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永いひとりの旅  作者: 糸月名
第1章 『窓』
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『窓』


 変わらない日常。それは俺にとって耐えがたいモノだった。かつては違う景色を毎日目に焼き付けて、その中の善悪、偽真、美醜を見てきたつもりだった。少なくとも当時幼かった俺はそれがすべてだと思っていた。


 けれども、生きていくことは小さなときにすべて理解できるほど小さい概念ではない。輪を乱しては生きていけないし、集団の中で生きていく以上、何かに属して生き抜かなくてはならない。あの男が特別だったと知ったのはあの時から数えてそう遠くない事ではあったけれど、この日常に心を少しずつ殺されつつあった。


 朝の日差しがあるとはいえ、まだ風が冷たい時間帯。学校の通学路を歩いていた。というのも、毎日同じところに向かうのは苦痛。同じ場所に帰るのも辛い。今の日常が嫌で仕方がなかった。そんな中で抗うために毎日時間を変え、通学路を変え、高校へと足を運んでいた。今日は別の用もあってだいぶ早くに学校へと向かっていた。


「あ、お弁当……」


 バックの中身はいつも空っぽだ。必要なものはロッカーへと詰め込み、最低限だけを持って帰る。そんなだからバックのプライオリティはかなり低い。ポケットに詰め込んだスマホと財布さえあれば一日をやり過ごすことは充分にできる。

 けれども腹は減る。ほかの日なら構わなかったけれど、今日は夕方のバイトがあった。昼を抜くと夜まで体力が持たない。仕方なくコンビニへ足を運んだ。


 陳列された弁当。それがどれもこれも同じに見えた。唐揚げだのチキン南蛮だのと手を変え品を変え売り出してはいるが、俺にとってはどれも味気なかった。代り映えしない毎日にほとほと弱り切っているというのが大きかった。旅をしていた頃の食事は今でも全部思い出せるのに、日常というモノに圧殺され始めてからは昨日の夕食を思い出すのにも一苦労という塩梅で、食へのこだわりが薄くなった。

 口にするものなんてなんでもよかった。今日という一日が早く終わって、一人で外に行きたかった。そのためにバイトをして備えるのは苦ではない。けれども、この日常が蒸し暑い夜のように息苦しかった。


 会計を早々に済ませて自動ドアをくぐろうとしたところで足が止まる。少し陰りを見せた自分の姿が映し出された。その姿に酷く落胆した。


「情けな……」


 喉から率直な感想が漏れた。

 それからまたいつもの通学路へと戻る。そんな折、革靴がコンクリートを踏む音と共に声が聞こえた。


「おはよう、風月君!」


 良き覚えのある声。少し高く、朝からよく通る声だ。それに名前を呼ばれた。名前すらなかった頃にもらった名前。あの男の偽名だったらしいが、今は大切な俺の名前だ。


「おはようって」


 声をかけられても足は止めない。返事も返さない。会話がそんなに好きじゃなかった。同じような日々の中で同じ人と話し続けたくはない。


「言ってんでしょうが!」


 バッチィィィン、と小気味のいい音を閑静な住宅街に響かせると同時にせき込むほどの衝撃が背中に走る。


「痛いいっ!」

「挨拶はしないとだめでしょ」

「……っ、氷川ァ」


 身体が固くて微妙にさすれない位置がジワリと痛み、悶える。


「おはよう!」

「……」


 顔を見ようとしたけれど、目が合わせられなかった。

 初対面なら目が合う。中学にはいった時もそうだった。けれども、二ヵ月もすれば声をかけるのもかけられることも避けるようになった。その時の癖からか、喋るのがつらい。


 こんなふうに人付き合いの悪い俺に好んで声をかけ続けるもの好きも意外と多いけれど、背後から背中を強打してくる氷川はそういうタイプではない。誰にでも優しく、そのうえ責任感にあふれていた。

 背中の痛みが引いて背筋が自然と伸びると、その姿が視界に入る。長い髪、それにセーラー服。なんというか氷川カナという人間らしい格好だった。


 学校指定の制服ではあるものの、その細部には個性がない。大半の女子がスカート丈を弄り、リボンを取っ払ったりアクセサリーをつけて飾るのに氷川にはそういった、自分のやりたいように自分を演出タイプではない。唯一のおしゃれと言えば前髪を留める三本のヘアピンだけだ。


 だからなのか、第一印象は人間味が酷く薄く思えた。尤も、それは口を開く前までの部分だけだ。一度口を開けばパーソナルスペースを容赦なく侵略するコミュニケーションモンスターで、周囲からの信頼は非常に厚い印象がある。


「お、は、よ、う!」

「……おはよう」


 結局目を合わせ続けられなくて、視線を逸らした。そのまま、氷川の横を通り過ぎる。


――詰まらない奴。


 自分でもそう思う。少なくともこんな態度しか取れない奴に話しかけたいとは思わない。けれども、氷川は大分特異な人間だ。

 すぐさま真後ろまで追いかけてきて「ねえねえ、朝練? 部活やってたっけ? それとも今日の清掃活動参加するの?」とか聞いてくる。


「部活はやってない」

「朝練じゃないのかぁ」

「美化委員でも氷川と違って生徒会でもないので清掃もしない」


 朝の活動と言えば朝練と、ちょうど美化週間とか銘打たれた期間のおかげで単位ギリギリの学生と、強制参加の美化委員と生徒会が駆り出されて校舎周りのごみやらを片さなくてはならない。

 俺はその枠に自主参加するほどできた生徒という訳でもなかった。


「なら何しに来たの? こんな朝早くに」

「数学の課題」


 テキストだろうがプリントだろうが全てをロッカーに封印してきた。当然課題に手を付けているはずもなく、自分の習性のようなものも合わさって朝早くの登校だった。


「ほえー、意外。もっと何にもしないで遊びまくるぜ! みたいなタイプだと思ってた」

「高校まで出してもらっているのに申し訳ないだろ……」

「遊ぶ友達もいなさそうだもんね」


 容赦のない一言に、黙れ、と言いたくなるけれど、事実過ぎてぐうの音も出ない。かといって怒りが湧いてくるわけでもない。友達いないね、なんて言われても心が動かない。


「何よりも、やりたいことがあるんだ……」

「やりたいこと?」

「――――――っ」


 しまった、そう思った。

 旅がしたい。

 その思いを、或いは願いを誰かと共有するつもりはなかった。俺の中にだけある大切なものだったから。口をついて本音が飛び出したところを鑑みるに、存外、氷川には心を開いていたのかもしれない。それでも、我に返った俺はそれ以上口にすることはなかった。

 その気持ちは俺だけのものだから。


 氷川も首をかしげるだけでそれ以上追及してこなかった。

 けれども、氷川は話し相手に飢えていたのか、口が止まることはない。


「いっつもお弁当なのに、今日はめずらしいね。何買ったの?」

「……よく見てんなあ。別におにぎりと飲み物だけ」

「おいおいおい! なんでツナマヨがないのよ! 貴様、ツナマヨに魂打った私の敵か?」

「春を侵食してきた夏にツナマヨはなんか怖い。保存料だとか防腐剤だとか関係なく、午後には二八度を越えるんだ。密閉空間のロッカーにそんなものを数時間も放置するんだ」

「今日もツナマヨを持ってきた私への宣戦布告か!?」

「知らねぇよ……」


 顔を見なくてもわかった。会話を強引に切り上げられて顔をしかめた氷川。ウザがられて会話を強引に切り上げられると膨れるのはいつも通りだ。


「風月君さ、やめた方が良いよ? それ」


 誰とも話を長く続かせようとしない、話を振ろうともしない、その姿勢の事を言っているのはすぐに分かった。


――放っておいてくれ。


 口には出せなかったけれど、そう思っていた。人付き合いが下手なのは分かっていた。旅がなんだとか理由をつけているけれど、結局は人と話すことが苦手なだけだ。むしろ旅をしていたことの弊害でもある。

 多くの人と出会った、多くの人と言葉を交わした。けれども深く掘り下げる時間が手に入るほど一か所に長居することなど稀も稀だ。


 俺には誰かと深くかかわることができなかった。方法が分からないのではなく、単純に怖かった。深く意識しないまま誰かとかかわるという経験がすっぽりと抜け落ちた結果、誰かと深くかかわることに恐れを抱いている。


「その態度はみんなを傷つけてる。中学の時もそうだったんでしょ?」

「……、違う中学なのによく調べたな」


 声が冷たくなったのを感じる。自分でも意識していたわけでもないのに、酷く冷淡だった。思い出したくない出来事もある。その中で尤も忌避したいことに触れられた。何度も喧嘩をした。そこで言葉が同じでも価値観が違えばぶつかり合うことをいやというほどわからされた。結果として一人の人間を殺しかけたのは事実だった。


 何をすればいいのか、どうすればいいのかわからずただ立ちすくむしかなかった。何がしたいのかもわからない苦痛に苛まれた。今では気持ちとの向き合い方を理解しては来たけれど、あの時の事は今も俺の中で誰かとかかわり合いたくないという意志として蟠っている。


「……風月君は、変わらないとだめだと思う」


 ふと、足が止まった。止まろうと思ったわけではないけれど、それ以上足は重くて踏み出してくれない。けれども振り返る分には軽やかに動く足。


「どういうこと?」


 黒く大きな目と視線がぶつかった瞬間、氷川の肩がビクリと跳ねた。けれども視線を外さないその胆力は、距離感をわきまえない発言を乱発するだけはある。


「このままじゃ、ひとりぼっちになっちゃうよ?」


――本当に面倒見がいいんだな。


 誰とでも友達で、誰にでも優しいと思っていた。そんな氷川にこんなにぶつかってくる一面があったことに驚きを隠せない。同時に誰とでも仲がいいというのは、行為いう性格だからこそ信頼されているんだとも思った。


 でも、煙たいとしか感じない。

 俺には何のつながりもない。今までの出会いや関係も、絆や繋がりというにはだいぶ薄い。あの男はどうやって向き合っていたのだろうか? 知っている姿はふらりと現れ何かに巻き込まれ、それをある程度解決してほっぽり出す姿。


 この先は、俺の知ることのなかった世界。そして、これから先も知ることはないのかもしれない。


「もう……」


 言葉が止まる。適当に返答しようとしたけれど、氷川のまっすぐな視線に射抜かれて言葉が引っ込んだ。そして、その瞳に負けて視線を逸らした。


「長いこと、ひとりぼっちだよ」


 あの男と死別してから、誰かとの仲間意識なんてなかった。生きていくための目的すらなく、放り込まれた共同体の中でぼんやりと生きてきた。そんな俺が一人じゃなかったことなんてない。


 生きてきた世界が違い過ぎた。


 奇妙な間が流れる。今にも逃げ出してしまいたかった。けれども足が縫い留められたように動けない。それが責任感だと気づいた時には、鼻をすする音が聞こえた。

 跳ね上げられるように反射的に視線が動くと、氷川の瞳に涙がたまっていた。それを袖で拭い、力強い瞳でまた俺のことを見る。


――そんな目で見ないでくれ。


「風月君が悪くないことくらい知ってるよ。でも、そうじゃないでしょ?」


 中学の時、このなれない環境の中で成果だけを求めていた。あの男が残してくれた知識は学業には十分すぎて、そこまで苦労しなかった。それだけモノを教えることがうまかった。だがそれが不興を買って喧嘩になった。その時のことはほとんど覚えていない。けれども、あの旅を侮辱されたことは覚えている。


 それでも手をあげなかった。相手が手を出すまで待った。それこそ、あの男に倣い徹底的につぶす口実を手に入れるためだけに、歯を食いしばった。

 そして相手が手を出して、そこからはもう我武者羅だった。それまでの旅で培った生き様がそのまま出てきた。あの男は当然誰かを助ける代わりに、誰かを地獄の底にまで落とした。結果として暴力沙汰も多かった。誘拐されかけたこともある。


 このあたりがあの男を最低だと呼ぶ理由の内の一つにもなっている。

 誘拐されたり体格の違う相手に襲われた時の対処はもう抵抗するしかない。噛みつき、殴り、蹴って、必死に逃げる。

 その記憶が俺の体を動かした。

 結果、気づけば数人いた相手は全員倒れてほとんど動かなくなっていた。

 めまぐるしい日常に圧殺され、余裕がなかったことも事実。同時に、相手の言動に振り抜く拳から躊躇が消えたことも事実。

 あの時、どうすればよかったのか俺にはわからない。


「このままじゃ、またああなるんじゃないかって……心配だから」

「そんな風に心配されるほどの仲じゃないだろ……」


 俺の中にある感情は困惑だった。氷川はなぜか親身で、その言葉は的を射ているけれど、俺の中でその言葉を駆けてもらえるほどの関係だとは思っていなかった。


「風月君だけが損するばっかりだよ」

「……」


 声が出なかった。

 誰かに心配されることが今までの経験でなさ過ぎてどう反応していいのか分からない。動揺が隠せない。

 この空気が辛く、視線を下げるが氷川はそれを許してはくれない。無意識だろうが、表情を曇らせた俺の表情を覗きこむように姿勢を下げて目を合わせてくる。


「いきなりは無理だろうけど、少しずつでいいから変わろ? 手伝ってあげるから」


 そういって言いなり俺の前髪をかきあげる氷川。手が目に近くて思わず目を瞑ると、逃避をひっかく感触があった。目を開くと氷川の前髪を留めていた三本のヘアピンのうち、一本が無くなっていて、その代わりに俺の前髪が少しだけ視界にかからなくなっていた。


「風月君の髪はツヤツヤで奇麗だけど堅いね。一本じゃ無理か」


 もう一本取り出して髪を完全に留めてくれる。いきなり髪を触られて少しドギマギしてしまい、やっぱり視線を逸らしてしまった。


「……まずは見た目から。髪留めはあげるね」


 あと、と続けながら氷川は俺の顔を両手でがっしりとつかむ。


「下を向くのもやめること」

「が、頑張る」


 いつもとは違う距離の近さに後ずさり。でもって手が離れたところですぐに口元を袖で覆い隠した。気恥ずかしさとも、何とも取れない感情の名前を俺は知らない。ただ、口角が変な動きをしそうで、それを何となく氷川に気づかれなくて必死だった。


「ちょっと、課題あるからさきにいく」

「あ、待って私も行く――へぶっ」


氷川が鼻を俺の背中に強打する。


「なんでいきなり止まるの?」


 鼻をさすりながらだからか、少しくぐもった声がする。

 けれども俺に氷川を気遣う余裕はない。なぜなら目の前には『窓』があったからだ。

 薄い半透明のフィルムを張ったような膜が水面のように揺らいでいた。その向こうにはコンクリートから急に石畳が広がっていた。坂のような勾配があり、そこからは確かに空気が流れてきていて頬を撫でる。東京の空気よりも気温が低いのか、冷たくて心地よかった。


 ひょこ、と後ろから覗き込む氷川。


「なにそれ……」


 分からない。けれども、俺の鼓動は早くなっていた。今の日常ではなく、変化のある日常を求めていた俺は『窓』の向こうを無意識のうちに渇望する。

 そして、気づけば手を伸ばしていた。膜に触れると指に張り付く感覚と微かな抵抗があり、背筋が緊張で伸びる。


――この向こうに言ったらどうなるんだろう?


 思うよりも早く力を込める。少し押し込むとするりとあっけなく『窓』の向こうへ腕が通り抜けた。緊張を裏切るあっさりとした流れに思わず腕が弛緩する。けれども腕が感じる冷たい空気に、目頭が熱くなるほどの感動が押し寄せてきた。少しずつ指先に力がこもり、形作る握りこぶしから背骨の奥の髄まで感動を味わう。


「風月君?」


 声は聞こえていた。けれども体が反応しなかった。それくらい『窓』に魅入られていた。


「風月君!」


ぐんっ。

 途端に左手を引っ張られて我に返る。


「わわっ、なに、なに!?」

「風月君、大丈夫?」


 氷川が顔を覗き込んできたことにすら気づかなかった。そんな氷川の様子がおかしいことくらいさすがに気づいた。口を開けたまま、それと同じくらい眼を見開いていた。


「そんな風にわら、うんだ……」

「え?」

「あっ、そうじゃなくて、あれは何?」


 そういわれても俺にはわからない。だから肩をすくめた。


「け、警察にっ。それとも消防? どうしたらいいの?」


 それもわからなかった。

 目の前の『窓』は未知のなにかで、どこかにつながっている。俺にはそれで十分だった。


「ごめん、氷川。あとよろしく」

「よろしくって、その向こうに行く気? そんなわからないもの、怖いよっ」


 価値観が違い過ぎて氷川の言葉が理解できなかった。俺にとって未知こそ旅であり、それを最大限味わうために生きていたかったのだから。


「分からないからこそ、行きたいんだ」


 心臓の鼓動がここに留まることを許さなかった。知らない世界がそこにあって、俺にはそこへ向かう足がある。俺には『窓』のこちら側に留まる理由はなかった。

 話していてすら、視線は『窓』を向ていた。だから氷川の手を振り払った。悲しそうな表情に少しだけ心が痛む。あれだけ俺なんかに心を砕いてくれる人も稀で、もらったヘアピンの恩もあった。

 一度だけ振り返り、一言。


「氷川の言う通り、変わってみる」


 ここにすべてを置いていく。そして絆を作ってくれた氷川に言葉を残し、俺は胸の内に熱として渦巻く衝動に身を任せ『窓』の向こう側へと渡った。

 空気が変わった。そして、靴底が踏みしめる感触が変わった。振り返った場所に『窓』はなく、氷川もいない。


 たった一人で知らない場所に来た。

 膝をついて叫びたくなるようなこの感情の名前を俺は知らない。胸の内の熱が今にも暴発しそうで必死に心臓を両手で押さえつける。


「ようやくだ。よくやく俺の旅が見せられるよ」


 この俺、風月凪沙の旅が今始まった。



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