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永いひとりの旅  作者: 糸月名
第1章 『窓』
33/37

決着

 冷たい水の中。

 幾度も空気を求めて水面の上へと顔を出すが、持って数秒。水を吸ったドレスに身体を沈められ、やがて水面は遠のいていき、どれだけ藻掻いても渇望した空気は得られなくなる。

 これはきっと『罰』なのだと。恨むべきは自分の浅はかさで、そうすることすらできなかった自分への罰。

 そう思えば、ミクハにはこの苦痛も受け入れられた。

 だから、静かに瞑目し、その時を待った。



 しかし、ミクハの待つその時が訪れるよりも早く、その身体は引き上げられる。


「っぷは!」


 諦めたはずの空気が肺の中へと侵食し、身体に活力が戻る。気づけば、背中から手を回され水の上を何とか漂っていたミクハ。いまだ、仄暗い水底へと引きずり込もうとする衣服の重圧を感じつつも、確かな安心感があった。

 背中に感じる暖かさに安堵さえ覚え、孫あ自分が途端に惨めに感じる。

 その真中にミクハは顔を歪めた。


「離して、離してよ……」

「何ぶつくさ言ってんだ聞こえねえよ。ちょっとでいいからお前も足動かせ、重いんだよお前らの服!」


 ミクハの心情など風月にとってどうでもいい、今はそれどころではないのだ。すでに睡眠不足、軽度の栄養失調、寝不足、過度の疲労。しかも体温低下まで加わり、早い話、限界なのだ。二度目の冷えた水の中、吐き出した息も冷え切っていて奥歯がカチカチと鳴る。

 ミクハにも風月の空元気も限界だと、震える手から感じ取ることができた。


「少しは浮く努力を――あぁだめだ。吊る、足がこむらがえるっ」

「ちょっと、それってどうい――ごぼぼ」


 風月の足が激痛で動かなくなり、水底へと重力によって引きずり込まれる。目先数センチ先の水面が遠く、手を伸ばす気力すら湧かない。

だが、それはわずかに残った幸運だったのかもしれない。

 ミクハの目の前を赤い壁が横切り、ほんの鼻先を掠めていった。それは水に沈んでいなければ、頭部を真っ二つにする軌道だったのだ。浮力で浮いた数本の髪の毛と、ドレスが足元からバッサリと切れているのが視界に入る。


 直後、地面すら両断した斬撃がかき乱した水流によって二人の身体は地面にたたきつけられ、舞いがった拳大ほどの瓦礫に殴りつけられていく。風月の肩の傷口が開き、水の中に鮮血が溶け出す。

 ミクハは肩に刺さった木片を見ている。その痛々しさも知っている。腹部にあけた穴はどういう訳か治癒していたが、水の中でも手で弄ってしまえば傷跡が残っているのは明白だ。それでも、風月はミクハを離さなかった。


(なんで、こんなになってまで……)


 一瞬。本当にわずかだったが、それでも確かに、脳裏には慕情が関わっているのではないかという淡い期待のようなものが浮かんだ。


『なら、行こう。〝ティア〟が待ってる』


 一度聞いた言葉が、振り下ろされる刃の如く期待を切り裂いて、胸の痛みにミクハ顔をゆがめた。水の中の苦しさ以上に、今の辛さが我慢できなかった。水の中で涙が溶けてしまうことだけが救いだった。

 そんな中、地面が沈み始めた。

 正確に言うのならばミラタリオのものと思われる一撃で切断された台地の片方。攪拌されていた水の流れが一定の指向性をもって流れ始めた。


 湖と崖に囲まれた要害。その台地を一刀の下に切り落とし、地形が変わる。

 今までと一線を画す一撃は、ミラタリオが再び死んだと、その力を知るミクハに知らしめるには充分だった。

 そして頭上を放たれた矢よりも早く影が通り過ぎ、遅れて波紋が広がっていく。そこで光が瞬き、幾度も打ち合わされた剣が火花を散らし、剣戟の音が響く。

 その最中、風月たちの身体は持ち上げられる。

 咳込みながら、水の染みる目の痛みを堪えて焦点を合わせれば、アルトが左手一本で風月の肩をつかみ上げて、ミクハ諸共引き上げていた。

 風と水流で荒れる水面とは思えないほどの安定感に疑問を口にするよりも早くアルトの言葉が差し込まれる。


「ヴェイシャズを止めろ」


 右足のスジに杭を打ち込まれるような痛みに返事すらままならない風月。それでもうっすら疑問として浮かんだ。


――どうやって?


 それ以上言葉が掃き増されることもなく、腕を軽く振るような動作からは想像もつかないような膂力で遥か高く投げ飛ばされる。


 その一方でミクハは見ていた。

 幾度にも渡る剣戟により生み出された火花が、アルトが先数寸前まで立っていた水面を跳ねる様を。


――圧されてる。


 アルトとミラタリオの剣戟。赤と青が入り混じり紫色の光が瞬くと同時にアルトの身体が水面を滑り押し込まれている。ここにきて、力という要素で神域の騎士が目に見えて劣り始めた。

 それでもなお、風月たちを狙う刃を的確に弾き、技術のみで食らいついていた。


 ドボン。


 水位が下がり、水で勢いを殺し気なかった衝撃が風月の足を突き抜ける。痛みに歯を食いしばり、地面を蹴って水面へと顔を上げると、そこはスイシュの根の隙間だった。複雑に絡み合った根が配置を砕いて大きく聳えている。そこに左手を引っかけてミクハの身体を抱え上げた。ドレスが下着が見えるほどギリギリのところで切断され、大分軽くなっていた。


「おい、だいじょ――」


 風月の言葉が詰まる。それは濡れた髪から滴る水とは違う温かい雫が風月の腕に落ちたからだ。

 腕を伝うそれが赤くないことを確認して、涙だと理解した。


「離して……」


 水の音にかき消されていないことが不思議なほどの小さな声が響く。


「もうヤダ。死にたい」


 弱弱しい指が、風月の指へと伸び、一つ一つ剥がそうとする。恐怖からか、あるいは冷たい水に体温を奪われたからなのか、震える指は風月の手を剥がすことができない。


「離してよ」

「――っ」


 再び、風月の手に再び温かいものが伝う。それと痛みも。深く爪を立てられて血が滲み、肘を伝って水の中へ溶けていく。

 身体を揺らして振り払おうとする華奢なミクハの身体を腕力で押さえつける。疲労に片腕、悪条件が重なっても何とか力では勝っていた。


「おとなしくしろって」

「離してよ!」


 金切り声が響き、その跡の静寂には呼吸すらなく、ただ流れ落ちる水の音だけが耳に届いた。

 それが数秒ほど。やがて、ミクハが口を開く。


「……だって、もう、どうすればいいの? ここに戻ってきたのだって、私が死ねば誰も傷つかないって思ったからなのに……。やったことが怖くて、怖くて」


 腕にかかる体重が軽くなる。身体を捻って風月と向かい合うミクハ。

 涙で腫れた瞳、それでも、寒さからか頬も青白く、どこか浮世離れした印象だった。それがティアと被る。二人が姉妹なのだと、改めて実感した。


「一人で、怖いの。だから、今だけでいいから、私のために戦って、欲しぃ」


 何かに縋りたい気持ちが事は想像に難くない。その相手がたまたま近くにいた風月だっただけのことだ。それでも、涙を堪えきれないほど辛い瞬間に近くにいてくれた人ならいいかな、という妥協がミクハの脳を支配する。


 誰か一人でもいい。私のために戦ってほしい。


 風月にその想いを補強させるように、首の後ろに手を回して、瞼を閉じた。あとは、全部委ねても良かった。

 ミクハが体勢を変えたことで、背中に回すカタチになった手に力がこもる。それは慰めるためでも、ミクハのために戦うことを覚悟したからでも、ましてや、ミクハの気持ちに答えるためでもない。

 純然たる『怒り』によるものだ。

 風月は、もはや自分自身で何のために戦っているのかわかってない。

 ミクハとティアが出会い、そこで約束は果たされた。にもかかわらず今も戦場に身を投じている。自分の為でもなく、それでいて誰かの為とも言い難い。

 それでも、ただ一つだけあり得ないことがあった。


「だれが」


 カチカチ、と。力が籠り奥歯が砕けるかと思うほどの咬合力で、顎の筋肉が震えて、歯がかち合わされてる。


「誰がお前なんかの為に!」


 ゴン。

 鈍い音が響く。優しい口付けの代わり、重い頭突きが炸裂する。

 風月凪沙が、ミクハの為に戦うなどということは絶対にありえない。


「……うん、そうだよね」


 拒絶も予想していたのか、それでも衝撃に驚いたように一瞬だけ眼を見開いて、諦めの色が浮かび目が泳いだ。しかし、ショックが隠し切れずに震える声でミクハは、自嘲気味に笑いながら続ける。


「やっぱりあの子だけが特別で、あの子のためにみんな動く。私にはそんな人、一人も……」

「いるだろうが!」


――嫌いだ。大っ嫌いだ。


 物心つく前のかつての自分。いい聞かされた無気力に死を待つだけの自分。それが嫌いだった。だから、目の前で同じようになっているミクハの為に風月は戦わない。手を差し伸べたいと思えない。

 にもかかわらず、間髪入れずに強く叫んだのは、やはり自分の為だった。ティアとの約束を果たしたと認めたがらない自分の為。

 あんな顔をさせたかったわけじゃない。手を差し伸べた結果が、悲しそうな表情だなんて受け入れたくなかったからだ。


「よく見ろよっ。神域の騎士が殺し合うこの戦場までお前に会うためだけに来た奴の事をよく見ろ!」


 本当に見えていなかったミクハが驚き固まっていた。

 まだ言いたいことはあった風月だったが、唐突に木の根に掴まっている手を引き上げられて、それどころではなくなった。


「旦那、怪我は?」


 脅迫されて連れてこられたかなつぼ眼の男とクルスが風月とミクハの身体を引き上げていた。旦那呼びをくすぐったく感じる風月だったが、かなつぼ眼の禿げからしたら機嫌を損ねないための必至の対応だったのだろう。


「助かった。何とか動ける」


 スイシュの絡み合う幹と根の絡み合った足場の上に転がると、すぐに足を曲げた。攣ったままのふくらはぎがいい加減限界に近く、筋肉が剥がれるような錯覚すらあった。マッサージで足を解放し、動かしながらなんとか立ち上がる。


「なぎさ」


 クルスの後ろに隠れるように身を隠していたティアが風月を見上げる。同時にミクハが風月の後ろへと隠れる。

 だが、ティアが見ていたのはミクハではなかった。というよりも、見れなかったという印象を風月は感じ取る。

 何か言いたいことがあって声をかけたが、なんて言えばいいのわからずに口を開けないでいるもどかしさを表情に出していた。

 それは引き合わせてくれたのに結果を出せない風月への後ろめたさと、どう接していいかわからないミクハに対しての恐怖にも似た感情だ。

 それが不安を隠しきれないように見えた。だから、ティアの言葉を待たずに風月は言う。


「あと少しだけ待っててくれ、全部終わらせる」


 きっとうまく笑えていた。

 近くにいたかなつぼ眼の男の懐からナイフを掏って手の内で弄ぶクルスの持っていた鉈とは違い、しっかりと鍔がついた細いロープなどを切断する目的のものだ。


「借りてく」


 口を開き替えたかなつぼ眼の男に、黙れ、そういうように冷たく言い放つ。

 ティアの横を通り抜け、視線だけでヴェイシャズを探す。姿が見えずともすぐに居場所は分かった。

 スイシュの幹の後ろで傾いた月明りと水を出し続けている魔方陣の光に照らされた森神の後姿があり、その視線の先の何かを見ている。あるいは言葉を交わしているのかもしれない。その近くで魔獣たちもそちらへと導くように首を動かしている。


 アルトたちは水を走ることが当然だと言うがごとく殺し合いをしている。沈むよりも早く足を出すとかそういう次元ではない。足を止めて一撃を受け止めたうえで反撃に転じるほど。まるで、水という物質が別の性質を得たかのようでもあった。

 そんな人の領域の外側にいる者たちを目撃したからこそ、森神と対峙している誰かがヴェイシャズだと確信した。

 未だ痛む足を引きずるように歩を進める。


 そして、確信通りの光景が広がっていた。森神と対峙していたのはヴェイシャズ。

 ヴェイシャズはスイシュの上に立つ森神よりも頭の位置が大分低い。種族の差ではなく、水の上に張った氷の上に立っているからだ。

 言葉はすでに交わし終わったのか二人は無言のまま睨み合っていた。空気は限りなく高質化し、二人を視界に収めた時点で息苦しさを自覚する風月。


「風月凪沙ァ……」


 風月が一度殴った側の頬が少し腫れているのか、喋り辛そうだった。

 対峙する相手が変わった。

 森神から風月凪沙へと。


「見逃せェ」


 虫のいい話だ。

 口には出さずとも、元から極低温だった風月の視線の温度が下がる。


「道を通すのだろう? 権力があっても政治力のない神域の騎士では成し遂げられん。儂ならできるぞォ」

「……」

「無論ここから手も退いてやるゥっ、神域の騎士という護衛も要らなくなるっ、必要なら金もある、必要なものは全部用意してやるぅ、だから見逃せェ」


 言葉を耳にして、真っ先に出てきたのは呆れだった。

 ヴェイシャズは風月の事を何も理解していない。ほぼ初対面であり、面と向かって言葉を交わしたのはこれが初めてだ。それで理解しろというほうが無茶ではあるのだが、それでも風月は胸の内に溜まるものをただゆっくりと吐き出す。


「分かってねえなあ。『道』だの政争の為の権力だの、護衛だの……、そんなもんは最初から()()()()()()()んだよ」

「……あ、あぁ?」

「森神もアルトも、全部我武者羅に頑張ってきた結果についてきたオマケだよ」


 風月凪沙は断言する。

 一切の迷いはない。


「アルトは犯罪者と間違えて俺を追ってきて、そのあとにティアの正体を知ってここにいるだけだ。もともとティアを助けるという約束に神域の騎士なんて言う異物はなかったんだよ。森神だって襲われてどうしようもないから交渉しただけだ。つまり、お前が行ったことで俺が欲しいものなんて何一つないんだよ」

「なら何が欲しいんだ?」


 欲しいものなんてなかった。

 ただ目の前の人間が要らなかった。

 ふと、脳裏に浮かぶ。


「あの男なら、たぶんこの時点で手を退いていたんだよなぁ」


 伝わらないと知りつつも、懐かしさと決別の意志から、気づけば口いだしていた。

 違う旅をするんだ。

 だから、自分の言葉を。あの男なら絶対に口にしない言葉を。


「お前がいると、ティアが笑えないんだ」


 そんなことのために、という音場がヴェイシャズの口から出てこなかったのは驚愕からだろうか。

 互いの距離はとてもじゃないが跳んで詰めようと思えるものではない。間に何かがあればおそらくは風月は届く。

 頭上の光は弱まり、水の嵩はかなり低くなっていた。


 バキン。


 星が瞬くように、魔力の供給を失った上空の魔方陣が砕け散り、光が雪のように舞い落ちる。数秒後には滝のような音が消えた。

 同時に、深紅の刃が地面の中から風月の首を斬り落とす角度で競り上がった。三〇メートルを超える刃渡りは音速を越えて飛来するが、その刃が風月まで届くことはない。アルトが受け止め、重い金属同士がぶつかり合い、振動が余韻となって響き渡る。

 ミラタリオはすでに武器を投げ捨てて、腰丈程度になった水の上を滑走するように走り出す。


 武器を捨てると思っていなかったアルトは、初めてミラタリオ相手に後れを取ったことがヴェイシャズにも見て取れた。

 赤く立ち昇る剣気が右手に纏いながら、背後に憑りついた血でできた影が、甲冑まで纏いながら鬼の形相で怨嗟の叫びをあげる。


「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァアアアアアアアアア!!」


 びりびりと皮膚が軋むほどの音量、威圧、畏怖。

 ミラタリオの背後で同じ姿をしていたそれは、肘から先を一体化させ風月の上元へと迫る。


 だが、そこまでだった。


 今まで契約上関係ないから無関心でいた森神。だが、命の危機を見逃すわけがなかった。

 ゴシャン。

 腰丈程度の水が跳ねたのか、肉袋から血液がはじけ飛んだのか、想像したくもないが否が応でも想像力を掻き立てる音とともに怪腕がミラタリオを叩き潰した。

 ミラタリオの右腕はアルトですら傷をつけられなかった森神の掌を貫通していた。しかしその右腕は潰されて水の中に沈んでいる頭の位置を考えると、全うな人間の形を保っているとは思えなかった。


 見誤ったのはミラタリオ以外の全員。


 人間のことをほとんど理解していない森神も、騎士の鏡とすら謳われたアルトも、主であるヴェイシャズすらも、ミラタリオの忠誠を疑っていた。いや、此処まで忠義ある人物だと思っていなかった。


 水の中に血が溶け出し、それでも森神の掌を貫通した手から血液が伸びた。鉄すら貫通させる一撃の向かう先は言うまでもなく風月のいた場所。姿が見えずとも、狙った場所への一撃。しかし、一撃が宙を切った。

 ミラタリオの決死の一撃。

 それを見てすらいなかった風月はすでに跳んでいた。

 予め、そこに来ると信じていたかのような動きで森神の腕を足場にしてヴェイシャズへと肉薄する。


「殺すな!」


 鋭い怒声が差し込まれる。だが、自分が殺されかけていようが見向きもしなかった風月はもはや躊躇しない。

 鳩尾から心臓を狙ってのひと突き。

 なによりも早く、刃が肉を突き破る感覚が腕へと伝わる。


 そしてーー。

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