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愛と毒が殺す世界  作者: 仲島 たねや
第5章 過去の残滓
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過去の残滓②

 肌に絡みつくような闇。アウルの記憶はここから始まった。


 ここは一体どこなのか、今は一体いつなのか、自分は一体だれなのか、以前の記憶は一切なく、だけどなんとなくお腹が空いていることだけはわかったので、深い深い闇の中を足取り重くゆっくりと進んでいく。


 おろおろとしながら手をさまよわせ、周囲に何かないかと探してみると、ごつごつとした岩肌のようなものの存在に気づく。この時には名前さえもなかった少年にとって、壁があるという事実だけでも多少は心が落ち着いた。そして剥き出しの岩肌を伝い、前へ前へと歩いていくと、闇を切り裂く眩い光が見えてきた。


 出口だ。


 少年は歩く速度を速めた。どんどんと光が近づいてくる。そして、自らの手で掴めるのではないかと思うぐらいの、確かな形を持った神々しい光の中へと入り込み、そのあまりの眩しさに、素早い動作で目の前に持ってきた手を使い、少年は簡易な庇を作った。それから眇めた目と指の隙間をおそるおそるといった風に開けていき、視界に広がる景色に記憶の手がかりがないかをじっくりと観察していく。


 辺り一面が緑に覆われていた。


 化け物みたいに太い幹をした木々が、我こそはこの場所の覇者なり、といわんばかりに所狭しと生い茂る。幹から無数に分かれた枝たちは、子だくさんというにはあまりにも多い葉をこれでもかというぐらいに生やしている。しかし、現在少年が立っている場所は少し様子が違う。そこは自然物ではなく、明らかに人工物であった。石で作られたと思しき柱や壁が崩れに崩れ、まるで荒廃した遺跡のようにもみえる。先ほど少年が出てきた場所は、さながら何かを奉るための祠のようであり、それを覆っている石々もほぼほぼ風化していて、幾本もの蔦が複雑に絡み合っている、


 少年は何だか気味が悪くなる。


 ここにいてもなにかしら得るものがあるとは思えなかったので、少年は乱立する木々の中を進んでいくことにした。地面から飛び出た根っこに何度か躓きながらも、少年はなにか食べられるものがないかをきょろきょろと探す。歩いていると、どんどんと下に向かっていることに気づき、ここが山なのではないかと少年は見当をつけた。よくよく辺りを見てみると、動物の姿がちらほらと目に入る。これらの動物を狩

ることができればどれだけ話が早かっただろう。しかし、少年には動物を狩るための道具もなければ、動物を狩るための方法さえも知らない。凶暴な肉食獣がいたならば、たちまちこちらが狩られる側になってしまう。それだけは避けなければならない。少年はなるべく気配を消して、足下の枝葉を踏まないように気をつけた。そこで、一本のキノコを少年は見つけた。傘の部分は茶色。赤とか紫だったらさすがに敬遠したのだが、これならば食べられないこともないのでは、という希望を抱かせることが茶色という色には可能だった。キノコの柄の部分を少年はがっしりと掴み、ぶちぶちと力任せにもぎ取ってやると、まじまじとキノコの全体を観察したり鼻をくんかくんかとさせて匂いを嗅いだりして、毒があるのかどうかと判別する知識もないくせに、これは毒がない、と腹の具合に従順な判断を半ば妄信的に少年は下した。


 あーん。


 と、キノコにかぶりつく前に、少年は確かな気配を感じた。すぐ後ろのほうだ。さっと後ろのほうを振り返り、こちらに伸ばされた手の付け根をしっかりと握る。そこにいたのは人だった。害意のあるなしに関わらず、少年はもう止まれない。そもそもが意識的な行動ではなく、無意識に支配された感覚的な行動であったのだから、相手によって行動を変えるなどという器用なことができなかったのだ。


 狙った箇所は両の眼。いかな動物にとっても急所となる箇所で、攻撃の手段も指が二本あれば事足りる。


 赤い瞳が目についた。血によってこの瞳がさらに赤く染まるのか、と思った瞬間に、少年の体が宙に浮いていた。——投げられた? 少年の判断は早く、空中で姿勢を制御して、地面へ着地する準備を整えた。足の平が地に着けばなんら問題はない。そう思ったのだが、上手いこと足に力が入らず、少年は背中から地面に着地する。


「げほっ」


 肺から空気がこぼれ出た。呼吸は浅く、体全体が痺れているように感じる。


 きっとなにもかも、お腹が空いているせいなのだ。


 少年は身構えた。降ってくるであろう攻撃に対しての防衛行動だった。しかし、降ってきたものは拳でもなければ足蹴でもなく、少年のことを心配した柔らかい女性の声だった。


「ごめんね、驚かせちゃったみたい。だけどね、そのキノコは食べられないって注意しようとしたのに、急に襲いかかってきた君も悪いと思うけどなあ。そうだ、君の名前はなんて言うの?」


 まともな声なんて出ない。喉から出てくるのは掠れた空気の音のみ。


「…………あ……う…………ん……」


「ん? アウル? アウルって言うんだ、君」


 違う。


 だけど答えられない。どうして目の前の女性はこの状況でものを尋ねることができるのだろう。せめて息が整うまで待ってほしい。だけど、白い髪をした女性は少年の状態なんてお構いなしでずけずけと質問を重ねに重ねてくる。


 家は? 両親は? はぐれたの? ここでなにをしているの? どこから来たの? どうしてぼろぼろの服を着ているの? さっきの動きはどこで習ったの? 


 少年はすべてに首を振る。


 だってなにもないのだ。なにも知らないし、なにも持っていない。改めて、自分という存在に疑問が生まれてくる。——一体自分はなんなのだろう? 喪失感とはまた違う空洞みたいな虚無感。元々なにもないのだから失うものだってなにもない。それはとても寂しいことのように思える。どうして自分にはなにもないのだろうか。自らを証明する術は一体どこにある。


 対して、女性はどこか楽しそうだった。


 声もどこか弾んでいるように聞こえる。


 そして、女性はこんなことを言った。


「——ねえ、私と一緒にこない?」


 なにを——なにをいっているのか。女性が放った言葉の意味を、少年は一時の間理解することができなかった。目の前には一本の手が差し伸べられている。さらに女性はリンゴみたいな瞳を真っ直ぐに向けてくる。彼女が現在求めているものは、少年が首を横に振って否定の意をみせることでもなければ、首を縦に振って彼女の言葉に従うことでもない。この手を握る。ただそれだけを望んでいる。


 きらきら光る木漏れ日が嫌でも目に入ってくる。葉は光の輪郭を作り出し、まるで本物の宝石みたいに綺麗だった。手で掴んでいたはずのキノコはどこかへと飛んでいってしまい、誰かの手を握るためではないのだが、おあつらえむきだと言わんばかりに手が空いている。姿勢は仰向きのままで、すぐ目の前には女性の手がある。女性の顔を見ると、今にも微笑みそうな顔をしていて、少年に断られることなんて彼女は微塵も考えていなさそうだった。


 初めて触れるものが有害か無害を判別するかのように、少年は差し伸べられた女性の手をゆっくりと握った。


 女性が笑う。


 これがナタリィとの出会いと、少年がアウルとして歩む人生の始まりであった。

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