魔の山
「クソ、日もほとんど落ちて何も見えないな」
そういいながらポケットからスマホを取り出す風月。備え付けられたライトを点灯させて、ため息とともに肩を落とす。
「昔なら懐中電灯を買うか、松明で足元を照らすかなのに、染まっちまったなぁ」
現代文明のありがたさと、充実していた頃の自分との乖離に少しだけ打ちのめされる。どうせ魚はかかってないと思いつつ、クルスに押し負けた風月はおとなしく見に行く。
ここで見に行ったふりをすると負けたような気がして、しぶしぶと暗闇の中へ踏み込んだ。
「ライトあってもだいぶ暗いな」
横から照り付けていた夕日はすでに木の上の方だけを照らしていた。
風も冷えて、濡れた裾は凍り付くようだった。寒さに任せて身を震わせていた風月だったが、唐突に膝を何かに打ち付け躓いた。
途端に寒さとは別の理由で肝が冷えた。
一種の浮遊感と何かに体を打ち付ける感覚。おそらくは木に胸と額を強く打ち付け目を回す、さらに、踏ん張りの利かなくなった足は地面を捉えられず地面を転がった。
足は川に突っ込み靴が濡れ、尻を強打して呻く風月。
「くっそ、やっちまった。スマホ……」
当たりを照らして状況を確認しようとしたところで気づく。手に何も握られていないことに。しかもスマホのライトらしき明かりもない。
「あ、ぽちゃった」
もう見回さなくても最悪の予想ができた。思わず両手で顔を覆う。
検索や通話、メールなどという昨日はどうせ使えない。それでもなお、スマホは録音に録画、カメラ、ライト、アラームまでこなせる現代のチートアイテムだ。それを考えうる限り最も情けない失い方をした。
「い、異世界にきて一番心が折れそうだ……」
何よりもきついのは風月にとっては写真を失ったことだ。数少ない向こうでの思い出の詰まった逸品には、あの男と旅先で撮った写真をカメラで撮影しなおしたデータが入っているのだ。大切で、それが無くなったことがよっぽど堪えた。
(あ、やばい……)
繋がりが消えたような気がして見開いたままの瞳からボロボロとた涙がこぼれてきた。感情がコントロールできず、嗚咽を漏らすわけでもなく、しゃくり声をあげるわけでもない。悲しいのではなく、喪失感を覚えているのに側が追いついていない。沈黙したまま涙がこぼれた。
「何か食わなきゃ……」
空腹と疲労まで混じって感情がぐちゃぐちゃになった。少しでも気を紛らわせたくなって、胃を膨らませたくなった。何かをしないとこのまま沈んでいきそうで、冷える末端を気にもせず立ち上がった。
赤い空の微かな光が作り出す陰影に目を凝らし、罠を見る。
「ダメか……」
失敗には馴れている。
成功するまで繰り返すことに慣れている風月は、一回一回期待をしない。一〇〇や二〇〇程度のミスは当然だと考えているからだ。だから失敗を数えないし、期待もしない。成功するまで徹底的に心を押さえつけるのだ。
だが、精神がぐちゃぐちゃになった風月にはそれができていなかった。目を回しそうになりながら、二つ目の罠を探す。
「確かこのあたりに……」
それも作動していなかった。作動していれば魚は木の撓りによって釣りあげられてわかりやすくなっている。一目瞭然だ。
罠を仕掛けて一時間と経っていない。それで得物が掛かるなら猟師は苦労しないのだ。
そもそもわなを仕掛けた時間が悪すぎた。木の上の方を照らす夕日の赤い光を、葉や樹木が照り返す分のわずかな光しかない。
「視界ゼロ、今日はもう無理か……」
諦め混じりにぼやいた時だった。
足に何かがあたり、一気に枝がそのしなりで水面から跳ね上がった。冷えた湧き水を顔に受けて、それを拭う。
「つめて。ほんと気分がマイナスの時は何やってもうまくいかな……あ?」
魚がついていた。三〇センチはないがそれに拳一つまで迫る大物で、それにしては力なく体を振っていた。
「……いや、いやいやいや。おかしいだろ」
つかんでみれば詰まった身が重さとなって伝わる。それこそ一キロ近い重量があった。
「こいつが掛かっても反応しなかった?」
即席で魚がぶつかって罠が外れたというのならわかる。それで得物が掛かっていないのならば風月にとって納得のいく結果ではあったからだ。だが、罠が反応しなかった方が風月には気がかりだった。
(小さい魚なら反応しないのもわかるけど、このサイズが掛かって反応しないなんて、そんな罠作ってないぞ)
木の枝を止めるために使った石を重くすれば作れる。しかし、木の枝が折れる可能性を考慮してそれをしなかった。
「どうなってんだ……」
とりあえずは戦利品の魚を検めるために、針から外そうとして、暗がりの中で上手く外せないことに気づく。力任せに口を切ることまで考えて風月は気づいた。
貫通していた。
力任せに魚の頭蓋を下顎から鰓を通して貫通していた。
神域の騎士のようなわかりやすい脅威ではなく得体のしれないものに対する漠然とした恐怖で血の気が引いていく風月。魚の動きが鈍いのは出血によるもので、薄暗がりの中、手の陰影の中で滴る筋が魚の血であることを理解した。
突如として響く水を叩く音に身体が反応した。想像以上に近くからの音に振り返りマチェットに手をかける。
罠が反応していた。
先ほどまでなかった水滴が水面へと落ちる音が響いている。魚のシルエットが身体を振って水滴を周囲に散らしていた。
風月はスマホを喪失したことを先ほどとは異なる理由で後悔していた。
(――いる)
この暗がりの中、息遣いも気配も風月には察知できない。しかし、魚やその他の異常が存在を物語っている。
(こんなところに長居していられるか)
すぐに魚を回収に取り掛かる。
二匹目の魚は口に針にかかっていたが、その掛かり方が異常だった。縫いつけるように上顎から下顎へと貫通している。骨を貫通した針を外すことを早々に諦めて口を強引に千切り、二匹目も回収した。
そして、気づいた三つ目の罠。
「反応してるけど、掛かってないな」
独り言を増やして恐怖心を紛らわせる風月。針だけでも回収しようと眼前まで木の枝を引き寄せると、何かがついていた。
「うっ、頭だけ……」
一匹目と同じように木の枝を貫通し、そして頭を残して鰓から下が消えていた。噛みちぎられている。
それを認識したとき、悍ましさに精神力が負けて反射的に魚の頭部が川の中に落とす。
「最悪……」
身体が震えているのが寒さからか、恐怖によるものなのかの判断もつかない。
一刻も早くこの場から逃げ出したかった。
(魚の首にあった噛み痕は肉食獣? いやほかの惨状を見るに霊長類か?)
魚の頭を貫通させる芸当は器用に手を使っているようにも思えた。これをイヌ科やネコ科の大型動物がやるのなら器用さと相当な知能の高さが必要だ。そんな生物に風月は心当たりがない。
「牙のサイズから考えれば俺よりもデカい。悪鬼羅刹でも潜んでんのか……」
となればこんなところに長居する理由が本当に消えた。
ポケットの受けらか中に突っ込んだ魚を押さえて、ティアたちの下へ歩き始めた。長い夜に備えて夜営の準備をしなくてはならない。
「眠れない夜になりそうだ」
風月は恐怖心を覆い隠すように笑いながらそう言った。
ざっくり。
そんな擬音がぴったりなくらい、くし刺しにされた魚は強く焚かれた火に遠くからあてられてその表面の水分を飛ばし始めていた。
「……」
「ちょっと、そんな不機嫌そうな顔しないでよ……。確かに伝えなかったのは悪かったけど、聞かなかったそっちにも非はあるでしょ?」
「絶対に許さない」
寒さで固まった鼻を焚火が融かす。鼻すすりながら風月はボロボロの一張羅を乾かしていた。不機嫌なのは、針と糸、そしてロープなどその他諸々の道具を見つけてしまったからだ。馬車の座席の下は収納で、そこに必需品が治められていた。
釣りの道具まであったので、風月が服を濡らして身体を冷やした意味がなくなった。
かつて旅をしていた頃ならまず持ち物を準備していた。そうでなくても確認を怠らなかった。鈍り切った感覚にため息をこぼす風月。
「ああ、失敗した」
一つ区切りをつけるようにそう口にする。
「失敗?」
「ほっとけ。言っておくと切り替えられるんだよ」
一種の事故暗示。言葉に出しておくと頭がスッキリして何が悪かったのか、なぜ失敗したのかが客観視できるからだ。
風月は何度も挑戦することを苦とも思わない。マジックでカードを隠したりする芸当は何度でも失敗できるからこそ、できるまでやった。しかし、一度しかない、或いは二度目が困難な場合に限り、風月は自己暗示をしないと同じ失敗を繰り返す傾向にあった。
意識をスイッチのように切り替えてからクルスに向き直る。
「聞きたいことがあったんだ。この山って何なんだ?」
「いきなり何よ?」
「この山ってなんかいるのか?」
ここに来てから起きる不可解な事。
「さっきも魚の内臓がどっかいった。それを誰も気づかなかった。そんな事ふつうあるか?」
ツボ抜きで内臓ごとぬきだした鰓は、野犬などに掘り返されない深さに埋めるつもりだったが、木の枝で魚をくし刺しにしている間に消えていた。
「罠も変な風に作動してたし、魚の頭に貫通していたのが針じゃなくて枝だった」
「頭意外噛みちぎられてるのもあったんだっけ?」
「だから、なんかいるんじゃないかって」
「いるわ。ここは『魔の山』って呼ばれているわ」
知っているでしょ、みたいな視線を送られて風月が首を傾げるとクルスは大きくため息をついた。
「百歩譲ってここがどこかわかってないは分かるんだけど、なんでそんな風に首傾げているのよ」
「本当に今日来たばっかりなんだって」
「よその国でも轟いてるくらい有名よ。だって『ダンジョン』に並ぶ未踏領域の一つだもの」
「未踏領域……」
誰も踏みしめたことのない場所にいると思うと風月尾胸が高鳴った。しかし、鈴に疑問が浮いてきた。
「未踏領域なのに道が通されてんだけど? 山も管理されてるっぽいし」
風月たちがいるのは馬車が二台辛うじて通れそうな程度の幅の道だ。途端に肩から力が抜けて胸に溜まった未知に対する憧れ、新雪に足跡をつけるような優越感が霧散していく。
「私も小さかったから資料でしか知らないけど、一〇年ちょっと前くらいに『魔の山』の四度目の征伐があったのよ。たぶん進軍しやすいように作った道だと思う」
「じゃあ、頂上とかは誰も行ったことないの?」
「それどころかここよりもう少し言ったら道すらなくなるわよ」
「おおっ」
「なんで嬉しそうなのよ……」
思わず漏れた歓喜の声にジト目になるクルス。
「私は正直信じてないけど、たぶん頂上行くまでに死ぬわよ。『魔の山』って言われているのは魔獣がいるからよ」
「魔獣? やっぱそういうのもいるんだ。定番だなぁ」
「魔獣は人語を理解するくらい頭いいのよ。それで七〇〇〇人の騎士と有志の冒険者一五〇〇、神域の騎士三人。戻ってきたのは神域の騎士一人、騎士団長一人、冒険者一人だけよ」
「え?」
神域の騎士でアルトの姿が脳裏に浮かぶ。それが三人。実力のすべてを見た訳ではないが、あのレベルの怪物が知能の高い獣に負けるヴィジョンが見えない。
「私が思うに、それだけの人が死んで、こんな山一つの生き物が絶滅しないなんてあり得るのかなって。今も忌避されて誰も踏み込まないけど、もう魔獣なんてほとんどいないんじゃないかって思ってるわ」
「じゃあ、内臓がどっか行ったのも、頭意外無くなってたのもその生き残りが?」
「だと私は思ってる……」
風月の表情は冴えない。
引っかかっているのは神域の騎士二人が死んだという部分。
「疑問が尽きないんだけど、まず神域の騎士って何人いるんだ? 四回目ってことは三回まで失敗してんだろ? それでなんで三人だけ?」
「神域の騎士は一〇人だけよ。国防の要だからおいそれと使えないのよ。それに騎士や冒険者やだって神域の騎士に引けを取らない人材だっているって噂よ。今の第四席も冒険者出身だし」
「在野にもあんな怪物みたいなのがいるのか……」
「実力は神域の騎士のほうが上らしいけど、数だけならむしろ神域の騎士以上に犇めいているらしいわよ。私は見たことないけど」
「分かった。なんで今までに四回だけなのかとか、魔獣が本当に神域の騎士に並ぶほど強いのかとか、そういった疑問もとりあえず呑み込んでおく」
「全部言ってるじゃない……」
合図地代わりにとんでくる小言を無視して風月は続ける。
「そこまでの犠牲を払うほどの理由がこの山にあるのか?」
「……」
少しだけ言葉に迷うクルス。魔の山を手に入れたときの利益に疑問があるわけではない。むしろ、恩恵は莫大なものになる。それがクルス個人の思想にとって良い方へ受取れないというだけなのだ。そのうえで、一泊おいてからクルスは口を開いた。
「私はあると思ってる。東の領地と王都はこの山によって隔てられているの。ここが通行できたなら、二つの隣国との貿易を一手に担ってる東との物流がよくなるの。国家予算が数倍に膨れ上がるとまで言われるほどにね」
「数倍……」
かつての薩摩藩は琉球との貿易で砂糖を独占して利益を得た。松前藩もアイヌ民族との貿易で財を築き上げていた。そういう歴史を知っている風月には複数の国との貿易がどれだけの恩恵をもたらすのかはよくわかっている。
そしてこの山の持つ価値にも気づいた。
「パナマ運河とかスエズ運河みたいなものか……」
「なんで運河?」
「いや、この道を開拓、独占できれば莫大な財を築ける。そういう意味で似てるなって」
「道でどうやって稼ぐの?」
おや?
風月は思わず口を噤んだ。この世界の財政の基準に疑問が浮かんだからだ。土地と金を結び付けて経済をコントロールしたり、金で政治を操ろうとしたり、そういった手段が市井で聞けてしまうくらい経済に関わることについて発展していると思っていた。
しかし、道に通行料を設けるという発想を思いついていない。
(ロークは意外と頭よかったのか?)
説明しようか迷う風月だったが、馬車で香辛料を目潰しに使おうとしたときに馬車から突き落とされて死にかけたことを思い出す。商魂逞しい一面に苦い顔を隠しもせず、顔を逸らした。
(こいつに話したら変な方向に突っ走りそうな気がする)
「いや、別に……」
「……?」
追及してきたらなんて言い逃れしようか、などと思考を巡らせていたが、クルスは拘泥しなかった。空腹で焚火を見る目が移ろになってきている。
「喉か湧いたな。鍋あったっけ?」
「さっきこっちに出しておいたわ」
「水……」
山の上から流れてきている小川だが、風月が魚を取ってきたあたりにも水源があった。水が湧き出ていて、その付近のモノなら飲めたかもしれないが、生水を飲んで下痢や嘔吐に見舞われるのが恐ろしくて口にはしなかった。
「寒いけど水すくってくる」
火がある今なら煮沸すれば安全に水分を摂取できるはずだったが、なぜか受け取った片手鍋のようなものにはすでに冷たい水が入っていた。
「え? 水積んであったの? この期に及んでまだ隠し事かテメェ……」
「詰んであったのは隠してあった塩とかこぼれた香辛料含めて全部言ったって。これは私が出したの!」
突如として水色の光がクルスの手にまとわりつき、ボールでも投げつけるような動作と共に風月の顔面に水の玉が直撃した。身構えてもなく、突如として目を刺した光に反射的に目を細めて茫然としていた風月は端から思いっきり水を吸い込み、粘膜を刺激される激痛に盛大に咽た。
「ヴぇえ!? っけふ……。何しやがる」
「変な言いがかりつけるからよ。第一、商人の家系の私が水の魔術覚えてないわけないでしょ」
髪を滴り落ちる髪を手で絞り、顔についた水を払う。濡れた服が風で体温を奪い、小さく体を震わせて、焚火へ近づく。
それから素直な疑問を口にした。
「商人の家系だと水の魔術なのか?」
「証人は仕入れに出たりするから旅に慣れてるのよ。暖を取るための火、水分を確保するための水、助けを呼ぶための光。この三つは商人は物心ついた時には絶対に叩き込まれるわ」
「滅茶苦茶便利だな。馬車も使えば遭難しても最低条件は満たせる」
水と火と雨風をしのげる場所。この三つは無人島だろうが山の中だろうが、遭難したら絶対に必要になる。砂漠や永久凍土など厳しい条件で、火と水を準備する事を無視できるのは生存率が大きく向上する。
今後旅をするにあたって何としても欲しい力だった。
片手鍋の水を喉の渇きのままに飲み干し、臓腑が氷を刺したように冷たくなる。吐き出す吐息すら冷え切っていた。対照的に、未知をしり、身に着けることに思いを馳せると胸は高鳴り、たまった熱を巡らせるように血液を押し出す。
「魔術って、俺でも使えるのか?」
「……魔術も知らないのでどうやってここまで来たのよ?」
「どうって言われても……」
ここで初めて風月は異世界へ来たことに疑問を持った。変な入り口を通り抜けた程度の認識しかなく、うまく言葉にできない上に元居た世界を捨ててきた後ろめたさが明確な説明を風月にさせなかった。
「使えるわよ。でも、普通にスクロールでも買った方がいいわよ。どうしても覚えたいなら魔術師の家庭教師でも雇えばいいわ。私じゃロクに教えられないもの」
魔術は使えはすれども門外漢だとクルスは詳しい説明を拒否した。未知を堪能するという期待が膨らんでいただけに風月の落ち込み方は酷かった。完全に力が抜けて糸の切れた人形のようになっていた。
隠しもしない素直な気持ちの表れだったが、それがちょっとだけ鼻についたクルスは棘のある口調で続ける。
「まずね、商人で魔術使ってるやつらなんてまともな原理すら知らないのよ。あなただって数字の『1』がどんなもので、『+』っていう記号が持つ機能を証明できるわけじゃないでしょ? 何となくそういうものって思って使ってるだけ。何よりも小さいころから仕えたんだから、数字の概念も持ち合わせてない奴に教えられるわけないでしょうが」
「え?」
数字やら証明やらの話が出た時点で完全に脳みそのスイッチを切っていた風月はクルスの言いたいことのニュアンスもつかめていない。せっかく数学の課題から逃げるように異世界に踏み込んだのに、数学の話を例えに出されて疲労も相まってため息をこぼす。今はこれ以外の意思表明の方法を喪失していた。
「証明とかも知らないの? 本当に文明人?」
その盛大な勘違いにもまともな言葉が返せない風月。身体の力が抜けて、そこから芯が折れてしまった。背中を蝕んでいた痛みも大分和らいだが、それ以上に身体が疲労に苛まれだした。朝からまともな休憩を取らず、生命の危機にまで晒された。
いつからこんなにも頭が痛くなったのか思い出せない。疲れを自覚したときに初めて、ずっと脳が痛みを訴え続けていたことに気づいた。
「数学とか頭の痛くなるようなこと言わないでくれ……」
声すら掠れ、表情からも覇気が消えた。
そんな風月の脳裏に浮かぶのはスパルタ極まりない教育の数々。かつて風月を育てた男は紛う事なき天才だった。なぜできないのか理解できず、一度見れば大抵のことは熟せてしまうがゆえにできない人間の苦労が理解できない。風月も地頭が良いほうではなく、あの男の『説明できないけどこうなる』という説明を文字通りの努力でカバーし続けた。歴史だろうが国語だろうが、それこそ数学だって指の感覚がなくなるまでペンを持ち続け、最後は輪ゴムでペンを指に括り付けていた。
それもこれも『こんなこともできないのか』という笑顔で言い渡された挑発が原因だったりする。
という訳で、今日の疲労と、フラッシュバックした意地で勉強し続けた日々のダブルパンチで精神がすり減っていた。
「森の話をした時には元気で、今はこれって、感情の起伏が激しすぎやしない? 躁鬱なの?」
「自覚はあるよ。ただ、見たことのないものが多すぎて、止まらなかったんだ」
「何で笑ってるのよ……」
間違いなくこの世界の上位に位置する神域の騎士、アルト。殺されかけて安堵するでもなく、命の尊さに涙するわけでもない。
「楽しかったから……」
「……っ」
今にも泥のように寝てしまいたい疲労の中、焚火の熱に中てられて頭に熱が籠るのを感じる。王都の方の空も夜に染まり、初めての夜でこの日を振り返っていた。
それを含めての楽しかったという言葉を口にした風月。そんな風月に掛け値なしの嫌悪を抱くクルス。
焚火を挟んで向かい合った距離はそのまま二人の心の距離だ。
「――っ」
そんな柔らかくも不気味な時間の中、緩んでいた風月の口許が引き締まり、揺らめく炎を眺めていた顔が跳ね上がった。
「どうかした?」
「アルトはどこに行った?」
「……急に何よ?」
うなじをライターでチリチリと焼くような気配。経験則でよく当たる嫌な予感が膨れ上がるにつれて、頭にこもっていた熱が引いていく。
「何でアルトは追ってこない? 充分追ってこれただろあいつなら。どういう訳か引き下がったけど……」
風月は神域の騎士の業務を知らないがゆえにそういう考えに至った。実際は職務と追跡を天秤にかけて前者を選んだというだけだ。
「さあ、別の予定でも入ったんじゃない? 神域の騎士は王命と国防を熟さないといけないから結構多忙なのよ。チンピラ一人追い立てる必要もなくなったわけだし」
「なんで?」
「ここが誰も帰ってこない魔の山だからよ。もし強引に山を逸れて逃げたとしても護衛なしのこんな面子じゃ大物狙いの盗賊団のおやつみたいなものよ」
「おやつ……」
何よりも、とクルスは重ねた。
「神域の騎士を殺した魔獣がいるのよ。姿は見られてないけど生きているなら王にしても相応の準備が必要だと思わない?」
「生き残ったやつがいるのならどのくらい生き残ったかとか情報くらい伝わっていそうなもんだけどなぁ」
もういないと言っていたクルスだったが、アルトが追ってこないところを見ると実際に生きている気もしてきた。
「どんな魔獣なんだ? やっぱりでかいのか?」
「狼と……」
そこまで言って言葉が止まるクルス。それからゆっくり首を傾げた。
「忘れちゃった」
「どういうこと?」
「だって魔の山なんて『悪い子は連れていかれる』とか子供に言い聞かせるための寝物語よ。私が小さい頃は話題になってたけど、興味なかったし」
しかたないじゃない、と拗ねるクルス。風月も責めたつもりはなかった。
「なんか狼と、まだなんかいたのよね。死者の数が多すぎるし、生き残りは契約だの何だのでみんな口つぐんじゃたし、それでも話題にはなったんだけど……、やっぱり思いだせないわ」
「狼は納得。噛みちぎられた後とか……。でも、頭のあれは?」
魚の頭蓋を貫通した枝。魚の胴体も傷だらけだったが、それを狼のような四足の肉食獣がやったと考えるのは難しい。
そんな微かな疑問は風月の隣で駆竜にしな垂れかかり、小さな寝息を立てていたティアが風月に寄りかかってきた拍子に抜け落ちてしまった。
首が座らずに、頭が揺れてその衝撃で目を覚ました。
「なぎ、さ?」
「おはよ。眠いなら馬車の中で寝てる?」
「ぅ、あ……」
力なくうなずくが、やはり言葉が足りない印象があった。風月の立てた言葉をあまりしゃべらずに生きてきたという仮説が少しだけ現実味を帯びてきた。
風月ですら緊張と打撲で疲弊して弱音を吐いているのに、ティアは泣き言ひとつ言わなかった。
「よく頑張ったな。今日はもう寝ようか……」
「ぁ、ぁぁ……」
立ち上がったティアだったが、その華奢で虚弱なイメージすらある身体が、風に揺られる枝葉のように、揺れた後、力なく崩れ落ちた。
「ティア!」
浅く、やや早い呼吸。火の光と熱のせいで顔色の判別が着かない。額の温度も風月には高いのか低いのかこの状況でとっさに判断できなかった。
「十数秒前のあなたにそっくりの顔してるわよ」
「重傷じゃないか……」
「自覚あったんかい! というか早く寝かせてあげなさいよ。毛布ならもう馬車の中に敷いてあるから」
お姫様抱っこで、軽々持ち上げられるくらい軽い。
「本当に頑張ってきたんだな……」
その言葉はティアに届いていたのか風月にはわからない。目を瞑って、汗ばんだ額に青い髪が張りついている姿は悪夢にうなされているようだった。垂れ下がる長い髪は丁寧に手入れされていて、売られるまでは本当に愛されていたのだろうということが風月にも感じられた。
そのまま扉の外れた馬車の中へ連れていく。中は暗く、それでも差し込む月光で輪郭が辛うじてわかる状態だった。少しだけスパイスの気品のある香りが鼻腔を抜けていった。
馬車に固定された長椅子は、片方だけ外されて、その中の道具、おそらくは金槌などの金属が月明りを反射して、天井を照らしていた。もう片方の長いすは毛布が敷かれ、丁寧に整えられていた。
その上にティアを寝かせると、月明りに反応して瞼がぴくぴくと痙攣した。
美しい夜空だった。月は無効の世界で見るよりはるかに大きく、闇の中でひときわ大きな存在感を放っていた。その周囲を寂しくないように埋める星々が寄り添うように天の川を作っていた。
思わず漏れる感嘆の吐息。
夜空に魅入られ、同時に呻いたティアに寄って現実へと引き戻された。
「眩しかったな、ごめん」
小窓のカーテンを締めて、御者席へとつながる厚手のカーテンを閉じようとして気づく。そちらからは光が差し込んでいない。外でも眩いほどの光を見ていない気がする。
御者席から空を覗くと雲によって星々は隠され、月はその隙間からわずかな顔を出すばかりだった。
「これも魔術なのか……」
遮光機能の高いカーテンを完全に締めきり、馬車の中は闇に包まれた。唯一差し込むのは焚火の赤い光だけだ。アルトが切り裂いた天井は筋のようになっていて、そこから外をのぞくことも難しいほどの隙間しかなかった。
その傍らに腰を下ろすクルスと目があう。
「どうだった?」
「眠ったよ。あとは明日次第かな」
「そう……。あの子、あなたが戻ってくるまであそこにいるって言ってたわよ、好かれてるわね」
ホッと、胸を撫でおろすクルス。それでも一言多いのは彼女らしかった。
それから夜の静寂の中、パチパチと焼ける木の音しかしない時間が流れた。風月とクルスには聞きたいことが互いにあったが、眠っているティアを起こすまいとした気遣いによって、口を閉ざした。
「なあ」
その静寂を先に破ったのは風月だ。極力殺した声で続ける。
「あの馬車、魔術で守られているって言ってたよな? 御者席カーテンだけで大丈夫なのか?」
「たぶん大丈夫よ。あそこは駆竜が背負う前はに下ろしに使うから、もともと扉ないわけだし。どちらかっていうと、どっかの誰かさんが外したせいで塞ぐこともできない扉の方が問題よね」
「うぐ。し、仕方なったんだよ……。って、そうじゃなくてさ。神域の騎士はあの馬車を斬ってたんだよ。傷が残ってる」
風月が心配していたのはそこだ。魔術的に防御されている馬車が、いともたやすく破損した。風月がマチェットを突き立て時は弾かれて壁にたたきつけられたが、神域の騎士は豆腐をスプーンで分けるように切断してしまった。
そして、ここには神域の騎士とそれに並び立つ者たちを殺した何かがいる。
馬車の防御力だけでは心配だったのだ。
「それについてはたぶんだけど、防御の術式の間に刃を通したんだと思う」
「誰でもできるもんなの?」
「ほかの神域の騎士でも切断は無理よ。城の守りなんかと同じ術式だもの。あの大きさのものでも拳大の隕石くらい全然耐えるわよ。それを斬り裂いたのは純粋に技量と才能よ」
「よく生き残ったな……」
「本当にね」
ふと、当たりが明るくなった。
空を見上げれば雲が取り払われ、月光が余すところなく大地に降り注いでいた。
――先に気づけたのは紛れもなく僥倖だった。
「おい、アレなんだ?」
声を押し殺すことすら忘れ、風月が言う。
クルスも振り返り、風月の視線の先を追って見つけたのは山頂。高度限界によって木すら生えなくなったその頂上が動いた。遥か遠く。それこそ、月明りが無ければ絶対に気づけなかったであろう『それ』と視線がぶつかった。
デカい。
八から一〇メートルはある巨体が、月明りでそのシルエットを浮かび上がらせる。そして、それがこちらをじっと睥睨していた。
得体の所為れない何か。遥かに強大な力を持つ何か。
お互いを認識しているのに相手は動かず、風月たちは動けなかった。駆竜は『それ』に気づかず、じっと火にあたっていた。
言葉すら失い、額を流れる汗が一筋、瞼を伝い、目に入った。思わず瞬きを一つ。その視界を失った僅かな時間に『それ』はいなくなっていた。
「きえ、た?」
ズンッ。
重く低く響く振動。しかし、音は大きくない。まるで地震のような揺れがあった。見上げているという意識の間隙を縫われて『それ』がとんできたことを認識できなかった。同時に虫すら鳴かずの静寂の中、風が木々を揺らすよりも激しく茂みを通り抜ける影が大量に現れる狼のように四肢で大地をつかむ魔獣。
視線を下ろすころには『それ』は風月の目の前まで肉薄していた。
――こいつだ。
言葉に出すより早く、確信が来た。
明らかに魔獣たちを隠れさせ統率を取った何者か。
未だ警戒し、炎の光の下まで出てこない『それ』は人型だった。二足歩行で、毛におおわれている、それだけが風月の得られた情報。声を出す時間も与えられず風月たちは囲まれた。
駆竜たちが魔獣に気づいて怯えだす。闇の中その声と、魔獣の息遣いだけがあった。
やがて、『それ』は歩みだし、炎の明かりが届く場所までくる。
『それ』の正体は白毛の猩猩。筋骨隆々の肉体と、老獪さすら感じさせるその表情に威圧された。
手や顔、そして剛毛の上からでもわかるほどに刻まれた数々の傷痕。十年前に神域の騎士を殺した、怪物がその姿を現した。
風月は本当の意味で知ることになる。
この世界で息づいているのは未知の生物だけではない、ということを。
伝説が生きている、とうことを。




