「あのアホ」
「誰がアホなのか、教えてもらおうか」
「お前だよお前みたいなカスがなんで生きてるのか不思議だな」
格好つけながら現れた男は阿呆な面を見せつけながら立っている。決まらないポーズに対して捧げるのは暴言と脅迫だけでいい。そんな彼の肩を軽く叩いたその時、大袈裟なうめき声を上げながらしゃがみ込む。苦しそうな顔はあまりにも生々しく面倒な演技は続いていく。本康という人間を知る人物から見るとこの上なく異様な表情でありながら如何にもといった光景。
「急所に入った、このままじゃ死んじまう」
「滅茶苦茶弱くやったんだが、雑魚すぎだろ、てかとっとと死ねよ、このクズが」
「百万くれなきゃ治療できないよ」
「一生やってろ、気色悪い茶番おやじ」
そう、飽くまでも演技。あの程度で蹲る程に弱っている人物などどの程度の年齢だろうか。少なくとも本康の三倍程の人生を生き抜いた人物ではないだろうかと思っていた。
これ以上は意味もないと演技を無視して歩き出そうとするもどこへと向かえばいいのか一切の情報に触れていない事に気が付き本康の首を握り締めるようにつかみ、悲鳴を上げさせながら案内を頼む。
「お前これ以上ふざけたら一生息できなくしてやるからな」
そんな脅しを口にした己にすら驚いてしまう。しかしながら男同士の関わりでは道徳も正義も全てが価値のないもの。友人間において楽しくない正しさなどゴミ程度の値打ちすら付けられない。
「息できなくなったら一緒に水に沈んでやるよ、お前と心中なんて御免だからお前だけ地獄にすらいけないところで永遠に一人ぼっちにしてやるからな」
「キモいこというな、お前一人で首でも吊って消え失せろ、社会の役にも立たないなんて存在してる価値もないだろ」
男は働かなければ存在している価値はない。そういう意味では入社以来一度たりとも全力で労働と向き合っていない本康という男がこの世界に生きている必要などない、なぜそのような姿でのうのうと生きていられるのだろうか。そんな疑問を心に留められずに口にしたその時、本康の聞くだけの価値もない意見が飛び出て来たがために頭をひっぱたいて沈黙を作り上げた。
「男は働け、文句があるなら過労死してから言え」
「死人に口なしじゃなかったっけ」
「じゃあ何も言えないだけだ、俺達は死ぬまで永遠の苦しみと不幸だけを持っていればいい、鬱など甘え、それでも働けるなら働け、ってこの前部下に言ってきた」
「今どき言っていいことか」
「口出し不要、お前みたいなのより働いてるだけ偉い」
口は自信の無さ、確かに自覚はあったものの止まることは出来ない。久利の中は常に暗がり。影が手を伸ばして覆ってしまう。息苦しさを覆い隠すには虚勢の一つでも張らなければ見下されて終わるだけ。プロフィール欄に大した事も書けないままここまで年を取ってしまった男という生き物に手を差し伸べる人物などこの世界のどこを探しても見当たらない。二十代の後半も終了目前と来ればすぐそばに見えてくる明暗の分かれ目、天に昇る想いを味わう人民と地に顔を押し付けられるだけの哀れな怪物、二つの立場は殆どひっくり返ることがない。成功者の経験談など神の規則の手から零れ落ちた偶然の産物に過ぎない。
居酒屋に辿り着いた時には既に三人の人の姿があり。そこで待っているのは揃いも揃って怪物。この社会の中で人権など半分捨てることを強要されし者たち。その内の二人からはいつもの通り、酒の匂いがする。アルコールの気が空気を刺している時点で多少の飲みでは済んでいない事が窺える。彼らの中で弾んでいる会話の端を耳にして思わず顔を顰めてしまっていた。
「最近静岡に旅行に行ってきたんだよ、うなぎとかシラス丼とかサイコー」
「スマホに思いっきり話しかけたよな、沼津まで連れてってとか」
「昔ハマってたアニメの舞台だったな」
意識の低い人間に心底呆れを抱いてしまう。芽生え始めた本音は瞬く間に膨れ上がり軽く抑え込もうとするもすぐさま心の壁をも押してしまい破裂してしまいそう。影から顔を出した思想はついに口を破って溢れ出てしまう。
「一生平社員の分際で旅行なんかしてんじゃねえ、お前らが経験なんか積んでも社会の役に立たないだろ」
四人は顔を引き攣らせながら久利へと目を向ける。それにしては視線の気配の数が多い事に気が付き周囲を見渡した事で通りすがりの人々から引いた感情と冷ややかな視線が注ぎ込まれていることに気が付いた。空気は張り詰めていたものの酔っ払い二人はため息をつきながら学生時代から変化の見られない反応を今日も見せていた。
「いきなり怖いっての」
「最近こいつストレス溜まってるな、本康、今夜はしっかりと慰めてやれよ。いつ使えるか分からないそのテクで」
「いやだな、そんなテクニックとやらは持ってないって、自分専用さ」
一人だけ沈黙を貫き続けている事を悟って目を尖らせる。彼こそは生産性のある人間性をしているだろうかと詰め寄り胸ぐらをつかみ持ち上げて怒鳴り散らすように訊ねた。
「お前こそはマトモな人間してるんだろうな」
しばらく黙り込んだまま鉄を思わせる冷ややかな目を向けるものの久利の熱を冷ます事など叶わない。互いの感情は一歩も譲ることがないと知った男は淡々と口を開いていくだけ。
「マトモだから猛獣に通じる言語は使えない」
「んだと」
「猛獣なりに人の言葉を覚えたようだな」
久利はそのまま男を壁に叩きつけて顔面を殴りつけ、居酒屋へと入っていく。四人の内の酔っ払いの一人に人差し指を向けて鼻で笑いながら言ってのけた。
「旅行なんかする金があるなら今日はお前が奢れ」
「うわあ最悪だ」
周囲で楽しそうに飲んでいた夫婦やカウンターで並んで座っていた男たちが苦々しい顔で久利を目に入れた一瞬、その後すぐさま各々の世界に戻るも凍りついた空気は溶け残っている様子でどこかぎこちないまま。




