月下の邂逅②
ウェルトの足は住宅街へとさしかかった。
連なる家々からは明かりと家族団欒の声が漏れている。戦争中にもかかわらず、この街は平和そのもののようだ。不謹慎などとは言わない。平穏な日々を守ることが兵士の役目である。ならば、安寧を謳歌する人々たちがいるという事実をウェルトは誇りに思わねばならない。
どこかで泣き声が聞こえる。
嫌いな食べ物をどうしても口に入れたくない少年の悲痛の声だ。あまりよくないことだとわかってはいるのだが、ウェルトは耳を澄ませて家族の声を聞いた。お父さんとお母さんは必死に抵抗する息子に食べ物の大事さを説いている。理屈など関係なしに、少年は「嫌だ」を繰り返し、それはやがてお母さんに強硬手段をとらせることとなった。泣き声が一層強くなる。
ウェルトは思わず唇をほころばせ、「平和だな」とひとりごちる。
幹の細い街路樹。その一本にウェルトは背を預けた。
不穏な影は今のところない。
そろそろ戻ろうかと考える。
ふと空を見上げた。
月が出ていた。
月は半月と満月の中間といった欠け具合。周りには星々がちらほらと自己主張しているが、その存在感は月に遠く及ばない。月や星々の光を遮る雲が少ないので、空模様が澄んではっきりとしている。
「綺麗だな。……ん?」
ウェルトはおかしな影を見た。
壁が見える家の奥、家を二軒ほど間にして離れている屋根。そこには人が立っており、長大な影を伸ばしていた。横顔が見えるか見えないかの微妙な角度でその人は顎を上げ、月を見上げていた。最初は変わった人がいるな、と思っただけだったが、月に照らされる髪の色が、ウェルトの懐にあった短剣を抜かせる。任務の特性上これ見よがしに腰へと帯刀をするわけにはいかないが、武器を持たぬこともまたありえないので、街などの人通りが多い場所を歩くときには、背嚢に長剣を隠し、懐に短剣を忍ばせる。背嚢は宿に置いてきたので、今は短剣しか手持ちがない。
が、それで十分だろうとウェルトは判断する。
相手は「毒の子」が一人。毒の子を見かけたとアダンたちに報告するのが一番堅実な手であろう。しかし、見たところ周りに奴の仲間はいない。毒の子は例外なく敵だ。倒せるときに倒しておく。
ウェルトは「加護」を発動させる。
まず、体の正面へと意識を向ける。そうすることで、入り口が出来上がる。そしてここからが重要である。入り口にも出口にも必ず空間に揺らぎが生まれる。それに気づかれれば、奇襲は失敗に終わってしまう。出口を作ったその瞬間に剣を突きこむなり振るうなりしなければならない。
ウェルトには自信があった。この能力を使いこなしているという自信が。だから失敗はありえない。ただいつも通りにやればいい。
ウェルトは「毒の子」の心臓の位置に大体の目星をつける。よく見れば中々に清潔な服装をしていることがわかる。トップスは毛織のカーディガンだろう。ただサイズが一つ大きいのか手の甲が半分ほど隠れてしまっている。着慣れていないのか、それとも意図したものなのかは不明。ズボンはすらりと伸びており、こちらはサイズが合っているようだった。物騒なのは腰に佩いた剣だが、この距離では使い物にならない。冷えた風が吹く。風が毒の子の流れる髪をなぶり、ちらりと横顔が露わになる。後ろ姿からは判断が難しかったが、どうやら性別は男のようだ。
ウェルトにとって、それらの情報ははっきり言って無駄以外の何物でもない。
死にゆく者を一々記憶するなど、ウェルトが前に進むための障害にしかなりえない。
すぐに終わらせる、とウェルトは座標を視界の中へと収め、出口を作り出す。狙いは心臓。一突きでは死なないかもしれない。刃先が心臓に届かないかもしれない。だが、いきなり刺されて狼狽しない者など存在しない。人には状況を理解するための時間がいる。その間に二突き、三突き、四突きと食らわせて確実に仕留めてやればいい。
まっすぐに剣を突きだす。
綺麗な服が血で汚れ、無様に倒れる毒の子の姿を想像する。
響く金属音。
「————は?」
我ながら間抜けな声を出したものだと思う。
でも仕方がない。
肉体に剣を突きこむ感触は知っている。その際に出る音も知っている。なのに、突き出したはずの短剣は目の前になく、腕が開くような形に弾かれている。手に残っているのは肉をえぐったときの嫌な感触ではなく重い衝撃。そのせいで握りしめていたはずの短剣がウェルトの手からこぼれ落ちている。本来であれば、聞こえる音は金属音ではなく、揺らぐ空間の入り口と出口を通し、相手の傷口から漏れ出てくる水音が虚しく響くばかり。
そのはずだった。
理解するための時間が必要なのはウェルトのほうだった。
何が起こったのか。
いや、何が起こったのかはすでにわかっていて、なぜそれが起こったのかがわからない。
剣を弾かれた。
奴の剣で。
反射神経が良いとかそんな問題ではない。死角からの一撃だった。空間の揺らぎだって見えていないはずだ。それなのに奴はウェルトの剣を防いだ。自信がぼろぼろと崩れていく。一撃を決められなかっただけで崩れる自信などに初めから意味などないのかもしれない。
紅い瞳がウェルトのほうを向いた。月の光はまるで後光。
ウェルトは死神に目をつけられた気分に陥り、背筋が凍る。この視線には覚えがある。アダンの視線でもなければ、木目の視線でもない。馬車にて感じた視線だ。ならば奴はウェルトの加護をすでに知っていた可能性が高い。ウェルトは誘い込まれたのだ。奴はわざと隙をみせ、自らの心臓を狙わせた。狙う場所さえわかっていれば対処の仕様はある。それにしても危険な賭けではあるが、それを実行するに足る実力が奴にはあったということなのだろう。そしてまんまと引っかかったウェルトの位置を特定し、これから間抜けの命を躊躇なく奪いにくるのだ。
毒の子が急に心臓が止まったかのようにぐらりと前へと倒れ込む。そのまま屋根から落ち、建ち並ぶ住宅のせいでその姿を見失う。
まさか本当に心臓が止まったわけではあるまい。
住宅と住宅の隙間にある闇から紅い目を光らせ、奴が飛びかかってくる様を頭に浮かべた。まもなくそれが実現するはずだ。一筋縄ではいかない敵であることは間違いない。後顧の憂いを断つために、ここで迎撃して奴を倒してしまうか。しかし、もしウェルトがここで敗れるようなことがあれば奴の存在を知らせる者がいなくなる。果たしてウェルトは、後者を選んだ。
前者ができれば一番いいに決まっている。だが、あまりにも危険な選択肢だ。きっと宿屋に戻れば、なぜ毒の子を仕留めなかったのかアダンに問われるだろう。失望だってされるかもしれない。だが、与えられた任務の本質を忘れてはいけない。聖女を守るためならば、ウェルトの面子など馬の脚にでも蹴られてしまえばいいのだ。
ウェルトは後方を警戒しつつ、宿屋のほうへと駆け出した。