325周目 ~絶望~
三二五周目。ミライに二人きりになりたいと伝え、再びお花を摘む体で例の岩陰に来ていた。
俺はそこで彼女に、ここ最近ずっと考えていた提案を切り出した。
「一緒にこの世界から脱出しよう」
ミライは大きく目を見張った後、黙って俯いた。顔に影が差し、その表情を窺い知ることはできない。
「あぁごめんなさい。私が『責任取って』なんて言っちゃったからよね。大丈夫、気にしないで良いのよ。私はもうこの世界の住人になる覚悟を決めているから」
「違う。もちろんミライを助けたい気持ちもあるけど、俺は俺自身のためにここを脱出する。そして現実世界で人生をやり直す……いや、続きから始めるんだ」
「……酷いことを言うようだけど、それは無理よ。絶対にこの世界からは脱出できない」
「やってみなくちゃ分からないよ」
「分かるわよ!」
ミライが突然声を荒げた。
「あなたはこの世界のことをよく知らないから、簡単にそんな言葉が言えるんだわ! ……前にも言ったけど、私だって今まで何もしてこなかったわけじゃない。なんとかここから脱出しようと、それが無理ならせめてシナリオだけでも変えようと、何度も何度も抵抗してきた。そしてそのたび絶望して……いっそのこと、希望なんて持たなければ良かったって後悔した。私は、あなたがそんなふうに絶望するところなんて見たくない!
……だから、ね? もう諦めましょ? 元の世界に戻ったって結局、私たちを待ってるのは辛い現実だけなんだから」
ミライの目が真っ直ぐに俺を見る。将来はヒーローになるんだと叶わぬ夢を語る子供を見るような、そんな憐れみを湛えた目だった。
「……ミライは今まで、どんな抵抗をしてきたの?」
俺の問いかけに、ミライはトラウマを語るような臆病さで口を開く。
「……まず、どこかにこの世界の出口が無いかと思って、魔王城内をくまなく探したわ。でも出口どころかその手がかりすら見つからなかった。まぁ、そう簡単には無理よね。
だから次は城の外を探そうと、正面扉や通用口から外に出ようとした。だけど一歩踏み出した瞬間、『見えない壁』のようなものにぶつかって前に進めなくなってしまったの」
「……なるほど。ゲームやキャラの設定上行けない場所があるってわけか」
「そう。でもそれも想定内だったし、そんなに落ち込まなかったわ。そこで私は『脱出できないならシナリオを自分好みに変えよう』と目的を切り替えた。自由にシナリオを変えられるなら、実質現実世界と同じように過ごせると思ったから」
前向きで強い人だな、と俺は思った。こんな強い彼女に一体何が起きたらここまで絶望してしまうのかと考えると、話の先を聞くのが少し怖い。
「シナリオを変えるならやっぱり『勇者が勝って魔王が負ける』という結末だと思ったわ。毎度負ける魔王を近くで見てたら、なんだか可哀想に思えてきちゃってね。
そこで当時まだ記憶を保持していた魔王に事情を話し、結託した。魔王の間での戦闘時、私は磔にされたフリをして勇者の隙を窺い、油断したところを魔王の代わりに私の手でトドメを刺す。そういう作戦を立てた。
チャンスはすぐ次のシナリオでやってきた。戦闘中、勇者が私に背を向けた状態で膝をついたの。私は作戦どおり後ろ手に隠しておいた剣を振りかぶり、勇者の首筋に斬りかかった。
だけど、その剣が勇者に届くことは無かった……何でだと思う?」
俺は首を横に振り、話の先を促す。
「……身体が動かないのよ。怖気付いたとかじゃなくて、物理的に。勇者の首に刃が届く直前、私の身体はゲームでいう『ポーズボタン』を押されたように停止した。結局、勇者は何事も無かったかのように魔王を倒してしまったわ。
その時気付いたの。私たちにはもはや行動範囲どころか、行動決定の自由すら無い。キャラ設定やシナリオに沿った行動以外はできないんだということに」
……これは、確かに厄介な制限だ。彼女の言う通りなら、例えば勇者である俺が仲間キャラを斬ったりということもできないのだろう。
つまり、帰り道の途中でケンたちを倒し、ミライと二人で逃げるというような作戦は実行不可能ということになる。
抑揚のない声でミライは続ける。
「正直、あれは結構堪えたわ。でもまだ諦めなかった。次に考えたのは、この世界のルールに則って正々堂々シナリオを変える作戦」
「ルールに則って?」
「作戦内容はこうよ。行動が制限されない範囲で魔王をサポートし、勇者を倒させる。それを一回のシナリオ中に八九二回連続で繰り返す」
「あっ」と俺は声を上げた。「八九二バグ」。
「そう。勇者たちは何回負けてもやり直しがきくけど、八九二回連続で負けるという行動を繰り返させることができれば、八九二バグが適用されてシナリオが書き換わるかもしれない。分が悪い賭けだけど、可能性はゼロじゃないと思った」
確かにその方法なら、無限ループからの脱出は無理でも強引にシナリオを変えることはできるはずだ。俺はミライの頭の回転に素直に感心する。
反面、彼女の顔を覆う影はより一層濃くなる。
「行動制限がある中で私は魔王と協力し、なんとか策を絞り出しては勇者に挑み続けた。そしてその結果、本当の絶望を味わうことになったの……勇者のパーティーは一度倒すたび、どんどん強化されていった」
「え?」
「ある時、ウソやハッタリで勇者たちを騙して仲間割れするよう誘導し、簡単に勝てたことがあった。この作戦を継続すれば八九二連勝も夢じゃないと、私たちは無邪気に喜んだわ。
ところがやり直し後の二戦目、私がいくら口先で勇者やその仲間を揺すっても、なぜか全く効果が無くなっていたの」
言葉を紡ぐミライの身体が小さく震え始めた。俺は落ち着けるように彼女の背中をさする。
「……私たちがゲームに負けてリトライする時、一度レベルを上げ直したり、装備や戦法を変えたり、次は負けないようにやり方を修正するじゃない? たぶん、それと同じことが起きてるんだって気付いた。
きっとこのゲームの世界にもプレイヤーがいて、そいつがキャラの設定や行動を修正したんだって。一度成功した策が、二度と通じることのないように」
「プ、プレイヤー? どこにそんな奴が?」
「分からない……キャラの誰かかもしれないし、もっと大きい、このゲームの意思のような抽象的存在かもしれない。ただ一つ言えるのは、きっとそいつこそが私たちをこの世界に連れ込んだ黒幕だってこと」
黒幕。まるで世界の神のように巨大なそいつが、俺たちをこのゲーム世界に引き摺り込んだ上、見えざる手のようなもので逃げ道を塞いでくる。
それは確かに絶望的だ。言ってみれば、俺たちの敵はこの世界そのものというわけだ。
「八九二勝もしなければならないのに、途中で負けたら最初からやり直し。しかも、一度使った策は二度と使えない。負けるたび、いえ、勝った時でさえ、世界が外側から閉じていくような感覚だったわ」
「ミライ……」
彼女の目から大粒の涙が溢れた。
「ジリ貧状態の中……魔王と助け合いながら、辛うじて目に見えない敵に挑み続けていた、そんなある日。魔王が、記憶を失ってしまった。そのことを知った瞬間、私の心はぽっきりと折れてしまった」
心臓がギュッと縮こまる。俺と同じだ。思い出したのは、二八通目のお祈りメールが届いたあの日。終わることのない絶望。
あんな苦しみをミライもまた経験したのだと思うと、居ても立ってもいられず、反射的に彼女を抱き締めていた。
「もういいよ。辛いこと思い出させてごめん」
「ほんとよ、馬鹿……あんな想い、もう二度としたくない……あなたがするのも、嫌……わがままでごめん」
俺の腕の中で、ミライは幼い子供のようにわんわん泣いた。




