光に呑まれる物語①
利き手で構えた剣を、体の中心へと沿うように持ってきて、正面の相手へ対峙するために正眼の構えをみせる。これが軍においてまず初めに習う標準的な構えであり、それを相手に向けるということは当然その相手を敵とみなしたということである。
向けられている相手とは、つまりリリアとウェルトのことだ。
リリアはラアナを見つめる。未だ整理しきれていない心のせいで、どのような言葉を発すればよいのかわからない。ただこんな時にも、剣を構えるだけで絵になる子だなあ、という少しずれた発想が頭に浮かんできて、リリアは自分に緊張感が欠けていることを自覚する。だって、ラアナは裏切り者だったのだ。こんなことを考えている場合では決してない。今にもラアナがこちらに向かって剣を振り下ろしてくるのかもしれないのだ。
しかし、ラアナは構えを解いた。さらに降参とばかりに諸手を顔の横にまで持ってくる。
彼女の行動を一つ一つ理解しようとすると、そのようなことは不可能なことのように思えてくる。常人では考えつかないようなことを平然とするからこそ聖女は聖女足りえるのかもしれない。
「なんのつもりだ」
ウェルトが問う。
それに表情を失った人形みたいな顔をしながら、ラアナは透き通った水晶みたいな声音で返答した。
「だって私じゃ二人に敵わないから。あなたの傷も思ったよりかは深くないみたいだし。 …………昔から私は人を斬るのが苦手みたい」
「人を殺したことがあるのか?」
「ううん、殺せなかったの」
言葉を区切り、もうこれ以上話す気はないと暗に伝えてくる。こういうところはいつものラアナと変わらない。
「ねえ。どうしてラアナは私たちを裏切ったの? いや、どうやって裏切ったの? それに神様ってどういうこと? ラアナは聖女なのに、どうしてこんなことを。もう私わけがわからなくて。教えてもらってもいいかな?」
やっと言葉が出てきた。
感じていた疑問をそのままぶつけた形にはなるが、紛れもなく今リリアが感じていることである。ラアナは答えてくれるだろうか。今思えば、彼女との会話はどこか遠い存在と話しているようだった。それは彼女が聖女であったとかそういうことではなく、もっと彼女の心根に問題があったからではないか。
数瞬の間が空く。リリアとウェルトはそろってラアナの言葉を待った。
そして、
「私はね、一つの村に住んでいたの」
ラアナが語り始めた。
「村は山のすぐ近くにあって、緑がとても多い場所だった。だけど秋になると黄金色に麦畑が染まって、麦たちが気持ちよさそうに風でゆらゆらし始めるの。それがとても綺麗で私も一緒になってゆらゆら揺れてた。そうするとお父さんも、お父さんと一緒に働いていたおじさんも大きな声で笑ってくれて、それがなんだか嬉しくって私はずっと揺れ続けてたの」
なんの話をしているのだろうか。
「近所の子とどっちがお母さん役をやるのかでちょっぴり喧嘩になったり、おばあちゃんのゆっくりとした喋り方でお話を聞かせてもらってそのまま眠っちゃったり、今日なにがあったのかを語り合いながら家族三人で食事をしたり、そんな何気ない日常が、本当はとっても幸せなことなんだって私は全然知らなかった。失わないと大切なものには気づかない。村を滅ぼされた私にはなにも残っていなかったの」
リリアは知っていた。
神のお告げを聞く加護を持った者が、神から聖女の居場所を聞かされたその日、軍は聖女の元へと三十人規模の隊を送り込んだ。そして迎えに行ったその村では、山賊たちが好き放題に暴れていて、聖女以外の村人は全員が死に絶えていたそうだ。この事情を知っている者は、ラアナのことを「悲劇の聖女」と陰のほうでは呼んでいて、そういった背景があるからこそ、彼女が他人とめったに口をかないことを容認されていたふしがある。本来聖女の存在とは、兵士の士気に大きく関わる。やがては命を散らせると知りながらも、自らの使命を誇り高くも果たそうとする、儚い乙女が気丈に振舞うその鼓舞は、幾千万の兵士たちの心へと刻まれて士気はみるみるうちに上昇していく。しかし今回だけは例外で、まるで王の演説のように城の周りに人を集め、顔を晒した聖女の意気込みを声を通して伝えるという行事が、今回だけは無くなってしまったのである。いや、行事自体は行われたのだが、その際に意気込みを発表した者がラアナではなかった。毒の子に気づかれることなくあくまでも隠密に封印の島へと聖女を送る、という今回の任務の特性上、ラアナの顔をおいそれと見せびらかすのは愚の骨頂であったので、任務の概要を知っている軍の上層部は、聖女の代わりに表側へと立たせるいわゆる替え玉を用意した。だからこそラアナという存在のことを知る者は少ない。彼女が世界を救ったところで、ラアナの顔を思い浮かべる者などごくわずか、共に過ごしてきた村の人がこの世にもういないとすればなおさらだ。
ラアナの立場になって考える。
何もかもを無くしたのだと言う彼女にとって、この世界とは救うべき価値があるのだろうか。ましてや救った功績のほとんどを世間は知らずに、彼らがのほほんと人生の余暇を謳歌する様は、仕方がないとはいえ何だか無責任なことのようにも感じる。ラアナの立場であれば、やってられるか、と使命を放り投げてしまいたくなるのかもしれない。
結局、世界を救うなんてことは規模が大きすぎて想像ができないのだ。だからこそ、兵士の皆は身近な者をまず思い浮かべる。リリアだったらお父さんとお母さんを思い浮かべるし、ウェルトだって真っ先に両親の顔を思い浮かべたはずだ。だけど、ラアナには思い浮かべるような人がいない。そういった経緯もあって、毒の子に自分を襲わせるという、自暴自棄にも思える今回のラアナの行動が生じたのかもしれない。
だけど、
「おかしいよ」
リリアの言葉にラアナは首を傾げる。
「あなたは何もかも失って、何もかもがどうでもよくなったのかもしれない。だけど、それならどうしてこんなにも回りくどいことをするの。もっとなにか方法があったはずだよ。自分の役目に抵抗するとか、それとも役目をそのまま受け入れてしまうとか、この世に未練がないのならわざわざ毒の子に襲わせなくても自分で——」
次に続く言葉をいうことは、リリアにとって憚られた。
しかしラアナは、
「自分で命を絶つとか?」
ラアナは苦笑気味にリリアの言葉を代弁した。
こんなことを言ってしまえば、リリアがラアナに自殺を促しているようではないか。だからこそリリアは言い淀んだのに、目の前にいる少女は平然と自らの命を捨てるような発言をしてのける。さらにその口調は、なにを当たり前のことを言っているのか、という世間知らずの田舎者に向けるそれである。
「そんなこと試さないわけがない。だって私は死にたかったんだから」
「だったら——」
「だけどね、神様がそれを許さない」
リリアの言葉を遮ってラアナが続けた。
「聖女が与えられる加護の効果っていうのは毒の魔女がまき散らす毒を死後に抑え込むだけじゃない。毒の魔女が封印された島へとたどり着くまでは、聖女には死を許さないという効果も含まれているの。高いところとか身投げするとか、ナイフで心臓を一突きしようだとか、食事に毒を盛ってそのまま食べてしまおうだとか、それらの決行直前に体が痺れて何もできなくなってしまう。封印の島以外のところでは、自分の意思では絶対に死ねない。そんなもの加護じゃなくて呪いだと思わない? きっと今までの聖女はこんなこと知らないだろうけどね」
自嘲気味な笑顔から悲しげな表情が見え隠れする。
そこにウェルトが一歩踏み出して、詰問するような口調でラアナに尋ねる。
「自分では死ねないから、毒の子を使って死のうとした。そういうことか。だけど、封印の島までそう時間はかからない。一月だってかからないだろう。お前が聖女になってから五年ほどが経っているはずだ。それならこれぐらいの時間わけないだろう。俺たちがちゃんと封印の島まで送り届けるから、それまでは死ぬのも殺されるのも待ってくれ」
「いや」
ウェルトは絶句した。その後、上と下の歯を砕けてしまいそうなくらいにぎりぎりと嚙み合わせて、今までリリアが見たことのないような表情で激昂した。
「お前のそのわがままで仲間が死んだ! エルレグさんもルミナスさんもスティードも! みんなみんなお前の裏切りが招いた結果だ! 望んで聖女になったんじゃないにしろお前には責任があるんだからそれを果たせよ!」
空間の揺らぎがウェルトの胸の前に現れ、そこにウェルトが手を突っ込んで、もう一つの揺らぎが現れた場所——ラアナの首元に腕を伸ばし、そのままラアナを後頭部から地面へと叩きつけた。
冷ややかであったラアナの表情が痛みに歪み、苦痛が織り交ぜられている濁った声を喉から漏らした。
「落ち着いてウェルト!」
リリアの声で多少の落ち着きを取り戻したのか、ウェルトははあはあと息を切らせながら、ラアナへの敵意を僅かにではあるが引っ込めた。ウェルトは川辺の砂利を蹴散らしながらラアナの元へと近づいていき、まるで敵の捕虜にひどい尋問をかけるかのように疑問を叩きつける。
「どうやって俺たちを裏切った。お前には毒の子と接触する機会なんてなかったはずだ。いつでもお前の周りには警護の人間たちがいたからな。それに、今日の毒の子はつぶさに連絡を受けているのかと思うほどに、俺たちの行動を先回りしていた。答えてもらうぞ」
ラアナが首を抑えながら咳き込み、砂利に手を突いて立ち上がる。彼女の柄のない質素なスカートは丈が短くて、細い脚を包み込む黒のズボンを隙間から覗くことができる。それらが田植え作業をしたみたいに茶色く汚れてしまい、綺麗な恰好が随分と台無しになってしまっていた。咳が収まると、ラアナは汚れを軽く払った。
「いいよ、教えてあげる。ただし、場所を移動したいの」
「どこへ行くつもりだ?」
「夕暮れの中で見た、あの綺麗なお花畑まで」




