5 知らない
今日も何一つ変わらないまま終わってしまった。明日も同じように過ごしてしまうのだろう。明後日もそうなのだろう。結局のところ一人の力はこの会社一つ動かす程度の大きさすら持っていないということ。
「クソが」
つい口にしてしまう。家に帰っても殆ど何もない生活、日差しに焼かれて黄ばんでしまった壁に長方形の純白を見て殴りつける。かつてそこにあった過去、気に入りだと言っていた犬のポスターの痕跡に向けて尖った視線を向ける。
「あの時間は無駄だった、全部全部何もかも要らないものだった」
憎むべきものは意識を変えることの出来ない他人ではなく過去の自分。他者が何一つ仕事への意識を変えないのは己の仕事に対する熱量を上げ始めてから日が浅いからだろう。
「あいつらも受け入れろよ」
分かっていても合わせるよう責め立てずにはいられない。何一つ上手く行かない人生、行動のすべてが過ちだった事が存在するのだと知った今という時間がこれほどまでに虚しいものなのかと思い知らされ何一つ言葉を紡ぎ出すことが出来ない。スマホにチャットの通知が入るものの振り向くことなど出来ない。会社の上司とは連絡先を交換していない。つまりは本康か或いは他の友だちといったところだろう。
「意識の低いやつら」
夕飯をいただくべく下りて容易く掻き込んで終わりとする。この程度の質であれば味わうまでもない。今までの考え方全てが、今まで生活を共にしてきた友人の発言から存在までの何もかもが稚拙な遊戯に思えて仕方がない。所詮は自分自身も同じだと悟り歯を食いしばる。何を思ったところで結びつく先は苛立ち一つ。結局のところ生きる事そのものが不満の塊となってしまうだけ。今のままではいられない、しかしながらどのように変わればいいのか分からない。幼稚な迷いは思春期以来のものだろう。久々に顔を合わせたやるせない感情と向かい合って何一つ行動を取れずに再び部屋に戻り壁を殴り付けるだけだった。
魔女の噂話を知っているだろうか。男はかつて四人の友人とともに足を運んだ場所に向かっていた。あまりにも息苦しい暗闇。湿気が蔓延り始めるこの季節に心地の悪い想いを抱いてしまうもどうしようもない。会社で異様な噂を耳にして異常を探るも何一つ手がかりを掴むことが出来ずにいた。
「ドッペルゲンガーってなんだろうな、久利なら知ってるか」
過去を整理している際の破片が呟きとなって零れ落ちてしまうも同時に先日の飲み会での久利の言葉を思い返して彼には頼ることが出来ない事も分かっていた。もはや別人となってしまった男はその熱意を仕事に向けるよう説教を放り込んでくるだけの存在と成り果ててしまっていた。
「あいつ、なんで急に変わり果てたんだ」
三十代に突入して歳を少しだけ重ねた彼には何も得られなかったという現実が虚しいのだろうか。同じだけの年数を歩んできて同じように得られたものなど何一つないはずの男の心には同じような空虚など同居しない。
そうして辿り着いた建物は相変わらず朽ち果てた身体を見せていて原因ではないにも拘らず罪悪感を抱いてしまう。壊れていた南京錠は今日もそのまま壊れておりただ提げられて風を受けては揺らめくだけ。懐中電灯の細い輝きは夜の闇を引き裂いて錠の姿を映し出したもので男に映し出した罪悪感を強めてしまう。しかしながら進むしかないと言った考えに取り憑かれたこの男は指先で静かに錠を外して優しい手付きでドアを開いて中へと入る。忍び足は情けなく見えてしまうもののやむを得ないだろうか。
「何でもいい、手がかりがあればいいけど」
確信が持てない。不気味な噂の発生タイミングから連想してしまったものの実際には関係ないかも知れない。ただ、魔女の噂について突然人柄が変わったなどという話もあり、やはり意識せざるを得ない。
「あいつはまた別だろうけど」
久利の変化も同じだろうかと一瞬だけ思考の中に浮かんでしまうも彼が変わったのは森に入る前。肝試しを止めようとしている節すら見られて驚くばかり。仮に魔女の噂が本当であれば寧ろ歓迎するはず。
「年齢で凶暴化するのって恐ろしいな」
魔女と呼ばれた管理人が使っていたのだろう、一冊のノートが恐らく昔と変わらない姿でテーブルに置かれているのを目にして違和感を覚える。この建物は地域の小学生や廃墟好き、果てには良い歳して肝試しなどと言っている人物による問答無用の忍び込みによって多少荒らされているはず。だとすれば戦後に作られた安物のノートなどとうに朽ち果てていてもおかしくはないだろう。考えがそこまで至ってもなお動くことをやめられないという不思議に囚われる。伸ばした手はそのままノートをめくり、魔女の行動に目を通す。ここに忍び込む誰もが想像していたような魔術の儀式や迷信に囚われた姿などは一切見られず、噂の出どころはなどと別の方向へと好奇心が手を伸ばしてしまうも堪えてノートをめくり続ける。特に変革を迎えることもなく遂に空白のページにまで到達してしまい思わず溜め息をついてしまった。
「流石に変なところは見当たらなかったか」
感想や楽しみなことが幾つか記されている辺り日記ではあるのだろう。しかしながら代わり映えのしない日々と仕事が主役の生活から業務日誌と大きく変わりがない。落胆を残しつつパラパラと真っ更なページをめくっていた男だったものの突如文字の存在を認めてその手を止める。これほどの空白の理由に疑問符を浮かべながらも未確認のページの始点に戻り文字に目を通し始める。
「不思議なことが起きている」
その出だしから笠音が見ていた夢の話が始まった。日頃から笠音が取っている行動とは別のもの、それも笠音の性格からは大きく離れた事をする笠音の姿が見られたという。金槌と釘を手にして森の中を彷徨いある動物を見つけては年齢からは考えられないほどに俊敏な動きと器用に動く指を使い打ち付けていたとのことで初めは起き上がりの瞬間に震えながら辺りを見回していたと記されている。
「どのような動物を襲っていたのだろう、見たはずなのになぜだか分からない。正体は知らないが知らなければならない気がする」
その悪夢の世界は時々とでも呼べば良いのだろうかといった頻度で繰り広げられてその度に目を凝らして神経を研ぎ澄ましながら探っていたもののその正体にはたどり着けない。脳が拒んでいるのか理解の外にあるのか、素直に頭の中に正体が入って来ないのだ。そんな悪夢と現実を目に焼き付け続ける中で笠音はある日、大きな違和感を抱いてしまった。現実の景色が二つ重なり合って見えるようになったのだという。
「初めは目の病気を疑った。もういい歳で死に損ないの日々を送るだけだから」
男も同じ立場であれば同じ想像を巡らせ病院へと向かっただろう。笠音も例に漏れず病院へと足を運んだのだという。しかしながら異変は見られずいつまでも自身に起きている症状を説明していると厄介払いをするように目薬を処方されたのだという。やがて悪夢を見る事もなくなり現実が重なり合って見える事もなくなった。安心を抱いたと記されていたものの次のページをめくった途端、男は目を疑った。
「私は何ということをしてしまったのだろう、もしかして二重人格ではないだろうか」
乱雑な字で記されたそれは正気を感じさせず、気圧された男は即座にノートを閉じる。しかしながら残り続ける違和感があり、一呼吸置いてそれが自身の外側、景色の方にあるのだと気付かされて辺りを見回すと壁には釘を打ち付けられた人々が貼り付けられていた。白目をむいている人々が心理にこの上ない負担をかけてくる現状。流れる血はその鮮度が今まさに起こったことだと主張するも有り得ない話。
男が一歩後退る時、まるでタイミングを合わせたようにドアが開く。暗闇が展開される中、堂々と歩み寄ってくるのは果たして誰だろう。懐中電灯を向けたそこに映された顔は毎日鏡で見ている顔によく似ており驚きの叫びとともにその生命を散らしてしまった。




