表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
永いひとりの旅  作者: 糸月名
第1章 『窓』
3/37

異世界へと


 腕だけ通した時は一瞬だと思ったけれど、意識は十数秒もの間、揺蕩っていた。というのも、平衡感覚が無くなり立っているのかどうかもわからなかった。暖かい光の中、指先が冷えていく感覚だけがあった。そして、気づいた瞬間、俺の脚は平坦なコンクリートではなく細かい凹凸と溝を踏みしめていた。両の足は確かに煉瓦の道を踏んでいる。そして重心が無意識に足先にかかるそれはこの地面が傾斜していることを示していた。


――すっげ。足が覚束ない、ふわふわする。


 先ほどの平衡感覚を一時的に奪う転移の影響はもうなかったと断言できるけれど、この心がそれ以上に浮ついていた。脳みそが茹り端児が出そうな感覚と、それを冷やす外気。

 ふと、目元から何かが伝うのを感じた。それを指で拭胃ながら目元まで親指を滑らせると、乾いていて、涙ではない事に気づく。

 親指を見れば確かに濡れていた。首が自然と前を向く。

 小雨が降っていると思った。気づけば頬は湿り、黒い髪は濡れ羽色に光を反射していたから。でも目の前の光景はそんな浅い考えはあっさりと飲まれた。


 『窓』の向こうから見た景色は明るかったように見えた。けれど、空は意外にも暗かった。白い霧が光を遮り、体感以上に暗がりをもたらしていた。けれども、背中には温かな熱があった。思わず振り返ると日が射していた。山の上は深い霧が立ち込めて、山の麓となるこの辺りは大分密度が薄い。細かな霧が風で揺れ動く姿が光に反射してキラキラと輝いていた。


 空気中の細かな水滴が陽光を分割し、視界の中に七色の光が小さく瞬く。

 その向こうにあったのは白い朝日だった。目を細め、手で庇を作る。その時、ヌッと地面から太陽に向かって黒いものが伸びた。思わず視線を下ろすと、奇妙なことに太陽に向かって影が伸びて、すぐに消えた。

 経験から思わず振り返る。霧深い中に光源があるのだ。それを探した。霧が山の稜線をなぞる風によって揺られて、濃淡を変える。そのわずかな瞬間だけチカリと光が目に届く。

 山の頂上で何かが太陽の光を反射している。


「すっげ」


 見たこともない景色、知らなかった感覚が自分の中に流れ込んでくる。

 この風と熱があと一時間もしないうちにこの厚手のレースのような霧を消すだろう。その時の山の姿を見たくなった。何よりもこの山の頂上から見た景色を見たくなった。

 緑がなく、煉瓦の敷き詰められた街。微かにかおる油の香り、耳をすませば風と水の下たる音がする。不思議な空間だった。

 この時、振り返るなどという考えはすでに霧散していて意気揚々と踏み出した。


「さて、行くとしますか」





 一歩、踏み出すたびに息が上がった。


 ――いま、何メートル上った?


 光以外届かない霧は嘘のように晴れた。額や頬に張り付いた水滴は、いつしか浮き出た汗となり、それを手の甲で拭う。

 そして、足が止まった。


「なんだこれ……。体力が落ちたのか?」


 過去に登山の経験は充分にあった。冬の険しい山の中腹を横断した。その時は装備も不十分なために、かなり安全なルートを選んだ。それでもこの場所よりも遥かに険しかった。それが、今では舗装された道ですら呼吸が整わないほどに披露していた。


「体力の配分ができないような速度で歩いてねぇから……、気温と高度か」


 もともといた関東平野の標高がせいぜい五〇〇。ここはどのくらいか風月には全く想像がつかない。というのも、陽が射していた東側、今は風月の背にあたる方向には山がそびえていた。山と山の間から差し込む陽光はあっても、地平が見えなかった。およそどのくらいの標高か目安になるものがない。


「そういえばここに来た時は寒かったな」


 気温も高さを測る重要なファクターだ。しかし、今回に限ってはそうではない。向こうの世界から『窓』を通してここを見たときには確かに霧などなかった。時間すら変わっていた可能性が高い。


「酸素も薄そうだが、それ以上に気温差で身体がやられたか?」


 呼吸を整え、遥か先にある頂上を眺める。

 でかい。

 それ以上の感想が出てこなかった。それは山そのものではなく、待ちに対する感想。山一つを切り開き巨大な街へと変貌させたの技術、努力、本来見えないものを意識させるようにこの街は広がっている。


――先は長いな。


 と、息を整えながら下を向いた時、溝があることに気づく。ちょうど道の両端に規則正しい幅で存在していた。それも、ちょうど風月の足場付近からだ。


「埋められてる……」


 この継ぎ目を見なければ気づかなかったであろう程丁寧に、いままの道程にあったはずの溝が埋められていた。しかし、僅かに真新しい傷が残る。

 溝の深さと幅を見てすぐにピンときた。馬車の車輪の溝だ。どういう訳か埋めなおされているが、間違いない。イギリスで見たことがある。この滑らかな溝は轍だ。永い年数を駆けてゆっくりと削られ続け、そして生まれたもの。


「なんで埋めた? 間違いなく埋められているよな? なんで?」


 理由はさっぱりだ。

 そんなことに思考を巡らせようとしていた時、遠くから鈴の音が聞こえた。鐘楼のように永く響く、それでいて鐘楼よりお遥かに高い音だ。鈴というよりも鐘に近いか。


――下から?


 今来たところから聞こえる。やがて鐘の音に合わせて石臼を引くようなゴリゴリという重い音も耳に届き、僅かな振動も靴底から届いた。


「……え、下から? 下!?」


 思わず振り返った。そもそも馬車は山を登るようにできていない。車だって滑らかに舗装されていなければ、この坂は難儀する。少なくとも俺の知識の中の馬はこの坂を荷を牽引できるほどの馬力はない。

馬車を見たいという好奇心もあった。けれどもそれ以上に心躍る何かがあるような気がしていた。


「……、……う、馬?」


 目の前にくるまで動けなかった。しかし、目の前に来てしまえば足がもつれて道の端に自然と追いやられた。

 巨大な荷車。それも大量の食材が詰まれたなんてものではない。何トン詰まれているのか見当もつかなかった。

 それ以上に俺の目を引いたのは馬よりもはるかに巨大な『竜』だ。四足歩行で、犀のような巨体で繋がれた馬車を牽引している。灰色で鈍く光を反射する鱗、そしてその隙間のかかとのように分厚い皮膚は意外にも奇麗で、その手入れをしたであろうブラシが御者の腰にぶら下がっていた。それが六台。その周りにはその四倍以上の騎士がいた。

 なんかもう、異世界なんて言葉で想像していた世界から早くも逸脱してきた。


――あれを装備して、歩けるのか?


 肘、肩、胸、腰、腿、脛、主要な角の部分を守り、その隙間を細かな鎖が埋めていた。そして、あまりにも創が多い。その中にはクマの爪痕のような三本傷に、鎖帷子が砕かれてところどころ散った鉄片が歩いている最中に足元へとその一部が転がってきた。思わず足から力が抜けて、見知らぬ人の家に背を預ける。


 ぐん、と四足の竜が大地を踏みしめて坂を上る度に、荷車に吊るされた鐘が鳴る。

 確かに荷車、竜は目を引いた。それ以上に騎士に圧倒された。金臭さはおそらく鎧ではなく血だ。鼻血を出した時のような嫌な臭い、そして腰に刺したロングソードと、手に持ったハルバードやコルセスカといった武器。頭まですっぽりと覆った鎧の隙間から覗く血走った瞳。ボロボロなのに、疲れを感じさせない動きは台湾の忠烈祠を彷彿とさせる。


 それが通り過ぎた後に、家々の窓が開き始めた。騎士や御者に手を振っている。それまで静止していたかのような街が、呼吸を始めたかのようだった。


「これがこの街の朝なんだ……」


 各地からの品が届いてからこの街は動き出す。日が昇ってからだったり、村長が起きてからがその村の朝だったりするのだが、この街は品物を目覚まし時計にして起きだすのだと理解した。


 その光景に感動した。何処にと問われても明確には答えられないけれど、その力強さ、街の在り方、この流れが俺に感動を与えてくれた。


――まずはあれを追いかけるか。


 さきほどまでの疲労は残っているけれど、あれの行先を見てみたいという欲求が疲労を押しのけた。

この坂道を踏みしめて登っていく。

 すると、広場が見えてきた。二〇メートルほど平坦で、その先でまた坂になっている。この険しさは来るものを追い返すような壁にも思えた。


「馬車が止まってる」


 そこでは朝の静けさが嘘のような活気に満ちていた。馬車の多くは登っていったが、最後の一台が停車して、そこに人が群がっていた。商品を掲げ声を張り上げているそれが競り売りだとすぐに気付いた。


「            」

「         」


 最初、飛び交う声がノイズに聞こえた。理解できないと思い最初から声を聴くつもりなんてなかった。


「四〇! ほかに……か?」

「こっちが四五だ」


――日本語?


 一度認識してしまえばそこからは声がすんなりと耳に届く。

 ふぅ、と。思わずため気が零れた。

 見ず知らずの世界。最も苦労すると思っていたのが意思疎通だ。特に、今は先立つものすらない。そんな中で、言葉が閊えるというだけでだいぶ心の荷が軽くなったきがした。


「少し休むか……」


 広場の策に背を預ける。そこで少し休憩することにした。


「山か……、懐かしいな。初めてコーヒー飲んだ時を思い出す」


 山の中腹、それも本当に観光で登った夏の登山道だったが、そこでコーヒーを飲んだ。ミルクも砂糖もなく一口しか飲めなかった。そもそも、カフォオレにするなんて発想すらなかった。だから、しばらくの間コーヒーからは目を逸らしていた気がする。


「一緒にコーヒーを飲んだのはあれが最初で最後だったのかぁ……。今日の朝、何か買ってたな?」


 手に下げたビニール袋を探ると、紙パックのイチゴ牛乳が出てきた。思わず眉間に皺を寄せる。嫌な日常に少しでも色どりを、そんな気持ちで飲み物や食べ物をとっかえひっかえしていたけれど、鮭おにぎりにこれを食べ合わせるつもりでいた自分自身にドン引きだった。


「何でコーヒーじゃないんだ」


 今度は違うため息が出てイチゴ牛乳をビニール袋に放り込む。

 その時、視界の端で坂を下る男がいた。この朝の時間帯、坂を上下する人間が珍しいというものあったけれど、目を引いた理由はそれだけではない。腰に刺した二本の剣と右腕の銀の籠手。そして鎧。それが競りの近くで待機している重装の兵士たちと同じ服装ならきっと目を引かなかった。しかし男は明らかに光の反射の仕方が異なる鎧を身に着けていた。街中の兵士よりも位が高いのかもしれない。そして何よりも深紅のマントが目を引いた。


 一瞬、目があったけれど、そのまま物珍しそうに風月の服装を眺めてそのまま坂を速足で下っていった。


「重そうだけど、転ばないのかな?」


 そんな疑問が届くはずもなく、気づけば視界の外へと消えていった。その疑問も少しは胸に蟠っていたのだが、街の喧騒がそれを忘却された。特に、風月の目を引いたのは人間以外の生物が数多くいることだ。頭から獣耳が出ている者やエルフと呼べばいいのか、耳の長い者たちまで。


――この中なら黒目黒髪でもそこまで浮かないな。むしろ服のほうが変だな。


 生地の厚い学ランはこの広場の人間と比べるとだいぶこぎれいに見えた。そこまで着古していないというのもあるが、何よりも型崩れしていない。そして、金具やボタンが金属なのだ。それがアクセサリのように見えて、この場所では浮いていた。浮いているというのは少しだけ落ち着かない。しかし、目立つというのならばそこまで悪いことはないと思っている。


 それだけ人の目があるというわけだ。一人の旅で変に絡まれる確率がだいぶ減るうえに、場合によってはこの世界にあるか知らないがすぐに警察も駆けつけてくれる。


「さて、どうするか」


 この世界にきて高ぶっていた気持ちが時間で沈んで来て、おかげで冷静さを取り戻した。霧がかかっていた山の頂上を睨む。今では白亜の城があり、それが太陽の光を反射している。あそこまで行くのは確定だとしても、そのあとが問題だった。


「金、必要だよなぁ」


 俺の知る限り、あの男は割と犯罪まがいの方法で金を稼いでいた。カジノでのイカサマに始まり、犯罪者相手に限定していたようだが詐欺、恫喝、誘拐してきた人間を逆に軟禁して恫喝と、それはもう容赦なかった。


――さすがにやる度胸ないなぁ。


 となると正攻法で金を稼がなくてはならない。ふと、競りを眺めていた。妙な違和感があの中からちらついて、注意深く観察すると、一人の男がやけに浮いていた。競りの商品を見るわけでもなく、明らかにその競りに集まった人間に注視している。巡回に来た軽装の衛兵も、重装の兵士も競りの商品の方を見ていて、その男を歯牙にもかけない。それでも兵士たちの視線が切れたタイミングで手が動いた。


――掏ったな。


 確かに注目は競りの商品だ。あっちの方が盗まれないように警戒するというのも理解できるが、俺に言わせれば甘かった。あれだけの衆目の中で商品を分捕り逃げ切るのははっきり言って不可能に近い。場合によっては盗んだ人間の命が危ない。

 だからこそ、普通は狙わないし、騎士も示威行為のために配置するだけだ。集まってきた人達の方を食い物にしているのは少しばかり気に入らなかった。


「さて、どうするかな」


 結局止めることにした。

 本当は別に無視しても良かったし、ここであの男から掏り取ってもよかった。それこそ掏りと変わらない上に、元の持ち主に返せるわけでもない。バレたときの方が笑えないことになる。そうしたリスクを少しは分析したというのもあったけれど、それ以上に胸中に蟠る不安を少しでも晴らしたくて、少し子供っぽいことをしたくなったということがあった。


 だから競りの商品の方を見ながら男の背後へと近づいた。そして人ごみの隙間を縫って動いた足に、自分の靴を滑り込ませてそのままさらに足を引く。この方が足をかけるよりも重心がズレて転びやすい。踏まれた分だけ足が痛いのは玉に瑕だが、効果的だ。


 口の端から伸びた牙が目立つ男毛深い男。オークと呼べばいいのか、周囲の人間を巻き込んで盛大にスッ転んだ。その時に服を引っ張ってコートがめくると、転んだ時にいろんなものが飛び散った。小銭に鍵、ナイフなんかと一緒に大量の財布が足元に転がる。


「おい、これ俺のだぞ」


 ダメ押しと言わんばかりに叫んでやった。途端に広場は騒然となり、集まった人々が財布を探り、俺のもない、こっちも掏られている、と口にし始めた。そうなったら俺の思惑通りで、オークの男が衛兵に取り押さえられる。


「少しは気分が晴れた」


 それだけ言って広場をそそくさと後にした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ