すれ違い
白い布を少しだけ避けて扉をにらみつける風月。
――庇われた?
脈打つたびに痛む傷口に手を当てながら、消えていった方を見続けた。
「くっそ、背中とはさすがにわけが違うな……。いてぇ」
まるで違う生き物化のように、傷口の胎動が生々しかった。手を当てれば、自分の手が冷たく感じるほどに温度差があり、冷えた手は自分の血液の熱さを知らしめてくる。
じっとりと嫌な汗が浮かび、拭っても、その下からあふれてくる。
――呼吸が整わない、なんだこれっ。
深く気を吸おうとすると、痛みで反射的に吐き出してしまう。痛みと疲労で視界が明滅しだし、気を抜いてしまえば一息に意識を持っていかれそうだった。
それでも、なぜか体は動いた。
白い布を取っ払い、痛みで軋む体を強引に動かしていく。奥歯が砕けるかと思うほど喰い縛り、立ち上がる。それでも身体を壁にこすりつけるようにしなくては立っていることすらままならない。
「貫通もしてないのに、この様、か」
自嘲気味に言う風月。それは自分に対する言い訳だった。あまりにも突然に状況が一変し、身体に得物が刺さったのだ。意識は辛うじてつないでいるものの、肉体の方は限界だった。
今、自分がなぜ動いているのかも理解できないまま、このまま目を瞑ってしまいたい、そんな欲に身体を委ねる理由を探していた。
――笑っていてほしい。
理由は分からなかった。だが、魔の山の夜が頭の中でフラッシュバックしたことだけは確かだった。死を前にした走馬灯かとも思ってみはしたものの、頭にこびりついたのはたったワンシーンのみ。
「ああ、今、笑えてないのか」
どれだけ絶望的な表情をしていたのか、何となくだが理解した。
壁についた手がズキリと痛んだ。
血縛の契り。森神との契約の証。魔の山に道を通し、全てを治めるための切り札。それはこの世界に来てからの一つの折り返し地点でもあった。その証が呼応し、運命に呼ばれるように傷が熱を持つ。
これが何のための旅だったのか。傷を見て思い出す。ここまでの旅路はたった一つ、ティアと交わした約束を守るためだ。
今立ている理由がようやくわかり、笑えた気がした。
「まだだ。こんなんじゃ、呼びやしねえよ」
この傷がミクハによるものだと知ってしまえば泣き出してしまうんじゃないか、そんな風に思うと、森神に頼れなかった。どんな微かなことでも、この真実にたどり着けてしまえそうな事実は嘘でも何でも使って隠し通す。
次の瞬間だった。
月明りに陰が差し、風月の視界を暗がりへと迎えた
雲とも違う唐突な変化に思わず視線をやれば、蝙蝠の翼、それも三メートルを超えるような大きさのものを広げて、月を覆い隠していた。
薄い皮膜は月明りを微かながらに貫通する。その幻想的なシルエットに見とれていたのもつかの間、風月は飛んできた何かに優しく押し倒された。
「誰にやられたんだい!?」
「なんで……」
聞き覚えのある声に思わず声を漏らした。そして目を剥けば、そこにあったのは吸血鬼ティア・ドラクルの姿だった。
「なんでここにいるんだ!?」
ネグリジェ姿でも構わず胸ぐらをつかむ風月。傷口が痛み、出血が、白い肌と服を汚していく。
「どうしてアルトの側から離れたんだ!? 一番安全な場所はあそこなのにっ」
「――っ」
まさか怒鳴られると思っていなかったのか、目を丸くする吸血鬼。同時に唇の隙間から牙が覗く。そこに滲んだものが怒りだと気づいた直後だった。
「君を、助けに来たに決まっているだろう!?」
「……?」
とんできた怒号の意味が理解できずにフリーズする風月。指先から力が抜けて、胸ぐらから手を離す。
「何言ってるのか分からないみたいな顔しないっ、て……本当に分からないのかい? 僕がここに来た理由が」
「だって、お前の目的はティアを……」
「そうだ。この娘を、僕を受け入れてくれたティアを救うことだ。なのに、君が死んだら意味がないだろう!?」
「だから、なんで……」
身体の痛みはあるのに、頭がその熱をわかっていない。それくらい頭が真っ白になっていた。ティアに言われた言葉を風月の脳が理解していないのだ。
「君が死んだら『ティア』が救われない」
その言葉でようやく理解する風月。危険に飛び込んでまで駆けつけてくれた理由。心のどこかで自分にはそんな価値がいないと思い込んでいた風月は、かける言葉を見つけられないでいた。
「僕たちを救ってくれた君が死んだら、助けれくれた君が死んでしまったら、悲しいじゃないか。だから、こんなところじゃ死なせない。絶対に死なせないからなっ」
ポタリ、零れ落ちたものが風月の頬へと落ちて弾けた。ようやくティアが泣いていることに気づく風月。
似すぎている顔に、幼いティアが哭いているような錯覚を受ける。
――そんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
「ごめん、ありがとう」
「それは僕のセリフだ。何にしても全部終わってからだ」
指で涙を拭うと風月のわき腹に刺さったナイフに手を掛けるティア。
「まず抜くよ。僕の唾液で止血できるけど、かなり痛いと思う」
「うっ」
夜に血を吸われたときのことを思い出すだけで苦悶の声がにじみ出る。あまりの痛みに意識をあっさりと刈り取られたことを思い出す。疲労が限界に達していたとはいえ、繰り返し経験したいものではない。
「そんな顔するなよ、ナイフ抜くほうが痛いぞ」
「じゃあ、頼む」
「ほい」
「うぐっ!?」
風月が事前に抑えていたせいで血で濡れた柄は摩擦を低減され、ティアの握力では抜けなかった。どころか通と半端に力がかかりいたずらに傷口を刺激しただけだった。
「あっあ、ごめん」
――舌の根の乾かぬ内にこれだよ。
そう思いつつもさすがに声に出す元気がない。
「お、俺が抜くから……」
木で作られた鍔に指をひっかけて一息で抜き去る、カランと音を立てて床にナイフが転がると同時に、血液が溢れてきた。血液をしたから押し上げるさまは魔の山で見た湧き水を連想させる。
「相変わらず君の血はおいしそうだな……」
「不穏なこと言ってないでいいから早く血を止めてくれ……」
「こっちにもいろいろ準備が必要なんだ。そう急かさないでくれ」
髪が血に濡れないようにかきあげながら傷口へと顔を近づけていくティア。その直後、刺されたときとは全く異なる灼熱の痛みが風月を襲う。
傷口を唇でかき分け、その奥の空気にすら触れない場所を舌がこすり上げる度に、苦悶の声が漏れ、身体が痙攣する。反射的にティアをつき飛ばそうとするも、吸血鬼としての力によって強引に押さえつけられる。
「ぐっ、ぁ……」
身体が自由に動くと気づいた時には、形容しがたい痛みは終わりを迎え、身体の芯から力が抜ける。
「これで血は止まった。でも、血をなくしすぎだな。気分は?」
「あんまりよくない。このまま眠りたい」
未だ聞こえる水音が出血量を連想させ、背筋が凍る。濡れた服が夜風で冷えて体温を奪っていく。
その状況でも使命感が眠りを妨げた。
身体の痛みは消えた。しかし疲労が消えない。重い身体をゆっくりと起こす。
「なんか変に長く聞こえると思ったら、何やってんの」
「こんなにあるのにもったいないじゃないか」
口の周り、そして手についた血液を舐めとるティア。それが血が止まった痕にも聞こえていた水音の正体。一筋の模様を作りながら服を汚し、それすら意に介していない。特に赤いものに忌避感を覚えている素振りが多かったことも合わせると、血に恍惚とした表情を浮かべて艶めかしく舌で鮮血を舐めとる姿には、ミクハが恐怖を覚えたことにも納得ができた。
「早く行こう。でもその前に口拭かないか」
「そうだね」
言い終わるやいなや風月の胸にぽすん、と頭を預け、卸したてが見る影もないほどボロボロになったワイシャツで口を拭う。
「どう、落ちた?」
「落ちたじゃねえよ。これしかない人の一張羅で何しやがる。しかも汚れてないところで吹きやがってっ」
「ボロボロだしいいかなって」
「いいかなじゃねえよ。そこにシーツあるだろうが!」
「……う」
バツが悪そうに目を逸らすティアに風月の視線が突き刺さる。
「シーツは綺麗だったから汚す発想がなかった」
「このやろう」
忌々しそうにつぶやく風月は思い返していた。
魔の山での幼いティアは綺麗に食べていて口の周りを汚すこともしなかった。魚にかぶりついても、どこか気品のようなものがあり、教養が伺えた。にもかかわらずもう吸血鬼のティアは口の周りを汚すことにも躊躇がなく、顔を押し付けて口を拭くという行為を躊躇いすらしない。
その視線に気づいてムっと眉を寄せる吸血鬼。
「あ、幼いほうと違ってマナーがなってないとか思っただろ君。少しくらいなら考えていることは分かるんだからな」
「似てるのは見た目だけかぁ」
「むかっ。いいかい、僕とティアは同じ肉体の中にいる別の記憶と人生を持った全くの別人なんだ。同じだなんて思わないでくれ」
頭では理解しているつもりでも、名前も同じ、見た目もティアをそのまま成長させたような姿なのだ。心のどこかでは同一人物としてみていた。事実、風月は涙を流す今のティアを見て、幼いティアを連想したのだから。
少しだけバツが悪そうに視線を逸らす風月。
「この話を詰めるのは後にするよ。逃げられると思わないように。ほら、立てるかい?」
肩を支えられながら上半身を起こすと、途端に視界が真っ黒に染まる。立っているのかもわからず、眉間のあたりで光が瞬くような眩暈が怒り、今が寝ているのか、身体を越しているのか、はたまた立っているのか、それすらも一切が分からない。ただ、一瞬でも気を抜けば胃の中身が逆流しそうな気持ち悪さに苛まれた。
その後、背中を打つ衝撃によって我に返る。鼓動は早く脈を打ち、呼吸が意識しないうちから浅く早くなっていた。
「ダメか。疲労と出血で限界か……」
「さっきまで、立ててたのに」
「ナイフを抜いたんだ。結構な血が流れてるけど、この量なら失血死はしない。立てないのは出血に慣れてないからだ」
「どうすれば動けるようになる?」
身体を起こそうと肩を支えていたティアの動きが止まる。
「動いてどうするつもりだい? もう戦える身体じゃないのに、そんなに闘志を燃やしてどこに行くんだい?」
「……」
「すぐには答えられないのかい? 答えによっては僕の力で強引にでも止めたけどね。ああ、そういう訳だから答えあぐねているのならもう一つ聞こう。君、ここでなにしているんだい?」
流れが良くないほうへと傾くのを感じる風月。
「ここは一族の犯罪者や表に出せない者を繋いでおくための塔だ。制約があるわけでもないが、ここに幽閉された者は一族のものであることを保証される。あるいは罪があると対外的に示すために使われる。居たんだ、ここに」
どうしてすぐに伝えなかったんだ。
無言だが、攻めるような視線が風月を貫く。その視線を受けてもなお口を開かない。誹りも非難も全て受け入れる覚悟だった。
「伝えるタイミングを逃しただけだ」
「嘘を断つ剣を凌いでも、心を読む力は防げなかったかい?」
風月の急所を見切り的確に抉るために言葉を積み上げていくティア。
「君を刺したのは誰だ?」
口を結び視線を逸らす風月。
この時、この瞬間だけは吸血鬼との目的が相いれない。目の前の女性の目的は風月と共にこの地を去ることなのだ。
姉であるミクハを幼いティアが幻滅してしまえばそれでいい。
「分かっている。でも、僕に言わせる気かい?」
「何が、したいんだよ」
本当にティアと家族を仲たがいさせたいなら素直に口に出してしまえばいいのだ。にもかかわらず吸血鬼はそれを躊躇う。だから風月は目的を問いただした。
「もう、戦わないでくれ」
その言葉は風月にとってあまりにも意外で、目を見開く。
「こんなにボロボロで、そんなになってまで約束を果たしてほしいなんて『僕たち』は思ってないんだ。たかが口約束一つだぞ。魔の山の契約とは違うんだ。破っても何のデメリットなんかない」
風月は気づく。
――今ここで笑えなくちゃいけないんだ。
「別にお前のために戦ってるわけじゃない。だから、さ。そんな自分が悪いみたいな顔しないでくれ」
今にも泣きだしそうな顔をしてほしくないから。『笑っていてほしい』という言葉を思い出し精一杯笑って見せた。
「もう少し、戦いたいんだ」
「う、うぅ……。前に見せてたのはそんな優しい笑顔じゃなかったじゃないか」
口許を覆い隠し視線を逸らすティア。思い通りにならず悔しそうでもあり、同時に照れ隠しの仕草にも見えた。それから風月に向き直ると、瞳が赤く輝く。
「不本意だけど、そういうのなら背中を押すよ」
そう言うとティアは唇に牙と見紛うほどに発達した犬歯をひっかけて浅く裂くと、舌で血を舐めとり口の中で広げる。髪を耳に引っ掛けてそのまま――、ピタリと動きが止まる。
(僕、何しようとしてた?)
一瞬、躊躇いもなしに唇を奪いに行きかけたティアは、我に返って冷や汗を浮かべる。
寸でのところで留まれたのは、吸血鬼の中にいるもう一人のティアにじっと見つめられている気がしたからだ。
確かにもう一人の自分よりも優越に浸りたい気持ちもあり、ある種の抜け駆けみたいなことは少しだけ脳裏を過ったが、それが無意識のままに出力されるとは思っていなかった。さらには、七つ程度の幼子にその心を見透かされていたとは思いたくない。
急に動きが止まったティアに首をかしげる風月にも、ジト目で視線を送ってくるもう一人のティア自身からも誤魔化すように、慌ててナイフを手に取り指に傷をつける。
「僕の血で動けるようになる。君は赤くても抵抗ないんだっけか。ほら」
ティアは鮮血の滴る指を差し出し、風月は顔を背ける。
「血? いきなり何? 赤いものは気にならないけど血液は全く別だぞ」
「え?」
「前旅してたときでも病原菌とか滅茶苦茶気にしてたし。衛生的にあり得ないだろ」
「急に梯子外さないでくれないかな!? というか血液を主食にする奴の前でなんでそういうこと黙っていたのかな!?」
いざ口にする瞬間までそのことが頭から抜けていたから。
さすがに口には出せなかった風月の思考を呼んでティアは口を開く。
「まあ、軽蔑したり怯えたりしてないから、赦してあげる。さ、戦うんだろ」
「うん。覚悟は決めてあるから」
差し出された指に、限界まで体を起こしても口が届かない。にやりと笑うティアに、悪戯されているのだと気づいた。視線を送っても、嗜虐心を煽っただけのようで、血が滴りそうな中指を振るだけで近づけようとはしてくれなかった。だから仕方なく舌を伸ばす風月。やがて冷たい指に絡んだ熱を持つ赤い液体が風月の口の中へと広がり、端から鉄臭さが抜ける。
「吸血鬼の力だ。そのうち、僕の傷も治る。僕の力が大分弱くなってて飲み過ぎても人の枠を外れることはないと思うけど、陽光にだけは気を付けたまえ。日に灼かれて力が消失するときに苦痛が伴う」
風月は言葉を半分聞き流しながら自らの中にあふれ出る力に陶酔していた。痛んだ身体は少しずつだが癒され、微睡みのような心地よさの中にいた。身体が血を求める感覚、それは乾いた喉が水を求める生理的なものに近かった。
対するティアも指に湿った熱を持つ舌が絡みつく感覚に続々と背筋を震わせていた。
つい先ほどまで無意識のうちに手を伸ばすほど欲していた優越。それが血を介して繋がったことで手に入った気がした。惜しむらくは羨望の感情をもう一人のティアが得ていないことくらいだった。
風月の口から指を引き上げると月明りに照らされて掛かった橋が銀色に光る。そのつながりが切れてからティアは口を開いた。
「僕ができるのはここまでだ。どんなに傷ついてもいい、別に負けてもいいと思っている。いざとなったら逃げればいいだけだからね。でも」
そこで言葉を区切って風月の瞳を覗き込む。一瞬、風月の目にはティア達の姿が重なって見えた。
「でも、死んだら絶対に許さない。絶対に許さないんだから」




