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1話【序章】リーウッドの虐殺(1)

 風は冷たさときな臭さを孕んで吹き抜けていく。焦げた草、それから血の匂い。また近くの村が襲われたらしい。

 耳を澄ませば悲鳴と剣戟の響きが聞こえてきそうだ。それから轟音。これは大砲の音だろうか。


 一六三一年五月。


「今日は十四日か……」


 男は呟いた。十四日……、と唸る。

 つまり給料日まであと十六日ということ。苦しい。予想以上に今月は苦しい。何で月給制なんだ。この時代、世間の常識の給与体制は日給制。せめて週給にしてくれれば……いや。


「大丈夫、大丈夫だ。何とかなる。前向きに考えよう」


 神聖ローマ帝国領ドイツ地方北部。

 ハンザ同盟加入都市ゴスラー近くの村──リーウッド。世帯数僅か五十。農業と酪農、それから細々とした手工業で生計を立てる貧しい村だ。


 ここに、できれば平穏に暮らしたいと願う一人の若者がいた。

 ひょろりと背が高い。どことなく自信なさげに背中を丸めている。鶏が足元を駆け回っており、時折足を突付かれては小さな悲鳴をあげていた。


 短く刈り込まれた濃い茶色の髪。この地方には珍しいくらいの、おうとつのないのっぺりした顔立ち。

 開いているのが分からないくらいの糸のような細い目は、よく見れば髪と同じ色をしていると分かる。

 まだ若い男だ。二十歳を超えてはいないだろう。


 継ぎのあたった服装に、何故か上着だけは立派だ。仕立てのいい厚手の生地、胸元と腕に丸い印が付いている。

 それは村の自警団の制服であった。三十年戦争の惨禍が農村にまで飛び火し、あちこちで傭兵隊による略奪の噂を聞くようになってから、村の若者中心に結成された組織である。


 腕は立たないが身体が大きいからという理由で強制的に団に入れられた彼は、他に仕事を持っていないこともあって主要メンバーの一人となってしまっている。

 勿論こんな小さな村に何事かが起こるわけもないが、朝晩の見回りなど、仕事は結構ある。

 若者がどんどん都会へ出て行ってしまう中、しかし彼はこの仕事を気に入っていた。田舎でも地味でも構わない。平穏に暮らせれば自分はそれで……。


「おい、ヴェルツ。聞いているのか?」


「あ、あぁ。うん?」


 ヴェルツと名を呼ばれ、彼は歯切れ悪く返事をする。


「勿論聞いてるよ、ロック」


 出来れば平穏に……。その願いが今この瞬間、脆くも崩れ去ろうとしていた。

 友人──ロックの声は次第に大きくなっていく。


「ちゃんと見ろよ。さっきから言ってるだろう」


「う、ああ……」


 ヴェルツの視線、尚も宙を泳ぐ。実に往生際が悪い。


「な、なぁ、ロック。うちの姉ちゃん知らないか?」


「は? キルスティンさんならさっき凄い勢いであっちの方に走っていったが。挨拶したら何か言ってたけど、早口で聞き取れなくて。あの人、ちょっと変じ……変わってるよな?」


 姉を「変人」と言われたことについては、ヴェルツはあえて触れない。


「また修道院かな。あの人、最近おかしなこと言い出して……。いや、それは昔からだけど」


 口の中で小さく呟く。


「自分が十八歳だから……あの人もう二十歳だ。完全に嫁き遅れだろ。ロック、お前うちの姉ちゃんを嫁にしてやってくれよ。頼むよ」


 お前は顔もいいし、もてるし。目は悪いけど、何と言っても頭がいい……ああ、羨ましいよなぁ。


「ヴェルツ、おれの話が分かるか?」


「えっ」


 友人の、どこかからかいを含んだ声色に、ヴェルツは慌てて首を振る。自分はいい年して、姉の後を追っかけてるシスコンじゃない。


「いや、突然出て行ったから。ほら、あの人頭空っぽだろ。放っといたら村の外まで飛び出していきかねないから」


 傭兵隊と遭遇でもしたらとどうなるか。今の時代、女の一人歩きは危険だと説明したかったのだが、ロックはあしらうように軽く笑った。


「いいじゃないか。村の外……おれも行きたいよ」


 分厚い眼鏡越しに、僅かに潤んだロックの黒い目が空を見上げる。何かに絶望するかのような伏せられた視線。風に靡く短い黒髪、整った顔立ち。

 確かにこんな小さな村で一生を終えるには勿体ないと思う。物静かな友人が、実は誰よりも外に憧れを抱いていることは知っていたが、その気持ちが理解できないヴェルツは自信なさげに不平をこぼした。


「お前、村長(バウエルンマイスター)の子なんだからお父さん手伝って……」


 三男に仕事はないよとピシャリと返される。


「前向きに考えろよ、ロック。いいじゃないか、この村は平和で。自分は出来ればずっと平穏にここで暮らしたいよ」


「ヴェルツ、まさかこの村で一生終わるつもりじゃないだろう」


 ──出来れば。平穏に。


 そう答えたヴェルツに、呆れたように溜め息をついてみせてからロックは、おれは違うと言い切った。


「おれはいつか出て行くよ」


 マクデブルクに行きたい、とロックは近郊の大都市の名をあげた。

 大きな都市で、本格的に勉強がしたいと友人が望んでいるのだということはヴェルツにもわかっている。


 この時代では高価な──故に珍しい眼鏡をかけているのも、本の読みすぎが原因だと、説明しなくとも周知の事実だった。無趣味なヴェルツにしては、何かに夢中になれる友人の姿は羨ましい程だ。


「ルター先生の宗教改革について学びたいんだ。マクデブルクなら大きな教会もあるし」


 どことなく思い詰めた表情に見えなくもない。

 おい、まさか本当に出て行くつもりじゃないだろうな。ヴェルツが口を開く前に、友人ははっとしたように顔を上げた。背の高いヴェルツを睨みつける格好だ。


「そうじゃなくて。だからこれを見ろとさっきから言ってるだろう」


「ああ、うん……」


 話は振り出しに戻った。

 あたりに人の姿がないことを確認してから、ロックはヴェルツの首根っこを捕まえる。そして、上着に隠していたモノを取り出した。


「見ろ」


「うっ、見なきゃよかった……」


 それは手首から肘くらいの長さの黒い鉄製のものであった。筒状のようだが、途中で曲がっている。屈折した所には引金のようなものが付いていた。


「これ、何だと思う?」


「う、うん。いや、うーん……」


「何だよ」


「うん……」


 それはどう見ても銃であった。

 近頃戦争で使われ出したという小銃、鉄の筒──つまり鉄砲。

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