第2話 となりのロエル
ロエルが皇女ラミアの私室にお邪魔。思わず頭を撫でちゃったら、ルードは大激怒、キドは胃が痛い!
笑いとドキドキが入り混じる、公爵家の日常回です。
公爵家に設けられた、皇女の自室。
その扉が、控えめにノックされた。
女官が慌てて扉を開く。
「はい……?」
そこに立っていたのは、ロエルだった。
「ロ、ロエル様……!?」
女官の声が裏返る。
「ここは皇女殿下の私室でございます……!」
焦りを隠せない女官の背後から、柔らかな声がした。
「どうかしましたか?」
現れたラミアは、不思議そうに小首を傾げている。
穏やかな微笑みを浮かべたまま、ロエルを見つめた。
「まぁ、ロエル様。どうかされました?」
ロエルは軽く一礼し、にこやかに答える。
「いえ。先ほど“親しくしたい”とおっしゃっていただいたので……お言葉に甘えてしまいました」
ラミアは一瞬きょとんとしたあと、はっとしたように微笑んだ。
「まぁ……お気を遣わせてしまいましたね」
少し申し訳なさそうに目を伏せ、すぐに顔を上げる。
「ですが、よろしければお入りください」
「殿下……!」
女官が思わず声を上げるが、ラミアは気にした様子もなく頷いた。
部屋は広く、寝室の手前には応接の空間が設けられている。
ロエルはそこへ通された。
「何をなさっていたのですか?」
ロエルの視線が、テーブルの上へ向かう。
広げられた布。そのいくつかには、繊細な刺繍が施されていた。
「騎士の方々に、ハンカチをと思いまして」
ラミアは微笑みながら答える。
「最近、暑くなってきましたでしょう?」
「騎士に……ハンカチ、ですか」
「ええ。ハンカチでしたら、ご迷惑ではないかと思いまして……」
ロエルは、ふと笑みを忘れた。
じっと、ラミアを見つめる。
――なるほど。
(無自覚、か)
「……見ていてもいいですか?」
すぐに柔らかな笑顔を貼り付け、そう尋ねる。
「ええ」
ラミアは嬉しそうに頷いた。
「ロエル様が退屈でなければ」
ラミアは椅子に腰掛け、静かに刺繍を再開する。
ロエルはその隣に座り、足を開いて片足に肘を乗せ、頬杖をついた。
「……なるほどね」
誰に聞かせるでもなく、無表情で呟く。
「どうかされました?」
ラミアが不思議そうに顔を上げる。
「いや、何でもないよ」
ロエルは慌てたように笑い、
「きっと騎士たちは喜びますね」
「そう思います?」
ラミアは目を輝かせ、身体ごとロエルの方へ向いた。
「そうだと、嬉しいです」
満面の笑み。
その瞬間、ロエルの目が細められた。
何かを確かめるように、そっと手を伸ばし――
その場の空気が、ほんの一瞬だけ凍った。
ラミアの頭を、撫で始める。
「……!」
女官たちは息を呑み、固まった。
止めるべきだと分かっている。
だが相手はロエルだ。高位貴族。
誰一人、声を出せない。
「ロエル様……?」
ラミアが少し戸惑ったように見上げる。
「俺はね」
ロエルは満面の笑みで言った。
「そのままで、いいと思う」
女官たちは完全に青ざめ、視線を交わし、ただオロオロするしかない。
その中心で、ロエルは何事もないかのように、
楽しげに、ラミアの頭を撫で続けていた。
――この部屋で、一番平常心を保っているのは、皇女本人だった。
⸻
公爵家 回廊
その情報が執務室に届いたのは、ほんの数刻後だった。
「――で?」
低く、腹の底から絞り出すような声。
ルードは机に両手をつき、前のめりになっていた。
こめかみが、ぴくりと引きつる。
報告役の使用人は、すでに半泣きだ。
「ロ、ロエル様が……皇女殿下の私室に……その……長時間……」
「長・時・間?」
一語一語、噛み砕くように繰り返す。
その隣で、キドは顔色を失い、胃のあたりを押さえていた。
すでに痛い。確実に痛い。
「な、撫でていた、と……女官が……」
――ガタン。
椅子が派手な音を立てて倒れる。
「ロエルゥゥゥ!!」
回廊に、怒号が響き渡った。
⸻
応接室
当の本人はというと。
ロエルはソファにだらしなく腰掛け、茶を飲んでいた。
足を組み、余裕の笑み。
「お、どうした? そんな怖い顔して」
次の瞬間。
「どうしたじゃない!!」
ルードが襟元を掴みにかかる。
「お前、何を考えてる!
皇女殿下の私室だぞ!?
撫でた!? 頭を!?
正気か!!」
「痛い痛い」
ロエルは軽く手を振る。
「撫でただけだろ。噛みついたわけじゃない」
「そういう問題じゃない!!」
キドはすでに壁に手をつき、息も絶え絶えだ。
「ろ、ロエル様……!
お願いですから……これ以上、胃に爆弾を投げ込まないでください……!」
「大げさだなぁ」
ロエルはくすくす笑いながら立ち上がる。
「別に、悪意があったわけじゃない。
あの子、ああいう距離感で生きてきたんだろ?」
ルードが、ぴたりと止まる。
ロエルの目が、ほんの一瞬だけ冗談を脱いだ。
観察するような、冷たい目。
「……誰も教えなかったんだ。
“この世界は安全じゃない”って」
その沈黙に、キドの胃がさらに縮む。
だが次の瞬間。
「あ、でも安心しろよ?」
ロエルは急に、いつもの飄々とした笑みに戻った。
「俺、損にならないことしかしない主義だから」
「信用できるか!!」
「ひどいなぁ」
ロエルは肩をすくめ、出口へ向かう。
「それにさ」
扉の前で振り返り、にやっと笑う。
「撫でただけでこの騒ぎなら、
これ以上したら――」
「するな!!」
ルードとキドの声が、完璧に重なった。
ロエルは声を上げて笑った。
「冗談冗談。
……たぶんね」
その背中を見送りながら、
ルードはこめかみを押さえ、
キドはその場にしゃがみ込んだ。
その背中を見送りながら。
ルードはこめかみを押さえ、
キドはその場にしゃがみ込んだ。
「……胃薬……」
公爵城の平和は、
皇女一人で簡単に揺らぐことを、
この日、全員が思い知ったのだった。
皇女の無垢な行動は、ルードの真面目さとキドの胃腸を試す。
ロエルは飄々と笑うだけで、城の秩序は微妙に崩れる。
でも、本人はもちろん無自覚。
この先も、平和(?)な日常劇は続く――次は誰の心臓が危険に晒されるのか、乞うご期待。




