二
僕はいつも刺激の中から満足感を得ていた。今であっても、有益な情報を得られる源は刺激の中にあるのだと信じている。由縁としては、十年以上前にもなる中学生時代が関係しているのではないか、と確信を持って自己分析している。
小学生の頃の僕は、他から抜きん出て性格が明るく、また元気の有り余る、ちょっと配慮の足りない言動が絶えない少年だった。
いや、堪えないと云うべきか。
ちょっとぶっ飛んでいたのだ。
子供であったのだから仕方がないが、いき過ぎている部分も否めず、深く物事を考えず突発的に行動しては周りに迷惑をかけることも多かった。
故意的にではないが他人様の所有物を破壊してしまったり、自身の言動を省みず人の心を傷つけてしまったりと、今となれば恥ずべきことであると認められるのだが、本当にやりたい放題だった。
けれども、反省せず。
だから、両親は心配していた。
けれども、意に介さず。
小学六年生のクラス担任である先生もまた、中学進学に際して懸念あり、と頭を悩ませた。
けれども、僕は理解もできず。思考能力が成長していなかったのかもしれない。もしくは、特別な存在だとでも思い込んでいたのか。
なんだかんだで、それを個性として受け止めてくれる友人も多くいた。きっと、悩みなんか何一つ無くて、楽しければ良かったのだろう。試練なんて概念をまるで知らなかったし、体験もして来なかった。
所謂、過保護だったのかもしれない。
問題児であろうと、なんだかんだ両親や兄は当然、祖父母に親戚までもが会えば、可愛い可愛いと僕を甘やかすのだからそれは調子にも乗るだろう。
元々、馬鹿なのだから。勇猛果敢で恐れ知らず。少年漫画の主人公のようになれるとでも思っていたのだ。
それが中学に進学すれば世界は一変した。環境がまるで違った。田舎の小さな中学校であれども複数の地域から集まれば、同年代の新年生は三倍以上に膨れ上がる。そんな中で、僕は自身の無能力さ、存在の矮小さ、もっと俗的に言うならば雑魚っぽさを痛いほど身に染みてしまったのだ。
同じ年齢で、同じような環境で育ってきたにも関わらず、身体が大きく身体能力が長けている人間もいれば、初対面なのに入学早々数多くの友人関係を構築していく人もいた。
容姿が良くて異性を惹き付ける者、何かしらの習い事で既に実績を残している者、勉学を得意とし先生に褒め称えられる者、僕からすれば他の皆が眩しく見えてしまった。何故ならば、自分は何も持っていなかったからだ。今、大人になってから振り返れば、単純に思春期とはそんなものだろうと、苦笑いながらも受け止めることが出来る。もっとも当時の僕は、小学生時代の反動からか、あまりにも深い劣等感なる穴に、無様にも突き落とされてしまったのだった。大袈裟とも云えるが、揺るがぬ事実だ。
似たような境遇の友人だって、各々の将来的観測から見据えて積極的に動き出した。自身の可能性を信じて。家族、学校、クラスメイト、はたまたは好きな異性に認められたいがために、能力を伸ばそうと努力に励む。些細ではあれど、その程度のきっかけや気概があれば、勢いを持って容易に発進できる。そんなエネルギーが有り余る年齢だ。ただ、傷付き易い。
僕も倣った。人の真似をしてみた。将来の夢や、趣味、スポーツ、学習塾、等々と親に相談してあらゆるものに手を伸ばし、特技を発掘しようと躍起になったたのだ。剣道、陸上、水泳、ソロバン、ピアノ、他にも様々な分野に手を出したが残念なことに全て長続きしなかった。
理由は明白だ。飽きっぽく、失敗や敗北の原因になった分析能力も無く、挫折に対する反発力も弱く、直ぐに才能が無いと見切りを付け、簡単に諦め、また決定的な原因として安易に満足感を得られるゲームに夢中になった。
そうなると、大勢の群れの中で自身の立ち位置を保つ観念は、必然と下り坂を転がり落ちる。学校の授業全般科目は成績が悪くなり、ゆえに自信を失い、連なり声は小さくなり、そうなると授業などで人前での発表を余儀なくされる事態になると緊張して口すら開けなくなった。
学年が上がると、自分を蝕む闇は更に増していく。兄は有名進学高への入学を成功させ、両親から期待を寄せられる。一方の僕は、心配されるまま塾を増やされ、家庭教師をつけられと、金銭的にも体力的にも家族に迷惑をかけっぱなしだった。
罪悪感までも重なっていったのだ。
僕は高校へと進学が出来るのか。そんな絶望的な不安が情けない自分を支配し、死にたいとさえ思った夜があったくらいだ。
周りにいたまともな友人らは離れていく。代わりに近づいて来るのは、優位を示したい悪意あるクラスメイトばかりで、学校へ行くと常に侮蔑を込めた暴言を吐かれた。
僕にだけ才能が無い。
そんな慟哭が僕を覆い尽くす。
臆病な上に、確固たる自信が無いために。だから努力を積み重ねるなどという概念を捨て、ただ簡単に成長を数値化して欲望を満たしてくれるゲームに走ったのだ。映画や漫画も、自己投影という甘美な刺激を与えてくれる。
一瞬だけでいい。快楽に逃げたい。
それだけで、救われた。
エンターテイメントを悪だと言っている訳ではない。僕が自己逃避の手段に利用したというだけだ。のちにどうにか工業高校に進学し、三流ではあるが大学にまでも入れたのは単に、周りから助けられ続けたからだ。僕はダメダメ星人なのだ。それでも肝心の就職だけは、自分の力で成し遂げたし、大学時代には女性とお付き合いさせてもらう廻り合わせもあった。まあ、なんだかんだとあって県外へ就職する前にはあっさり別れたけれど。
それも恋愛感情という崇高な気持ちを抱いていたわけではなく、単に刺激を求めていただけなのかもしれないなんて、失礼なことを考えてしまう。
そんな事由も含めた結果、年齢を重ねるに連れて過去の踏襲に囚われることのない成長を遂げれたのだと、自負している。忌むべき過去。トラウマが残る中学時代の一年生か二年生か、記憶は漠だが、確かに『くまざわちより』という女生徒が同じクラスに在籍したはずだ。
基本的に、異性に対しても自信が皆無であったはずなので、会話をした女の子も僅かでありながら、何故この『くまざわちより』を覚えているかというと理由は単純、高確率で席が近くだったから。
席替えをしてもどうしてか不思議と、僕の四方に隣接していて、振り返ればいたし、振り返れられることもあった。あと要因を挙げるならもう一つ。授業の間となる隙間時間を利用して『くまざわちより』を前に、似顔絵を描いた記憶がある。どうしてそのような行為をしていたのか、今となってはさだかではないが、とにかく一度や二度ではなかったはずだ。
特に恋心を抱いていたわけでもない。彼女の要望により描いた。ノートの端に鉛筆で小さく。それを彼女は笑顔で所望した。何が発端となり始まったのか、繰り返すがもう覚えていない。
そうであるのに、今『くまざわちより』本人を前にした際に思い出した。いつも顔が赤い人だった。本人は赤面症だと言っていた。それは僕が要望を受けて、真剣に描いている最中の会話だった気がする。そんな『くまざわちより』は、僕の上手くもない似顔絵を見て、いつも笑顔でこう言っていた。気がする。
目を綺麗に描いてくれてありがとう、と褒めてくれた。人から褒められ、僕はとても嬉しかった。いつからか、やめてしまった。
ああ、思い出した。彼女の友人である女生徒に「なにそれ、下手くそ。全然、可愛く描けてない」と鼻でせせら笑われたからかな。
まあ、そんなものだろう。自分でも認める。下手くそだった。でもその特徴的な目の形だけは、丹念に描いていたはずだ。三重瞼の下にあるすだれ睫毛が、感情味薄い瞳と交差する。
だから、十年以上経過した今になっても彼女を『くまざわちより』と特定できたのではないだろうか。記憶も曖昧であったのに反射的に名前が口から滑り出るとは、自分でも信じられなかった。
そういえば。
どうして『くまざわちより』はここにいるのだろうか。そんな疑念は直ぐに融解されることになる。