第三話
ラウカンが現れた瞬間、空気が変わった。
それは“出現”というより、“歪曲”だった。
空間がねじれ、枝葉が爆ぜ、重力がひしゃげたような感覚──。
「ッ、三時方向、接敵!」
キキョウの叫びと同時に、黒い何かが跳ねるように現れた。
脊椎が露出した背。四肢は細長く、だが弾丸のように速い。
顔というにはあまりにも酷いその“部位”には、三つの目が縦に並び、どれも感情というものを持たないままキキョウを見据えていた。
ラウカン。
かつて何度も刃を交えた。
だが、見慣れることはない。
この“異常”は、見るたびに、魂を少しずつ削ってくる。
「第二班、右へ展開! 左翼、誘導射撃を──!」
キキョウの指示が飛ぶ。反応は速い。
だがその一瞬の“前”に、ラウカンは動いていた。
シュッ──。
まるで音を置き去りにするように、影が駆けた。
「──ッ!!」
一人、前線の騎士の腹部が切り裂かれた。
その断面は鋭く、まるで剃刀で切ったかのように綺麗だった。数秒後、上半身がずれて、倒れた。
血が、地に広がる。鮮やかな赤。
騎士団の白と赤の制服に、もう一つの“赤”が染みた。
だが、誰も反応しない。
「次、五時方向──接近、切断予測線まであと4メートル」
誰かが冷静に数値を呟き、足を動かした。
死者の名前も、声も呼ばれない。
キキョウの心臓が、ひときわ強く鳴った。
(……慣れてる……いや、違う……“慣れすぎてる”んだ)
次々と倒れる。
そのたびに、誰も立ち止まらず、哀しまず、反応しない。
戦闘力はある。だが、魂が空白だ。
(これが……第一騎士団のやり方かよ……!)
「ッ、ラウカンが跳ぶ──!」
右眼で捉えた瞬間、キキョウの体が先に動いた。
「下がれッ!!」
叫ぶと同時に、左前方の団員を肩ごと突き飛ばす。
刹那、ラウカンの爪が空を裂き、彼の首元を掠めて通った。
風圧で肌が裂けた。
だが──間に合った。
地面に転がった団員が無表情に立ち上がる。
「副団長、損傷率27%。感謝は不要。次の対応へ」
「……ふざけるな……!」
怒りが口から漏れる。
(あんた、今……死んでたんだぞ?!)
だが誰も聞かない。誰も“命”に感情を持たない。
そんな空気がこの騎士団を支配していた。
その間にもラウカンは飛ぶ。
バネのような脚。異様に伸びる腕。
ある者は爪に貫かれ、ある者は吹き飛ばされ、ある者は喉を裂かれた。
それでも団員たちは叫ばない。苦悶も、叫喚もなく、ただ命令に従って次へ進む。
「──ッ、援護に入るッ!」
キキョウは再び走った。
誰かが倒れそうになった瞬間、刃を振るい、軌道をずらす。
弾かれる。重い。鋭い。爪の一撃は金属より硬く、熱を帯びていた。
「ッ……クソ、何度戦ってもこいつら……ッ!!」
身体が痛む。脇腹に裂傷。
だが構っていられない。
次の瞬間、前方の騎士が吹き飛ぶ。
肩から腰までが裂かれ、意識を保てぬまま倒れた。
血が、地面に濃い赤を描く。
「っ、救護班! 止血処置急げ!」
叫ぶが、返ってくるのは冷静な声。
「任務続行を優先。団員の意識消失。評価:死亡」
「まだ死んでねえ!! 俺が守る!!」
地面を蹴った。
倒れた騎士に駆け寄り、剣でラウカンの一撃を受け流す。
爪が軋み、火花が散る。力で押された。
視界が歪む。だが──立つ。
「絶対に死なせねぇ……! こんな形で──終わらせてたまるかよ!!」
叫びが、風に混じる。
ラウカンが喉奥で、笑うような異音を響かせた。
(違う……この“戦場”を壊すのは──)
キキョウの中に燃える想いがあった。
(戦うだけじゃダメだ。……命を、心を、守らなきゃ)
誰かが倒れ、誰かが消えていくこの騎士団の中で。
キキョウだけは、まだ“人間”であろうとしていた。
──そして、戦いは、まだ終わらない。
脇腹の傷が痛む。
だが、動きは止めない。
むしろ、意識を裂傷へ集中させることで、思考を保っているような状態だった。
(動け。止まるな……俺が止まったら、死ぬのは“あいつら”だ)
傷口からじんわりと染み出す熱い血が、身体の中の冷えた何かを刺すようで、痛みは鋭く、重くのしかかる。
けれど、そこで立ち止まるわけにはいかなかった。
キキョウは血に濡れた剣を握りしめ、もう一度、ラウカンの進路に飛び込んだ。
空気が裂け、黒い影が視界を切り裂く。
爪が、頬を掠めて熱を残す。
防げた。いや、逸らせた。
背後には若い団員がいる、名は知らない。だが、名より先に命がある。
「下がれ、次が来るぞ!」
キキョウの叫びが、かすれた声で響く。
それは、自分でも驚くほど、震えていた。
ラウカンは跳ぶたびに重力を歪ませ、周囲の空間を狂わせる。
それだけで、兵士一人分の動きが制限される。
だからこそ──キキョウは、最前線に立ち続ける。
その姿を、誰かが見ていた。
白い仮面のような無表情をした、一人の第一騎士団員。
名は──〈スピネル〉。
整った顔立ちの青年で、過去数度の討伐任務にも参加してきた歴戦の騎士。
だが彼もまた、任務中の仲間の死に、何の反応も示したことがなかった。
そのスピネルが、わずかに目を細めた。
キキョウが、裂傷を庇いながらも前へ出ていく。
敵の爪を肩で受け流し、倒れた兵士を背後に庇う。
(……非効率だ)
合理的に、効率的に物事を進めるスピネルの思考が、まずはそう反応した。
しかし、心のどこかで、不意に胸がざわつくのを感じていた。
(なぜ……そこまで“命”に固執する……?)
それは、合理主義の鎧に包まれた彼の心に入った、ささやかな亀裂だった。
疑問が、彼の思考の中で、小さく、けれど確実に広がり始めていた。
続けざまに飛び込んだ別の団員、〈オブシディアン〉が視線で合図を送る。
「スピネル、左翼、再調整」
「……ああ」
返答しながらも、意識はキキョウへ戻る。
頭では任務の指示を理解し、従わなければならないとわかっている。
だが、胸の奥で何かが揺れていた。
彼は、すでに片膝をついていた。
息が荒く、脇腹の出血は止まらない。
それでも、剣を前に構え、ラウカンの進行方向を塞いでいる。
「お前を──行かせてたまるかよ……」
言葉にはしないが、スピネルは心の中で呟いた。
それは彼自身にとっても意外な感情だった。
敵の動きを読み、歪む空間に足を置く。
戦場を“守るために”使うことなど、これまでの第一騎士団ではなかった。
そこにあったのは「制圧」か「排除」、ただそれだけ。
(……違う……この男は、命を守ることを“主軸”に据えてる)
合理的な思考と相反するその姿に、スピネルは戸惑いを隠せなかった。
心の中で自分に言い聞かせる。
(非合理的だ、こんな感情に縛られていては……)
だが、その“非合理”が、彼の胸の奥で熱を帯び始めているのもまた確かだった。
「……非合理的だな……だが──」
その瞬間、ラウカンの肢が伸びた。
刃のような手足がキキョウを貫かんと迫る。
(間に合わない──)
「副団長、伏せろ!」
声と同時に、スピネルが跳んだ。
防壁魔法が一閃、ラウカンの爪がその薄膜に跳ね返る。
「……っ!」
体ごと地面に叩きつけられた衝撃が、スピネルの肺から息を奪う。
キキョウが見上げると、そこにいたのは、無表情のまま肩を震わせるスピネル。
「感謝は──不要か?」
小さく問いかけると、スピネルは数秒沈黙したあと、答えた。
「……不要ではない。だが、それより優先すべきものがある」
彼の瞳の奥に、かすかな“熱”が灯っていた。
それは、これまで第一騎士団にはなかった色だった。
背後では、他の団員たちもわずかに動揺を見せている。
一人、また一人と、キキョウの行動に“感情”というノイズが混ざり始める。
騎士たちの歩幅が、微かに重なった。
指示がなくとも、陣形が──守るような形に変わっていた。
ラウカンが再び跳躍した。
今度は、数人の団員が同時に反応する。
魔法による補助障壁と、連携した斬撃。
一撃では仕留められない。
だが、確かに、戦場の「空気」が変わりはじめていた。
キキョウは、立ち上がった。
まだ痛みはある。だが、少しだけ“救われた”気がした。
(一人で全部守れるわけじゃない──けど)
(この“空気”を、変えられるかもしれない)
それは、戦場の真ん中に咲いた、ほんのわずかな“人間”の芽。
凍りついた魂たちが、少しずつ、軋みながら動き始める。
──戦いは、まだ終わらない。
だが、そこには確かに、「変化」が生まれ始めていた。