7話 城塞都市マクデブルグ(3)
それでも泥の中に光が一筋──そんな光景を信じてしまうような姿だった。
ここに祈る男がいる。
マクデブルク聖堂の片隅。信者や観光客は立ち入りを許されていない中庭に面したバルコニー。
姉とはぐれたヴェルツは途方に暮れて辺りを見回していた。観光客に混じって礼拝堂に入場したものの、姉の姿はすぐに消えてしまった。あの人のことだ。興奮して周りが見えなくなってどこかに走って行ったのだろう。
よくあることだ。しかし尋ねようにも辺りに人影はない。自分も迷ってしまったのだと気付いた時には、建物のかなり奥に入り込んでしまった後だった。
そこに、祈る男が。
ぽつりと現世に取り残されたようなその姿に、ヴェルツは魅入っられた。
剃髪した頭に、簡素な修道服姿。装飾の類いは一切なく、その出で立ちから男が聖職者として清貧を貫いているのが分かる。
年老いていて、恐ろしく痩せた男だ。こんな昼間にこんな所に居るのは、老齢のため修道士としての仕事を免除されている故かもしれない。
ヴェルツは戸惑った。なるべく小さくなろうと長い体を縮める。
声をかけたものか、それとも静かに立ち去るべきか迷ったのだ。それだけ男の祈る姿は神々しく映ったのである。
──まるで天使だ。
痩せた小さな年寄りが何故こうも眩い?
少々困惑しながら、結局後者を選んだヴェルツはそっと身を引いた。
その時だ。男がこちらを向いたのは。意外と鋭い視線に、ヴェルツの足が止まる。
「こちらに来て、共に祈りませんか」
その声は七十歳にも見える外観からは想像もつかないほど張りがあって、実年齢の低さを示していた。
その声を聞いた途端、ヴェルツの目から輝きが失せる。天上を飛ぶ筈の天使が地上に落ちて──いや、堕ちてきたような奇妙な違和感。
「いや、あの、自分は……祈ったことがないんで……」
「何ですって」
僧の声に咎める響きはなかったが、ヴェルツは慌てて言い訳する。何となく後ろめたい。
「いや、うちは両親も姉も教会には毎日行ってたし。教会税もちゃんと払ってるし。自分も姉ちゃんと一緒に教会に……。でも祈るって何か前向きじゃない気がして。自分で何とかしろって言われてるみたいで」
「そうですか」
僧の頬に深い皺が刻まれる。どうやら笑ったらしかった。
「一理ありますね。でも、どうしようもない時、自分の力のなさに腹立ちすら覚える時──祈るしかない気持ちになります」
「それは……」
ヴェルツの脳裏に炎が、襲撃を受けた村の惨状が蘇る。
「……そうかもしれませんね」
彼の指が祈りの形に組まれかけたその時だ。
「アナタ、大司祭サマですね! 話を聞いてください。え? 賄賂だって? いいよ、お金ならあげるから」
耳に覚えのある甲高い声が中庭に響き渡った。
「え? 姉ちゃ……?」
敬虔な思いから一気に現実に引き戻される。
何言ってんだ、あの人は? 声はどうやらこのバルコニーの向かい側からするようだ。ヴェルツは廊下へ転がり出た。
「す、すいません。自分、行きます」
慌てて天使に別れを告げて。
※ ※ ※
見送る天使はヴェルツに背を向けた。組んだ指を無造作に放す。
最早、祈る気持ちは失せた。小さく呟く。こんな奥にまで入り込んで、あの男は誰だろうか、と。
見ない顔だ。この街の者ではないだろう。別にどうでも良い。興味もない。
しかし、あの若者の言うことは一理ある。
「フン……」
マクデブルク大司祭、ダイ・カーン・シュールディッヒは顔を歪めた。
確かにそうだ。祈ったところで事態の打開は図れない。それは身に染みて分かっている。
それでも己には最早祈ること、そして考えることしか出来ないのだ。いや、それだけ出来れば十分か。
皮肉な笑みが深い皺を刻む。
この街に大司祭として赴任してから四年。自由と信頼を尊ぶというこの街の気風は、そのまま教会にも当て嵌まった。大司祭の立場だけで教会を掌握できるという平和な時代ではない。
──我々は今後、プロテスタント派勢力と組することにします。
総意であると出された司祭たちの決定に、最高位たる己ですら口を挟むことが出来ないのだ。
街の貴族が次々とプロテスタント勢力になびく中、異教徒の教会は弾圧の的になりかねない。カトリック教会としての立場を抑えて、活動を控える。表面上だけであってもプロテスタント貴族と結びつくという司祭たちの決定は、時世を見据えたやむを得ない判断であると言えよう。
ドイツを覆う戦乱の中でカトリックの本山ですら、この地の暴走については見て見ぬふりを決め込んだ。
カトリック、プロテスタント──どちらかに属する必要がどこにある? どちらにもつかず様子を見て、そして勝った方に組せば良いだけではないか。そう言いたかった。
だが、武装も辞さない司祭たちの前に、大司祭ダイ・カーンが沈黙を保ったこともまた、致し方ない選択であったろう。
昨今、プロテスタント派は劣勢が続いている。街が現在のような事態に陥っていることも、全て彼らのその決定のせいなのだ。
「何が自由だ……」
吐き捨てる。自由に行動して、それで街は守れるのか?
ドイツは救われるのか? 神聖ローマ帝国が、ヨーロッパが繁栄するのか?
しかし、現実。
己には何の力もない。前向きに考える? いや、考えるだけでは駄目なのだ。力がなくては何も出来ない。
──力、か……。
大司祭は小さく呟き、それから自嘲気味に口元を歪めた。求める楽園は、果たして具現するのだろうか。