ローズブレイカー その2の2
私としょうこ♂お姉さま、そして、らいずまい先生の合作『朝霧』を、捨てるにはもったいないので、公開する事にしました。知ってる方も、知らない方も、最後までお付き合いして下さいましたら、幸いです。
本文編集
僕はただ、それを見つめていた。
それはまるで、闇のように深く、まるで無音室のように静かな場所だった。
そして、白く静かなその場所は、光よりも正反対の闇を思い出させる。
それは白い世界・・・。
際限が無い。
感覚よりも先に肯定が支配する場所。
僕はいつからココに居たのだろう?
ふと、そんな風に思った。
音の無い世界・・・。
この世界で聞こえるのは自分の耳鳴りだけ。
僕はこの世界の音を知覚する事が出来ない。
耳鳴りが神経に刺さる。
・・・不愉快だ。
その感覚を振り払おうと、首であると思われる物を回す。
そしてその風景は、変わる事無く白い世界を映し出す。
驚きはしない。
ここは創めからそうだったから。
・・・不愉快だ。
出来ている筈の事が、見えている筈の事が、結果としての認識に繋がらない。
それは、確証が何も無い事の肯定。
その世界が、そこに存在すると言う事の肯定。
だから、この世界はツマラナイ。
・・・不愉快だ。
僕は瞼を閉じようとする。
しかし景色は変わる事が無く、ただ白い世界を見つめ続ける。
珍しく苛立つ。
ふと、優しく温かい指先のような風を感じる。
いや、風ではなく、それは実際に少女の指先だったのかもしれない・・・。
何故だろう?僕はそれまでの苛立ちを忘れ、それに魅入ってしまう。
そこに・・・少女は居た。
微笑むようにし、彼女は佇む。
僕は心を奪われる・・・。
僕は言葉を奪われる・・・。
それ程の美貌。
それ程の愛らしさ。
僕は彼女を知っている?
彼女は僕をしっている?
少女は笑い、軽やかにステップし、僕の周りをクルクルと回る。
僕の存在を楽しむように。
僕の存在を愛しむように。
僕は、腕を彼女に延ばそうとする。
彼女に触れたかった。
それは叶わない事・・・。
出来ない事・・・。
してはならない事・・・。
分ってはいる。
だけど、彼女に触れたかった。
例えそれがかなわない事であろうとも、逃れられない物であろうとも、僕は思いのまま少女へと腕を伸ばす。
だがそれは、腕と思われるだけの認識だったのかもしれない。
この世界に僕の腕は無く、その存在は意識だけの物なのだから。
少女はただ首を振り、それをしてはいけないと、優しく微笑む。
僕は少女に微笑み掛ける事しか出来なかった。
微笑む事すら、出来て居る確証の無い事だとわかっているのに。
少女は答えるかのように、再び僕の周りをクルクルと回り、歌を歌う。
・・・歌?
聞こえる筈の無いものを聞き、僕はこの世界での僕の耳を澄ます。
・・・聞こえるのは耳鳴りだけ。
気のせいであったのだろうか。
やはり、この世界での僕の在り方は酷く歪んでいる。
きっと僕は、この場に居てはいけないのだろう。
僕はそれを肯定する。
それはこの世界と僕との否定。
世界の収束を意味する。
少女は何かを伝えたいのか、口を開こうとする。
・・・それはしてはいけない。
記憶にない筈の思いがこみ上げる。
僕は強く願う。
彼女を苦しめてはいけない・・・と。
願いは、まるでスイッチのように僕の存在を否定し、世界の拒絶を肯定した。
僕の視界が変わる。
・・・いや、変わっていく。
それは突然で、覚えのある感覚。
闇に包まれていく感覚。
僕は戻っているのだ。
・・・再び僕の世界へ。
闇に閉ざされて行きながら、それでも僕はあの白い世界を凝視する。
最後に見えたのは、ほんの少し寂しそうな少女の笑顔だった。
僕は、最後に言う。
『またね』と。
それが確信なのか、願いなのかは、自分には分らない。
世界の狭間で発したそれは、確かに聞きなれた自分の声である事も間違いではなかった。
閉じる事の出来なかった視界は閉じ、意識も同じように閉じていく。
願わくば、あの少女の事を忘れないように・・・。
僕の意識は更に閉じていく。
光がみょうに眩しかった。
僕は覚醒しきれない意識を収束し、状況の把握を試みる。
どうやら僕は、たった今、眠りから目覚めたらしい。
それがその時の答えだった。
「お、あれ?またソファーに寝たんだっけ?」
僕は側に立つ美姫へと言葉をかける。
「おにいちゃん、なに寝ぼけてんの?
なかなか起きて来て来ないから、起こしに来たのよ」
美姫はポーズだけ怒ったような振りをすると、寝たままの僕の頭を「ペシッ!」と平手で叩く。
「・・・叩かれた」
「はい!何時までも寝てないで、早く着替えて降りて来て。美姫、遅刻するの嫌だからね!」
美姫はぷー!と頬を膨らませながらそう言った。
なぜ僕のせいで美姫が遅刻するのかは判らないが、その動作が愛らしく思え「わかった」とだけ返事をする。
彼女が部屋から出て行った後、僕はなにげなく周囲を見渡す。
これと言った物が飾られていない殺風景な部屋に、見慣れた時計が掛けられている。
確かにココは僕の部屋のようだった。
だめだ、頭がボーっとする。
まだ完全には意識が覚醒していない。
軽く頭を振った僕は、すぐに制服に着替え、台所に降りていく準備をする。
そんな中、ほんの少しだけ、壁に立て掛けてあるそれを眺めた。
・・・朝霧。
借り物と言う意識が有る訳でも無いが、なぜか僕はしっくりと来なかった。
だからどうだ?と言われれば、どうと言う事では無いのだが、間を置いてから、朝霧を肩へと掛ける。
気のせいだろうか?昨日感じた以上に、朝霧との感覚は、何の抵抗もなく自分の物として僕に認識される。
単純に『慣れた』と言う事なのであろうか?少し考えもしたが、それは些細な事なのだと思う。
僕は気分を変え、先ほど美姫が出て行った部屋のドアへと手を掛ける。
僕の世界は朝霧の情報で補完され、五感以外の感覚で多くを満たされている。
既に世界は、僕を包んでいた。
廊下に出た僕はふと、さくらさんが家の中に居ない事に気付く。
美姫と歩美さんの動きは手に取るように分るのだが、さくらさんのそれを知覚できない。
今は、朝霧と繋がっている。
その情報の量は膨大で、感覚、もしくは知覚機能を補うなんて生易しい物では無くなっていた。
つまり、相手が気配や音を消していたとしても、この規模の空間での情報が得られないと言う事は、単純にその人が居ないと言う事になる。
それは、過大評価などではなく、朝霧に対する事実として受け止められる確証であった。
さくらさんとて、例外ではない。
「もう出かけたのかな?」
僕はそんな独り言を言いながら階段を下りて行く。
既に朝食が準備されている台所へと入ると、「おはようございます」と、美姫が元気な笑顔で挨拶をして来た。
先程会ったばかりだが、仕切りなおしと言った所なのだろうか。
「おはよう、さくらさんはもう出たの?」
テーブル越しに真正面へと座った僕は、さくらさんの事を聞いてみる。
「私に聞かないでよ。あの人は先生なんだから、早く家を出るに決まってるじゃない」
純粋に思った事を言っただけだったのだが、美姫は癇に障ったらしく、少し棘のある返事をする。
その理由を聞き返す必要もないので、とりあえず目の前に準備された朝食を取る事にした。
「所で美姫」
僕は自分も朝食をとりながら、もくもくと、それもゆっくりと朝食を口に運ぶ美姫に視線を送る。
「なに?お兄ちゃん」
「遅刻しないのか?」
多分、これは当たり前の質問だと思う。この時間まで美姫が朝食を取っているのは珍しく、それは例外と言って良いほどだった。
「あのね、お兄ちゃん。それは私の台詞だと思うよ」
もっともな意見だ。
美姫の言い草に再び棘の様な物を感じるが、僕は質問を言いなおす。
「いや、そうじゃなくて、美姫はどうなんだ?僕は走れば間に合う。だけど美姫はそうでもないだろ」
僕は、僕としての当り前を言う。
「私なら大丈夫だよ。ほら、お兄ちゃんも早く食べて!」
朝食を完食した美姫は、しれっとそんな事を言うのだった。
「本気で僕と一緒に行くのか?」
一瞬、僕の言葉に美姫は視線を鋭くするが、「それが何か?」とだけ言うと、ニコニコと笑顔をみせる。
転校して間もない頃、上級生に呼び出された事がある。
その時の先輩達よりも、美姫の方が、よっぽど迫力が在るのではないかと思ってしまう。
一緒に登校しなければならない理由は判らない。
だが、これ以上美姫を刺激するのは得策ではないだろう。
もっとも、僕も遅刻をするつもりはなどは初めから無く、早々に朝食を済ませて出発する事にする。
そして僕たちは、何時ものように歩美さんから見送られる事となる。
ギリギリの時間だと言うのに、見送る歩美さんだけはマイペースだった。
浅田邸の玄関を出た僕たちは一旦立ち止まり、知らし合せた様に、お互いの顔を見る。
もちろん歩いていけば遅刻確定である事は間違い無い。
「悪いけど、美姫に合わせるつもりはないからな」
別に意地悪をしているつもりは無い。
僕はそれだけ言うと学園へと繋がる道を走り出した。
付いて来られないなら、それは勝手に僕に合わせた美姫の責任だろう。
走り出す瞬間、美姫の「どうぞ」なんて言葉が聞こえるが、それを気にする物でもないだろう。
気兼ねなく走らせてもらう事にする。
結果としての話だが、数分後に僕は、美姫の身体能力に驚かされてしまう。
「どうぞ」と言った彼女は、本当に僕のペースに付いて来てしまったのだ。
僕は手にカバンを持ち、肩に朝霧を背負ってはいるが、決してゆっくり走ったつもりは無かった。
全力疾走などでは無いが、体感として百メーターを17秒程で走った筈なのである。
これがマラソンだとして、それは実業団ランナー程のスピードではある。
そのスピードで走っている僕に、美姫は何も言わず付いて来ているのだ。
もちろん彼女も片手にカバンを持ったまま。
小さくて、コロコロとしたイメージとは違った、なんだか意外な一面を見たような気がした。
10分程度走った頃であろうか?僕は一旦足を止め、通常の歩調に速度を緩める。
時間としてはギリギリなのだが、遅刻その物は回避されたと考える。
「美姫、大丈夫か?」
僕は歩きながら後ろに付いて来ている美姫に振り返る。
美姫は、息こそは乱れているが、肩で息をする訳でもなく平然としている。
「ありがとう、心配してくれて。だけど私、走るのには少し自信があるの。だから大丈夫だよ」
美姫は「ふー」と一息吐くと、僕の隣へと並び、同じ歩調で歩き始める。
「でも、お兄ちゃんて凄いね。もしかして化け物?」
僕の顔を覗き込みながら、美姫はそんな事を聞いてくる。
別に悪意がある訳では無いと思うが、僕の事を化け物呼ばわりするのはどうかと思う。
「化け物は酷いだろ?」
僕は笑って見せる。
「だって、ぜんぜん息切れしてないよ。それに汗も掻いていないみたいだし、陸上部の先輩が見たら、感激のあまり卒倒しちゃうよ」
僕はすでに呼吸が安定している美姫を見ながら、人の事は言えないのではと、思ってしまう。
しかし、それはそれ。
僕は「そんな物か?」とだけ言って、その話を打ち切る。
その後は、話をするでもなく、僕たちは学園への残りの道を校門へと向け、ただ歩いて行く。
遅刻ギリギリの為だろうか、さすがに校門の前は生徒もまばらで、何時もの賑やかさは無くなっていた。
「随分と仲良く登校するのね」
校門の前で僕達は、一人の教師に声を掛けられる。
この学園には、交代で教師が校門に立つと言う習わしがあるらしく、教師に声を掛けられる事は別に珍しい事ではない。
「ええ、従妹ですから当り前です。水守せんせ」
美姫は僕に腕を絡ませながら、本日の担当であろうさくらさんにそう言った。
美姫のさくらさんに対してのそれは、僕から見ても挑発的に見え、彼女をみょうに意識しているのが窺える。
これは僕の気のせいでは無いだろう。
「従妹とは言っても、他の生徒の手前もあるから、程ほどにね浅田さん」
挑発的な美姫に対し、気にするでもなくさくらさんはごく普通の教師的な意見を美姫に言う。
「おはよう、さくらさん」
二人の会話の間に入った僕は、それだけを言う。
さくらさんとの会話は今日初めてだったが、今はそれだけで十分であった。
「うん、おはよう端鷹。でも桜さんじゃ無くて、学校では先生って呼んでね」
さくらさんは、笑顔で僕との挨拶を交わす。・・・先生ねぇ。
「あら、いきなり渋い顔ね端鷹。私を先生って呼ぶの、抵抗ある?」
彼女は僕の表情を読み取ったのか、茶化すようにそう言う。
遊んでいるのか本気で言ってるのか。
もっとも、僕からしてみれば、さくらさんは、さくらさんである。
「別に・・・。僕は好きなように呼ぶだけだから」
そう言って、僕はさくらさんから離れる。
彼女は「そう?」とだけ言って、肩をすくめた。
「わ!お兄ちゃん待ってよ」
腕に絡みつくようにしていた美姫は、慌てて後に付いて来る。
歩き始めた僕に、さくらさんが小さく「忘れないでね」と呟くのが聞こえる。
普通の人間が、聞き取れないほどの小さな声だった。
それは昨日の夜、さくらさんと僕が交わした約束。
彼女の邪魔をしないと言う約束。
僕はそんなさくらさんに振り返る事も無く、手をひらひらと振り合図をした。
『分ってるよ』って。
僕は昇降口で美姫と別れ、そのまま教室へと向かう。
別れ際、美姫は何か言いたげな態度を取るが、僕は「後でな」とだけ言って、その場を後にした。
教室に入った僕は、朝霧をロッカーに掛ける事無く、自分の肩に掛けたまま席へと付く。
もうすぐホームルームが始まると言うのに、教室の中は未だ喧騒としている。
何処でも同じような物なのだろうが、教師が来るまでの時間とは、こう言う物だろう。
「加々美くん、お早うございます」
そんな中、日課になっているのか、中里さんは朝の挨拶をして来る。
「中里さん、おはよう」
僕の返事を聞いた中里さんは、自分の席へと戻って行ってしまう。
何時に無く、交わす言葉が少ない。
時間が無いと言えば、そうなのかもしれないが、実際はそれだけでは無いかも知れない。
朝霧は変わる事無く、僕に情報を与え続ける。
それは僕の見る世界を変え、周りの世界をどう変えてしまって居るのだろう?
そんな風に思ってしまう。
小さな事では在るが、中里さんは会話をする事無く席へと戻り、神崎は未だ僕へと話し掛ける事は無かった。
ただ、神崎の視線だけが僕へと向けられ、僕は振り返らずとも、それが判るのだった。
僕は外を見る。
空は何時ものように晴れ渡り、澄んだ水色を僕に見せてくれている。
それは朝霧を通しても変わる事が無く、何時ものように世界を見せてくれる。
ふと、おかしな物だと思った。
一瞬たりとも同じ顔を見せない物が、実は一番変わらない物なのではと、考えてしまう。
何時しかチャイムは鳴り、担任とさくらさんの行うホームルームは始まる。
そして窓の外に視線を向けたままだった僕は、空を眺め続けていた。
授業の終了と共に、昼休みの始まりを知らせるチャイムが鳴る。
普段であれば歩美さんの作ってくれた弁当を食べるのだが、今日はそうでは無かった。
別にやりたい事がある。
僕は早々に教室を出る事にする。
「あれ、加々美くん、お昼はとらないんですか?」
声を掛けられた僕は、声の主の方へと視線を向ける。
そこには、僕や神崎と食事をする為に机を動かそうとしている中里さんの姿があった。
「ごめん。今日はちょっと用事があるんだ。飯は神崎と食ってくれないか?」
僕は神崎が教室に居るかどうかも確認せずに、そんな事を言ってしまう。
中里さんは「はぁ、そうなんですかぁ」とだけ言って、肩を落とす。
少し悪い事をしたかもしれない。
僕は『神崎と食ってくれ』などと言った手前、改めて神埼が教室に居るかどうかを確かめる為、教室を見渡す。
そして神崎は居た。
遠目にこちらを見ている。
奴は目が合ったことに驚く様子も無く、グー!と力強く親指を立てて来る。
どうやら、中里さんは任せろ!という事らしい。
この距離で中里さんとのの会話が聞こえるとは、侮りがたし、神崎。
僕は中里さんへと視線を戻す。
「ごめん。また今度一緒に食べよ」
僕は二度目の謝罪を中里さんに言う。
曖昧な言葉で良い訳をする自分が、みょうに可笑しいとは思う。
「い、いえ、そんな。加々美くんに謝ってもらうような事でも無いですし、それに、私が勝手にそうしようとしただけですから・・・」
中里さんは笑顔でそう言い、その表情は曇って見える。
僕は中里さんを教室に残し、自分の目的地に向かう。
朝霧を持って。
昼休みともなれば、何処の廊下も喧騒とし、思い思いの会話をしながら歩く生徒の姿も多い。
何処の学校でもその風景と言う物は、変わるものではないと思う。
かと言って、見慣れた風景といえ、新鮮味が無いと言う訳でもない。
そんな生徒達の行き交う中、僕は屋上に向かう階段の手前で足を止める。
『蔵姫の結界』
僕は、それを目の前にし、確認するように心の中で呟く。
黒田の様な禍々しさこそ無いが、同じように、空間を埋める『色』のような物で満たされていた。
それは濁りの無い海のような蒼さを持った空間。
あの夜、蔵姫を見たときに彼女が発していた色に良く似ている。
さくらさんや美姫の色とも違う、蔵姫だけの色。
とても綺麗な蒼い色。
僕は少しの間、その空間を凝視する。
見惚れていたと言っても間違いでは無いだろう。
僕は止めていた足を再び進め、屋上へと向かう。
結果としてだが、僕には結界が作用しないようだ。
朝霧に対しては、少しは反応が在るかと思ったが、それも無いようである。
それらに関しては、呪術に詳しくない僕は、なんとも言いようが無かった。
階段を上り切った僕は、昨日と同じようにドアの前に立つ。
昨日と同じく、ドアノブは壊れたままだった。
あえて昨日と違う所が在るとすれば、僕が意図的に足音を消していると言う事だろうか。
日頃の話、僕は殆ど足音を立てない。
それは自分で意識しての事ではなく、師匠である道元先生に体術を叩き込まれた結果である。
だが、それはあくまでも無意識にしている事で、完全では無い。
さくらさんのようにまったく音を立てずに歩く為には、意識して足音や衣服の擦れる音を消す必要があった。
逆を言えば、歩く程度であれば僕は完全に音を消せる事になる。
そして道元先生は言っていた。
僕の霊的不感応と言う体質は、僕がそれを受けないだけではなく、相手の能力が在る無しに関わらず、それらを無効にする特性も持っている。
という事であった。
つまり、簡単に言えば、音さえ立てなければ僕の気配は完全に『消える』という事だった。
目の前のドアを開ける。
・・・音は立たない。
僕がそう言う風に開けたから。
音を立てずにドアを開けたとは言え、それなりの空気の流れは発生する。
そんな事に、気が付かない彼女ではないと考える。
僕は気にする事無く、屋上へと出る。
ここには蔵姫の結界が在り、そして僕の気配は消えている。
「蔵姫、居るのだろ?」
何処へと向ける訳でなく、蔵姫に声を掛ける。
そして同時に、声を掛けられた人物は動いていた。
それはまさに風・・・いや、暴風と言っても過言では無いかも知れない。
僕が横にステップするのと、それが僕の脇を通り過ぎるのは、ほぼ同時と言ってよかった。
素晴らしい速さだった。
直線距離にして十メーターは在ろうと言う距離を、蔵姫は一呼吸で駆け抜けていた。
そこからの横殴りの蹴り。
手加減など微塵も感じさせないその蹴りは、当たれば骨の一本や二本は確実に持って行くだろう。
寸での所でかわした僕は、目の前の蔵姫と対峙する。
二撃目は襲って来ない。
少し意味深にも考えたが、大振りだったその蹴りは、コンビネーションには向かないのも事実だと理解する。
蔵姫は少し間合いを開け、離れた所でこちらを伺っている。
「いい天気だね」
僕は彼女に、そんなどうでも良い事を話しかけた。
今もなお空は青く、空気は澄み渡っている。
「またお前か」
蔵姫は短く口を開く。
相変わらずと言って良いそれには、笑みなどは、まったく無い。
無表情と言うより、冷たい能面のような印象を受る。
「いや、蔵姫に教えてもらいたい事があってね。それで顔を出したんだ」
僕は、中里さんや神崎に話すように、気軽に蔵姫にそう言う。
「ほう・・・。とてもそうは見えぬのだが、私の勘違いとでも言うか?」
「そうだな、言い方が違うだけで、結果としては蔵姫の言う通りかも知れない」
僕は軽く肩をすくめて見せる。
「馬鹿にしているのか?」
蔵姫はそんな事を言う。
これでも僕は、大真面目に話をしているのだが。
「そんなつもりは無い。そう聞こえたのなら謝る」
蔵姫を見据えたまま、僕は形式的な謝罪をする。
「しかし、よくそれだけの穏業をこなす。結界の無効化も、今まで見てきた奴の中では最高と言っても良い」
蔵姫はほんの少しだけ目を細め、話を続ける。
「昨日は随分と存在が希薄な奴だと思ったが、今はまるで陽炎のようだ。その反面、目に映る刀だけが存在を感じる。
お前は本当にそこに居るのか?」
蔵姫の視線が、朝霧へと向くのが分かる。
「蔵姫にはこれが見えるのか?」
僕は朝霧を押さえる手に力を入れる。
さくらさんが関るなと言う程である。
蔵姫にとっては、朝霧が見えるのが当たり前なのであろう。
「しかし、それはそれ。貴様の持つそれが、いか程の物かは知らぬが、そんな物で私をどうこう出来るとでも思っているのか?」
「どうだろう?出来るかもしれないし、出来ないかもしれない。それはやって見なければ分からないな」
僕は笑顔を絶やさない。
「随分な自信だな。目的が何であるかは解らんが、貴様が私を馬鹿にしていると言う事は十分に分かった。素直に覚悟をしても良いぞ」
「覚悟か。・・・そうだね、覚悟は必要だ。だけどそれは僕の知りたい事を蔵姫に聞いた後かな?」
此処に来た理由を言う。
僕は蔵姫に教えてもらいたい事があるから、ここに居る。
無意味に来た訳でもなく、僕は僕なりの理由で行動していた。
「そうか、ならばそれも良いだろう。さっさと私に教えてもらいたい事とやらを言ってみろ」
蔵姫はあっさりとそんな事を言う。
しかしそれは、『親切に教えるから』などではなく、変わらぬ結果の前の慈悲といった風にも聞こえる。
つまり、死ぬ前に言いたい事を言えと言う事。
好意は素直に受け取っておいた方がよいだろう。
「率直に聞くけど・・・、白薔薇使いの力とは、どの程度の物なんだ?」
蔵姫はその場を動く事はせず、ただ腰に手を当てる。
彼女のスラリとした長い足は、そんな何気ないポーズですら美しく見せる。
「これはまた面白い事を言う。何処で薔薇を知ったかは聞かぬが、そんな事を聞くからにはお前、相当の死にたがり屋か、只の阿呆と言う事だな」
蔵姫は意外な事を言われたように、目を丸くする。
呆れていると言って良いだろう。
僕としては、無表情なイメージの蔵姫のその表情が可愛らしく見え、思わず笑顔が出てしまう。
「そうでも無いさ、それに蔵姫は優しいだろ?」
僕は朝霧を肩から下ろし、鞘が抜けないように肩紐を巻きつけると、軽く一振り空気を薙ぐ。
黒田の時よりも朝霧は軽く感じられ、その引き裂かれた空気は鞘に収められているにも関わらず、何か悲鳴のように震える。
一瞬、蔵姫は目を細め、小さく『阿呆が!』と吐き捨てたように見えた。
「白薔薇を見せてくれ」
僕は簡単に言う。
それを合図としたのだろうか?
言葉を言い終わるかどうかの一瞬で、蔵姫の姿が消える。
僕の瞬きと同時に、彼女は視界の外まで移動していた。
尋常ならざる動きと言って良い。
考える暇などは無い。
僕は朝霧を右肩側に構え、蔵姫の繰り出す拳を受け止める。
ちぃ・・・、早いなんて物では無い。
本来の僕の技量では、どうこう出来るレベルとスピードでは無い事が解る。
「すごいな・・・、まるで目で追えないじゃないか」
僕は感歎の声を上げる。
「ほぅ、余裕だな」
蔵姫は本気になっていないのか、僕を弄ぶかのように拳を繰り出す。
何度か蔵姫の繰り出す拳を避け、蔵姫との間合いを開ける。
もっとも、その距離にいか程の効果が在るかは怪しい物であるのだが。
「薔薇を知りたいのでは無いのか?逃げていてはそれを知ることは出来ぬぞ」
嘲笑うかのように蔵姫は言う。
だが何度か蔵姫の打撃を防いで分ったのだが、蔵姫の拳は一度も朝霧に触れては居ない。
正確には触れる手前で、蔵姫の拳は弾かれているように見える。
これはどう言う事なのであろう?そんな風に思う。
だが、それは僕にとって、些細な疑問でしかなかった。
それ以上に、これでは駄目だと言う事を考える。
蔵姫にとってのこれは、じゃれ合っている程度なのだろう。
だが、それでは僕の目的を果たすことは出来ない。
それでは意味が無い。
それなりに蔵姫を挑発したつもりでは在ったが、実際のそれは然程意味を持たない物のようだった。
まずは、自分が強くならなければならないと言う事。
僕はそう考え、それが蔵姫を本気にさせる簡単な方法だと理解する。
ならば話は簡単である。
僕は、自分の精度を上げる。
バルブのコックを開くように朝霧の情報を処理し、自分の感覚とする。
それは朝霧の肯定とも言える事。
初めて朝霧と繋がった時、僕はその膨大な情報に耐えられず、自分の処理能力をパンクさせてしまった。
それを束ね、少しずつ開く事によって、僕はそれをなんとか自分の情報として処理する事に成功していた。
それが3日前。
理由はよく分らないのが、二日目、三日目と、その情報のバルブを開けられる量が着実に増えて来ている。
これは『慣れた』で済ませられない程のスピードと言って良かった。
だから今は、その情報のバルブを、開けられる所まで開ける。
それが僕の能力を上げる有効な手段だと判断した。
僕は地を蹴る。
予備動作を皆無にし、蔵姫との間合いを削る。
僕が見ている物は、周りの世界と蔵姫の姿。
僕がみている者は、自分自身と目の前に立つ蔵姫と言う存在。
僕は自分の無駄を削除し、その一片たりとも無駄遣いなどはせず、蔵姫へと向ける。
それは朝霧の力。
これは自分自身の力。
朝霧の情報により、僕は自分自身の身体能力を知る。
朝霧の情報により、僕は自分自身の限界を知る。
それは僕の技量を飛躍的に上げ、限界までへと押し上げしてくれる。
まるで何十年と繰り返し、熟練された達人のように僕の体を動かす。
僕は朝霧を蔵姫へと向け、振るう。
蔵姫はその一撃を空身で受けるようにし、打撃と同じ方向に飛んだ。
『パンッ!』
耳で聞き取れる程の音がする。
蔵姫は避けたと言うよりは、何かに弾かれるように屋上の端まで移動し、着地する。
蔵姫の発する光の一部が・・・いや、光の重なりの一枚が消える。
「興味深いと言っても良い。初めて相手にするタイプだ。動きがどうのという訳では無いが、先が読めん。どんな術を使っているのだ?それにその刀はなんだ?魔刀の一種の様だが魔力を殆ど感じない。そのくせその魔刀に触れそうになると、私の防御結界が強制発動をしてしまう。実に奇妙だ。一体その刀は何だ?」
突然流暢に話しだした蔵姫は、無駄の無い美しい動きで緩やかに、更に緩やかに僕へと近づいて来る。
「そうだな、僕は蔵姫に教えてもらい事が在ってココに来た。僕と朝霧の事を先に教えるのは礼儀かもしれない」
緩やかに歩み寄ってきていた蔵姫は一旦足を止め、なぜか「ククク」と小さく笑う。
「何が可笑しい?」
「いや、貴様は馬鹿だろ?」
そう言うと同時に、蔵姫の発する光は元の重なりへと戻る。
どうやら今、元に戻った光が防御結界らしい。
「時間稼ぎの質問を真に受けるどころか、自分の手の内を馬鹿正直に言おうとする。正直も度を越すと、ただの馬鹿になるいい見本だな」
ほんの少しだけの時間稼ぎ。
それが互いのアドバンテージに大きく影響する。
彼女はそう言いたいのかもしれない。
蔵姫は僕の事を笑う。
だけど、僕としてはそれは蔵姫とやり合えるだけの確証に思えた。
まるで相手にならない訳ではないと。
「蔵姫、先に言っておく。生身で朝霧に触れようとするな。鞘に納まっていようが、この刀は触れる物を喰らう!」
僕は駆け出す。
情報のバルブを緩める事はしない。
全てを見、それを処理する。
蔵姫に朝霧を振り下ろす。
一撃、二撃、三撃と。
蔵姫は実際に触れる事無く防壁のような物でガードし、距離を一旦開けようとする。
そして、それを追う様に四撃目を僕は蔵姫に振るう。
「なっ・・・!」
蔵姫はそう小さく息を漏らすと、再び弾かれるように跳び、僕との距離を開ける様に着地する。
恐らくは、歴然とした実力の差がある筈である。
格下の僕の攻撃を、蔵姫は流せずに防いでいる。
蔵姫の瞳には静かではあるが怒りの様な物が見え隠れしていた。
僕は、蔵姫の動きを先読みしていた。
気の流れなどは判らない。
朝霧が見せている物は只の光のように見え、実際の動きとは微妙な違いを見せている。
だから僕は、蔵姫の筋肉の動き、呼吸の音、触れる空気の流れなどを読み、蔵姫の動きを先読みする。
『気』などでは無く『期』を読む、とでも言うのだろうか?
蔵姫の言う通り、僕の動きが読みずらいのであれば、僕の動きが蔵姫より遅くとも、そのギャップは僕の武器となる。
「蔵姫、白薔薇を使え。そして僕に教えてくれ、白薔薇の力が、どれ程の物なのかと言う事を」
僕は、ココに来た本来の目的を、再度言う。
白薔薇がどんな物であるのか、どうしても知りたかった。
理屈等ではなく、その力を。
「いいだろう・・・」
蔵姫は、表面上穏やかに言葉を発したが、包む光は揺らぎ、その蒼さは深みを増す。
内面的には激怒しているのかもしれないと思う。
「殺せるのか?お前に」
僕が発したその言葉が再びの合図であった。
蔵姫は再び地を蹴り、瞬く間に僕との距離は縮まる。
空気がほんの少し動く。
僕は半身程度身体をずらし、それを避ける。
衝撃波。
彼女は信じられない事をする。
僕との距離が完全に詰まる前に、彼女は攻撃をしていた。
霊力や魔力など一切無い、単純なただの衝撃波。
リーチの何倍もあるそれは確かに破壊力を持った波となって僕の脇をかすめて行く。
・・・囮。
数度の打ち合いで、蔵姫は僕の癖を見ていたのだろう。
衝撃波を避けた瞬間、そこに予想していたように飛び込んで来た蔵姫は、実戦では使用不可とも思えるフルスイングの拳を僕へと叩き込んでくる。
「ガン!」まるで工事用重機か何かの関節音のような鈍い金属同士のぶつかる音がする。
それは朝霧の手前で弾かれるような事は無く、その衝撃は防御した朝霧を通して僕へと伝わる。
蔵姫は自分の拳に、四連のリングをはめていた。
何時の間にはめたのだろう?
それは白金に輝く美しい物だった。
俗に言うカイザーナックルである。
く・・・、受け止めた僕は、思わず奥歯に力を入れる。
なんと言う重圧であろうか。
蔵姫の拳から発せられた力は、僕の身体をすり抜け、校舎を揺らし、屋上のコンクリートに亀裂を生じさせた。
この特異な体質が無ければ、僕の体はどうなっていたのだろう?
そう考える程の威力。
これが白薔薇。
それはあまりにも直線的で、あまりにも蔵姫に似合いすぎる能力。
ただ一直線に、増幅した力を相手に叩きつける。
それだけの力。
蔵姫は今、間違いなく僕を殺そうとしている。
・・・そうでなくては困る。
右拳にはめられた白薔薇は、容赦なく僕へと向けられ、朝霧によって弾かれたそれは、人の目に見えるほどの火花を散らす。
そんな中、蔵姫は当り前の様に、左拳のフックを打つ。
いままで使おうとしなかったそれは、特別な意味を持った物では無かった。
ただ、彼女は反射的にそれを出しただけだったのかもしれない。
だが結果として、その何気ない一撃は、僕にとって致命傷に近い、いや、それの原因となる物であった。
その素手の拳は、なぜか弾かれる事無く、受け止めようとした朝霧に触れようとする。
僕は反射的に朝霧を引いてしまう。
結果、その拳を脇腹にクリーンヒットさせられた僕は、その後のコンビネーションの右を顔面に貰う事となる。
同じ方向にと飛び、辛うじて衝撃の大部分は消す事が出来たが、視界が歪み、僕は思わず膝をつく。
蔵姫の蹴りが僕の腹に入るのは、それと同時だった。
五メーター程吹き飛ばされた僕は、呼吸が出来ずその場にうずくまる。
「やれやれ、やっと当たったか。チョコマカと動きおって。しかし、白薔薇で殴っても頭が吹き飛ばんとは・・・、存外化け物なのだな貴様は。だが、これはこれで面白い体験をさせてもらった。慈悲だ、己が名を名乗れ」
蔵姫は淡々と話しながら、僕へと近づいて来る。
それは強者が持つ、弱者への哀れみ。
初めから決まっていた事だった。
蔵姫は僕を殺す。
それは変わらない事実で、ごく当たり前な世界の肯定でもあった。
でも、それは蔵姫や他の人の世界での話であって、僕の世界には関係の無い話。
そう・・・僕には関係の無い・・・。
・・・。
・・・。
「つまらない・・・」
「なに?」
誰が言った言葉だったのか?
蔵姫は足を止め、未だに横たわる僕を凝視する。
蔵姫は僕を殺そうとしている。
なのに、僕は未だ、恐怖を感じない。
相手は人間である。
それは当たり前で、すごく可笑しな事である事も分かる。
なのに、僕はその事に不満を感じ、妙な感情が心の底に芽生える。
ここに来た目的以前に、それは僕の中で膨らみ、今まで感じた事の無い苛立ちとなる。
いや、この苛立ち・・・どこかで?
「あはは・・・」
本当につまらない。
次の瞬間、僕は自分が立っている事に気が付く。
呼吸はまだ回復していない。
息などは、しなければしないで良い。
この体は呼吸など無くとも、死ぬまでの間、ある程度動いてくれる。
「ほう・・・、今の動き、人の物を逸脱しているな。お前、本当に人間か?」
そう言いながら、蔵姫は軽くステップを踏み、後ろへと距離を取る。
蔵姫が何のことを言っているか、僕には理解できなかった。
尤も僕には、それを理解する必要もないのだが。
そう言えば、考えても居なかった事に気がつく。
蔵姫に殺されそうになったら、どう対処するのか。
とても単純なことで、真っ先に考えなければならなかった事だったのに。
自分でも笑ってしまうのだが、選ぶ事を忘れていたのだ。
だから・・・?
僕は・・・?
選択をする。
そう・・・簡単な事。
蔵姫を・・・、喰えば良い。
そして其処に、恐怖は無い。
僕は鞘を止めていた紐を離し、僕は左手を鞘へ回し、親指を鍔へと掛ける。
蔵姫は、腰を落とすようにし、その体にバネのように力を込める。
なぜだろう?恐怖では無いのに、どうしても唇がニヤケル。
「何が可笑しい?」
蔵姫は目を細め不機嫌そうに言う。
そんな事を言われても、答えようが無いのに・・・。
しかし、状況は変わる。
僕がその問いに答える前に、空間を満たしていた『蒼い』色が消える。
誰かが結界を壊したのだろう。
大体の見当は付くが、それでも今は蔵姫から目を離す事は出来ない。
ズガァーーーーーン!
派手な音と共に、派手な勢いでひしゃげた鉄の扉が蔵姫を襲う。
蔵姫はそれを右手一振りで弾き、屋上の入り口である、その方向を目視する。
視線の先にはさくらさんが立っている。
予想をしていなかった事では無いが、さくらさんのその行動に対し、少々苛立つ物を感じた。
だが、それとは別に僕の中で今までの物が冷めていくのも感じていた。
いわゆる興ざめ、とでも言う物なのだろうか?
「なにやってんのよ!端鷹!!」
赤いスーツを着たさくらさんが、仁王立ちをしながら言う。
ふむ、怒りの形相とは、あれの事を言うのだろう。
「ハシタカ?」
蔵姫はさくらさんから視線をはずし、僕へと再び視線を向ける。
何だろう?なぜか蔵姫の表情が微妙に変わる。
「フルネームでは『加々美端鷹』って言うんだ。さっき蔵姫が聞いた僕の名だ」
呼吸が整わない僕は、たどたどしく、ふてくされたように言う。
蔵姫はそんな僕を眺めながら、腕組みをし、ほんの少しだけ呆れたような顔をする。
そして、そんな蔵姫と僕のやり取りを気に留める風でもなく、さくらさんは僕へ近づいて来た。
その動きには見惚れる程スムーズで、まるで流れる風のようである。
ガン!
「・・・痛い」
僕は、自分の前で立ち止まったさくらさんに頭をグーで殴られ、思わず間抜けなトーンで声を漏らす。
不覚にも、さくらさんの挙動を読み取る事が出来なかった。
わざと避けなかったのではなく、僕はそのグーを避けられなかったのだ。
超が付く達人の領域と認めるしか無いだろう。
そして蔵姫は何も言わず、こちらを凝視する。
いや、こちらと言うよりは、さくらさんを・・・と言うべきか。
「悪いけど、引いて貰える?」
さくらさんは蔵姫を見ずに言葉を発する。
その言葉は冷ややかで、圧力の篭った物で在った。
「ふん!」
蔵姫は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、僕達に背を向ける。
それは了承と取れる行動だった。
しかし、ほんの少しとは言え、僕にはそ行動に腑に落ちない物を感じる。
さくらさんが強いのは解る。
相手が強いから引き下がる・・・、蔵姫がそんな人物では無い事も解る。
だから腑に落ちない。
「ハシタカであるのであれば、仕方が無い」
蔵姫は意味深な言葉を言い、校舎への入り口へと足を進める。
蔵姫のその言葉に、どんな意味が在るのか今は解らない。
ただ、理由はどうであれ、僕はどうやら死なずに済んだようだった。
「・・・」
「どうしたの?さくらさん」
飄々としている僕とは裏腹に、さくらさんはその蔵姫の言葉を聞いてかどうか、表情を強張らせ、そして蔵姫が校舎へと消えるその時まで、僕をかばうようにじっとしていた。
「端鷹・・・」
「ん?何、さくらさん」
「殴って良い?」
蔵姫が姿を消してすぐ、さくらさんはそんな事を言う。
「いや、さっき殴ったよね」
眉間にしわを寄せ、呆れたように少々の沈黙。
「早く午後の授業に行きなさい」
それだけを言うと、彼女は僕を残し、校舎へと消えて行く。
ふむ、本格的に怒らせたかな?
そんな事を思いながら、少し肩を竦ませてみる。
だが、流れや結果はともかくとして、僕は命を落とす事も無く、欲しかった情報と経験を手にする事となった。
身体の痛みや打撲による熱は、道元先生の所に通っていた頃を思い出させる程、酷い物である。
そして得たものは、それ以上で有ったであろう。
・・・白薔薇ねぇ。
僕にとっての恐怖では無いそれは、恐怖でない筈なのに、とても興味深い存在であると思った。
それに「アレ」が加わる。
「ふふんっ!」
獲も知れない笑いがこみ上げて来る。
そんな僕の態度を歓迎するかのように、空は蒼く、何時ものように澄み渡っている。
「さ、午後の授業が始まるな」
そう独り言を言いながら、蔵姫やさくらさんの向かった校舎へと、僕も向かうのだった。
その日の夕食は、何時に無く騒がしい物となっていた。
「うむ、この揚げ物もなかなか美味いな、母上殿」
僕より年下のはずのその少女は、見た目の年齢に似合わない落ち着いた物腰で、その味を賛美する。
「でしょ!でしょ!そこ等辺の中華屋さんよりも百万倍美味しいんだよぉ~♪」
彼女の同級生である美姫は、自分の母親の料理を褒められた事が余程嬉しかったのだろう。
満面の笑みを浮かべ、まるで自分の事の様に喜んで居る。
「あら、褒めても何も出ないわよ♪」
そして料理を作った筈の歩美さんは、そんな褒め言葉に対し、楽しげにそう答えて居た。
「ほう、この白身の魚、シンプルでは在るが、上品な味わいと絶妙な焼き加減が食をそそる」
「蔵姫ちゃんもわかる?美姫も大好きなんだよぉ~」
「ふふふ、何時もは御馳走だから迷うけど、半額セールでちょうど残っていたのよ」
そんな感じで、美味しさリピートのように、三人の女性が妙な盛り上がりを見せている。
これを姦しいと言うのだろうか?
実を言うと、この場には僕意外に女性が四人居るのだが、内一人は御飯茶碗を持ったまま、なにやら不機嫌そうに沈黙している。
「今更だけど、なんであんたが此処で夕食を食べている訳?」
不機嫌そうに沈黙していた女性、さくらさんは、突然その重い口を開く。
「ん?それは私に言っているのか?ロサ・ルゴサ」
盛り上がっていた三人の内の一人、蔵姫が機械的に桜さんに視線を配る。
「変な呼び方はしないで。浜茄子よハ・マ・ナ・ス!!」
さくらさんのその声には、俗に言う『ドス』と言う物が含まれている様だった。
後で判った事なのだが、浜茄子の学名を『ロサ・ルゴサ』と言い、薔薇の学名にちなんで、さくらさんのハマナスを、『紅薔薇』とも呼ぶ様だった。
『薔薇』は一種類では無い様である。
「あら!『ハマナスの桜』ね!懐かしいわぁ・・・その通り名」
楽しそうに歩美さんは手を合わせる。
過去話が好き・・・と言うのは、歳相応と言うべきなのだろうか?
しかし通り名って、一般的にはありえない単語だと思うのだが。
「ちょっと歩美!誤解を受けるような発言をしないで!」
「あら、桜ちゃん、不良の人達からそう呼ばれていたわよね?」
「だぁ~かぁ~らぁー!!」(怒
うん、何だかさらに騒がしくなった。
本筋から脱線し、話が一向に進まないのは、こう言った席では良くある事だと理解する。
しかし、意外な展開と言うのだろうか、蔵姫と共に夕食を摂る事になるとは。
「でも、蔵姫ちゃんがお兄ちゃんと面識が在ったなんて意外だよぉー」
蔵姫と僕が知り合いだった事に、美姫は妙に感心している。
「どちらかと言うと、美姫と蔵姫が友達だったって事の方が意外なんだけど」
僕は率直な感想を言う。
ちなみにさくらさんに聞いた所、蔵姫の白薔薇を『野棘』と言うらしい。
学園では『野茨蔵姫』と名乗っているようだし、彼女の素直な性格を現しているのかもしれない。
いや、単に名前を考えるのが面倒なのかも知れないし、もしくは本名という事も考えられる。
「年寄りが短気になるのは、いつの世も変わらないと言う見本だな」
相変わらず冷やかな蔵姫は、さくらさんにそんな事を言う。
「はぁぁ?言っている意味が解らないんだけど?ミス・ホワイティー?」
「ほぉぅ、初めて聞く言い回しだ。私相手に随分な余裕だなレッド」
感情的なさくらさんと、対照的に冷やかな蔵姫は、そんな感じで言い合っている。
お互いに一線を越えない様にしているのは、なんとなく解る。
「あらあら、似た物同士なのねぇ」
それを見ていた歩美さんが、突然そんなことを言う。
「歩美?貴女、何時も変な事ばかり言うけど、今のはかなりレベル高いわよ」
さくらさんのテンションが、徐々に上がっているような気がするのは、たぶん気のせいだろうか。
「あらそう?桜ちゃんに初めて出会った頃、雰囲気が蔵姫ちゃんにそっくりだったわよ」
どこか懐かしむように、歩美さんは目を細める。
「母上殿、母上殿でも今の話は聞き捨てに出来ないのだが」
蔵姫は違う意味で目を細める。
「そうなの?さくらさん」
「違います」
僕の質問に、さくらさんは不機嫌そうに答えた。
「あらあらあら」
全然困ったように見えない歩美さんは、そんな二人を見ながら、楽しそうに食事を進めている。
まぁ、そんな感じでその日の夕食は何時もと違う賑やかな物であった。
さくらさんは余程面白く無かったのか、夕食を済ませると、何も言わずに自室へと姿を消す。
あんな事があった後である。
楽しく・・・と言う方がおかしいのだろう。
揉め事を起こしている当事者としては、若干申し訳ない物も感じる。
もっとも、さくらさんも蔵姫も、浅田邸で揉め事を起こすほど子供では無いらしく、心配する様な物でも無かった。
「少し外に出てきます」
お茶を飲みながら雑談をしている美少女三人組?に声を掛け、僕は外の空気を吸いに行く事にした。
玄関を出た僕は、何時もの様に空を眺め、そして息を呑む。
凄い。
率直にそう思う。
これはいったい何度目の感動だろう?
そこには万面の星空が広がり、心地良いほどの月明かりが降り注ぐ。
この町は、僕が住んでいた町よりも遥かに首都圏に近いはずなのに、より空気が澄んでいるように思えていまう。
ガチャ。
玄関のドアが開き、一人の少女が僕の後ろへと立つ。
僕の有意義な時間は、そうそう長くは続かない様だった。
「帰るのか?蔵姫」
僕は振り返えらず、星空を眺めたまま声を掛けた。
「・・・」
蔵姫はじっとしたまま何も答えず、しばし沈黙が二人の間に流れる。
「ハシタカ、美姫がお前に固執する理由が解らん」
先に口を開いたのは蔵姫だった。
「ん?何の事だ?」
不意な質問に、その意図を測れず、僕は振り返る。
「言葉のままだ。美姫は随分とお前の事を気に入っているようだが、美姫とお前とでは釣り合いが取れん」
しばし考えるが、やはり蔵姫の言っている意味を今ひとつ汲み取る事が出来なかった。
『人の恋愛の容は色々だから・・・』
ふと、今朝の会話でのそんな歩美さんの言葉を思い出す。
「蔵姫は美姫が好きなんだな」
別にそれと同じ意味で言った訳ではないが、蔵姫は友達として美姫を好きで居てくれるのだと思った。
彼女らの間で、日頃どんな会話が在るのかは知らないが、他人の為に何かを言うと言う事は、偽善で無い限り、相手を思っての事である。
そして流れはどうであれ、男女二人が見詰め合い、しばしの沈黙が訪れる。
「ふん!そう言った次元の低い話では無い。やはりお前では釣り合わん」
そう言うと、蔵姫は浅田邸の中へと戻っていく。
彼女は、それを言いに来ただけらしく、まだまだ帰る気は無いらしい。
浅田邸から、再び三人の話し声が聞こえて来る。
蔵姫は楽しんでいるのだろう。
さくらさんが言っていた蔵姫のイメージ。
見境が無くてあぶない奴らしいとは、チョッと違う感じがする。
結果がどうであれ、今の蔵姫を見ていると昼の出来事が嘘の様であり、思わず微笑んでしまいそうだった。
賑やかな所へ混ざる気は無いが、一先ずは浅田邸の中に戻る事にした。
そう、まだ夜は長いのだから。
夜は静まり返り、あれほど賑やかだった浅田邸は静まり返えっている。
そして以外だったのは、美姫の部屋に蔵姫が泊まっていると言う事。
いわゆる『お泊りさん』である。
『危ない奴』と言う前振りとは、実際の蔵姫がどんどん掛け離れて居るような気がしてくる。
もしかすると、普段は普通の女の子と言う認識で良いのだろうか?
もっとも、朝霧を持たない状態で神経を研ぎ澄ましても、家の中に居る人間を僕は二人しか感知出来ない。
歩美さんと美姫の二人。
さくらさんと蔵姫は息音すら聞こえない。
居るはずなのに物音一つたてて居ないのである。
それはやはり『普通』とは、違っていた。
僕は朝霧を握る。
僕を取り囲む世界は変わり、世界は変わる事無く、朝霧によって僕は情報を得る事になる。
さくらさんと蔵姫の存在が判る。
どうやら二人とも、静かに部屋に居るようだった。
寝ているとは限らないが、何かをしようと言う事は無いのかも知れない。
僕は音と共に気配を消す。
予め部屋の窓を開けてある。
窓を開ける音でさくらさんに気が付かれる恐れは無い。
ちなみに、蔵姫から貰った日中のダメージは、殆ど抜けていない。
つまり、身体はボロボロと言う事。
窓から外へ出た僕は、そのまま塀を飛び越え、浅田邸を後にする。
もちろん目的は『アレ』。
この町に『アレ』の類が複数存在することは以前から判かっていて、僕の命もそうは長くない物だと思っていた。
もんちろん、それ自体に恐怖は無い。
そして、さくらさんと蔵姫の存在。
蔵姫と対峙してみて解った。
彼女・・・いや、彼女達は強い。
つまりそれは、僕の願いや希望を全てを台無しにしてしまうと言う事。
下手をすれば、全ての『アレ』が殺されてしまう。
だからひっそりと街へ出る。
目的地は学園。
あそこの屋上は見渡しも良く、町全体を見渡せる。
『アレ』の創り出す結界を、効率良く見つけられるかも知れない。
否応なしに僕の期待は膨らんでいく。
学園はひっそりと静まり返っていた。
夜の学校と言う物には色々と曰くが付く物だが、僕個人としては、噂に聞く実体の無いだろう幽霊などには、まったく興味が無かった。
実際、朝霧を握ってからは、随分とそれらしい者を見ている。
だが、何の興味も抱く事は無かった。
もやもやとした、混濁した色をしている影。
動き回ると言う訳でもなく、ただ其処にじっとしているだけの存在。
残留思念とでも言うのだろうか?
何かを伝えたい・・・。
もしそんな思いがそこに残るであれば、それに触れてしまった人は、勝手に見えてしまうのかもしれない。
階段を上りながら、踊り場の隅に佇む同じような影に視線を落とし、ふとそんな事を考える。
だからどうした?と言われれば、何と言う事でも無いのだが。
そうしている内に屋上へと辿り着く。
「はぁ~・・・」
僕は思わずこめかみに指を当て、溜息を吐く。
「何やってんだ?蔵姫」
僕は自分がした溜息の原因へと、質問をする。
「それはこちらの台詞と言う物だ。お前の気配が消えて、それを追う様に赤い奴が動いたのだ。普通、何か在ると思うだろう?」
そこには浅田邸で大人しくしている筈の蔵姫が居た。
パジャマ姿のまま。
校舎の壁を駆け上り、蔵姫が先回りをして待っているのは少し前に判ってはいたが、パジャマ姿だとは予想外だった。
・・・ちょっと可愛い。
「で、さくらさんは何しに来たの?」
そして、後ろから飄々と階段を上ってくるさくらさんに念のため質問をして見る。
「なによ端鷹、鬼なんて居ないじゃなぁ~い。てっきり確信があるから出掛けたんだと思ってたわ」
ロングコートにロングブーツ。
腰には金色のチェーンで固定されたハマナス。
僕が見た事の無い、やる気満々の出で立ちである。
「あのね、夜の散歩位するでしょ」
少し腹が立ったので履き捨てるように言う。
「気配を消した上に、朝霧を持っての散歩なんだぁ~♪」
さくらさんはワザとらしく茶化して言う。
ふむ、どうにも条件が悪い。
僕が考えるに、今晩は戻るしか無いようだった。
一瞬、校舎の外に視線を配った僕は、そう判断する。
こんな状況では『アレ』との個人としての対峙は期待出来ない。それが結論だった。
僕は踵を返すように校舎内に戻り、家へ帰るとする。
「なんだ、帰るのか?興醒めだな」
「そうね、端鷹も居所を掴んでないなら、長居は無用ね」
勝手な事を言っている二人を尻目に、何事も無かったように僕は階段を下って行く。
どうやら彼女らは気が付いていない。
少し離れた場所から、毒々しい紫色の柱が空へと伸びている事を。
そう、あれは『アレ』の結界。
いけない・・・。
恐怖の事を考えただけで、・・・心が濡れる。
どうしてもニヤケてしまう。
楽しみとはこう言う事を言うのだろう。
そして僕は、表情を悟られないように、静かにその場を後にする。
週一程度の更新となりますが、よろしくお願いいたします。




