第二話 地面の味
落ちた、というより叩きつけられた。
空気が肺から強制的に押し出され、真人の体は泥と草の上を転がった。
喉から漏れた音は悲鳴ですらなく、壊れた笛のような、みっともない呼吸音だった。
「……は……っ」
空気が薄い。
いや、薄いのは自分の身体か。
全身が重い。
手足が、自分のものではないようにぎこちない。
視界に映るのは、見渡す限りの草原。
遠くに森、見知らぬ空。
(……異世界)
実感はなかった。
ただ、冷たい風が頬を撫でる。
その冷たさだけが現実だった。
ゆっくりと体を起こす。
その動作だけで、息が切れる。
弱い。
日本にいたときより、明らかに弱い。
そのとき、視界に文字が浮かぶ。
【ロキの試練】
・恐怖から逃げるな
・嘘をつくな
「……」
反射的に、周囲を見回す。
誰もいない。
だが、静かすぎる。
草の擦れる音が、やけに大きく聞こえる。
ガサリ。
真人の心臓が止まりかける。
丘の向こうから、影が現れた。
小柄、緑色、手に棍棒。
「……うわ」
声が出ない。
ゴブリン
ゲームの中で、最初に倒す雑魚。
経験値であり、チュートリアル。
だが今、目の前にいるそれは、生きている。
目が濁っている。
牙がむき出しだ。
よだれを垂らしている。
(無理)
即座に思う、勝てない絶対に。
ゴブリンがこちらに気づく。
目が合う。
その瞬間、全身が凍る。
「グギャ」
走ってくる。
真人の足は、動かなかった。
逃げろ、と頭は叫ぶ。
だが、体が固まる。
棍棒が振り上げられる。
「っ――」
衝撃がした
腕に直撃していた
鈍い音がして激痛が走った。
「ぁ……」
地面に転がる。
痛い
痛い
痛い
骨が折れたかもしれない。
ゴブリンが笑う。
自分より小さいはずの存在が、圧倒的に“強い”。
情けない。
(俺、また何もできないのかよ)
棍棒が再び振り上げられる。
そのとき、視界に文字が増える。
【背を向けるな】
(ふざけんな)
逃げたいし泣きたいし土下座したい。
「や、やめ……」
言いかけて、頭の奥に痛みが走る。
ズキン
【命乞いをするな】
「っ……!」
言葉を飲み込む。
ゴブリンの棍棒が、今度は肩に落ちる。
視界が白く弾ける。
「ぐっ……!」
涙が勝手に出る。
もう嫌だ。
(死ぬ)
確信する。
ゴブリンが近づく。
足で蹴られる。
呼吸が乱れる。
土の味が口に広がる。
(ここまでか)
異世界に来て、五分も経っていない。
更生?
試練?
笑わせるな。
自分は何も変わっていない、弱いままだ。
そのとき、ゴブリンが何かに気づいたように森の方を見る。
一瞬だけ、注意が逸れる。
真人は動かない。
いや動けないのだ。
だが、ゴブリンは苛立ったように舌打ちし、森の方へと走っていった。
置き去り
静寂
真人はしばらく、地面に伏せたままだった。
助かったわけではない。
見逃された。
それだけだ。
視界に文字が浮かぶ。
【恐怖から逃げるな:未達成】
【背を向けるな:未達成】
【命乞いをするな:未達成】
「……は」
乾いた笑いが漏れる。
何も達成していない。
ただ殴られて、倒れて、見逃された。
ロキの声が響く。
『期待外れだな』
「……うるせえ」
『死ぬか?』
真人は、空を見上げる。
青い
こんなに綺麗なのに。
自分は泥まみれだ。
腕が震える。
立てない。
(やっぱり無理だ)
異世界でも同じだ。
強くなれない。
守れない。
何もできない。
視界が滲む。
そのとき、最後に文字が浮かぶ。
【嘘をつくな】
真人は目を閉じる。
心の奥で、声がする。
(本当は、怖かっただけだろ)
(戦う勇気なんて、最初からなかっただろ)
涙が頬を伝う。
「……怖いよ」
それは誰に向けた言葉でもない。
だが、文字が一つだけ変わる。
【嘘をつくな:進行中】
ロキが、くつくつと笑う。
『ようやく本音か』
真人は、地面に伏せたまま、動けなかった。
空は広い。
だが世界は残酷だ。
そして自分は、何もできない。
ただその事だけがわかった。




