人生1周目~ You Only Live Once~
気が付けば俺は見覚えのある個室の便座に腰掛けていた。大きく息を吸い込むと、芳ばしくも懐かしい香りに頭がクラクラする。
間違いなく実家のトイレだ。
良かった。ちゃんと帰って来れたみたいだ。
とりあえずトイレを出てリビングへ向かうと、掃除中だったらしい母と目が合った。母は「え?」と小さな声を漏らし、手にしていた掃除機を床に落っことした。
……わずかだけど、以前より目尻の小皺が増えたような気がする。
ゲーム世界を八八五周した。一周二日として、一七七〇日。ざっくり計算で五年弱。
そっか。それだけ経っていれば、小皺ぐらい増えるよな。
幽霊でも見つけたような顔で呆然としていた母が、突然大声を張り上げる。
「進!? あなた進なの!?」
「あぁ、うん。久しぶり」
「久しぶり、じゃないわよ! 一体今までどこに居たの!?」
「えっと、野暮用があったんだ。いろいろと。……ごめんね。五年も居なかったからずいぶん心配……」
「大学卒業した後ずっと引き篭もってたかと思えば、今度は急に出てって、連絡も寄越さず丸一年も家を空けて! どれだけ心配したと思ってるの!」
「え、一年?」
オイオイと泣き出してしまった母の背中をさする。彼女の言葉から判断するに、現実世界とゲーム世界では五倍ほど時間の流れが違ったようだ。
俺が一年とすると、俺より二〇〇周ほど長くゲーム世界に居たミライは……だいたい、一年と二、三ヶ月ってところだろうか。
今頃彼女も、久しぶりの家族との再会を果たしていることだろう。
喜んでいるだろうか。というかそもそも、ミライとしての記憶や意思はちゃんと取り戻せたのか。
……まぁ、きっと大丈夫だよな。俺は楽観的にそう結論付けた。
「あっ、そうだ! 母さんちょっといい? 急ぎの用があるんだった!」
縋り付いてくる母を泣く泣く引き剥がして二階へ登り、突き当たりのドアを開く。
体感五年ぶりに見る自室は、当時より若干整理されて綺麗になっていた。埃っぽい感じもしない。部屋主不在の間も、母が掃除してくれていたのだろう。
もしかしたら、遺品整理のような気持ちにさせてしまったかもしれないと思うと、申し訳なくて胸が痛んだ。
汚すことにいささかの罪悪感を覚えつつ、勢い良く部屋中をひっくり返していく。
勉強机の奥からそれは出てきた。
勇者、姫。ケン、ハリー、ライト。魔王、王様。
七人がそれぞれにポーズを決めるパッケージ絵を眺めながら、長かった繰り返しの日々に想いを馳せる。
さっきまでそこに居たはずなのに、まるで遠い昔のことのようだ。
あんな苦しみはもう二度と経験したくないが、大切な物を沢山得られたのもまた事実だ。
感謝する気なんて毛頭ないけれど、俺はこのゲームでの体験を、生涯忘れることはないだろう。
フッと目を細め、王様の顔面目掛けて右手の拳を思い切り振り下ろす。
中のディスクがパキッと割れる音がした。
/
ゲーム世界から脱出して四年の月日が経った。俺は今、地元の中小企業で事務職員をしている。
興味がある業種ではなかったが、大学卒業から二年近く空白期間がある俺に贅沢を言う余裕は無かった。
現役時代以上に過酷な就活の結果、なんとか雇ってくれた今の会社と出会い、そこで働き続けている。
やり甲斐も恩義も感じてはいるが、本当に就きたい仕事は別にあるため、いつか転職するために独学で資格等の勉強を続けているところだ。
人生とはたった一つのミスで台無しになるクソゲー。そんなことを思っていた時期があった。
今思えば、あの頃の俺はどうしようもない無知だったと思う。
人生は一度しかない。その中で、選べる道は無限に存在している。全ての道を通ることなんて、たとえ何百周できたとしても不可能だろう。
正しいと思っていた道がいつのまにか分岐して、予定と違う方向へ行ってしまうことだってあるに違いない。
だから。道を間違えたなら、なんとかして元の道に戻ればいい。進み続ければ道はいくらでも分岐するし、その気になれば道無き道も道になる。
辿り着けるかは知らない。けど、諦めない限り、夢への道が途絶えることはない。
あの世界での経験は俺にそのことを教えてくれた。
/
「海老沢くんお疲れ様! 社食でお昼、一緒にどう?」
「いえ、実は近くで気になるお店を見つけたので、今日はそこに行ってみようかと。せっかくお誘い頂いたのにすみません」
「そうなの? 全然いいよ! 気にせず楽しんでおいで」
上司に断りを入れて社外でお昼休憩を取る。目指すは、以前とある中古アクションRPGを買ったゲームショップ。
の、隣のビルのテナントに入った、小洒落た外観の小さなカフェ。昨日ネット検索で見つけた気になるお店だ。
店に着いてすぐ、入り口横に飾られたヒマワリが目に留まり、顔が綻ぶ。
「いらっしゃいませー」
静かな雰囲気の店内に合った、落ち着いたトーンの声が迎えてくれた。
空いていた壁際の席に座り、メニューの一番上に書いてある品を迷わず選ぶ。
「ご注文はお決まりでしょうか」
「店長のオススメカレー。と、アイスコーヒーを」
「かしこまりました」
踵を返した店員を見送る。肩口あたりで切り揃えられた黒髪がよく似合う、大人びた外見の女性だった。
他に店員が見当たらないところを見ると、おそらく彼女が店長なのだろう。
俺は姿勢を正し、静かに彼女のオススメだというカレーの到着を待つ。
「お待たせ致しました。店長のオススメカレーです」
あっという間に注文の品は運ばれてきた。
一人で切り盛りするためか、そもそも食事メニューが少ない店なので、よく注文されることを見越してカレーは沢山作り置きしているのだろう。
とてもシンプルなカレーだった。具は豚肉、人参、玉ねぎ、ジャガイモ。濃い色のルーに、食欲をそそるスパイシーな香り。まさしく王道だ。
一口食べた瞬間、あまりの美味しさに表情筋がだらしなく弛緩する。
なるほど。これほどの味に辿り着くには、きっと相当な研究を積んだことだろう。誰でも作れる市販ルーではとてもじゃないが再現できない。
店長の努力の跡まで垣間見えるようなそのカレーに、俺は夢中で舌鼓を打った。
「お会計お願いします」
「はーい。こちらに伝票をお持ちください」
伝票を受け取った店長は慣れた様子でレジに打ち込もうとするが、調子が悪いのか、レジは突然変な音を立てて動かなくなった。「何これ、バグ?」と彼女が呟く。
「カレー、とても美味しかったです」
レジと睨めっこしている彼女に告げる。
「ありがとうございます。カレーライスは思い入れの強いメニューなので、そう言って頂けてとても嬉しいです」
彼女はレジから目を離さないまま応えた。客を待たせまいと必死に頑張る様子が微笑ましい。
「へぇ。思い入れが強いのには、何か理由が?」
「私のカレーを食べたいと言ってくれた人がいるんです。昔のことですけど」
「それはそれは。想い人というやつですか?」
「想い人っていうか……まぁ、好きじゃないこともないかもしれない可能性は否定できないですけど」
「なるほど。とても大好きなんですね、その人のことが」
「うっ…………あ、あぁ! レジがおかしい原因わかったかも!」
誤魔化すように話を逸らし、彼女は人差し指をピーンと天井に向けた。
「その想い人はどんな人なんですか?」
「い、いいじゃないですかその話は。ほら、もうすぐレジも直りますよ」
「教えてくださいよー。店長さんの好きな人、気になるなぁ」
しつこく食い下がると、彼女は観念したように溜息を吐き、「ろくなもんじゃないですよ」と言った。
「楽観的で、馬鹿でキモくてカッコつけでスケベでそのくせ女慣れしてない感モロ出しで。しかも、約束を全然守らないんです!」
「そうなんですか?」
「私のカレーを食べることとか、他にも約束があったんですけど、いっっっっっつまで経っても果たしに来ないんですよ! もう! お客さんがいらっしゃるたびに彼かと思って期待しては、何回ガッカリさせられたことか!」
「それは酷い! なんて不義理な奴だ! その人は早く食べに来るべきですよ! カレーも、ぱいも」
彼女は弾かれたように顔を上げ、俺を見た。
小さな口は「えっ? えっ?」と壊れたように繰り返し、視線は俺の頭のてっぺんから足の先まで、シャトルランのように往復する。
「あれ? 大丈夫? もしかして八九二バグ?」と尋ねると、大きな目からたちまち涙が溢れ出した。
「嘘っ……本当に? えっ、夢じゃないよね……?」
「あのさぁ、いくらなんでも『喫茶 魔王の城』って名前はどうなの? ラブホテルかと思ったよ。ま、おかげでこうやって見つけられたけどさ」
「キッモ! 最っ低! ……馬鹿っ!」
胸に飛び込んできた彼女を両腕でしっかりと受け止める。あの時覚えたそれよりもずっと温かなぬくもりに、身も心もじんわりと熱を帯びる。
「久しぶり、ミライ。遅くなってごめんよ」
「ほんとよ! このお城で、あなたが来るのをずっと待ってたんだから! もっと早く来なさいよ!」
「そっか。ごめん。……待たせといてなんだけど、あと人生一周だけ俺に付き合ってよ。パートナー」
「馬鹿! カッコつけ!」
泣きじゃくりながら何度も頷くミライを力の限り抱き締めた。
店内の他の客たちが、事情もわからないなりに祝福しようと拍手で包んでくれる。円周率のように、途切れることなく。
永遠に続く愛のゲームが今、続きから始まった。




