第143話 恩返しの形
スポンジケーキの材料も無くなり、販売も終えたところで、少し疲れた様子のミハエルさん達に声をかけた。
「お疲れさまでした。慣れない作業で疲れたんじゃないですか?」
「はは、情けない限りですが、剣を振るう鍛錬よりも心も体も疲れたような気がします。」
「わたくしもですわぁ……。」
明らかに疲れている様子を見せているミハエルさんとリタだったが、フレイアさんだけは疲れたそぶりも見せずニコニコと微笑んでいた。
「フレイアさんは大丈夫ですか?」
「ふふふ、ご心配いただきありがとうございます。私、お料理やお洗濯などの家事は、お屋敷にいたときからずっとやっていましたから。慣れっこなんです。」
「え、家事をフレイアさんが?」
「はいっ、ヴェイルファースト家は代々使用人を雇わない貴族ですので。」
「そうだったんですか。」
「お屋敷も広かったので、お掃除とか大変だったんですけど……私の夫もリタも剣の稽古ばっかりで、まったく手伝ってくれなかったんですよ。」
そうにこやかに微笑みながらフレイアさんがミハエルさんとリタに視線を送ると、2人はすごく動揺し始める。
「ふふっ♪」
「お、お母さまには頭が上がりませんわ。」
「あ、あぁ……そうだなリタ。」
今の一連の流れを見ていて、ヴェイルファースト家の中で、一番影響力が高いのはフレイアさんだと確信した。この世界の……さらに貴族っていう特殊な家庭でも妻が夫を尻に敷くことがあるんだな。
必死にミハエルさんとリタが、ぺこぺことフレイアさんに頭を下げているのを傍目で眺めていると、ミカミさんが何枚かの書類を手にこちらに飛んで来た。
「やぁやぁ、お疲れだったね。ミハエル君、フレイアちゃん、リタちゃん。ひとまず1日研修してもらったわけだけど、どうかな?このぐらいなら続けられそう?」
「はいっ、だいぶスポンジケーキを作ることには慣れました。で、ですが昨日食べさせて頂いた、あの装飾をたくさん施した芸術的なものは……。」
「デコレーションのやり方とかは追々教えますね。今日はスポンジケーキを作れるようになった……これだけで十分なんですよ。」
1日にいろんなことを頭の中に詰め込んだって、パンクして詳細なことがすっぽ抜けちゃったりすることもあるからな。ひとまず今日はスポンジケーキを作れるようになってもらったことで目的は達成した。
「まっ、そういうわけで~、キミ達にはこれにサインしてもらいたいんだ。」
「これは、雇用契約書?」
「そっ、キミ達が正式に私達のお菓子作りの事業の社員になるために必要なものだよ。よ~く読んでサインして頂戴ね。」
「は、はい。」
ミハエルさん達はその契約書に目を通していくと、一つあることを疑問に思ったらしく、ミカミさんに質問を投げた。
「あの、ミカミさん。一つ質問よろしいでしょうか?」
「なにかな?ミハエル君。」
「こ、この雇用契約書にサインをすると、私達はヒイラギさんとミカミさんから、給料としてお金を受け取ってしまうのですが……。」
「それの何が問題なのかな?働いてくれた対価にお金を払うのは、別に何もおかしなことじゃないと思うけど?」
「で、ですから、我々はヒイラギさん達に助けられた身であって……働くことでお金をもらうのは、恩返しではないような気がするのです。」
「いや、私達にとっては、キミ達がこれにサインしてもらうことが一番の恩返しになるんだけどなぁ~。」
わざとらしくそう言いながら、ミカミさんはニヤリと笑い、ミハエルさん達の方を見た。
「ヴェイルファースト家は、受けた恩は返してくれるんだよね?」
「うっ……口が上手いですねミカミさん。そう言われてしまうと、これにサインする他なくなってしまいました。」
諦めがついたミハエルさんが、雇用契約書ににサインをすると、それに続いてフレイアさんとリタもサインした。
「はいっ、これでキミ達は晴れて正社員だよ~。これからよろしくね?」
「「「よろしくお願いします。」」」
ヴェイルファースト一家がこちらにぺこりと頭を下げたことに、ミカミさんは一つ満足そうにうなずくと、今日のスポンジケーキの売り上げ金を回収して戻ってきた。
「本日の売り上げは、大銀貨6枚なり~。一先ず、今日の売上金はミハエル君達にあげる~。入社祝い……にしては少ないけど、もらってね?」
「えっ!?そ、それは受け取るわけには……。うっ!?」
ミハエルさんが拒否しようとすると、まるで無理矢理体を動かされたように、ミカミさんから大銀貨が入った袋を受け取っていた。
「こ、これは何が……。」
「契約書には、2つだけ細かく私達との約束を記載させてもらったよ。まず1つは私達への相談なく、お金の貸し借りはしないこと。」
「ふ、2つ目はもしかして……ミカミさん達からの金銭の受け取りを拒否しないこと……ですか?」
「その通り~、これは給料を払うときに多すぎるって言われたり、ボーナスを支払うときに拒否されることを防ぐため。今キミが拒否しようとしても、無理矢理体が動いたってことは、それがちゃんと機能しているみたいだね。」
「み、ミカミさん……あ、あなたは一体どこまで見通しているのですか?」
真剣な表情でミハエルさんはミカミさんに質問するが、ミカミさんはくすっと笑って、はぐらかすだけだった。