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愛と毒が殺す世界  作者: 仲島 たねや
第3章 閉塞の中で
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閉塞の中で③

 駆けつけると、馬小屋が随分と騒がしいことになっていた。


 最低限の雨風さえ凌げればいい、といった風の梁が剥き出しになっている屋根。馬を逃すまいとする無駄に太い丸太の柵。その向こうにはたくさんの藁が絨毯のように敷き詰められており、数匹の馬がその藁を体中に満遍なくこすりつけるようにしてのたうち回っている。暴れる馬の脚にでも蹴られてしまえば当然無事では済まない。柵越しに御者の男二人が、暴れる馬の周りを右往左往している。


 スティードは男二人に一体なにがあったのかを尋ねる。


「誰かが馬の脚を刃物か何かで切りつけていきやがった! 脚の怪我が治るまで商売ができやしねえ。一体どこのどいつがこんな傍迷惑ないたずらをしかけやがったんだ」


 言われて、スティードは一匹の馬の脚に注目した。


 確かに怪我をしている。馬のくせして沖にあがった魚のように暴れているのは、この脚の怪我のせいか。可哀そうに。馬は悲痛な声を上げて、口の端からこれでもかというほどのよだれを垂らしている。他の馬の様子も似たようなものだった。


 これでスティードたちは、この街から出るための手段を一つ失った。


 この損失は大きい。人の足で街を出るには不安要素があまりにも多すぎる。道中に毒の子たちにでも取り囲まれてしまえば彼らから逃げ切ることはほぼほぼ不可能となる。なのでいざという時の逃げる手段として、馬のように速い移動手段はどうしても必要となってくる。


 男二人の怒りと困惑の入り混じった叫びが物音ひとつしなかった街の中でこだまする。


 スティードも同じように叫んでやりたかった。しかし、今はそれどころではない。馬の脚を傷つけた犯人は十中八九で毒の子だ。毒の子が馬の脚を傷つける理由はただ一つ。スティードたちをこの街から逃がさないようにするためだ。

 おそらく、毒の子は今晩の内にでも決着をつけるつもりなのだろう。だからスティードたちの移動手段を奪ったこの行為は、一種の宣戦布告のようなものと捉えて異存はない。奴らは一体何人いるのか。そんなことは関係ない。根こそぎ倒してやる。


 スティードは怒りを感じながらも、燃え滾る炎を胸の奥の方へひっそりと隠した。激しい感情は判断力や思考能力を低下させる原因となる。それでは駄目だ。地下水道にて我を失ったことをしかと反省しなければならない。あの時スティードが冷静になって、後続の者に状況を正確に伝えていたらば、もしかすると状況は大きく変わっていたかもしれない。ウェルトの加護ならば逃げる毒の子を捕らえられたはずなのだ。


 後悔はいくらしても足りない。


 だから、「今」を大切にする。


 スティードにとっての大事な人というのはエルレグだけではない。仲間は皆同様に大切だ。


 一年ほど前のことだった。ある戦いにおいて、上官が仲間を見捨てるような命令を出した。そうしなければ他に大きな犠牲が出ることになる。理屈ではわかっていた。それでも心がそれを拒否する。スティードはたまらず上官に噛みついた。すると数人の仲間がスティードを取り押さえ、それからしばらくの謹慎処分をくらった。


 簡易の牢へと入れられる。岩壁に囲まれた陰気な小部屋はやけにじめじめとしていて、湿度が相当に高いことを肌で感じられた。そこに薄い毛布が無造作に置かれている。これで眠れということだろう。ひとしきり暴れた後に、クッション性皆無の毛布に包まって夜を明かした。


 この間にどれだけの仲間を守ることができたのだろう。


 頭が冷える。思考が落ち着きを取り戻す。上官だって辛い選択を迫られた。何も考えずに指示を待つだけの新兵とは勝手が違う。それなのにスティードは目の前のことを見るだけで、これから起こる事柄について全く頭が回っていなかった。だからこそ思考ではなく感情を優先させた。


 朝になると迎えがやってきた。昨日の上官が部下を数名引き連れている。


「頭は冷えたか?」


 黒く塗りつぶされた顎を軽く引きながら、上官があくまでも冷静沈着といった様子でスティードに問いかける。


「はい。昨日は申し訳ありませんでした」


 スティードは直立の状態から頭を傾げる。


 上官が頷くのと同時、スティードは顔を上げて上官の目をみつめた。


「ですが、仲間は大事です。だから、もう少しだけ私たちのことを頼ってくれても良いのではないかと存じます」


「それはどういうことだ」


「……多少は無茶な指令でも、仲間のためならば私は、私たちは受けいれるということですよ」


 上官は目を丸くして、後ろに控えていた部下の顔を見た。部下たちは、僅かに微笑んでいた。おそらくはスティードの意見に賛同してくれている。上官は再びスティードに顔を向ける。上官はスティードたちの思いをどう受け取ったのか、その表情からは窺い知ることはできない。


「お前は仲間を大切にしすぎる。それは人としてはいいのかもしれない。だが、軍人としてはそういいことではない。仲間を再びなくした時、きっとお前は取り乱す。それではさらに仲間をなくす原因となる。いいか、仲間を助けたいと願うのならば、取り乱した後でもいいから、しっかりと冷静になれ。そして最善と思われる指示は私や他の上官が出す。それに従え。それが仲間を救うためにお前ができることだ」


 だが、と上官は目元のしわにさらなる深い溝を作り、相好を僅かに崩して言葉を続けた。


「それでもなお、指示が間違っていると思ったのなら意見を具申しろ。そして、自分にできることを自分自身の頭で考えろ」


 上に従うことこそが兵士の常であると散々に教え込まれたスティードにとっては、自分で考えろという言葉の新鮮さに、いかずちを食らったような衝撃を覚える。上官の言葉は、スティードの頭の中では今でも再生が可能である。言霊、というものがある。何でも言葉には言葉の精霊が宿るのだという。ならば、スティードの行動の指針ともなった上官の言葉には天使にも近い上級の言霊が宿っていたに違いない。


 エルレグは死んだ。もういない。


 だけど、まだ仲間がいる。


 彼らのためにできることはたくさんある。クロックの出した指示は信頼に足るものだと思うし、それを実行するために必要なのはスティードの力であるという判断を自分で下した。


 これからスティードがやるべきことは、街に出るための足が無くなったことをいち早くクロックたちに伝えることだ。


「戻りましょう」


 未だに騒がしい馬の痛々しい唸り声。御者の男二人による悲痛のデュエット。それらを背にして、呟くような声と共にスティードは来た道へと向かって早足で進みだす。見えはしないが、後ろからルミナスがついてきているはずだ。ちら、と地面のほうに目を向けると彼女の影を確認することができた。


 馬小屋から離れるにつれて、街は喧騒とは縁遠い閑静で落ち着きのある佇まいを取り戻していく。踏みしめる二色のタイルの隙間から、ひょっこりと雑草が顔を出している。たくましいものだな、とスティードは口の端をほんの少しだけ緩ませる。怒りに飲まれていたことがまるで嘘のように、スティードの心は落ち着いていた。それどころか思考はまるで霧が晴れたように透き通っている。


 今ならどのようなことでもできそうだ。万能感というやつだろうか。こういった状態になることはこれが初めてのことではない。こういった日の朝は妙に目覚めがよく、木剣の模擬戦においては常勝無敗の好成績を収めた。


 悪くない。


 毒の子がたとえ十人同時に襲いかかってこようとなぎ倒すことができる。


 歩く足にも自然、力が入る。


 昼ごろに通った橋を通る。子供たちが遊んでいない川からは水の流れる音がはっきりと聞こえてくる。その音はやけに落ち着いていて、まるで自分の心のようだとスティードは思った。川に視線を移すと、揺らぐ水面にまん丸になりきれていない黄色い月が浮かびあがっている。空の月に比べて、こちらの月はよく動く。その月から産まれてきたかのように、一匹の魚が身をくねらせながら跳ね上がる。魚は月に潜り込

み、月を一層歪ませる。ふとしたところに美しい景色は潜んでいる。詩人のような感想をスティードは抱いた。


 橋を超えると広間に出る。今まで足元のタイルは直線に並んでいたのだが、広間では並べられ方が大きく変わる。二色のタイルは広間の中心から波紋のように広がり、徐々に徐々にと輪っかを大きく広げていく。広間の周りには高い建造物は特になく、月の光がよく映える。その光で月光浴でもしているのか、一人の男が広間の中心にいて、男は広間に入り込んできたスティードのほうへとゆっくりと視線を動かした。


 視線が絡み合う。


 紅い瞳はまるで死者の魂のようにも思えたし、白い髪はがんじがらめにして獲物を殺す毒蜘蛛の糸を思わせた。さらにその手に握られた実直なほどに真っ直ぐな剣は生者を死者へと変える死神の鎌を想起させる。見たことのない剣だった。刀身はそう長くない。が、刀身が鏡みたいに辺りの景色を反射して、まるで波のような模様を浮かび上がらせている。鍔は楕円形であり、柄には包帯がぐるぐる巻きにされている。


 特徴的な剣ではある。しかし、スティードが戦うにあたって特に支障はないと思われる。


「よう」


 仲間の敵を前にしても、スティードの平静は保たれ続けていた。


 後ろでぱきん、という音が聞こえた。ルミナスが「石」を砕いたのだろう。これで、ウェルトやアダンが救援にやってくる。それまで防戦に努めようかと悩むが、毒の子一人であればスティード一人でも然したる問題はない。周囲に警戒してみる。奴の仲間が潜んでいる気配はない。


 チャンスだった。


 この手で奴との因縁に決着をつける。


 あくまでも冷静に、だ。


 背中を軽く叩かれる。


 周囲の警戒はルミナスがしてくれる。だから、スティードは目の前の敵と戦うことだけに集中すればいい。ルミナスもそれを望んでいる。


「こんばんは」


 毒の子が嫌々そうに言葉を発した。


 まさか返事が返ってくるとは思いもしなかった。わざわざご丁寧に挨拶をしてくるとは、奴は意外と生真面目な性格をしているのかもしれない。


「ちゃんと喋れるんだな。それとも何かを話して時間稼ぎでもするつもりか?」


「時間稼ぎ?」


「とぼけるなよ。お前ら毒の子が一人で戦いを挑んでくるわけがないだろ。仲間はどこにいる? 早めに吐けばお前だってそう痛い目にはあわないぞ」


 嘘である。


 仲間の情報を吐いたぐらいでは、あの世にいるエルレグの気は休まらない。殺さずとも痛い目はみてもらう。仲間の命を奪った報いを受けさせてやる。


 スティードの見え透いた嘘に、目の前の毒の子だって気づいていないわけがない。つまり、どうしたって戦いは避けられない。結局争うのであれば、この問答に意味はないのかもしれない。それでも会話はその人を知る手がかりとなる。スティードは知りたかった。目の前の毒の子が一体何を考え、何を思ってスティードたちの前に立ちふさがるのか。


 毒の子は目を伏せてから、すぐに目線をスティードへと戻して答える。


「仲間、か。そうだね、もしかしたら案外君たちのすぐそばにいるかもよ」


「どういうことだ?」


「さあね。それと僕からも質問、というか提案なんだけど。君、降参しない? そうしたら僕たちは戦わなくて済むし」


 毒の子の発言に対して、今まで平静であったスティードもさすがに揺さぶられた。


 発言から感じられるのは絶対なる自信。


 スティードに勝てるということに対してなんの疑問も抱いていないその物言いにはまるで子供をたしなめるかのような、その人を見下している不遜をひしひしと感じる。神により与えられた加護を持つスティードが、加護どころか髪の色さえも持たない毒の子に侮られるなど屈辱以外の何物でもない。それだけではない。スティードは聖女の護衛にも選ばれる精鋭の一人だ。別にそれを周囲に誇ろうとは思っていない

し、自分が特別な人間であるなどと自惚れるつもりはない。それでもスティードの中で護衛に選ばれたということは、戦闘の腕に関しての屹立とした自信に繋がっていることは事実である。


 それが今、否定された。


 ならばわからせてやろう。


 言葉よりも行動で示したほうが早い。


 スティードは「加護」を発動させる。スティードの加護は思考を加速させる。発動前と発動後の変化に他人は気づかないだろう。しかしスティードにとっては世界が大きく変わる。見える世界はより鮮明となり、細かなちりの一つだって認識できる。聞こえる世界もまた変わり、空気を震わせる振動が鼓膜へと伝わる様子がはっきりとわかる。


「降参は、しないみたいだね」


 言葉を理解する速度も通常時より遥かに上昇し、まるで相手がゆっくりと話しているように聞こえる。


 スティードは前傾姿勢となって、地面を這うようにして毒の子に迫った。


 毒の子が緩慢な動作で鞘から刀身を抜き放つ。実際のところ毒の子の動作は素早いものであっただろう。しかし、今のスティードにとっては時がゆっくりと流れているようなもの。相手の動きをつぶさに観察できるほどに加速した思考は、スティードを剣戟戦においての成績第一位へと押し上げてきた。もしかすると、歴戦の戦士であるアダンにだってスティードは勝てるかもしれない。


 毒の子は月光に照らされた美しい刀身をスティードへと向かって真っすぐに振り下ろした。おそらくは手探りの一撃。相手の出方を窺い、スティードの剣を見極めようとしている。


 悠長な、とスティードは思う。この程度の一撃ならば軽くいなすことができるし、その勢いのままに攻撃へとつなげることができる。スティードの剣が相手に少しでも触れてしまえば、勝負の流れは完全にスティードへと傾く。勝負というものはいつだって初手で決まるものなのだ。だから相手の出方を窺うなど言語道断。相手のペースに合わせるのではなく、自分のペースに相手を引きずり込むことこそが勝負の定石である。それを目の前の毒の子はわかっていない。


 スティードは脳内で描いた動きを現実に再現しようとする。


 振り下ろされている一撃は、刀身の横っ腹に衝撃を食らわせて強引に軌道をずらしてやる。そしてがら空きとなった毒の子の懐へと潜り込み、斬撃をお見舞いする。これで勝負の八割、いや九割がたは決したようなものだ。ここからは相手に息つく暇さえ与えない。傷をかばうようならばそれは決定的な隙になるし、人形のように痛みを感じないわけではないのだからパフォーマンスの低下は免れない。


 しかし、スティードの思考は初手から崩された。


 スティードが逸らすまでもなく毒の子のきらめく刀身はその軌道を変化させた。どこを狙っているか曖昧だった剣の振り下ろしがスティードの体から逃げるようにして鋭角に曲がり、そこから一転、スティードの体に刃が吸い寄せられるかのような真横の斬撃が迫ってくる。


 狙いは首。


 初手が手探りの一撃であるという根拠のない推測を立てた少し前の自分を思いつく限りの罵詈雑言でへこましてやりたい衝動に駆られたが、そのような暇はないしそもそも現実的な行いではない。スティードは雑念を振り払う。邪魔な思考の一切を許さず、一秒にも満たない時間で襲いかかる「死」という未来へと立ち向かう。


 振り下ろしよりも明らかに剣速が上がっている毒の子の一撃を、スティードは自らの刃を縦にして受け止める。剣と剣のぶつかり合う音が張り詰めた空気をメトロノームのように震わせると同時、スティードの腕がまるで痙攣を起こしたかのように痺れた。それほどに毒の子の一撃は重かった。体格に恵まれているとはいいがたいのに、一体どこからこれほどの力を奴は生み出しているのだろうか。


 二撃目がやってくる。


 毒の子は先ほどのスティードのように姿勢を低くする。その際に白い髪が逆立つようにふわりと浮いて、スティードの鼻面をほんの少しだけかすめそうになる。が、そのような些事に構ってはいられない。自らの股を駆けあがるように疾走する毒の子の刃に対してスティードは最善の行動を選択しなければならない。


 浮かび上がる選択肢は防ぐ、もしくは回避だ。だが、防ごうにも手の痺れが残っている。この状態では一撃目のような重い斬撃を受け止め切ることはできないかもしれない。ならば回避をとるしかあるまい。しかし、まさか戦いの序盤から相手に逃げ腰をみせることになるとは思いもしなかった。きっと、加護を持っているが故の自身に対しての驕りと、加護を持たない毒の子に対しての侮りがあったのだ。スティードは意識を切り替える。自分は挑まれる側ではなくて挑む側なのだと意識に告げる。挑む側であるという心境は相手を倒すための必死さを生み、勝利への活路を見出してくれる。だけど必死であるということと、理性を失うということは決して同じことではない。闘志は燃やすが、思考はあくまでも冷静に行う。そのためにも一度大きな深呼吸を挟みたいところではあるが、そのような余裕があるわけもない。


 スティードは身を引く。今度はさらりと流れる白雲のような毒の子の毛先ではなく、天を目指す必殺の斬撃がスティードの鼻面をかすめそうになった。しかし当たっていなければどうということはない。ここで毒の子の脇ががら空きの状態となる。常人であれば「隙あり」とでも叫び、したり顔で剣を打ち込むのだろうが、これが誘いであることをスティードはわかっていたので、毒の子との距離をとるためにスティードはさらに後ろの方へと足を運ぶ。これでやっと一息がつけると思ったが、しかし、事はそううまくは運ばない。


 一欠片の情けも持ち合わせていない強烈な追撃が、確実にスティードの命を奪い取ろうと躍起になって襲いかかってくる。腕の痺れは未だ残ってはいるが、襲い掛かる一撃一撃を精密作業のような細やかさでスティードは対処していく。右斜め、左真横、下から上、上から下、せり上がるような左斜め、腕を引いてからの突き。最後の突きにより毒の子の腕が伸び切ったことをスティードは好機と捉える。毒の子との距

離を詰め、一気に間合いを潰す。その勢いのままに毒の子の胸元へと手を伸ばし、体重を乗せて押し倒す。


 倒れる寸前、毒の子に肩を掴まれた。なんのつもりか一瞬わからなかったが、毒の子の狙いは自身に加えられた力が教えてくれた。


 奴は体の位置を入れ替えようとしている。


 そうはさせるか、とスティードも抵抗する。しかし、力の扱いにかけては相手が一枚も二枚も上手だった。それでも必死の抵抗があったおかげで一方的にマウントポジションをとられるということはなく、半回転してからスティードと毒の子は同時に地面へと叩きつけられた。


「がっ」


「くっ」


 さらには互いが同じタイミングで勢いよく起き上がり、剣の間合いの外へと大きく距離を離した。


 待望の一息がつける場面が訪れる。


 しかし、息が乱れていてとても一息では済みそうにない。スティードは息を整えるために早まる呼吸を意識的に遅らせて、吸う空気の量と吐く空気の量を多めにしてやる。息の乱れが収まってきたし、段々と腕の痺れも収まってきたように思う。その間にも、視線は決して毒の子からは外さない。しかし、毒の子はそうでもないようで、剣を持っていない手持無沙汰な左手で口元を隠し、なにやら視線を右へ左へとせわしなく動かしている。スティードの仲間に警戒しているのか、それとも自分の仲間を気にしているのか。


「まあどっちでもいいか」


 スティードは小さく呟く。


 どちらにしても、自分たちの仲間や毒の子の援軍らが駆けつける前に、スティードは急ぎ決着をつける腹積もりである。


 こいつは危険だ。毒の子たちの中にもこれほどの強者がいるとは、まったく世界というものは広すぎて嫌になる。もしここでこいつを逃がせば街への被害がどんどんと広がっていくことだろう。


 生け捕りなどと甘いことは言っていられない。


 殺すつもりでやらなければこちらがやられるだけだ。


 足に力を込める。


 そして、


「どこ見てんだよ」


 駆けた。


 視線がスティードに戻ったことを確認した。


 毒の子の脳天をかち割る勢いで力の限りに剣を振り下ろした。この振り下ろしにはスティードが初めに食らった一撃に対しての皮肉のようなものが込められていたのだが、目の前にいる毒の子にはそれが伝わっただろうか。この一撃に小細工などはしない。はっきりとさせてやる。どちらのほうが強いのかを。


 毒の子はスティードの振り下ろしを難なく受け止める。そうこなくては倒しがいがない。スティードは口元をほんの少しだけ吊り上げてから、先ほどまで好き勝手に剣を打ち込んできてくれた礼をしてやるといわんばかりの凄烈な攻撃を毒の子に仕掛けた。さすがの毒の子にも苦悶の表情が浮かび上がる。スティードが描く剣の軌道に死に物狂いになって自らの剣を差し込んでくる。


 ——ならばこれはどうだ?


 毒の子はスティードのように思考してから剣を防いでいるのではない。おそらくは今まで積み重ねてきた研鑽の日々と戦いの経験を活かし、敵の微小な動きから次に起こすであろう行動をおおまかに予測している。微小な動きとは、筋肉の動きや視線の動きのことだ。なので、このどちらかを意図的に崩してやれば、途端に毒の子の戦闘のリズムは崩されることとなる。筋肉に関しては無駄な動きを入れている余裕がないので、今回は視線をわざと動かして相手の動揺を誘う。


 視線を左に動かす。


 毒の子からしてみれば右のほうから刃が迫ってくると思ったことだろう。それがスティードによって思い込まされたものだとも知らず、愚直なまでに毒の子はスティードから見て左のほうへと剣を動かした。そして、即座に自らの過ちに毒の子は気づいた。


 対応が早い。


 毒の子が体を逸らす。スティードの剣が毒の子の体に食い込むか食い込まないかのぎりぎりの距離で何事もなかったかのように通り過ぎていくが、その直後に放った前蹴りをその無防備な腹にめり込ませることにスティードは成功した。くぐもった声を何とか抑え込もうと懸命に歯を食いしばりながら、よろめくようにして後ろのほうへと毒の子が下がっていく。


 掴んだ好機をスティードは逃さない。


 きっと肉弾戦になれば毒の子が有利となる。だからこそ彼我の距離は詰め切らない。剣のみが届きうる間合いに立ち、相手に防戦一方を強いる。今の毒の子からは降参を相手に促すような余裕が感じられない。表情から伝わってくるのは自分が追い詰められているという焦りや腕を動かし続けないと地に伏すのが自分であるとわかっている必死さだ。


 もうすぐだ。


 もうすぐでエルレグの敵を討てる。


 決して手は緩めない。だが、少しの間だけ意識が毒の子から逸れてしまう。


 影を見たからだ。


 おそらくはルミナスが加勢に来てくれたのだろう。先ほどまでは毒の子に苦戦していたのだから仲間として当然の行動だと思う。周囲の警戒よりもこちらを優先してくれたことには感謝するが、現在剣を交えている毒の子との決着はスティード一人でつけたかったという思いもある。しかし、これでスティードたちの勝利は盤石のものとなった。スティードはこのまま攻撃の手を緩めずに毒の子の気を引き続ける。そして姿の見えないルミナスが背後から毒の子を襲えばいい。


 影が近づく。


 月に対して遮蔽物がない広間には月の光が嫌というほど当たる。なので、くっきりとした影が地面に現れてしまう。影は現在毒の子の足元に迫っている。姿かたちは見えないが、ルミナスは毒の子の背後にいる。勝負あり。スティードがそう思った瞬間のことだった。防御の合間をぬって毒の子が下へと目を向けた。まさか気づかれたのか。そのようなわけがない。それに、万が一にもルミナスが背後にいることがわかっても毒の子にはどうしようもないはずだ。スティードの剣を防ぐことに集中している奴の手は、猫の手でも借りたいと言わんばかりにせわしなく動かされている。攻めるにしても防ぐにしても毒の子には後ろへと回す余裕のある手が圧倒的に足りていない。


 その時、毒の子が口をすぼめて何かをスティードに向かって吹き出した。


 それは細い針のようだった。


 思考をどれだけ加速していたとしても、ここまで綺麗な不意打ちを決められては驚かざるをえない。避ける際に体の軸が大きくぶれてスティードはそのままこけてしまう。地面に手をつけてなんとか体制を整えようとする。この体制のままでは毒の子の剣を受けられない。剣が飛んでこないように頭の中で念じた。しかし、その思いはすぐに覆る。


 毒の子はスティードのほうを見ていない。代わりに何も見えない背後の空間へと顔を向けている。さらにはそこに向かって剣を振りかざしている。制止の言葉がスティードの思考の半分を埋め尽くす。もう半分にはせめてこちらに剣を振り下ろせという懇願にも近い言葉が埋め尽くされた。


 赤い液体が何もなかったはずの場所から勢いよく噴き出し、一人の女性の姿が徐々に色づき始めた。いっそ蠱惑的とでもいうべき美しさを湛えた金髪が、妖精のように宙を舞いながら重力に逆らう力を失くした一人の女性を追従する。浅い水たまりに四人乗りの馬車がはまった時のような、さして珍しくもない音がスティードの耳に入り込み余韻を残す。一瞬思考が追いつかなくなった。足元になにかが飛んできた。おそらく、ルミナスが倒れ込んだ拍子に飛んできたのだろう。見てみると、それは花の形をした髪飾りだった。スティードは知っている。この街にやってきた時にクロックが出店で花形の髪飾りを買っていたことを知っている。髪飾りが誰のために買われたのかも知っている。クロックにとって一番大事な人。


 その人はもういない。


 目の前にいたのにただ尻もちをついて眺めていることしかできなかった。


 ——また、仲間を目の前で失った。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

あ!!!」


 思考がすべて怨嗟の言葉で埋まった。


 スティードに向けられる視線にはなぜか憐れみが含まれているようだった。それが余計にスティードの心をどす黒く染め上げる。スティードに少しでも理性が残っていたならば、かつての上官の言葉を思い出させたことだろう。そして、スティードにはまだ仲間がいるということを思い出させたはずだ。


 だけど、今のスティードはそれでも止まることができなかったに違いない。


「お前さえいなければああああ!」


 スティードは暴れ狂う感情の渦に心地よく身をゆだね、虎の如きどう猛さで憎き相手に牙を立てようとする。スティードの強みは加速した思考によりその場その場で適切な状況判断を下して相手につけいる隙を与えないことである。


 その強みが失われたスティードなど毒の子の相手ではなかった。


 スティードは一刀のもとに伏せられる。


 体から熱が失われていく。


 そのおかげか頭の中がすうっと冷えていく。


 思考は正常な状態を取り戻しつつあった。


 そうだ。今思えばおかしいことだらけだった。どうして街中ではなくて毒の子はわざわざ広場で待ち伏せていたのだろうか。建物に隠れて機を窺ったほうがいくらか効率が増すはずだ。それなのに遮蔽物がなにもない広場にぼうっと突っ立っているなど、まるでルミナスの加護を事前に知っていたみたいではないか。それに加えてスティードに向けられた初撃は敵であっても惚れ惚れするような加護の盲点を突く一撃で

あった。さらに遡れば、地下水道での待ち伏せもそこに来ることを確定的に毒の子は知っているかのようだった。


 なにもかもが奴の思い通りに動いている。まるで予定調和の円環の中に囚われているような、脚本によりすべてが決まっている舞台を演じているような、そんなどうしようもない違和感がスティードの胸中をかき乱す。


 そして最悪の想像が頭をよぎる。


 仲間の中に毒の子の味方がいるのではないか。何らかの方法を使って毒の子と連絡をとることでこちらの情報は筒抜けとなり、護衛たちの待ち伏せや一人一人が持つ加護への対策が可能となるのではないか。裏切り者はおそらく単独。複数もいればここまで回りくどい策はとらないはずだ。しかし、不自然な動きがあれば仲間の誰かが気づく。複数行動が常である一行には一人になる隙がないに等しい。


 そこでスティードは思い出す。この街に来てから単独で行動した者が一人いる。もしかすると、その際に情報の交換などを行ったのではないだろうか。


 スティードはゆっくりと倒れていく自分を感じていた。やがて地面にぶつかると、その衝撃で今まで考えていたことがあとかたもなく吹き飛んだ。そして最後に、スティードは一人の少女の顔を思い浮かべた。その顔はいつものように無表情だった。だけど、スティードは確かに見たのだ。スティードとリリアがはしゃぐ一方、連なる花々の魅せる圧倒的な光景を前にして、愛おしそうに微笑む君の顔を。

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