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永いひとりの旅  作者: 糸月名
第1章 『窓』
18/37

立場と正しさ

 そぼ降る雨が地面へと届く音。地面へとぶつかる前に腐った葉や、岩に生す苔、木々に遮られ、地面に吸い込まれる頃にはしとしととやさしい音になる。

 その音が耳に届いたのは馬車の側面の扉が開け放たれたからだ。内部の暖かい風が抜け出し、気流が生まれ、肺を冷やすような涼しい空気と共に、嗅ぎなれない土の香りが馬車いっぱいに広がる。

 コンクリートに囲まれた場所ではまず嗅ぐ事のない匂いが新鮮だった。

 山の冷えた空気が頬を撫でて瞼を上げる。


「っっっ」


 寒さに肩を竦めつつ、ぼやけた視界の焦点を合わせると口を堅く結んだアルトがそこにいた。


「起きろ、もう昼下がりだ」

「……」


 拒否しようとして、喉が渇き声が出ないことに気づく。仕方がないと、光を避けるように寝返りをうとうとして、腹部に乗っかったティアに気づく。ティアは今も寝息まじりの呻き声お上げて目をこすっていた。

 青い髪が首や腕に張り付いていることに気づく風月。

 寝ている間に流した汗。暑かったという感覚は風月にはなかったが、今は濡れた身体を冷気に撫でつけられ反射的に縮みあがる。


「さむ、い」


 無意識のうちに体温の高いティアを抱きしめて暖を取り出すと、ティアと目が合った。昨夜の煽情的な姿はどこへやら、幼さを飾るようなドレスを纏っていた。


 皺になったな、ごめん。


 眠気から口には出さないが妙な罪悪感に苛まれる。それを振り切るように目を瞑ろうとした。瞼の隙間から白い牙を見せてティアが微笑んだ気がした。そして瞼が閉じ切った時だった。


「首、怪我していたのか?」


 その一言で昨夜の幼くないティアに首に噛みつかれたときのことがフラッシュバックした。意識を失う瞬間の痛みと喰われる悍ましさ。鏡に映った自分が、自分でなくなるかのような不安に襲われ身体が跳ね上がる。


「大丈夫か?」


 諭すように静かなアルトの声が聞こえているのに脳が理解しようとしない。抱きしめたティアの温度を感じながら、その内心は冷え切っていた。先ほど笑ったように見えたティアは突然抱きしめられて困惑したまま風月の顔を覗き込んでいた。


――ずっと、監視されていた。


 首に伸ばした手はやはり、傷を見つけられない。それが、不安でたまらなかった。首の傷があるはずの部分をかきむしる。

 監視されている。そう感じるほどの湿度の高い視線がずっとまとわりついている気がしてならない。

 首に血が滲み始め、見るに耐えなくなったアルトが手首をつかもうとしたその時だった。


「なぎさ?」


 ティアの声で我に返る。ヒリつく首をさすりながら、張り付く喉でを唾液で湿らせてから声を絞り出す。


「大丈夫だ」


 その言葉を聞いてもティアは少し不安げな表情をしていた。


「なら、起きろ。飯だ。聞けば昨日から何も口にしていないらしいな? 先は長いぞ」

「ごはん!」


 先ほどの眠たげな眼はどこへやら、元気に飛び上がり、小雨の中を走っていった。


「食欲が湧かないんだ。何よりも寒い。雨に濡れたくない」

「寒い? そんなはずは」


 ない。

 そう言いかけて口を閉じるアルト。

 馬車は大破した物とは違い、荷ではなく人を運ぶためのものだ。空調も完璧に管理されている。特に、護衛任務で王族すら乗せることもある特注品だ。内部の空間すら魔術により広げられ、くつろげるようになっている。それで寒いなどあるわけがないのだが、この馬車は血に反応する。

 王侯貴族、長老院、神域の騎士など、位の高い者に反応して空調などが管理される。この場で最も上位に位置するのはティアだ。ゆえに、子供特有の高い体温に空調が合わせられていれば多少肌寒くは感じるかもしれない。


「いや。とにかく、何か食べて体温を上げろ」


 ばさり、風月の頭に黒い布が蹴られる。それが昨日脱ぎ捨てた学ランだと気づくのに時間がかかった。


「まだ四月なのにこれまた立派なトンネルが。肩まで通せるぞ……」


 高速道路を連想するような速度で石畳に擦り、魔獣に引っ張られて見るも無残な姿になっていた学ラン。とはいえ、留め具を粉砕して釣り針に使ったりしたのも風月なのであまり文句も言えなかった。


「思い出したら背中が痛くなってきた。その原因が……」

「口が回るようになったな、クルス女史も待ってる。随分文句があるみたいだから、話が長くなるぞ。寒いならとりあえず火にでもあたりに行け」

「殺されかけた相手に気遣われるのは変な気分だ」

「……、お前にはこっちが先か」


 アルトが馬車に乗り込み扉を閉める。

 鎧やマントから水が滴り落ちて、馬車の中を濡らす。


「風月凪沙。お前のやったことは何一つ間違っていない。ティア嬢を助けられなかったのはこちらの落ち度だ。あと一つ間違っていれば、取り返しのつかない事態になっていた。守護する者として感謝する」

「それで? ずっとプライドの高かったお前が、扉まで閉めたんだ。別の誰かには聞かれたくないんだろ」

「ああ。正直、こんなことはしたくない。だが、お前はあの時躊躇わなかった」

「どのとき?」

「奴隷商からティア嬢を買う約束を取り付けたときだ。頭を下げると思わなかった。ティア嬢を命懸けで助けるとも思わなかった。助けに来て『借り』を全部返すつもりが、邪魔にしかなってなかった」

「言いたいことは何となくわかった。でも『借り』なんて知らないぞ」


 表情を意図的に出さないようにしていたアルトの顔が曇る。


「そう思っているのはお前だけだ。四大貴族の一角が崩壊するような事態は避けなくてはならない。完全に回避したとは言えないが、首の皮一枚繋がった。お前がつなげた。神域の騎士は国を守護する役目を負っている。奔放な奴もいるがな。それでも、絶対に守らなければならないラインというものは存在する。本来は、こうなる前に我々が止めなくてはならなかった」


 それがアルトの言う『借り』の正体。

 まっすぐ走ってきた風月には見えなかった視点だ。


「あの状況で、手元にあった情報からなら、幾度でも同じことをする。何か一つ違えば、もっとスムーズに進んだかもしれないし、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。だとしても、今振り返れば私の行動は間違っていた」


 面倒くさい。

 それが風月の偽らざる気持ちだった。飯があるのなら早く食べたいし、調子が悪いから、眠って回復したい。そうした気持ちが先行していた。

 だから、言いたいことを遠回しに伝えるために小難しいことをこねくり回して、結局はお茶を濁してしまうような態度に見えていた。話の長い校長の姿が被った。

 次の瞬間、風月の浮ついた気持ちが一瞬で吹き飛んだ。


「ティア嬢を守ってくれて感謝する。それから、刃を向けてすまなかった」


 すっ、と。

 目を伏せて頭を下げるアルト。


「――っ」


 役職に似つかわしくない態度に風月は言葉を失った。

 何よりも、優れている、あるいはそう思っている人間ほど、こういう個人的な場で頭を下げるイメージがなかった。かつての教師がそうであり、モニターの向こう側の人間たちがそうだった。いつも、被害を与えただれかではなく、その保護者やカメラ越しの映像を見る不特定多数の誰かにだけ謝罪していた。


 そうした姿がアルトと重ならない。


 目を瞑れば目前に迫った死を回顧できる。その時に負った痛みのいくつかは未だに体を蝕んでいる。身体を通り抜けた冷たい刃の感触はトラウマといっても差し支えない。

 そのうえで風月は頭を下げたままのアルトを見て思う。


――ここまでした誰かを赦せないような自分になりたくはない。


 だから、何も言わずに赦そうと思ったのだ。


「いいよ別に、気にしてないし。俺も殴ったりしたし、馬車盗んだし、挙句大破させたし……ごぶっ」


 自分の罪状を並べていき――そこでアルトが風月の顎を軽くかち上げた。


「謝るな。お前を裁く法はこの国には存在しない」

「間違ってないなら何をしても言い訳じゃないだろ」

「だがお前はやった。全てが好転した。お前の国じゃ違うんだろうが、この国じゃ結果がすべてだ。どれだけの実績を重ねようが、負ければすべて失う」


 国家があり、法があり、それらが掲げた方針がある。それを個で覆しうる力を持つのが森神だった。森に道を通そうとして阻止する側が勝てば、まかり通ってしまう。

 この世界は風月が考える以上に単純だった。

 カタチはどうあれ個が力を持ちやすい、弱肉強食の世界。


「分かった、ならお前に『は』謝らない」

「どういう意味だ?」

「お前なんかよりも迷惑かけた奴がいる。俺には理解できなかったけど、家のために必死だったんだ。だから、アイツに先に頭を下げないと」


 冷える体を守るように学ランに袖を通していく。寒さを覚悟して扉へと手を掛けた。


「必死、か。それはお前もじゃないのか? ティア嬢のために神域の騎士相手に大立ち回りをしたんだ」

「自分のためだ。そうしたいと思ったから、俺はここにいる」


 丁寧に鑢掛けされた手触りのいい扉を押して開くと、冷気が汗で湿った首筋から熱を奪っていく。


「寒いな」


 季節は春。王都にいたころはまだあたたかな陽気をその身で感じていたはずなのに、日がなくなっただけで魔の山は秋のような寒さだった。


「馬車の中はまだ暖かかったのか」


 小雨だが粒の大きい雨が穴の開いた学ランに染みこんでくる。鬱陶しそうにどんよりとした空模様を見上げる風月にティアが手を振る。そこでは小さいながら火が起こされていた。

 マスキングしたかのようにくっきりと色の分かれた地面で、乾いているのが分かる。


「よく火が起こせたな」

「昨日の内から拾っておいたからね」


 空が木陰に隠れ、その隙間を埋めるように、見覚えのある色合いの布が張ってあった。その下へ避難すると、火にあたるために膝をつく。


「これ、昨日の馬車の幌か?」

「即席だったけど、雨除けにはいいでしょ。というか、火を起こしたのも魚とったのも幌張ったのも私よ。アンタも手伝いなさいよ。騎士様も野宿の事となると意外と役に立たない……」

「まあ、できなさそうだもんな。そんなこと言って大丈夫か?」

「大丈夫よ。騎士様は魔術系貴族だから高慢ちきな騎士系貴族とは違ってこの程度で怒らないし、少しの免罪符は得たもの」


 免罪符、それの意味するところを風月は理解できなかった。


「騎士系だとなんかあるのか?」

「この国は騎士の国よ。騎士系はどいつもこいつも態度がデカいのよ」


 アルトの技術を目にしたのはほんの数回。それも馬車で逃げているときや森神と戦っているときなど、観察する時間はほとんどなかった。それでも分かることは、踏めば折れてしまいそうな細剣で魔術防御の施された馬車を切断し、森神の一撃をいなし、環境を破壊するような戦闘を潜り抜けてきた。

 剣気がどれほど人外染みた力を発揮しようと、その技術だけは別だ。騎士の家系ではないにもかかわらず、あれだけの技量があることに違和感を覚える。


「ほら、魚焼けた」ティアと風月にそれぞれ差し出される川魚。「昨日の仕掛けに掛かってたやつよ」


 ヒレや鰓の部分を塩でコーティングしなかったのか黒く焦げているが、その香ばしさに喉が鳴る。

 食欲はなかったのに空腹から思わず受け取ってしまう。


「たぶん、いくつかは仕掛けに掛かったやつじゃないな」

「そうなの?」

「魔獣たちが遊び半分で魚を掛けたんだと思う。仕掛けてからすぐに掛かるなんてあり得ないし、一匹は頭貫通して針じゃなくて枝に刺さってたから」

「ずっと監視されてたのか。そう考えるとあの子たちは運がよかったわね」


 そういって視線で指示した先には大きな駆竜達がいた。身体は細かな傷だらけで、噛み痕も残っていて痛々しい。しかし、確かな生命力があった。


「生きてたのか……」

「ボロボロだったけど、足の腱も無事だったし、出血も見た目ほどひどくないわ。あの分厚い脂肪が守ってくれた」

「……アイツらも労わないとな」

「労うというならあなたが一番先よ」


 クルスは険しい顔で、湿った緑色の髪を整えながら言う。その隙間から頭に巻いた包帯が見えた。ダメージが抜けてないのは風月だけではない。


「昨日、死にかけた状態で、何も食べずに、そのまま気絶した。いつ死んでも可笑しくないわ。午後も寝てていいから今は食べなさい」


 昨日までとは違う、それが風月がクルスに抱いた印象だった。

 脅されて半泣きだった第一印象の時から冷静になって自分の立ち位置を見直したのか、今は凛々しかった。年上という感覚はなかったが、今は年齢差を感じるほどの頼もしさがある。

 この感覚に安心して肩の力が抜けた風月。昨日は殺し合ったのに、今は差し出された魚に齧りつこうとしている。


「……」

「どうかしたの?」

「食べるよりも先にやることがあった。クルス、話があるんだ」


 口をへの字間に曲げるクルスの隠しもしない不機嫌な表情を見て、身体の芯に力が戻る風月。


「昨日の――」

「黙ってよ」


 何を言おうとしているのかクルスは見透かしていた。

 言葉を紡ぐことも許さずに風月を牽制する。


「絶対に謝らないで。それは卑怯よ」


 声が揺らいだ。喰いしばった歯の音が聞こえてくるほど、怒りに打ち震えていた。


「暴力と法律と権力に守られているあなたからの謝罪は押し付けでしかない。それがなかったらとっくに石を投げつけてる」


 何を言われているのか風月には理解できない。

 クルスの言う『守られている』の意味が理解できずにいた。


「分からないの?」


 謝るなと釘を刺されてしまえば風月は何も言えない。

 乾く唇を舌で濡らし、クルスの指摘を待つことしかできない。


「森神も、騎士様も、それから……四大貴族も。全員があなたを必要としてる。敵に回せない。そんな人からの謝罪なんて脅迫と変わらないじゃない」


 クルスの立場からの声を聞いてようやく、アルトの言葉の本当の意味を理解した。

 結果がすべて。

 それは風月がクルスの家を犠牲にすることで、結果として得た力だ。風月の持つ個人のものとして不自覚のままに振るわれている。

 理解してしまえばもう、違う意味で謝れなかった。


 魚を遠火の場所に刺しなおして、幌で隠された空を仰ぐ。

 負傷したクルスが昨日馬車の中にいなかった理由は、おそらくそういった力が関係していたはずだ。守ろうとしてくれた風月を殺そうとしていたクルスは、ティアが反対してしまえば馬車に乗れない。

 風月のいた世界よりも単純であるはずなのに、正しいことが分からなくなっていた。


「失敗した」


 ぼそり、無意識のままにこぼれた言葉。本当に微かに、雨音にかき消されそうなほど小さな声だったが、確かにクルスは聞き取った。


「笑えてないじゃない」


 クルスの言葉は風月には届かない。


「少し、頭を冷やすよ」


 そういって膝に力を込めたとき、ふいに袖を引かれて、視線を落とすとティアが風月の顔を覗き込んでいた。

 相変わらず品よく食べていて、口の周りも、指も油で汚れていなかった。


「食べないの?」

「うん、大丈夫だ」


 風月の言葉とは裏腹に、ティアの赤い瞳は不安げに風月を見上げる。

 家族に会いたいと言ったときでさえ、こんな表情はしなかった。その事実が風月の胸に痛みを刻む。


「じゃ、二度寝してくる」


 するりとティアの手は風月の袖を離れた。

 そして。


「あ」


 気づけば視界が明滅し横倒しになる。身体が動かず、地面に倒れたときの痛みすら鈍い。

 同時に、この感覚に覚えがあった。


(長風呂した後の立ち眩みだ)


 追加で貧血と栄養不足のトリプルパンチなのだが、本人は身体の自由が利かず茫然としていた。そのそばで駆け寄ったアルトや身体を揺するクルスが見えていたが、耳鳴りで音が聞こえなかった。


 吐きそうだ。


 言いようのない気持ち悪さと共に、風月の意識はそこで途切れた。

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