1 変貌
両腕を振り下ろし机を叩く男がいた。座っている男と向き合うように立って愉快そのものの表情を見せながら楽しそうに机を叩き、言葉を放つこの男はいつも通りの耳障りな音のパレード。
「最近いいことないんだよなあ聞いてるか、いいことがないんだ」
「って言う割に楽しそうにしてるな、本康は」
きっとどのような言葉を投じても変わることはないだろう。本康という男は既に完成されている。会社勤め三年目、それ程までの時を経てもこの性格であれば次に変わる機会といえば精神の経年劣化を待つ他ないだろう。
「楽しいことなんか何もないからお前をいじって楽しむんだ」
「脳内花畑か」
本康には態度の裏表などないのだろうか、喜びの輝きで充ちたその態度に呆れを抱いてしまう。ただ喚き散らしているようにも見える彼に対して周囲の視線が尖って刺さり、座って話を聞いているだけの男にまで痛みを与えてしまう。
「楽しいことが何もないんだから仕方ないだろ、久利」
楽しいことがないのは座っている男、久利の方だった。高校生活の中で送り続けた灰色の日々は卒業後も特に変わることなく。今の楽しみといえば友人たちとたまに飲みに行くことがあるだけだろうか。あまりの虚しさに本康は初めて聞いた時には鼻で笑っていた。
「昔の芸人のネタを久々に聞いた時みたいにつまらない男だぜ、高校時代から」
恐らく彼は成長した後にまで笑いどころを残すネタを理解するに至らなかったのだろう。多少の成長で止まってしまった男の末路を今この場で目に入れていた。彼がこの会社で唯一の同級生という事実がこの上なく不名誉なものに感じられて仕方がなかったものの口に出すことはない。
「つまらないなりに面白いことしようぜ」
彼の言う面白いこととは何だろう、嫌な予感しかしなかったものの逆らったところで無駄だということは分かっていた。彼は必死にスマホを弄りながら尖った笑顔を浮かべる。彼の笑顔のバリエーションは如何ほどだろう。軽く気になってしまう。
「取り敢えず返信待ち、久利は絶対来いよ、暇だろ。分かってるんだぜ」
同じ会社で帰りも同じ方向。探るまでもなく把握されてしまうのは必然なのだろうか。スマホの震えに背筋を伸ばす本康の目を細める表情に軽い嫌悪感を覚えつつも彼からの言葉を待つのみ。
「明日飲みだ、みんな行けるってよ」
急に入って来たはずの予定であるにも拘らず全員が出席という事実に驚きを隠せない。誰もが働く暇人ということだろう。学校に通っていた頃には二十代の後半から三十代にも差し掛かれば周りの席の三分の二程度は誰かと結婚して家庭を築き上げているなどと胸を張って告げる教師がいたものだがどうやら身の回りは全員が三分の一に収まったらしい、教師の言葉を真に受けるならという根拠の乏しい条件付きだが。
「そうか、じゃあ行かないわけにもいかないか」
重い腰を上げるように告げた言葉に本康はただ笑いながら頷きスマホに触れる指を忙しなく動かし送信完了の証拠となるチャットの画面を見せつけ浮かべていただけの笑みを歪めてみせる。
「あと飲み終えた後にフルにハイになれるエキサイティングでブリリアントなイベントが待ってるから楽しみにな」
「会議の時の横文字オジサン並みに訳分からなくなってるぞ」
あと十年もすればその年齢に追いついてしまうという事実に打ちひしがれてしまう。青春時代を駆け抜けていた頃に見ていた十年後は遠くあり、希望に満ち溢れていたように思えたが今となっては十年後という言葉が直ぐ側にありながら過去に見ていたものよりも重々しく感じられてしまう。あの頃の自分がより愚かに見えて思わず目をそらしていた。
「いやあ、たまには息抜きは必要だからな」
「お前は人生そのものが息抜きだろ」
そんな反撃に彼は笑顔を浮かべてそんなことないよと答えてみせる。分かっていたものの真剣なふりをして答えて。ほんの冗談のつもり、それを積もらせたような男たちの会話がそこにあった。
「お前ら仕事しろ、特にそこのは何度目だ」
「はいはいすみません次から」
「聞き飽きたぞ」
突然横から加えられた言葉に久利は目を伏し本康を薄っすらとした感情で睨み付ける。対して二つの怒りを受け取ったこの男は深い笑みを浮かべて誤魔化すだけ。恐らく彼には反省という言葉を学ぶ機会もなければそんな言葉を取り入れる能がないのだろう。なんとも羨ましい限りだと内心毒づいている久利の方へと上司の言葉は移された。
「全く、仲間に足を引っ張られて存分に力を発揮できないなんてな」
「今の仕事には手も足も出ませんよ」
「そりゃあこいつに足引っ張られてるからな、出るものも出ないだろ」
果たしてその通りだろうか、久利の中では疑問が渦を巻き今か今かとはしゃぎ立てる曇り空の感情が芽生えていた。今は本康が原因だと言われているものの実際には久利本人の実力ではないだろうか。仮に彼がいなくなったとして初めの方は評価され、手厚い指導を改めて受けることが出来るだろう。しかしながらそれも儚き一瞬の世界。二週間も三週間も過去へと変えてしまった後には久利の無能が露見してしまうだろう。そうなれば次は久利の人生に逆風が吹いてしまう。苦しみへの追い風に幾つもの風が折り重ねられて苦しみだけが支配する世界が訪れてしまうかも知れない。ただの可能性がこの上なく恐ろしかった。その手は震え、しかしながら本康を盾として握る手を離すことが出来なかった。
「まあ、お前も高校の時からの同級生とかなんとかで見捨てられないんだろう、優しいやつだ」
上司が握った誤解はあまりにも深く、説明したところで解くこと叶わず。試すまでもない、試す旨味がない。万一成功してしまえばどのような言葉が待っているのか。結局のところ久利という男はこの上なく臆病なだけの小者だった。
それから程なくして昼の休憩が訪れる。鞄から取り出したものは二人揃ってカップうどん。栄養のバランスなどと告げる親というものは幻想でしかなく、二人ともに沢山食べて大きくなるように言われて育ってきた、その成果が三食カップ麺生活。
「高校で知り合ったけど実際は小学とかで知り合ってもおかしくなかったんだよな」
アパートの建ち並ぶ街の中で本康の家はわずか三軒隣の一軒家。そんな近所の男の存在を知らなかった久利は己の生活を省みながら適切な言葉を探していた。見つからないまま時は一刻、また一刻と刻まれる。針の動きが時の消費を訴えている。
「小学生の頃なんかずっとファンタジー小説とか読んでたからな」
「なんとかクエストとかヴァンパイアのやつとかか、あれアニメとか漫画で知ったんだよな、面白いよな」
「神話のキャラが出るのも面白いぞ」
「それ毎回言われてるけど漫画になってないから読めなくて残念だ」
そうしてこの話題は毎度同じ流れを辿っていく。今からでも遅くないから小説を読むようにと勧めるものの本康は首を左右に振りただ己の世界を中心に添えて語り続けるのみ。
「モンスターを狩るゲーム楽しかったよな」
「デカいモンスターじゃなくて仕事を狩ろうな」
「仕事で過労なんてごめんだ、遊びだけで過労になろうぜ」
冗談を本気のように口にする彼、心は冗談でも実際に仕事はそれなり程度と呼ぶことすら憚られる出来であり、人生の楽しみは仕事になどないと言っているように感じられてしまう。仕事が楽しくなれる瞬間というものを知らないのだ。嘘でも気分を高揚させることが出来なければ長続きはしない、哀れだと思いその場で本康との会話は終わりを告げた。




