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永いひとりの旅  作者: 糸月名
第1章 『窓』
6/37

ティア・ドラクル

 俺となんて比べる間でもないほど小さな体。手首なんて掴めばぽっきりと折れてしまいそうだ。服もボロボロで、裾はすり切れ、何かに引っ掛けたのか小さく裂けている場所もあった。

 何かから逃げてきたのは誰の目にも明らかだ。


――俺とは違う。


 それが青い髪の幼女を前にして強く感じたことだ。

 何かから追われる恐怖も、逃げたさきでぶつかっただけの男に縋る必死さも俺にはわからない。それがかつての自分にはないものだったから、俺自身との差を強く感じ、劣等感のようなものが胸の中で動き出した。かつて、物心つく前なのかすら覚えてもないが、逃げることも戦うことも放棄してただその場にいたらしい。そんな自分自身を教えられた俺は、俺なんかとは違う目の前の幼女がかっこよく映る。


「たすけて……」


 細くて消えそうな声を絶対に聞き逃さない。力不足かもしれない、それでも足掻き続けるその背中を押してあげたい、そう思うには充分な言葉だ。


「任せろ」


 二つ返事でそう返した時、視線はすでに逃走ルートと追ってきているであろう相手を探していた。

 人ごみにまぎれたり、或いは例え恨まれようともロークや近くの誰かを肉盾にして逃げることまで考えた。最悪の場合は誘拐と傷害の前科二犯だが、そんなことに躊躇という段階を飛び越えて、選択肢として当然のように居座っていた。


「待てやガキ!」


 すぐに声は聞こえた。時間がないことを察知して幼女が立ち上がるのも待たずに立ち上がって、庇うように前に出る。

 声の主は恰幅のいい大男。口の周りの髭と禿げ上がった頭。そして見た目以上に服や皮膚から妙な清潔感が漂っていた。その後ろに控えた中肉中背の女は、男よりも水ぼらしい。黄色の瞳に赤いくっせっけが目立ち、頭にはチョコンと小さな耳を生やしていた。何よりも左足にだけ壊れかけの鉄枷がついており、歩く度に鎖の音がしていた。

 この異様な雰囲気に人が集まりだし、好奇の視線に晒される。


――チャンスだ。


 注目とは大衆を味方につける上で重要だ。ここで印象操作を掏れば逃げることも庇うことも容易になる。


「誘拐か!」


 意図的に声を張り上げると、衆目がざわつきだした。


「誘拐? おいまじか」

「物騒ねぇ」

「おい衛兵呼んで来い」


――釣れたっ。


 内心ほくそ笑んだのも束の間、民衆のどこかからか火の玉が昇り、轟っ、と音を立てて爆ぜる。それは何かの合図のように、日陰の多い街中を照らし、微かな熱が風月の肌にまで届いた。

 全員の目線も、そして追ってきた二人の視線もその火の玉に釘付けになる。俺が上を見なかったのは、純粋に俺の背後から火の玉が上がって目視が遅れたからだ。


「逃げるぞっ」

「わっわわ」


 幼女の手を引いて強引に立ち上がらせると一気に走りだす。坂道を駆け上り、人ごみで撒こうとしたが、如何せん歩幅が違い過ぎて幼女のほうが転びかける。


「あーもうっ」


 片手を幼女の脇に回して雑誌でも小脇に抱えるように持ち上げる。人をドミノ倒しにしてでも一気に突破しようと脳裏に浮かぶ。その結果けが人が出るかもしれない。そのことに僅かながら心苦しさを覚えながらも人ごみに肉薄する。


「いいぞ兄ちゃん!」

「逃げるのか、もっとやれ!」

「いいぞ逃げろ! おらお前も道空けろ」


 もう祭りでも見るかのように楽しそうな声が上がり僅かながら道が開いていく。


――こ、こいつら……。


 助かるは助かるが、そんなマナーのいい見物するくらいならいっそのこと助けてほしかった。

 やはり人を一人抱えるというのは同じ重さの米を抱えるのとは違って、重心が思わぬ方へズレたりして高々数メートル駆け上がることもだいぶキツイ。前傾姿勢で左手を地面に突いて重心を支えながら駆け上がる。


「全員そこを動くなっ!!」


 窓ガラスがびりびりと振動するような怒号とともにその男は現れた。衆人が道を空けそこを駆け抜ける僅かな隙間。一メートルもない空間に音もなくそこに音もなく着地した。靡くマントがその男が遥か頭上から降りてきたのだと理解させられる。

 青く、線の細い優男。


――こいつ、どこかで。


 妙な既視感と共に思わず声が出た。


「ばっ、おま、止まれな」


 柔らかく壁に手でも添えるような軽さの左手が俺の肩に添えられる。

 目の前の優男が幼女を抱えた俺と体重差がそこまであるとは思えない。ぶつかって地面に転がるだけだ。

 そう思っていた俺は謎の浮遊感と共に、ガクンと感性に引っ張られる体の静止感に襲われる。


「あ……、え?」


 ピタリと身体が止まっていた。容赦のない絶叫マシンのように乗り終わった後にも続く浮遊感から抜け出せない。それ以上に目の前の男に対する得体のしれない恐怖で足が震えた。心臓の速すぎる鼓動だけが未知の現象に気づいて警鐘を鳴らしているようだった。頭は冴えて体は冷えていて汗もかいていないのに、毛穴が開いていくこの感覚。呼吸が釣られて荒くなった。


「この場は神域の騎士第三席、アルト・ウルベルク・ベイルサードが預かる。お前とお前、それと……」


 アルトと名乗った青髪の男は俺の後ろの誰かを二人――おそらくは髭を生やした大男と赤毛の女――を指して、最後に俺を一切変わらない顔で睨みつけた。


「貴様ら、残れ」


 先ほどまでの喧騒と活気が嘘のように消えて、全員が息をするのすらやめた。そんな中でアルトの声は恐ろしいほどによく響く。

 一泊おいて、巻き添えはごめんだとでもいうように、さざ波が引くように見物人たちが下がっていく。


「お、おお~」


 幼女がちょっとうれしそうなのに、俺は死刑宣告されたような気分だった。






「勘弁してくれよ」


 ハスキーでも引きつったことがわかりやすいロークがカウンターで指を組んだまま顔を伏せた。というのも、青い髪のアルトと名乗った男は大分な権力者らしく俺と幼女以外の全員が怯えていた。


「場所を借りるぞ、店主」


 ロークとアルト以外は地べたに座らされた。なぜか衛兵の一人も地べたで胡坐をかいていた。こういう地面居座るという行為にとても前の世界を思い出す。預けられた先で怒られたとき、後にも先にもあの事件を起こした一回だけだが、床で正座させられた。だからという訳でもないのだが、この怒られそうな雰囲気というだけで正座してしまう。


「何があった?」


 抑揚もなく、淡々と問い詰めてくる。さっき、それこそ坂の下にある広場で出会った時から一度も表情が大きく変化していない。感情は分かるのに表情ではなく雰囲気からしか読み取れないような不気味な感覚だ。


「いや、それがですね」


 真っ先に口を開いたのは隣に座る口髭の大男。ただこれ以上喋らせるのも面白くないからという理由で指さして言う。


「誘拐犯」

「違えよ!」

「は?」


 ノータイムの否定に思わず目を見開く。


「だって助けてって泣きながら逃げ出してたぞ!?」

「そのガキは奴隷、商品だ」


 悪びれずに、それこそ当り前であるかのように放たれた言葉に正座が崩れた。正確には体に力が入らなくなった。

 それは人身売買の惨状がいやにリアルに想像できてしまったことに由来する。過去にそうなりかけたことがあった。そして売られた末の人間を見たことがあった。腕や鼻を削がれた男、息が続く限りもてあそばれた女、手術痕だらけの死体。

 それを脳裏に思い浮かべて嫌な感触が競り上がってくる。


「なるほど……」


 アルトという第三者が頷くことによってさらに嫌悪感が増した。

 少なくともあっちの世界で確かに倫理観はあった。それでも誘拐も人身売買も犯罪でそれを金のためにやる奴も確かにいた。それでもなお犯罪ではあったはずだ。この世界にその概念はなく、平然と市井に受け入れられている。


――忘れるな、ここは異世界だ。


 自分に言い聞かせる。倫理観も法も異なる、ハッキリ言って言葉が通じてなかったらこの旅はここで詰んでいた。その認識が甘かった。俺が知る悲惨な現状が自分よりもはるかに幼い娘に降りかかることが恐ろしかったし、一生懸命に抗っていたその努力を無駄にさせたくなかった。

 ちらりと視線を落とすと、幼女と目があう。


――1度首を突っ込んだ以上、やるしかねえよなっ。


 本当に何かがあった時はここで目の前の怪物ともいうべきアルトともやり合うしかない。だから、正座からでも飛び出せるようにつま先を立てて、姿勢を正す。生唾を呑み込んでから切り出した。


「口先だけだろ、何とでも言えるさ」

「ふざけんなっ、こっちには正式な書類もあんだよ!」

「知るかそんなもん!」

「無茶苦茶な言い分じゃねぇか!」

「テメェだってその書類を今持ってねえだろうが!」

「うぐっ」


 書類と聞いた時点で、それを持ち歩いていないことには確信があった。逆に言えば正式な書類を破棄できれば奴隷だと証明できるものはなくなる。そんな大切なものを持ち歩くわけがない。

かちゃり、鎧が鳴った。

 アルトが幼女の目の前に立っていた。


「名前はなんという?」

「ティア」

「ティア、お前は奴隷か?」

「ちがう」


 雰囲気だけは慈愛に溢れている。声は固くとも優しさのようなものが確かにあった。ティアと名乗った幼女はアルトの問いに首を横に振る。


「そうか……」


 刹那、慈愛が消えた。代わりに冷酷どころか時計が針を刻むような無機質な何かがアルトからあふれ出した。淡白でそこに感情の踏み入る余地がなく、俺の背筋に嫌なプレッシャーが纏わりついて、いつでもとびかかれるように思わず両手をつく。

 チャキ、軽すぎる金属音は左腰に刺した二本の細剣のうち一つに手をかけた音だ。


「ふざ、けるなっ!」


 一瞬アルトにぶつかろうとして、俺を留めた膂力が脳裏を過る。一瞬で振り払われて終わりだ。だから、ティアに覆いかぶさる。

 目をつぶり、歯を食いしばって、いずれ来るであろう激痛に耐える覚悟をする。痛みで意識を失えばおそらく二人とも死ぬ。


――それだけは絶対にダメだ!


 だが覚悟した痛みは来ない。

 うっすら目を開けるとティアの大きな瞳と目が合う。その視線は俺の後ろにいるであろうアルトを見つめていた。その先の何かを覚悟している目だ。

 すとん、軽すぎる音がした。


「あ?」


 音がしたのはだいぶ下だ。視線がするりと落ちると、俺の肩甲骨と肺をあっさりと貫通して細剣がティアのわき腹を掠めていた。

 痛みも灼熱もない。ただただ冷たかった。この肉体を貫く刃の冷たさが背中から肺をまっすぐ貫き、思わずため息のような零れる。水風呂に沈められたかのような、肺から空気が自然と押し出される感覚。それ以上に俺の血管に氷を刺したのはディアが傷つけられたという事実だった。

 なぜ掠めるだけだったのか理解できない。商品だからなのか、真偽を確かめるだけなら殺す必要がないからなのかはわからない。だが、あの機械のような無機質さからは同情なんてものは一切感じ取れなかった。


「だい、じょうぶ」


 舌足らずな声が俺に語り掛ける。

 心配されているのかと思ったけれど、違うことにすぐに気付く。制服の端をぎゅっとつかみ、下唇を噛んで今この瞬間を耐えている。

 守れなかったという無力感と、身体に痛みがない不気味さで脳みそがバグりそうだ。


――そりゃ、全員が怯えているわけだ。


 またもや認識改めさせられた。俺の感性と比べたらアルトはまともじゃない。

 するりと音もなく剣が抜かれしぼんだ肺がようやく空気を取り込み始める。


「何をしているんだ貴様は?」

「なに、って?」


 痛みはない。血もない。だが妙な疲労感が残る。未だ孔の開いていない肩をさすりながら振り返る。


「見過ごせなかっただけだ」

「……私を知らないのか?」

「知るもんか」


 ティアも無事なようで、チラリと奴隷商の男を見る。口をあんぐりと開けていて信じられないものを見たような顔をしている。

 なにか予想外のことが起きたらしい。それが好ましいかどうかわからない。


「この男と知り合いか、店主?」

「はい、今朝知り合いました」

「何者だ?」

「旅の者だと……」

「なら騎士を知らなくて当然か」


 ぼそりとつぶやいてからそれから俺に向き直るアルト。


「この武器は女王より預かった武器の一つ、嘘吐きを裁く剣だ。次邪魔をしてみろ、もう一振りで貴様の首を撥ねてやる」


 きゅう、と喉が引きつって声も出ない。この無機質な有無を言わさない雰囲気に心臓まで締め付けられた。


「さて、奴隷商?」


 言いたいことは分かるな? そう視線で語り掛ける。作業を淡々とこなすような声色に恰幅のいい男はひいい、と声をあげそうなほど怯えていた。


――勝った、のか?


俺にはまた妙な引っかかりがあった。奴隷商の食い気味の返答だ。誘拐犯じゃなかったからなのか、或いは正当だったからなのか。後者だった場合、この優位関係は一瞬でひっくり返る。

 それはティアが奴隷堕ちしたことを知らず、両親が売っていた場合だ。嘘が分かるだけならば、その状況があり得る。そうなればアルトからティアを守り切れない。奴隷商に引き渡される。


――考えろ、考えろ俺! 嘘じゃないと分かってからじゃ遅いのか!?


 ヒュンッ。

 アルトは考える間すら与えない。細剣の切っ先が奴隷商の頬を掠める。だが血が出ない。

 ティアはどうなるのか、ティアを庇った俺はどうなるのか、救うだけのチャンスと時間は残されているのか、それが分からない。


「さて、決を下す。ティアは奴隷だ」

「――ぐっ、待て!」


 チンッ、それは武器をしまった時の鍔と鞘がぶつかった音。そして、すでにもう一本の武器に手がかけられていた。


「馬鹿お前は黙っていろ!」


 ロークが思わず叫ぶ。


「異を唱えるのか?」


 ギュッと、ティアが俺の手を握った。


「唱えない」

「そうか、なら――」

「だから、俺がティアを買う」

「……」


 アルトが目を細める。値踏みされている。


「旅のお前が奴隷を買えるほどの金を持っているとは思えないな」

「ロークっ、さっきの言葉に嘘はないな!?」

「ああ!?」


 急に名前を呼ばれて変な声を出すロークにアルトの視線が移った。


「さっきのコインだ。価値がつけられないと言っていたあれだ!」

「あ、ああ。そうだ……」

「それを金に換えて、ティアを買うまでに猶予が欲しい」

「なぜ私に言う?」

「アンタが立場も力も上だからだ。簡単には反故されないし、何よりもまた拗れたときにアンタの名前を出せる」


 ビクゥ、とロークの方が震えた。

 おそらくは口の利き方がまずかった。だが、そんなことに拘泥していられるほど精神的に余裕がない。


「名前は?」

「風月凪沙」

「そうか、風月。沙汰は変わらない。裁定を下した以上あとは裁くのみだ。交渉がしたいなら裁かれた後にしろ。何よりも持ちかける相手が違う」


 アルトが顎で指したのは禿げ上がった奴隷商だ。

 何があったのかはわからないし、奴らなりの事情もあったはずだ。けれども、そこにどんな理由が絡もうとも、自分とは違うという憧憬を抱いたティアを売り飛ばそうとしていた事は許せなかった。


「すまなかった、そして頼む」

「なぁ!?」

「……っ」


 それでもなお、侮蔑にも似た感情を抱こうとしていた相手に頭を下げることに一切の躊躇いはない。ロークや奴隷商だけじゃない、アルトすら驚きに呼吸が跳ねる音が聞こえた。

 俺自身のプライドなんて交わした約束に比べれば安いものだ。あの時映ったティアの表情に笑顔が戻るのなら、その手助けができるのなら頭ぐらいいくらでも下げてやる。


「金なら用意する。買うまでの猶予をくれ」

「……あ、あぁ」


 奴隷商の男は胆で押された。おそらくは俺がアルトに食って掛かり、さらにはそのまま躊躇いなく頭を下げたことで、どんな人間なのかを測りかねていた。だからこそ、混乱しているこの時だけは充分圧し勝てる。


「ありがとう」


 口約束でもいい。早々に約束を取り付けられれば勝ちだ。


「決まりだな。ついでに罰金も渡して。お前の行為は窃盗だ」

「……わかった」


 胸のあたりがざわついた。未だ人をモノとして扱うこの文化に馴染めない。言葉の端々にそうした部分がにじみ出ていて、耳にするたびに息がつまる。


「これより神域の騎士の名により裁定を下す。もとあるべき場所にあるべきものを戻せ。そして風月凪沙。窃盗により罰金二〇〇〇エルを奴隷商に支払え」


 アルトはそれだけ言うと衛兵に目配せをして一緒にロークの店から出ていった。


「はああああああぁぁぁぁぁ……。神域の騎士に食って掛かるんじゃねえよ」

「巻き込んで悪かったな」


――まだ迷惑はかけるだろうがな、主にお前の嫁の件で。


 さすがに口にはしなかった。


「なあ、モノは持っているんだよな? 見せてくれ」


 アルトがいなくなって肩から力が抜けて声から硬さが抜けた奴隷商にむかって財布から小銭を一枚適当に抓むと放り投げた。


「神域の騎士っていうのはなんなんだ?」

「一〇人いるこの国の最高戦力だ。それぞれが独立した権力を持っていて、対立しようものなら簡単に死ぬぞ。相手が話が分かる第三席だったのは運がよかった」

「第三席?」

「ああ、神域の騎士一の堅物、職務にまじめだという噂だ。大体だな、神域の騎士なんぞにかかわるとロクなことがない。第二席や第七席だったら殺されていたぞ」

「あんなのがほかに一〇人も……」


 よく考えれば命の重さが違う。それこそ容赦なく殺すくらいは平然とやる。そうなるとロークの言う第二席とか第七席じゃないことにただただ安心するしかない。今もこうして生きているという少しばかりの幸運にホッと息を吐くと、袖をティアに引っ張られた。まだ話をよく呑み込 めていないのか不安そうな顔が俺の顔を覗き込んでいた。


「大丈夫だ、何とかなりそうだ。だから、そんな泣きそうな顔するな……」


 こくん、ティアは頷くだけだった。


「なあ、こいつ俺が買い取ってやろうか?」

「あん?」


 奴隷商の男は掌の硬貨を隣にいた獣人の女に手渡した。そっちでは匂いを嗅いだり重さを見ている。


「お前、売るっつったって、捌くルートあんのか? ぼったくられるのがオチだぞ」

「その辺りは大丈夫だ。ロークを連れまわす予定だったから」

「何かってに決めてやがる。行かないからな!?」


 そう叫ぶロークの背後にある階段でアキルがこちらを覗いていた。取り締まれる立場の存在が入ってきたことで大分警戒心が高まっている。それに対して悪辣な笑みを浮かべてやった。


「ちょうどいいネタもあることだしな。いやでもついてくることになる」

「なんだよ、俺は一体何を握られているんだ!?」


 アルトに食って掛かったことは非常にいい効果をもたらしてくれた。事実かどうかわからないことにも重みがのしかかる。

 アキルは目を見開いた後階段を音もなく駆け上がっていき、ロークはげっそりとしていた。


「ま、まあ、ほどほどにな? だがすぐに金は必要だろう?」

「それはその通りなんだが、お前が用意できんのか? エルズ金貨でいくつになるか分からないなんて言われて、下層じゃ買い取れないってロークが言っていたんだが、アンタら坂の下から来たよな?」

「ふん、うちなら大丈夫だ。よく金持ちの客が来るからな。それに奴隷は価値によっちゃエルズ金貨一枚なんて言うこともある。元貴族や特殊な技能を持つ奴なんかはな」


 奴隷なんてそれこそ貴族や豪商が相手になるだろう。確かに持っていても不思議じゃない。


「即金で、その子を買えるくらいには色を付けてやる。言葉遣いや立ち姿から意外と高値で売られる予定だったんだぜ?」

「変なところで吊り上げようとするんじゃねえよ」

「当然だろ。そいつは元貴族だ。通常の奴隷以上に使い道が多い」

「後ろ暗いことが多そうだな」


 貴族同士の家の恨み、純粋に金や権力を持っている者の僻み、あとは慰み者、家の再興のための旗頭。すぐに思い浮かぶだけでこれだ。そんな場所からティアをすぐにでも遠ざけたかった。けれども、理性的な部分が先走らなかった。


「何で買う気になった? さっきまで俺に殺されるかもしれないなんて状況にいたんだぞ?」

「奴隷商じゃこんなトラブル日常茶飯事だ。何よりも、下層でそんな高値で物を買った『人』に心当たりがある。俺なら独占して高く捌ける」


 言葉が一瞬柔らかくなった。粗野な喋りの中に浮いた違和感。こんな場所の会話でも変な噂が流れることを無意識に警戒するような姿勢。

 それを見逃さない。


「覚えをよくしておきたいのか?」

「そういうことだ。悪いがこの話をもとにほかの奴に吹っ掛けて高値つけるなんてことはやめておけ」

「そうだな、やめておいた方が良い」


 ロークが奴隷商を後押しした。


「奴隷に書類が必要なんだ。だから国の上と繋がっている事も珍しくない。変に脅しかけたなんて噂が広まれば騎士団とか神域の騎士とかが出張ってくるぞ」

「……ちょっと考えたけどやらないよ」


――全部読まれてたか。


 商人はこのあたりが鋭かった。


「それで、どうする?」

「最低額を補償してくれるんだろ? ティアの分と俺の罰金」

「さらっと罰金まで上乗せしたな……。まあいい、商談成立だ。次は窃盗なんてやらかすんじゃねえぞ」

「へいへい」


――その言葉をじっくり聞かせたい奴がここにいるなぁ。


「あ、金用したらこっちにも買いに来いよ」

「ったく、これだから商人は……」


 

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