Ⅱ 実在
勘定は全て沈黙を貫いていた一人に託して本康は久利を引っ張り出す。感情は今にも破裂してしまいそうにまで膨れ上がり久利の身体を震わせるのが苛立ちか恐怖か区別が付かない。
「取り敢えず森に向かおうぜ、吐きたい」
あの二人はまたしても吐き気を催すほどに飲んだのだろうか、飲んだのだろう。渡されたレシートから残りの三人の飲んだ分を引いては顔を引き攣らせてしまう。ホラーは既にそこにあった。
「飲みすぎだろ流石に」
どのような言葉を放ったところで彼らには傷一つ付かない事を目の前の誇らしげな笑顔から知って苦笑を滲ませてしまう。きっと今の彼らにはどのような言葉も酒の魔力によって想像も付かない方向へと捻じ曲げられてしまうことだろう。
「よく飲んだぜ」
「上からも下からも出てきそうだ」
これ程までに下品な会話は久々に耳にした。本康はやけに明るく笑っているものの黙っている男は今も黙っていた。久利はと問われれば笑っている。冷ややかな笑みという形ではあったものの。
「じゃあ、レッツオカルティックタイム」
酒と元から用意されていた提案という要因が交差し丁寧に編まれた最悪な時間は久利にとってのボイドタイム。何を言ったところで空回りするように、否、編み目に挟まれ身動きが取れないように思えた。
「誰も立ち去ることは許さないぜ」
そうして人の流れとは逆流して森の方へと向かっていく。不幸中の幸いといえば森の公園に遊びに行っていた見知らぬ家族たちがバーベキューをしている時間といった点だろうか。森は多少の広さを誇るとは言え人の分布からして廃墟の噂がもたらす恐怖を紛らわす程度の人は見られるだろう。入り口にある公衆トイレにて各々の排出を済ませた二人が戻って来たことを確認して森へと潜り込む。
森の中を歩きながら人の多さを実感しつつ安心感を抱きながら久利はぽつりと口にする。
「こんな憩いの場でよくあんな怖い噂が立ったな」
「地元のオカルト好きの間では子どもが公園の設備を見間違えたと言われている、夜に家族連れのバーベキューが盛んなのがいい証拠だ」
今まで沈黙を貫いてきた男は怪しい笑みを浮かべながら久利の言葉に返すように語ったそれを耳にして軽い安心感を得た。実際のところ心霊現象や実在しないはずのものなどの殆どはしっかりと確認を取らなかった人々の口から現れる発言に過ぎなかった。
「安心したな、顔に出てるぞ」
「ありがたいことにな」
恐怖に打ちひしがれていた久利にとっては救いの言葉、目の前の男が天からの使いのように見えてしまう程の美しさを誇る希望の手を差し伸べていた。科学という人の知によって積み上げられてきた側面での考え方がこの上なく頼もしい。
更に歩き出し、どれだけでも歩き続け、やがて違和感が訪れ始めた。三十分程度だろうか。それ程までの直進を許すほどに平坦な森を安定させているような場所だっただろうか、それほど歩いていれば山に出るのではないだろうか、家族連れの多いこの土地に張り巡らされた子どもが入り込まないようにと思いやる境界線のロープの姿が一向に見えて来ない。そこで意識が気づきを与える。五人の姿しか見受けられないということ。
「家族みんな帰ったのか」
「いや、一定数はコテージ借りて寝たりしそうだしまだこの辺を彷徨いていてもいいはずだが」
短針が九の文字を指している。睡眠には少し早いだろうか、子どもたちはそろそろ疲れを感じるかと考えたところで首を左右に振る。まだまだ元気を振り回して駆け回っている時間だろう。
「誰もいないな」
「誰もいないのはおかしいだろ」
教育の情報を発信する媒体が子どもたちを九時には眠るようにといった言葉でも蔓延らせたのだろうか、誰一人として結婚生活を歩んできた人物のいない集団では確かめるという発想に至らない。
「それ以前に俺達みたいな親父の集まりはそこで肉焼いてなきゃおかしいだろ」
誰もいないバーベキューセットを指して告げる男に対して本康はケラケラと笑いながらセットされている金網とそこに乗せられたままの食材を指し、つまみ食いを始めた。
「何やってんだ」
「マナーの悪い奴らが残したものをいただいてんだ」
本康に便乗して酔っぱらいの男二人も同じように肉をつまみ、一人が黙り込んで噛み締める中でもう一人はすぐさま飲み込み次の肉へと手を伸ばす。本康も肉をもう一つ口にして感想を口にする。
「まだ焼き立てみたいだ」
「不審だ」
怪しい気配に充ちている中で久利が見回したそこには一軒の闇に閉ざされた家の姿があり。久利の指が示した先に本康は興奮を覚えて身を震わせながらはしゃぎ立てては二人の男をも巻き込む。
「見ろよ、やっぱりあったんだ」
他の二人も舞い上がっている中で冷静な久利ともう一人の男はコテージの姿を思い出しながら目の前に佇む大きな家の存在に震え上がっていた。明らかにコテージとは異なる姿を取るそれに絡みついた蔦が影に覆われた雰囲気を出している。
「旧コテージかな」
「多分そんなものだろ、これが噂の真相か」
そんな言葉をも置き去りにして本康はドアを開いて人々を招き入れる。全員入ったことを確認してはドアを閉じる彼の姿が一瞬ローブを纏った老婆のものに見えてしまうも目を閉じ袖で拭っては気の所為だと気付かされた。
「冒険だ、噂の心霊スポット」
本康の声に合わせるように二人の男が叫び始める。その中に歳を召した女の声が混ざっているのを耳にして久利は震え上がるも隣の男は彼らを睨み付けて気のせいだということで片を付ける。薄暗いコテージの中には大きな机にティーカップと皿とそこに乗せられたティラミスの姿あり。そのどれもが埃一つ被っていない事を確かめつつ置かれた古びた書物の時代錯誤感に頭を悩ませる。
「実はこれ管理人の詰め所とかか」
「あり得るな、だとしたら別の恐怖だ」
侵入者は怒られるだけで済むだろうか。警察に連れ去られる五人とその顔が記事として出回る可能性を考えると今すぐにでもこの建物を後にしたかった。しかしそんな久利の考えなど汲み取ることなく二人の酔っ払いが上の階へと駆け上がり始めた。
「心霊にじゃなくて社会的に殺されそうだ」
「同意」
あの酔いどれには正常な思考など出来ないだろう。悍ましいのは不法侵入罪を犯している自身とその仲間の存在だ。先に上がっていった二人に続いて本康もまた上を目指そうとした途端、酔っぱらいたちが慌てて駆け下りてくる。見開かれた目と焦点の合わない瞳、震える指が示す方に待ち構えている光景とは如何なるものだろう。
「どうした」
「ひ、人」
「見てくるか、管理人なら謝ろうぜ」
そうして向かう本康だったもののすぐさま後ろを振り返る。その顔はいつの間に噴き出したのか分からない冷や汗で満潮を迎えていた。口を震わせ慌てた様子で伝える。
「見ちゃダメだ」
その言葉に遅れて現れた布の切れ端は地面に引き摺られ、暗闇の中で微かに差し込む人工的な明かりによって腰の曲がった老婆の姿を捉える。ついでに余計なものを映し出した明かりに恐怖という感情を植え付けられた。微かな範囲、想像のままであれば皺だらけの指が見えたはずのそこに暗がりに覆われはっきりとは見えない視界に骨の姿が入り込んでいたのだから。
気が付いた久利は振り返ってドアを開こうとするも何度ドアノブを捻ったところで開く気配がせず、鍵に触れるも錆びついているのか動く気配すら見せない。入る時に本康の姿が老婆に見えたことを思い出し、心地悪い感覚が背筋を撫でる。
「なんだよ」
苛立ちは灯りを差し込む窓に向けられそのまま行動に移す。地面と形容したい程の汚れに覆われた床に落ちている箒を拾い上げて窓へと駆ける。外の景色を見ることも叶わないガラス、所々に煌めきの如き模様の入った貴重な過去の技術で作り上げられた型板ガラスに勢いよく柄をぶつけ、何度か繰り返し、ヒビを入れる。更にもう一突きしている間にも老婆は酔いどれの一人を捕らえて包み込み、笑い声を上げる。それとともに悲鳴が上がるも一秒と持たずに消失する。
窓を割ることに成功した事を確かめるまでもなく身を乗り出し外へと出る。続くように出てくる三人を目にしながら駆け始めた。




