23話 逃走(2)
お、覚えてます……。小さな声で言うと、オリンピアの指が触れている額がカッと熱くなった。
嫌だなぁ、ヴェルツは心に呟く。赤くなっているのを見られたら……。
しかし動じないオリンピアは、自分のペースで手当てを完了するとヴェルツの隣りの椅子に腰かけた。こちらを見ていると気付き、ヴェルツの視線は泳ぐ。視野の端で彼女は優しく微笑した。
「あの時……自分が必ず守りますと言ってくださって、本当に心強かったですわ。わたくし、あのまま逃げてしまったから、ずっとあなたのことが気に掛かっていましたの」
「ブッ……グッ!」
変な声が出たのは、突然噎せたからだ。
「あら、大変」と立ち上がるオリンピアを手で制して、ヴェルツは呼吸を整える。
この上、背でも擦られてみろ。自分の顔は一体どうなってしまうか。今ですら真っ赤になって、じわりと汗をかいているくらいなのに。もっとも、陽に焼けているから色はあまり目立たない筈、なんて関係ないことでも考えなければ神経が持たない。
確かに言った──あなたは自分が必ず守ります、と。
あの時は切羽詰った状況だったから。自分でも信じられない恥ずかしい台詞だって平気で口をついたのだ。
「ずっと気になってたって……自分のこと、ですか」
いや、違うだろう。そんなこと聞くなよ、と己に言い聞かせる。あの状況で一人、傭兵供の中に残った自分の身を気にするのは、言わば人としての良心じゃないか。
「お姉さまは大丈夫かしら」
幸いな事にオリンピアから話題を変えてくれて、ヴェルツはあからさまにほっとした表情になった。
「姉ちゃ……あ、いや、姉ですか」
「ええ、さっきレオンさんに怒鳴られて、怒って出て行かれたようですの。知らない街でしょうに。それにまだカトリック軍がうろうろしていたら……。レオンさんもレオンさんですわ。あの子、少し怒りっぽいんですもの。確かに少し、いえ、かなりお姉さまも興奮なさって大きな声を出したりされてたから……」
ああ、その様が目に浮かぶ。ヴェルツがうつらうつら居眠っていた間のことだろう。
恐らく、しつこくつきまとった姉に対して、レオンがキレた。腹を立てた姉が家を飛び出したというところだろう。
「あの人いつもそんなですから。うるさいし、興奮したら手が付けられないんです。そのうちケロッとして戻ってきますから」
そんなことより──。オリンピアには聞きたいことが山ほどあった。
昨日、彼女自身が告げた言葉──叔父様って誰だ? 大司祭のことなのか?
あの時、突然現れた彼女の姿に何とも言えない違和感を覚えたのは自分だけではあるまい。
それから──正直ここが一番気になる──ロックは?
二人を一緒に逃がしたのは自分だ。ロックとオリンピアはこの三日間一緒に居たのだろうか。ならば何故彼一人があんなことに?
「あの……」
ヴェルツが口を開きかけた時だ。奥の扉が開けられた。今度は勢い良く。やましいわけでもないのに、ヴェルツは焦ってその場に立ち上がる。
「まったく、ひどい大怪我ですよ」
聞いてもいないのに、しれっとした表情でそう言ってこちらの部屋に入って来たのは僧形の男だった。
夕べの武勇伝──あくまで本人談──からすれば気が抜けるくらい軽い擦り傷と打ち身に大袈裟に包帯を巻いて、わざと足を引きずりながら近付いて来た。
手当てしたオリンピアが後ろで困ったように微笑する。
教会の様子が気になるのだろう。マナーワンは頻りに戻りたがるのだが「怪我がひどくて動けない」そうだ。相当苛ついているのが、態度からも分かる。オリンピアが空けた椅子にちょこんと座り、彼女に不躾な視線を送っている。
「何故戻って来たのですか、死天使」
死天使と呼ばれ、彼女は微かに目を伏せた。
「オリンピアと呼んでください。マナーワン」
その穏やかな口調を、しかし僧は弾く。
「あなた、状況を分かっているのですか。街は今や完全に包囲されています。そうなる前にと、せっかく逃がしてさしあげたのに」
しかもあんなタイミングで戻って来るなんて……何か企んでいると勘ぐられてもおかしくないのですよ。かよわい女性の身で何か出来るとでも考えているのですか。死天使、はっきり言ってあなたは足手まといです。
「そ、そこまで言わなくても……。夕べ、彼女のおかげで助かったのは事実なんだし……」
ヴェルツが間に入ると、マナーワンにきっと睨まれた。
「部外者は黙っていてください!」
「何を……」
尚も口を開きかけたヴェルツを制して、オリンピアが進み出る。
「申し訳ありません、マナーワン。でも……」
自分より背の低い僧の顔を覗き込む。
「今更言っても仕方ないでしょう。こんな状況だからこそ、わたくし、お役に立てますわ」
微かに微笑む。マナーワンの頬が紅潮した。怒りなのか、それとも別の感情なのかは分からない。
「か、勝手にしなさい! 拙僧は知りません」
出て行きたいところだろうが、外は危険と分かっているので再び奥の寝室に入ってしまう。その背を見送ってからオリンピアは俯いた。
「あの、死天使って……?」
遠慮がちなヴェルツの問いに、彼女は短く答える。
「ええ、わたくしのことですわ」
「何で……」
オリンピアが元々EDE.の一員であることは分かった。夕べからレオンやモリガンたちとすっかりなじんでいる様子から容易に推察出来る。
「何故なら、戦闘で死体の山を築くからですわ。いつの間にかそんな名が定着してしまって……」
この時代、人を殺さずに生き抜くことは難しい。
「マナーワンさんは正式ではないとはいえ、教会の組織に女のわたくしが名を連ねることを快く思っていらっしゃらないのですわ。わたくしも親を亡くしたものですから、血縁を頼ってこちらに身を寄せましたの。他に行く所もありませんし……」
叔父であり保護者でもあった大司祭の夕べの姿を思い出したのか、オリンピアは口を噤んだ。
夕べから皆の手当てにかかりきりで涙も流していない。目の前の死を受け入れる余裕もなかったのだろう。崩れるように椅子に腰掛けると、彼女は両手で顔を覆う。




