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永いひとりの旅  作者: 糸月名
第1章 『窓』
15/37

死力

 馬車まで八メートル。

 月明りの中、ほとんど動けないクルスに肩を貸しながら駆け出した。


「くっそ、重い!」


 体重を完全に預けてくる相手は想像以上に扱いずらかった。腕の下に首を通し、腰に手を回してベルトをつかみ全体重を持ち上げる。それだけでまっすぐ走れないのだ。たった八メートル。歩いても五秒とかからないその距離が、果てしなく遠く見えた。


 そして背後も警戒しなくてはならない。

 肩越しに視線をやれば、地を這うように魔獣が駆けだしてくるところだった。狙いは当然足手まといのクルス。いやらしい動きをしてくることに躊躇いがない。


 靴底を立てて飛びかかりの鼻っ柱を潰し、痛々しく漏れる魔獣の悲鳴。それでも推定三〇キロ近い巨体の突撃に風月の身体は前につんのめる。風月とクルスの体重を合わせても耐えきれなかった時点でその膂力は推して知るべし。


 倒れかけながら足を前に出して体重を支えると、膝からミシリと軋みような感覚が響く。同時に体がクルスに引っ張られて右へと倒れかける。


 一瞬気を取られた隙を魔獣たちは見逃さない。

 左手の木陰の闇から灰色の体毛の魔獣が四肢で大地を蹴って、一直線に風月の首へと飛びかかってくる。


「――やばっ」


 クルスの腕を離し、左手で迎撃する。風月自身、なぜそんな選択をしたのかわからない。ティアを守ることだけを考えるなら、クルスは盾にした方がよかった。ほんの少し前ならそうした選択を取っていたはずだ。そして今頃馬車についていた。だが風月の身体が反射的にクルスを庇った。そのまま左手を大きく振って、皮膚と、少しの肉、学ランの袖を持っていく。

 弧を描くように魔獣は風月を引き倒すために車のような力で服を引っ張っていく。


「――邪魔、するなァっ」


 留め具を全て壊していたことが幸いした。

 腕を引き抜いた時に、もう片方の腕もクルスを落とさないように気を使いながら、学ランを脱ぎ捨てる。


「欲しいならそんなもん持ってけ!」


 背後から聞こえてくる学ランをぶん回す音をよそにさらに前進する。

 多くの魔獣がアルトを追い、それに助けられていた。さらには闇の中へ引きずられて行く駆竜たちも魔獣の数を減らしていた。風月が相手にすべきは三匹。内二匹は風月の背後に。最後の一匹はティアのいる馬車に顔を突っ込みかけていた。

 目視した瞬間、風月がキレた。


「退けええええええ!」


 足を引きずっていたクルスを完全に腰に引っ掛け走り出す。痛めた膝が発する熱を無視し僅かな時間の全力疾走。サッカーボールでも蹴り込むような、それも二人合わせて一〇〇キロ近い体重が乗った一撃。悲痛な声をあげて、おそらくは魔獣の肋骨を何本も粉砕した。

 鼻を靴底で迎撃したときにはあった。容赦、あるいは手加減のようなものがなりを潜めた容赦ない一撃。

 運動エネルギーを受取った魔獣の体躯が浮き上がり、一瞬の停滞の後、地面へ墜落する。その四肢で地面をつかむこともなく沈んだ。

 クルスをティアが寝ている座席とは反対に押し付ける。そこでようやく息が吐けた。額の汗をぬぐい、大きく息を吸おうとするが、整わず小さな呼吸を肩でしていた。


(休むな、休むな! ドアがないんだぞ!)


 一先ずの安全など、確保できていないのだ。ここはあくまで魔獣が襲ってくる向きを一つに絞れるというだけだ。

 疲労による呼吸困難と空腹を訴えてくる身体に鞭打って昇降部に立ちはだかる。

 そして風月に対峙するのはあばらを圧し折られた魔獣。震える足で何度も地面に倒れそうになりながら立ち上がっていた。


「お前が来るのか……」


 風月のつぶやきに答えるように、血に濡れた牙を剥き出しにして飛びかかってくる。反射的に出した右腕に噛みつき、そのまま風月と一緒に馬車の中で転がった。胸部に掛かる重さで肺の中の空気が一気に吐き出される。

 そして腕に走る激痛。魔獣の咬合力を風月は見くびっていた。子猫ですら本気を出せば人間の指を噛みちぎるくらいできる。風月と同体重、あるいはそれよりも重い魔獣なら、手首くらいかみ砕くのは容易い。今も風月の手首が繋がっているのは腕輪のおかげだ。それでも、腕輪の円形が楕円に歪み、風月の腕を圧迫する。さらには腕輪からはみ出した歯が手の皮膚を食い破り深々と刺さっていた。


「離しやがれ……っ」


 胸部の圧迫で呼吸すらままならない。それでも歯を食いしばり、身体をひねって膝を肋骨の折れている場所へ叩き込む。

 魔獣は風月の膝を嫌い、そして有利な位置へ移動するために風月を引きずる。


(折れてんだぞ!? 何処にこんな力が残ってやがる!)


 地面との摩擦をもろともせずに引きずられ、このまま行けば風月は無防備なまま複数の魔獣に食い散らかされる。そうなればティアを守れなくなる。

 肘が伸びきればもう抵抗ができない。それを避けるために昇降部に右手を引っ掛ける。

 一瞬でも気を抜けば腕ごと引きちぎられそうだった。それよりも先に指が脱臼し、風月は月光の下に引きずり出されることだろう。そうなれば絶対に勝てない。武器がなく、一対一では魔獣に勝てないのに、外には三匹いる。

 こうなったら自棄だった。


「がう」


 顔の間近にある魔獣の鼻先。そこに犬歯を突き立てる。そのまま噛みちぎるつもりだったが、神経の集まる部分への攻撃に耐えられずに魔獣のほうが逃げ出し、鼻先の皮膚を少し削れる程度にとどまった。


 ペッ、と口の中の皮膚片を吐き出す。

 万力で骨ごとゆがめられたかのような痛みが走る手首を睨み舌打ちを一つ。神経が圧迫されているのか、指が痺れて満足に握れない。

背中の痣、満足にものを握れない利き腕、今にも眠ってしまいそうな疲労に、気力がわいてこない空腹。理由はたくさんあった。今すぐに全部投げ出して寝たかった。それでも、諦める気にならなかった。


(約束を、守らないと……)


 誰との約束を守るのか。それを明確に意識した瞬間、風月の身体が跳ね上がった。視界の外から馬車の中へと飛び込んだ魔獣の身体を左腕が絡めとり、奥へ行く前に押さえつけ、床にたたきつけられる。

 明らかに人間の反応速度ではない。

 見えていないものに反応した。今度は理解した。アルトから逃走するときに味わった自分の身体が意図せずに動く感覚。これで二度目。仰向けに転がったまま、窓から差し込む月光の眩さに目を細める。


 そして、見てしまった。


 血を思わせる深紅の双眸が風月を見下ろしていることに。眠っていたはずのティアが上体を起こし、静かに風月を見つめている。表情は月光で影になっていて伺うことができないのに、瞳だけは妖しく輝き、何らかの感情をこめた視線を風月へ送っていた。


「……」

「……」


 一瞬、魔獣を押さえつけていることも、呼吸すらも忘れて魅入ってしまう。

風月の意識を引きずり戻したのは一瞬遮られた月光だ。窓のすぐ向こう。ガラスを削るかのような距離を何かが吹っ飛んできたのだ。

思わず昇降部から何が飛んできたのかを確認しようとすると、鼻先に齧りついた魔獣と背中に学ランが掛かった魔獣と目が合った。


「あぁ、やっべ」


 そんな風月の静かな声に呼応するように魔獣たちが動き出す。それは風月に対するアクションではなく、何かに対するリアクション。魔獣の向こう側に青い光が灯っていることにようやく気付く。


 窓から差し込む月明りを遮ったのはアルトだ。

 砲弾のような速度で飛んできて、衝撃を全て地面に逃すように受け身を取ったと風月は理解することもできないだろう。そもそも、アルトが殴られて吹っ飛んだなどと思いつきすらしない。風月が見てきた存在の中で、間違いなく最強であるという信頼があるからだ。


 そんな信頼をかき消すように衝撃波が駆け抜け、大量の土砂がまき散らされる。魔術的防御が成された馬車でも砂の侵入は防げず、思わず盾にした魔獣がぺっぺと砂を吐き出していた。風月が砂除けにした魔獣の後ろから外をのぞくと、森神の腕が肘まで地面に突き刺さっていた。

魔獣の方も今の一撃に怯え切って尻尾をまたの間に巻いていた。支えている手にも恐怖で震えあがっているのが分かった。


「おい、嘘だろ……」


 思わず声が漏れたのは森神の双眸と目が合ったからだ。神域の騎士すら凌ぐ怪物に狙われる、それだけで震えあがりそうだった。

しかし、狙いが移ったのはアルトが仕留められたからではない。そのことに気づいたのは青い光が尾を引き、風月と森神の間に立ちはだかったからだ。マントや鎧の所々に砂がついているが、出血や傷はなく疲労もない。


 最高戦力は未だ健在。だからこそ、森神は突破口を風月たちに求めた。致命傷は望めず、それどころか技量の高さのせいで攻撃が交わされ、受け流され、小石の一つすら掠らせることすら敵わない。


 それはアルトも同じだった。

 人智を超越した力を引き出す剣気。それを纏ったアルトの剣は大木を切断し、その風圧だけで地面をめくり返す。だが、森神の白い体毛は刃を受け止め、剣気を散らしてしまう。

 互いに決定打を失った二人は対峙する。


「弱者をむやみに殺さないだけのプライドがあると思っていた」

「儂は貴様が思う以上に風月凪沙という男を高く買っている。それだけだ」

「アイツが一体何をやった?」

「貴様らには終ぞできなかったことだ」


 森神がこの森の首魁となり棲みだして一〇〇〇年。その間ただの一度として交渉を持ち掛けてきた者はいない。尤も、一度攻撃された以上受け入れるつもりなど、森神にはない。今でもそう思っている。風月の言葉を聞こうと思ったのは、森を気遣う所作だった。草を徒に踏みつけず、森を視ていた。おそらくは、そこに込められた意図を読み取っていた。森神はそれを観察するだけで理解してしまった。

 手入れを怠らず、隅々まで管理し、生態系を広げる。山の広さを考えれば一〇〇〇年という時間はあまりにも短く、それをこなしてしまった森神の手腕はまさしく人間を超越していた。その一〇〇〇年は激務だったと言えるだろう。その苦労の一端を感じ取ったかのような所作が少なからず嬉しかったのだ。


 言葉を交わすきっかけはそんなくらい単純で、あとはメッセンジャーを探していたという事が背中を押した。本当にそれだけなのだ。

 思い出して森神は笑う。


「何がおかしい?」

「貴様も風月凪沙に『何か』してやられた口かと思ってな」

「――っ」

「愉快、愉快だ。一〇年前の神域の騎士の誰と比べても引けを取らない貴様が、誰よりも弱いあの男にやられたのかっ」


 風月は想像以上の高評価になんかくすぐったい気持ちになり、同時にティアを守ろうとした行動が褒めたたえられたような、誇らしい気持ちになった。思わず上がりかけた口角を隠すように魔獣の毛に隠すが、あまりの獣臭さに顔を顰める。


「神域の騎士は国家最強戦力だ。街中で気軽に暴れられる立場ではない。そして、時間だ」


 バチバチと火花を散らす雷光が幾重にも重なった魔方陣を描き出す。そのすべてが立体的で、左右非対称、その枷が一つづつ砕けでいく。


『オルガノン承認。オレウス承認、アカネ承認、シュタイン承認』

「八時間くらい、か。まあ、早かったな」


 アルトの言葉から硬さが抜ける。

 国家の魔術による縛り。この国土を踏みしめている限り、いくつかの例外はあれど、神域の騎士は全力を出せないようになっている。この山も未踏領域とは呼ばれているがクラリシアの国土なのだ。

 正式な手続きを経る場合、解除するには王族、長老院、四大貴族、神域の騎士の中で四人以上の承認が要求される。その準備に最速で八時間。

 過去には半年を要したこともある事実を鑑みれば、アルトの早いということばも頷ける。


「幾度も見たぞ、その『枷』」

「なら、コレが最期だ」


 風月の耳に辛うじて届いた会話。


(街中のが本気じゃないとは思っていたけどまさか、今の間今まで手加減してたとか……)


 戦いの余波だけで死を覚悟するが、現実は甘くない。そんな小さな覚悟は一瞬で霧散した。

 最初に察知したのはアルト。

 その場から飛び退き、次の瞬間爆発するような勢いで地面をえぐり返しながら樹木が発生した。


「――は?」


 風月にそれを脳で処理する余裕などない。なぜなら、風月たちの乗る馬車すら高く持ち上げられたからだ。林立した樹木が互いの幹を呑み込み合い巨大に成長していく。

 シーソーのように不安定なカタチで持ち上げられて馬車が傾いていく。それも扉がなくなった開口部の方へ。


「お、お、おおおお?」


 やがて重力に対して摩擦が足りずにずるずると滑り落ち、下半身が膝まで支えがなくなってからようやく風月の脳が動き出す。


「おおおおっ!?」


 ぬいぐるみのように抱えていた魔獣を放り捨て両腕を開口部に引っ掛けて辛うじて落下を避ける。


「いでででっ」


 腹部に鋭い痛みと重量がのしかかり、いい気に真下へと引っ張られる。

 思わず視線をやれば、魔獣が爪を立ててワイシャツを裂きながらベルトまで滑り落ち、そこで必死に掴まっていた。

 気づけば五メートル以上も持ち上がっており、今も不安定なまま上昇を続けている。この高さで鼻を叩き潰して地面に叩き落すこちにわずかながら躊躇いを覚えた風月は右腕に全体重を預けた。


「――墜ちろっ」


 左手だけでベルトを抜き取り、支えを失った魔獣が真っ逆さまに落ちていく。

 痛そうな生々しい音が風月にまで届いたが、『実際やってみたら大したことなかった』みたいな調子で起き上がり土を払う魔獣。


「無事なのかよっ」


 気を使ったことを後悔しつつ、左手をかけなおす。だが腕輪で圧迫された右手の踏ん張りがきかず、馬車の上へと上がれない。

 疲労した体では、筋力も気力も足りなかった。


「う。あぅ……」


 呻くような小さな声に風月の背筋が一気に凍り付く。それは本の一時とはいえティアのことが頭から抜け落ちていたからだ。

ティアはほぼ垂直まで傾いた馬車の座席で額を打ち付けたのか、月明りの下でもうっすらと赤く見えるおでこをさすりながらひじ掛けにおしりをのっけて涙目になっていた。


「ティア! 怪我は、傷はないか? 大丈夫か!?」

「いたぃ……」

「待ってろ、危ないから動くなよ……」


 馬車を持ち上げる木を靴底で踏みしめて馬車に昇り始めるが、その時、右足に何かに絡みつき身体が縫い留められる。あまりにもがっしりと、それこそ、大地と遜色がないほどの安定感をもたらしたそれは樹木だった。木の洞に挟まった足は、今も成長を続ける大樹によって締め付けられると同時に、風月は真下に引っ張られ始めた。成長速度の違いが如実に現れ風月はとうとう馬車から千切られる。


 やがて大樹の成長が止まり、馬車も風月も上昇を止めた。頭上二メートル。魔獣の脅威は去り、とりあえずの延命をした。だが、これ以上打つ手がなかった。足が挟まれ、ティアとも分断され、武器もない。ただ体を空中に身体が投げ出されていた。ひざ下では様てた脚は右腕の血流が止まり、そのうち痺れが回るだろう。少しでも負担を減らすために大樹へと身体を寄せて下を覗くと目測一〇メートル以上も押し上げられていた。高すぎるビル以上に落ちたときの生々しさがあるこの高さに体が竦む。その真下には、アルトと森神の姿はなく、魔獣たちが風月を見上げていた。


 森の木々の隙間から漏れ出る青い光と、月明りを受けてようやく視覚化される土煙によってのみ、怪物たちの居場所が特定できた。

 足が嵌ったことが幸運だったのかどうかも分からない。だが、安全圏に上がれたことは間違いなく幸運だった。僅かな余裕ができたことも事実。

 魔の山の木々よりも頭一つ抜きんでた高さにまで成長した木は風の影響を受けて大きくざわめく。今まで森が受け止めていた風をもろに受けて突き刺すような寒さに身を震わせる風月。ワイシャツには辛い寒さだった。


 圧迫されて血が止まって感覚がなくなってきた右手とは違い、左の掌が把持する木の感触に違和感を覚える。

 木というより壁紙のような手触り。木皮の凹凸の均一さが風月の指を誤認させた。

 乾燥による亀裂も、年をまたぐ寒暖差による木の詰りもなく、どこか作り物じみた木の印象があった。


「これって、森神の力、だよな……」


 そう零した風月の脳裏に思い浮かぶのは川で触れた木の枝だ。ざらつき、木の皮はひび割れて浮いている部分もあった。冬眠する虫たちが入り込む隙間だ。木の根元には菫のような白に近い薄紫の花が咲いていて、苔生した場所が多くあった。

 どれがどういう訳か、目の前にあるのはつまらない木だった。

 木を生やし、成長させる。その力があればこんな森は容易く作れる。にもかかわらず、この山にその痕跡はない。


「この山って、本当に一〇〇〇年かけて作り上げたのか……」


 月明りが照らす山は広大で、稜線が地平と交わるところまで森が続いている。

 脱帽、その言葉が相応しかった。


「すごすぎるだろ……」


 人の手が入れば森は簡単に姿を変える。釣りの環境を整える土木工事から、生態系を維持するため落ち葉を集めたりなど。目的に合わせて手を入れるのだ。元ある自然に手を入れたのか、はたまた本当に一から作り上げたのか定かではないが、森神はこの山の管理者だ。

 風月の見た川もそうだった。飛沫で濡れた岩の表面に風で飛ばされた土がへばりつき、その上に苔が根を張るまでの時間、丁寧に手を入れ続けた。それがうっすらとわかってしまったからこそ、風月は感じ入ってしまった。


(でも、その割にはなんか――)


 僅かな気の緩み。思考に耽りはじめた僅か数瞬後。

 唐突な風が眼球を撫でて水分を奪っていき、思わず目を瞑った。突如激しい衝撃に揺さぶられ、スコーンと小気味のいい音を立てて額をぶつけた。

 視界が明滅しクラりとバランスを崩して重力に体を引っ張られる。

 その体に喝を入れなおしたのは落下してきた二〇キロにも満たない物体だった。


「おぐぉっ!?」


 右足が軋みと共に鋭い痛みを発し、みぞおちへの強打に呼吸の自由すら奪われる。


「あぅ、こわかった……」

「ティア!?」

「おちた」


 一瞬の落下の感覚。全身が死を覚悟したのは間違いない。だが、もしティアがそのまま落下していたと思うと、覚悟すら踏み越えるほどの恐怖に襲われた。

 涙目でぐずっているがそれだけで済んだ事にホット胸を撫でおろす風月。だが背中と腰と膝がギシギシと痛みを訴える。


「ちょっと掴まっててくれ、体勢を立て直、たてなお、たて……」


 エビ反りの体勢で二〇キロ近い重さを支えているのだ。手を伸ばしても、足を引っかけようとしても、体勢を戻せるほどの安定を得られない。

 小刻みに震えているティアは風月にしがみついているが、如何せん場所が悪い。身体の半分が宙に放り出されていることも重心が偏っている原因だった。やがて、身体を起き上がらせることを諦めて、状況を確認する。


「にしても、一体何が……」


 首だけを動かして周りを確認しようとして、巨大な傷を見つけてしまった。のっぺりとした木皮は見る影もないほど砕かれ、えぐられ、荒々しくえぐり返されていた。問題は、それが魔術で守られた特注品すらボロボロになっていたことだ。天井が粉砕されて魔術が発動しているのかバチバチと火花を散らしていた。

 中にいるクルスは衝撃でしゃちほこみたいな体勢で顔面を強打して痛みに呻いていた。


「何だあれ」

「えび……」

「あ、そっち?」


 どうやらあの腰に悪い形で海老を連想するのはドコの世界も共通らしい。そんなティアの発言に困惑しつつも、ようやく目の前の状況を呑み込むことができた風月。それが示すことはただ一つ。

 風月たちのいる場所は安全ではない。森神がほんの少し本気を出せば簡単に殺される。肩越しに背後を確認すれば、山の一部が吹き飛び、管理していた森が見る影もないほどに破壊されている箇所が見受けられる。


「あんなことしてるやつだもんな。そりゃこれくらいはするよな」


 バキリ。


「ばきり?」


 ティアが馬車を見上げながら指で指示したのは、馬車をひっかけていた木。風月の胴体よりも太い亜主幹は先の一撃で繋がっているのが不思議なほど抉れ、ひび割れていた。その亀裂が主幹から繋がっていて、肩まですっぽりと突っ込めそうなくらいの闇が覗いていた。むしろ、なぜ今もあの亜主幹が繋がっているのか不思議なくらいだった。


「嘘だろ……」


 馬車が滑り落ちてくれば風月は無事では済まない。最悪ティアもろともカマボコの材料みたいになることは間違いない。それがリアルに想像できてしまった。


「足は……、抜けないか」


 亀裂を広げ続ける大木に対して再び覚悟が必要になった。

 ()()()()()が。


 ティアは抱きしめられる手が強くなって、風月の顔を見上げる。疲労の色が濃い瞳は煌々とギラつき、馬車を見上げていた。剥き出しにした犬歯がその獰猛な笑みを作り出した。

 今がどれほど恐ろしい状況か幼いティアは分かっていない。しかし、何か恐ろしいことが起こることは分かっていた。心臓が鼓動をうつ度に恐怖は競り上がる。似たような恐怖をティアは知っている。

 だが、風月の笑っている顔を見ていると不思議と安心した。


「上等だ」


 風月の啖呵と馬車の落下は同時だった。ほぼ垂直の木の表面を削りながら滑り落ちる馬車。大量の木片をまき散らし、耳を塞ぎたくなる音を掻き鳴らす。

 右足を捨てる覚悟。

 左足を上げ、被害を最小限でとどめるために手を打つ。歯を食いしばって、痛みに耐えるために睨みつけた。


「持っていけ!」


 喉が裂けるほどに叫び、頭蓋が振動で粉砕されそうだった。

 刹那、瞬きすら拒絶した風月の瞳に青い光が映り込んだ。


 アルトが赤いマントをはためかせ、一閃に馬車へと剣撃を浴びせかけ、馬車は魔術防壁が山を切り崩せそうな一撃を受けて右半分が粉砕された。なまじ、防壁が効いていたからこそ消し飛んだ。


 肩を掠めるように落下していく馬車。ふと脳裏に過ったのはしゃちほこのような体勢で転がっていたクルスだ。だが、神域の騎士を前には不要な心配だった。斬り抜けた勢いのまま、重力を無視して亜主幹に着地する。その手には未だ意識のないクルスが抱えられていた。


 直後、アルトたちに飛来したのは白毛の巨体、森神だ。

 数トンはあるその巨体を風月が踏みつければ折れてしまいそうな細剣で受け流すアルト。風月にその光景が細かく理解できたわけではない。


(一瞬、止まった?)


 次の瞬間、振り抜いた森神の怪腕が主幹を粉砕し、そのまま大木の上半分を消し飛ばす。その勢いのまま二人とも消えていった。

 降り注ぐ木片からティアを庇い、口に入った木くずを吐き出す。

 ただでさえ森神はアルトよりも強いみたいな発言をしていた。そのうえ足手まとい二人、物理的なお荷物一人。勝てるわけがない。


(どうする、どうすればいい?)


 いい加減、力を抜けばティアが落ちてしまいそうで、腹筋も背筋も限界だった。

 頭の中を駆け巡るこの山で得た情報。疲労した脳みそから変な汁が滲んでいるのではないかと思うほど頭が痛かった。


「やってやる。もう一度、あれをもう一度だ。やれ、やれっ」


 小さくつぶやいて自分を奮い立たせる風月。

 森神の前にもう一度立つことを考えると足が震えた。それでも風月は諦めない。


「森神いぃぃィィィイイイイイ――っ!」


 息を大きく吸い直す。


「取引だ! お前が望むもの以上を引き渡せる! アルト! お前もいったん止まれ!」


 突如、姿を現す森神。砕けた木の上に降り立ち、鈍い振動が足に響く。

 アルトは風月のすぐ左手に音もなく着地した。特にアルトは疲労の色が濃く、無傷ではあるものの肩で息をしている。


「貴様の発言には耳を疑っう。そのうえ森神が取引に乗り気なのはどういう訳だ?」

「耳を疑うのはこれからだボケ」


 アルトに交渉を台無しにされた。その恨みつらみを込めて毒づいた。


「まず、森神。何と戦うつもりだったんだ? 神域の騎士を撃退したお前が準備期間が欲しい、なんていう相手なんだろ」

「肯定だ。だがこれ以上は言わん」


 森神はアルトを一瞥した。

 魔の山の首魁は神域の騎士相手に情報を必要以上に漏らそうとはしない。


「いや、それだけ聞ければ十分だ。俺ができるのは提案だけだが、アルトさえ乗り気なら勝算は充分だ」

「……何をさせる気だ?」

「戦力の提供」


 風月の言葉にアルトと森神が息を呑む。それは風月の意図を理解できなかったからではない。何を言うのか二人が察したからだ。


「森神の敵に神域の騎士をぶつける」

「手を組めと?」


 森神とアルトの視線が交差する。二人は未だ、戦闘の中にいた。少しでも変な動きがあればこの場で殺し合いが始まる。今の休戦は森神の気まぐれにすぎない。


「目的を履き違えるな。森神は魔獣の保護と敵の打倒。こっちは道を通して、この場での延命。見返りとして金と戦力を森神に提供できる。充分だろうが」

「足りないな」

「……、なんでお前からそんな言葉が出てくるんだ、アルト」


 アルトから出た言葉。これが森神から出るのならまだ理解ができた。神域の騎士の裏切りまで警戒する必要があるからだ。


「今、ここで戦いを止めることのメリットは何だ?」

「まだ勝てる気でいるのか……? これだけ足手まといが居て?」

「森神が死ねばこの山は明け渡される。そして、戦うというのなら、森神の敵を利用して森神もろとも狩った方が楽だからだ。被害が少なからず与えられるのならここで死ぬことも視野に入れている」


 風月たちは最初、交渉の段階でこうなることを恐れていた。だが、今ならそうはならないと風月は確信を持って言える。


「なら何のためにここに来たんだ? 俺を殺すためか? クルスを助けるためか?」

「……」

「違うよな」


 アルトの青い瞳が『なぜ知っている?』と問いかけるように風月へと向いた。


「ティアだろ。お前がここまで来た理由はそれ以外にないはずだ。魔の山に行けばまず助からないというのが定説だ。俺がそこに入っていったのならわざわざ殺す必要はない。クルスは巻き込まれる形で偶然ここに迷い込んだ。助けなければいけないほどの重要人物とは思えない。だが、ティアだけは違う。お前はここに来た時に言ったはずだ」


『ティア嬢を頼むぞ』と。

 アルトはそう口にした。


「あの言葉だけがおかしかった。クルスでもなく、俺でもない。それこそ、神域の騎士が本気を出すための申請を通して、死んでいるかもしれない場所まで確認に来たんだからな。駆け付けるだけの理由があったはずだ」

「それがティア嬢だと?」

「お前が死ねば全員死ぬぞ」


 アルトの問いに風月はただ事実を重ねる。


「ティアを助けるのなら、交渉を受け入れるしかない」

「……森神が、受けいれるのなら」

「提示できる条件はそれだけか? 一度は流れた交渉だぞ?」


 森神が口にした言葉は内容こそアルトと同じだが、明らかに風月を試すニュアンスが含まれていた。


「基本的にはさっき流れたものと同じで、敵が出てきたときに神域の騎士が加勢する。金も手に入る。それで十分なはずだ」

「……本当にそう思うのか?」

「それは俺のセリフだ。なんでこの山に小動物がいない? 鳥の鳴き声もほとんどなく、夜なのに虫の声も少ししか聞こえない。これだけ丁寧に管理された森から動物が消えている」

「戻ってくると?」

「違う。魔獣たちの健康状態を何とか出来る」


 風月の言葉は図星だった。ゆえに森神が面白そうに眉を吊り上げた。


「浮き出た肋骨、なのに腹は膨れてて酷い悪臭がした。人間で似たようなものを見たことがある。栄養失調症だ。そもそも、餌が足りてないんじゃないのか?」

「それで?」


 イラッ。

 森神はまだ風月を試すつもりでいた。風月は森神が大切にしている者に気づいてしまったからこそ、森神の態度が面白くない。


「魔獣たちを見殺しにするつもりか?」

「……」

「それに、交渉が決裂すればこいつらは躊躇なく森を焼くぞ。お前が長い時間をかけて管理してきたこの森を」


 試すような、少し浮ついた雰囲気を纏っていた森神から、そうした軽薄さが消えた。

 瞑目し、やがてその瞼を上げて風月凪沙という人間を見据える。


「見事だ。『契約』を交わそう」

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