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永いひとりの旅  作者: 糸月名
第1章 『窓』
36/37

一つの旅の終わり

 魔の山をぐるりと迂回する街道は、街に入る時に正面から領主の館を望むことができる。かつての栄華は今はなく、崩れ去ってはいるが、対照的に町は活気づいている。

 復興に巨竜迎撃祭。利に聡い商人たちがこれを見逃すわけがない。すでに領主の館からは金槌の振るわれる音や、瓦礫の撤去などが行われ、その喧騒が伝播し、街は湧いていた。

 そんな活気から離れた魔の山と領主の館のある断崖の向こう側。館の瓦礫が沈む湖がある。その畔に風月はいた。


 あの決別から一夜。

 部屋を抜け出した直後から、風月はその足で館を抜け出し、元の宿へと逃げていた。体を休めて仮眠のつもりが丸一日目を覚まさなかったらしく、目を覚ませば置手紙と皮袋があった。 この世界の文字が読めない風月にはそれが誰から誰に当てたモノなのか分からない。皮袋の中身は食料で、それだけを持って日も昇らぬ内から放浪していた。そして朝日の熱に身体が起き始める頃、この湖畔へとたどり着いた。

 正確にはここで足が止まった。


 森と湖の間の僅かな隙間に一面の青く小さい花が咲き乱れていた。崖の近くにはツタ系の植物が森の奥深くから侵食しており、大きな壁のようになっていた。

 手入れがされていないこの湖畔はいつしか森かツタの植物に侵食されて消えゆく運命であることがわかる。

 湖も今では瓦礫と化した領主の館とヴェイシャズの生み出した大量の水により嵩が増したことによって、森の木の根を水に浸していた。


 風月の足元の土も水を多く含んだ緩さを感じる。

 こんな空間に風月は心を奪われて、一つ息を吐くと途端に足から力が抜けて膝をつく。ジワリと土から滲んた水分が膝を濡らす。陽の光はあっても気温低く、吹き抜ける風も相まって肩を震わせた。同時に、眩暈と共に妙に鼓動の音が強くなった気がした。一度自覚してしまえば、膝立ちですらいられなくなり、そのまま突っ伏すように力なく倒れ込む。


「つべて……」


 青い花の隙間からあふれた水分が服に染み、頬まで濡らしていく。

 視界の端で指は微かに震えている。


――指、こんなに細かったっけ?


 見間違いなどではなく、確かに指は骨ばっていた。原因はすぐに気づく。栄養失調だ。

 思えば魔の山で魚を食べ損ねたのが始まり。以来、ロクなものを口にしていない。辛うじて口に入れたものと言えば胡椒のような香辛料が効いた野菜のスープくらいだ。

 眠ることが多かった風月には時間の感覚も曖昧で、この世界に来てから何日が経過したのかすらわからなくなっていた。


「三日か四日。こんなに長く食べなかったことはなかった……な。いや、砂漠ではあんま食べてなかったっけ? 夜には喰ってたか」


 何処を見てもボロボロで、体中が痛む。唇も独り言の間に切れたのか、すぐに血の鉄臭さが口の中に広がった。何処に出しても恥ずかしくない満身創痍だ。疲れて、空腹感があるのに、倦怠感の方が強くて動く気にすらならない。それでも胸の中は満たされていた。


「充実、してたなぁ」


 眠ってしまいそうなほどに疲れているが、まだやるべきことがある。傷の疼きがそれを気づかせ、指先に最後の活力を送り込み、食料の入った皮袋へと手を伸ばした。

 まずは飯だ。余裕がない時も、力が出ない時も、まずは腹を満たす。それが嘗て得た経験だ。

 皮袋の中は見透かしたかのようにスライスされたパンと紐に通された干し肉があった。ガラスの瓶は空き瓶と思うくらい空気を抜いて透明な液体に満たされており、その重さが中身が入っていることを教えてくれる。


「切られてたら長持ちしないだろうに。王都に行くの見透かされたかな」


 魔の山を通れば三日とかからない。その間なら十分持つだろう。魚も取れるし、この分量で充分だった。

 水もクルスが魔術で出していたのだから、本来はこんなものは必要ないはずだ。大分気を使われていたことが分かり、少しだけ情けないように気持ちにさせられる風月。


 日を透かすほど薄い干し肉を力任せに紐から引きちぎって。パンの上に乗せた。

 パンの方にはクルミのようなナッツ類とドライフルーツが一緒に混ぜて焼き上げられている。干し肉の方は香辛料の香りが微かに漂っていた。

 ナッツもフルーツも香辛料も。風月の記憶にはない。似たものなら記憶のどこかにある予感がしたが、それに使うほどの労力を捻出できないでいた。

 パンを口に運ぼうとして、手が止まった。弱った体が、パンすらも受け付けない。見ただけで重いと気づいてしまった。一瞬だけ躊躇い、それでも押し込むように口の中に含む。


 長期の旅に耐えられるように堅く焼き上げられたパンは一瞬で口の中の水分を持っていき、ミミの部分も干し肉と合わさってうまくかみちぎれない。

 腕と首の力で強引に千切って咀嚼する。口の中のものを瓶の水で飲み下すと、少しだけ気が落ち着き、同時にボロボロと涙が零れ落ちる。

 それは後悔だ。


 風月にとってあの再会は良かったのか判断がつかない。あの姉妹が幸せなのかが分からない。もっとやりようがあったのではないかと思ってしまう。上手くやれていれば、あんな顔をさせずに済んだのではないか、と。

 こっちに来てからずっと後悔だらけで、打ちのめされてきた。それでも歯を喰いしばって、歩んだ結果が、ティアの涙を流した姿だと思うと、さすがに堪えた。

 空を見上げると、日差し以上に目に入ってくるのは崩れた館。


 森神をもっと早く呼んでいれば、自己満足を優先していなければ、違う道があったようにも思う。悔しさと惨めさでそれ以上食事が喉を通らなかった。

 もっとできると思っていた、だが、ひとりの力でできることなんてたかが知れていた。


「なあ」


 誰もいない場所に向かって言葉を投げかける。


「アンタとやっていた旅だと、いつもあそこで手を引いていたよな」


 ヴェイシャズを殴り飛ばした後。ティアとミクハが出会ったあの時。あそこが分水嶺だった。そこで引き下がらなかった末路こそが今の有様だ。


「知っていたからなのか? 踏み込み過ぎたらこうなるって……。だから、目的だけ達成して、それ以上干渉しなかったのか?」


 全てが上手く行くわけではない。風月には経験が圧倒的に足りていないのだ。だからと言ってそれを全部積んでいる時間はない。

 まだやるべきことが残っているのだから。

 右手の傷をみてそれを思い出した風月はそれ以上の弱音を呑み込んだ。


「大丈夫、大丈夫だ。まだ終わってない」


 風月の旅路は、まだ始まったばかりだ。最後まで歩んでもいないのに、この道が正しいかなんて決められない。自分に言い聞かせるように大丈夫と言葉をもう一度重ねると、袖で涙を拭うと前を向いた。

 残ったパンと干し肉を一息に口にねじ込んで水で飲み下す。


「行かないと」


 立ち上がろうとしたときだった。風月の右腕の下から黒い毛並みの狼が顔を出す。


「うおっ、びっくりした。お前、森神のところの魔獣か?」


 口の端からぼたぼたと涎を垂らしながら開け放たれた袋の中の干し肉をじっと見つめていた。声を掛けなかったら袋の中まで首を突っ込んでいても可笑しくない執着に、風月はついつい、干し肉を一枚千切って渡す。


「やるよ」


 鼻で匂いを確認することもなく勢いよく肉に噛みつくとそのまま口の奥まで持って行ってしまう。それでも噛み切るのが難しいようで、あぎあぎと奥の方の牙を突き立てている。

 その時、前足の下で何かが光を反射した。


「お前、それ……」


 手の中に納まりそうな黒くて四角い板。スマホだった。


「だいぶ見覚えのあるケースだなおい」


 魔獣は口の中を空っぽにしてからスマホを咥え上げると、風月に差し出してきた。川で落とし手から見つかると思っていなかったそれが、今目の前に来た。数少ない『向こう』との繋がりで、なくしたことがショックだった。

 慣れた手つきでスマホを受け取るとクルリと手の内で回して電源を起動してみると、どういうわけか起動した。耐水性に優れているとは思っていなかったため期待していなかったそれを、つい手癖で動かしたら電源がついてしまった。数日間も一切触られていなかったためか充電は三〇を指している。


 画面には二人の写真が写っていた。

 片方は風月で、もう一人は女性。それが見ていられなくて、風月は画面を消した。


「もしかしてさ、川でひったくったか?」


 声は出さないがまん丸に目を見開いて首を傾げたままじっと風月を見続ける黒毛の魔獣。


「……」


 人語を理解する生き物が魔獣というのは風月も理解している。だから声には出さないが、目の前のいぬっころからポンコツな匂を感じ取った。

 常識が違うといえばそれだけだが、好奇心に負けてスマホを盗んだり、風月の隠しもしない表情から感情を読んだりすることもなく、楽しそうに尻尾を振っている。


「まあいいや。これ持ったまま戦ってたら壊れたかもしれないし。ポジティブに考えよう」

「ガブ」


 あくびのように大きく口を開いた表紙に風月の手にかみつく。牙を突き立てないようにしてあまがみを繰り返す。


「褒められたいのだ。不用意に口に出したのなら、しっかり褒めてやれ」

「森神」


 明らかな巨体。先ほどまではなかったはずの場所に大きな影ができていることに気づかなかった。この巨体は音もなく動く。威圧感もすさまじく、大きい生物というだけで風月はすでに気おされている。


「……褒めろったって」


 視線を森神から魔獣に戻すと、風月の右手の傷を舐めている。盗まれて返したからと言って褒める気にはなれなかった。そんな逡巡に待ちきれなくなった魔獣は徐々に牙を立て始めた。皮膚が引っ掻かれ始めて風月は肩を落とす。


「わかった、わかったから」


 パキッ。


「あ?」


 子気味のいい音が聞こえた。手に持っていたものから明確に聞こえた。手の延長にあったスマホに魔獣の牙が突き刺さっていた。


「ああああっ!?」


 画面にはくっきりと亀裂が走っていた。一縷の望みをかけて画面のをつけてはみるが、亀裂の入った大部分が光を失っていた。だいぶ深くまで牙が食い込んだらしい。


「俺のチートアイテムが逝ったっ。おま、お前っ」


 すでに息を引き取ったスマホは地面に落ち、代わりに魔獣の頭をつかんで持ち上げる。


「?」


 口で息を繰り返す魔獣は、何かが起きたことを理解していてもそれを自分がやらかしたとはミリも思っていない。それどころか早く褒めろ見たいな雰囲気を醸し出している。


「くっ、この……。はぁ、もういいや。便利だけど必須じゃないからな」


そのまま首の毛をわしゃわしゃと撫で回す。


「そこはしかるべきだぞ」

「こんな愉快な顔したやつをしかれるか!」


 風月は魔獣から手を離すと森神へと向き直る。


「それで、何しに来たんだ?」

「それがあることを知っていたのか?」

「それ?」


 森神が顎で指示したのは湖畔の一角、蔦が侵食し始めていた場所だ。


「なんかあるのか?」

「墓だ。初代ドラクル達の」

「……っ」


 思わず駆け出していた。

 手入れのされていない、忘れ去られた場所。そんな場所で眠っているのが不憫だったのか、あるいは別に思うところがあったのか、風月には自らの中に蟠る感情の名前がわからなかった。確かなことは、名前の知らない感情に駆られて突き動かされたことだけだ。

 鬱蒼とした一角の蔦を引きちぎっていけば、確かに硬い石のようなものがあった。それは何年物もの間蔦に絡まれて、いまだ輪郭すらつかめない。下のほうの年代物の蔦は力なんとかできるような代物ではない。

 噛みつき犬歯を突き立てて、裂け目を作ってから、手のひらがズタズタになっていくことも厭わず、力任せに引きちぎっていく。


「はぁ、はぁ、はぁ。これって」


 額に汗が浮かぶほどの蔦を引きちぎってようやく見えた墓石。風が吹くたびに体が冷えていくのがわかる。そして、それ以上に目の前にティアが眠っているという事実が体の温度を下げた。


「なんで、英語が刻まれてんだ」


〝R.I.P.〟


 文字が違うことは知っていた。だから風月は町の中で文字が読めなかったのだから。

 異世界。ティアは存在を知っていた。それが意味するのは――。


「森神。『達』って言ったか? ここに眠っているもう一人は?」

「初代ドラクルとその妻だ」


 その言葉に初代ドラクルと無意識に同一化していたティアを分離する。初代ドラクルは異世界から来た何者か。風月の中でそれは確信を得た。


「知らずにここに来たのか」

「なんとなくな。ここで足が止まったんだ」


 導かれたような気さえしていた。足元の五枚花弁の青い花は否が応でもティアにプレゼントした髪飾りを連想させられる。

 だからなのか、あの吸血鬼に何かを言われた気がした。


「分かってる、分かってるよ。そんなことぐらい。今生の別れじゃないんだから、ちゃんと仲直りするよ」


 それがいつになるかはわからなかったが、自分に言い聞かせる。


「じゃあ、俺は行くよ」


 ここで完全に気持ちが切り替わった。自分のやるべきことを見直すことができた。後悔よりも先にするべきことがある。

 食料の詰まった皮の袋を拾い上げて魔の山のほうへと向き直る。そこでまたも足が止まった。


「……ん? こんな手入れもされてない墓の場所をなんでお前が知ってんだ?」

「見ていたからだ」

「初代がここを平定したのって七〇〇年も前じゃ……。お前はお前でいくつなんだ?」

「もうじき一〇〇〇だ」


 なんかもう、いろいろぶっ飛んでいた。西暦の半分を生きているなどと言われれば風月も絶句する。


「やり残したことがあるなら先にやってこい」

「なんだよ急に」

「仲直りと言っていたではないか」

「今度会った時にでもやっておくよ」

「すぐに行動できない奴はいつまでたっても出来ん」

「年齢聞いた後だと妙に含蓄あるな。仲直りする相手なんていなさそうなのに」

「来年は貴様なんぞ生きてはいまい、やるべきことを進められるのは今のうちだけだぞ」

「えっ?」


 さらりと垂れ流された言葉に言葉が詰まる風月。それからそうなりそうな原因について考えを巡らせていく。


「それはあれか。交渉の時に邪魔になって消されるとかそういう……」

「それもあるが……」

「そうならないために話を詰める」


 唐突に割り込んできた言葉に森神と風月の視線が集まる。

 青い髪の神域の騎士、アルトがそこにいた。


「探したぞ。すぐに王都へ向かう。馬車はそこで待たせてある。急げ」

「あ、ああ」

「それと森神の言っていたことは尤もだ」

「アルトまで」

「お前は危なっかしてくてみていられん。そのうちどっかでコロッと死んでそうだ」


 どっから聞いていたんだよ、という言葉を飲み込む風月。


「森神にも言ったけど仲直りはするって。次会ったら」

「……そうか」


 何か言いたげな視線を風月に向けるアルト。


「じゃあな。森神。交渉の時にでも会うと思うけど……、いない」

「さっき跳んでいった」

「あいつ本当に音がないんだけど、どうなってんだ。挨拶くらいしていけばいいのに」


 森神は足跡すら残さずに消えていて、魔の山の方を見れば足元にいた黒い魔獣が駆け出していた。


「警戒しているのかもな」

「誰を?」


 アルトに対する挑発になっていることに気づかない風月。


「普通に考えるのなら私だ」

「警戒されるほど相手にされてなかっただろ」


 もしもこの場にクルスがいれば卒倒しそうな応酬だったが、風月に悪意はない。死にかけすぎて危機感センサーが馬鹿になっていた。


「もう少し言葉遣いというものを学ばせたほうがいいな」


 ぼそりと風月に聞こえないであろう声でつぶやいた。


 ほどなくして二頭のサイのような駆竜が牽引する馬車が見えてきた。御者の席で手綱を握っているのは遠くからでも目立つ緑髪でクルスだと気づいた。


「ああ、そういうことか」

「ん?」

「貴様が愚鈍だというだけのことだ」

「急になんだよ」

「行けばわかる」


 アルトの言葉に首をかしげながら小走りに近づいていく。


「さあ早く乗って。騎士様も」

「今回は目を瞑る」

「あ、はい。申し訳ありません」


 クルスの背筋が伸びて、ばつが悪そうに視線を伏せる。

 アルトとクルスが通じ合っていても、風月は何も察せなかった。もとより興味がなかったから気づかなかったのだ。二人の態度や応酬には拘泥せず、馬車の前へと立つ。

 馬車は魔の山を登った時よりも豪奢なもので、むしろ利便性すら捨てているようにも見えた。


「デカいな。重機とかそういうサイズだぞ。二頭で引けんのか?」


 タラップに足をかけ扉を開くとそこには青い髪の幼女がいた。その瞬間、アルトの言葉の意味と、二人の態度に合点がいった。


「ティア」


 思わず名前を呼んで、それから何かを言おうとして、なにも出てこない。ティアはここまで来たというのに、風月は口ではああ言いつつも、向き合う覚悟ができていなかった。

 悲しげな表情で、それでも覚悟があったからティアは風月の前から逃げない。右手で胸のあたりをきゅっとつかんで何かに耐えていた。

 その姿を目の前にして鳴りを潜めていた罪悪感が表に出てきた風月は、タラップから先の馬車の中が別の世界であるかのように感じて、動けないでいた。

 そうやって風月が先に進めない一線を、目の前の幼女は簡単に飛び越えた。

 風月の体に飛びついて、胸に顔をうずめる。華奢な腕で風月の服を必死につかんだ。


「お、お? おおお?」


 最初はその小さな体を支えられていた風月だが、体制が悪く次第にティアの体重を支え切れずに、だんだんと背中が弓なりに曲がっていく。一度そうなってしまえば、体制は立て直せず背中から落下した。


「なぎさっ」


 おなかのあたりに確かな重さを感じながら、衝撃から思わず閉じた目を開くとティアと視線がぶつかった。

 太陽の光で髪は艶めき、服も白いひざ丈のドレスにはフリルや刺繍が袖や襟にまで施され、めいっぱいまで御粧ししたことが分かる。そここまで素敵に着飾っていると、五枚花弁の青い宝石の髪飾りは浮いていた。それが風月には嬉しかった。

 陽光の中では化粧でも隠し切れない目の周りの赤みがあった。涙で腫れたことが想像に難くない。

 着飾ったのは、きっと逃げないためだ。

 ぼろぼろのまま、何の覚悟もしていなかった自分が恥ずかしくなる風月。逃げられない状況になって初めて覚悟が決まった。


「ごめん、なさい」


 つぅ、と。

 一筋の涙が零れ落ちる。たくさん泣いて腫らした赤い瞳は、今まで決壊していなかったのが不思議なほど涙を溜めて、風月を見つめ続けた。


「いいたかったこと、じゃないの。いわなきゃいけないこと、あるのに、いえなくて」


 嗚咽交じりの声が風月の胸に突き刺さる。

 コミュニケーションがうまくないのは知っている。それでも、必死に伝えたいことがあることもわかる。


「だから、その。そうじゃなくて……」

「わかってる」


 語気強めに放った一言は、それ以上苦しそうにしているティアを見ていられなかった風月の感情の表れだ。かつての自分自身と重ね合わせて、その気持ちが痛いほどよくわかった。

 それからもう一度優しく口にする。


「わかってるよ」


 ティアの頬に手を当てて、親指で涙を拭う。


「……俺の方こそ、ごめん。ティアのお姉ちゃんを殴ったりして。家族を守りたかったんだよな」

「うん、うんっ」

「あの言葉が本心じゃないのはわかってる」

「わた、しも。しってる」


 ドキリとして言葉に詰まった風月にだけ聞こえるようにティアはつぶやく。


「なぎさじゃないってしってるよ」


 何を、なんて聞かなくても分かった。そして情報の出どころも予想がつく。もう一人のティアが全部しゃべったのだ。


「……喧嘩したり、嫌いになったら仲直りするんだぞ。ずっと一緒にいるんだから」

「う、うん」


 少しだけ目を伏せるティア。何やら知らないところでひと悶着あったらしい。風月の言葉が図星そのものだったようだ。

 それから風月たちは立ち上がりる。先にアルトが馬車へと乗り込み、風月はティアとの時間を作るために最後まで待った。馬車の後部で背を預けていたミラタリオがいることに、そこで初めて気づく風月。ミラタリオの存在が、アルトが何かを察したきっかけなのかもしれない。

 そんなこんなで、風月は一歩前に出た。


「もう行くよ。まだやるべきことが沢山あるんだ」


 時間は有限で、あまり別れを惜しんでもいられない。

 胸が締め付けられるような感覚が風月の中に蟠る。それがだれかとの別れるときの惜別の感情だと知っている。

 過去にたった一度だけ、あったからだ。


「ありがとう」


 唐突にかけられた言葉に、思わず笑みがこぼれた風月。今までの後悔すら消えたような気すらした。

 振り返って膝をつき、視線を合わせる。


「どういたしまして。短かったけど、一緒に旅をしてくれたのがティアで本当によかった。大変できつかったけど、楽しかったよ。俺の方こそ、ありがとう」


 そこでティアが風月の手を握る。


「また、あえる? あえるよねっ」

「会えるよ」


 一も二もなく答える風月。


「だって生きているんだから」


 再会の約束はそのまま別れの始まりでもある。


「生きている限り繋がりは消えない。きっとまた逢える」


 ティアに嗚咽はなくなり、しかし涙を流したまま微笑んだ。


「約束する」



一つの旅の終わりを、やさしい日の光が祝福した。

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