第2話 知らない記憶
警察の捜査は進展していないのか、事故か事件かも分からず、あの日の記憶も戻らないまま、退院の日を迎えた。
下条先生によると、私の記憶が戻らないのは、一時的な記憶喪失のためなのか、それとも、一生戻ることは無いのか、判断がつかないらしい。
1か月ぶりに屋外へ出て、日の光を浴びた。秋の日差しがこんなに強いとは思わなかった。
そして、病院の中と違って、都会でも外の空気は清々しく感じた。
如月さんに買って貰ったキャップを被った私は、迎えのタクシーに乗り込むと、住んでいるアパートへ向かった。
何気なく車窓から外の景色を眺めていると、不意に頭痛に襲われた。頭の中の血管がズキズキと脈を打っているような鈍痛。
まだ傷が治っていないのか?
右手で鈍痛が続いている頭を軽くさすっていると、タクシーが赤信号で止まった。
ちょうどその時、タクシーの横の歩道をスーツ姿のサラリーマン風の男性が前の方から通りかかった。
その男性がタクシーに乗っている私に近づくにつれて、鈍痛が徐々に強くなってくる。
不思議なことに、私と男性の距離が縮まるのに比例して、鈍痛の脈打つ間隔も短くなっていく。
そして、男性が私のちょうど真横に差し掛かった時、私の目の前が真っ白な閃光に覆われて、頭の中を電流が走ったような気がした。
突然、目の前で強力なフラッシュを浴びたような感じ。
次の瞬間、私の脳裏には、夕闇が迫っている、どこかの大通りの光景が1枚の写真のように浮かんだ。
「痛たたっ……」思わず声を漏らしてしまった。
「大丈夫ですか?」初老の運転手さんが心配したようにルームミラー越しに聞いてきた。
「はい、大丈夫です。すみません。」私は無理やり笑顔を作って答えた。
そうしている間も、さっきの光景が写真のように私の脳裏に焼き付いたままだ。
前の信号が青に変わって、タクシーは再び滑らかに走り出した。
スーツ姿の男性は何事も無かったように通り過ぎて行った。
あっ!
脳裏に焼き付いている不思議な光景を意識していると、歩道の端のほうを1人の女性が歩いていることに気付いた。
その後ろ姿や服装、なんとなく私に似ていた。
……そんなはずないよね。
私の記憶の中で、私が自分の後ろ姿を見ているなんて。
鏡や何かに写っている姿でもないし。
でも、髪型なんかを見ても、やっぱり私じゃん。
そもそも、どうして突然こんな光景が思い浮かんだんだろう?
思い浮かんだっていっても、私が私を見ている光景なんて現実には有り得ないし、そんな体験できるはずもない。
一体、私の頭の中で何が起こっているの?
答えが見つからないまま、タクシーは私の住むアパートに到着した。いつの間にか鈍痛は消え去っていた。
「ありがとうございました。」
私はタクシーを降りると、久しぶりの我が家に帰ってきた。
こういう時、出迎えてくれる人がいると心安らぐんだろうな……
一人暮らしの私には望むべくも無い。
寂しさを紛らわすように、誰もいない部屋に向かって「ただいま」と言いながら、中へ入った。
ひと月ぶりの我が家は、少し空気がよどんでいるように感じる以外は、何も変わっていなかった。
あの日、頭に怪我をして、その記憶が無いこと以外、私の周りはいつも通りのままだ。
いや、そうじゃないか……
さっきの謎の頭痛があった。
時間が経てば頭痛も治まるのかな?
日常の生活を取り戻した私は、脳裏に焼き付いている光景が気になって、居ても立っても居られなくなった。
この光景の中の大通りにある標識には、「大正通り」と表示がある。
それに、通り沿いには特徴的な建物もある。レモン色をした、窓の小さい5階建てのビル。
そのビルの近くを歩いた記憶はないけど、その場所に行けば何か思い出すかも知れない。
休日の早朝、私は自転車に乗って実際の場所を探しに行った。
大正通りは道幅が広い割には、行き交う車の量は多くはなかった。
お目当てのビルを探しながら、1時間くらい自転車を漕いでいると、ようやく前のほうにレモンビルの頭が見えてきた。
あっ、あれか!
記憶の中のレモンビルは夕暮れに包まれていたけど、実際のビルはその何倍も鮮やかで、目の当たりにするとすごく感動してしまった。
地理的には、私の勤めている会社からそう遠くないところにあった。
早速、記憶の光景と同じ光景を見ることが出来る場所を特定するために自転車を降りた。
この辺かな?
いや、もっと後ろか……
ベストポジションを探すカメラマンのように、記憶の光景と実際の光景が重なり合う場所を探していると、重要なことに気付いた。
記憶の光景は、やっぱり私が見た光景じゃないと思う。
記憶の光景は、恐らく車道から見た光景だ。
そうじゃないと、レモンビルや標識を見る角度が実際の角度と一致しない。
危ないけど、ここはひとつ車道を自転車で走ってみるかな。車も少ないし……
私は、無謀にも車が走っていない時を見計らって、自転車に乗って車道に出てみた。
当たりをつけていた場所に自転車を止めて眺めてみると、記憶の光景とピッタリ重なった。
感動的な場面だけど、遠くの方から車がクラクションを鳴らしながら走ってきていた。
私はそそくさと歩道に逃げ帰った。
ふぅ、危なかった。
でもこれで、記憶の光景は車に乗って見た光景に間違いないことが分かった。
そうすると、
まず、仮説その1
私は車を運転しないから、誰かの車やタクシーに同乗している時に見た光景の記憶。
うーん……
記憶の中の私が着ているスーツは最近買ったものだから、最近車に乗ったことになるけど……
思い出せない。
仮に、私が車に乗っていたとしても、私が私を見ている不思議な現象をどう解決する?
じゃあ、仮説その2
私が実際に見た光景じゃなくて、誰かが見た光景。
それだったら、その誰かが私の後ろ姿を見たとしても辻褄が合うじゃん!
でも、誰かの記憶が私の脳裏に焼き付く、なんてことが起こるんだろうか?
もうちょい自然な、仮説その3
これが一番現実的かな。
頭に怪我をした後遺症で、私のヤラれた脳が勝手に創造した記憶。
そうは言っても、ヤラれた脳が現実と同じ光景の記憶を作り出せるのか疑問が残る。
一体、何が正解なの?
取りあえず、ここら辺りをもう少し探索してみよう。何が手掛かりみたいなものが見つかるかも知れない。
私は、自転車に乗ると、レモンビルを中心にしてうろつき始めた。
ただ、実際にうろついてみると、目的を決めずにうろつくことは非常に体力と精神力を浪費するってことがよく分かった。
こんなことしたって、なんの成果も収穫もない。もう帰るとするかな……
私はアパートに向かって自転車を漕ぎ始めた。
大正通りも昼下がりになると、車通りも人通りも多くなってきたので、自転車を降りて押しながら歩くことにした。
自転車を押して、周りの景色を眺めながら歩いていると、私の頭はズキズキと痛み出した。
また、あの頭痛だ。
私は歩道の端に自転車を止めた。
頭をさすっていると、鈍痛の間隔が短くなって、痛みが強くなってきた。
私は痛みに耐えながら周りを気にしていると、前のほうから、私と同じように自転車を押しながら近づいて来る、宅配業者の男性が目に止まった。
その若い男性は、私に気を留めることもなく、こちらのほうに歩いてくる。押している自転車の荷台には配達する荷物が満載。
男性が私の真横に来た時、目の前が真っ白な閃光に覆われて、頭の中を電流が走った。
また来たっ!この感覚だ。
再び私の脳裏にある光景が焼き付いた。
それは、大きな通りと細い横道の交差する曲がり角の光景。日が暮れているのか、空は暗い。
角地に会社の事務所らしき古そうな2階建ての建物があって、室内から溢れた光が薄暗い横道を照らしている。
この光景を注意深く意識していると、事務所の入口の上のほうに掛かっている大きな壁掛け時計を見つけた。
その時計の液晶パネルには18時13分と表示されていた。
そんなに遅い時刻じゃない……
あっ!
そのこと以上に、我ながら大変な発見をしたかも知れないぞ!
その時計には時刻表示の下に日付の表示もあった。
9月11日
そう、私が頭に大怪我をした日か、その前の日だ。その記憶。
これは偶然?いやいや、必然でしょ。
その時の光景が私の記憶の中に甦ってきたってことじゃない?
でも、最初の光景と何かが違うような……
違和感があるような……
あっ、そうか、私がいないんだ。写っていない。
うーん。私に無関係な光景なのかな?
私は目を閉じて2枚目の光景に意識を集中した。端の方まで意識してみる。
おっ!前言撤回。
曲がり角にあるカーブミラーに女性の姿が不鮮明ながら映っている。
恐らく私だ。
ついでに、さっきすれ違った宅配業者の人の顔も事務所のドアのガラスに映り込んでいる。被っているキャップも同じ。
ってことは、仮説その2が証明されたということよね。
2枚目の光景は、宅配業者の人が見た光景であって、その記憶を私も共有しているんだ、きっと。
人とすれ違う時にその人から影響を受けて、この不思議な現象が起こるんだと思う。
感覚的にもそんな感じ。
まるで、そのすれ違う人の記憶の一片が断りもなく私の頭の中に流れ込んできたような感じ。記憶の一部が同期したっていうか……
2枚目の光景の実際の場所はどこだろう?
大通りの風景やガードレールの色形からすると、大正通りの光景かも知れない。
うろついている時に目撃した気もする。
それだと、都合良すぎるか……
でも、だんだんそんな気がしてきた私は、踵を返して、2枚目の光景の場所を探し始めた。
そこの短い橋を渡った先に似ている路地があったような、無かったような……
よっしゃ!ビンゴ!
ここだったんだね、宅急便のお兄さん。
私は実物のカーブミラーを見上げた。
見上げていると、妙に懐かしい気分になる。
曲がり角にある会社の事務所は、休みなのかシャッターが降りていた。
怪我をしたあの日、私は会社を出た後、大正通りを歩いて来て、この路地のほうに曲がった……
2枚の記憶をつなぎ合わせると、そういう結論になる。
私ったら、超能力が身についたのかな。でも、なんかイケてない能力みたい……
それはそうと、私はどこへ行こうとしていたんだろう?
今日は診察の日だ。
私は緊急搬送されて入院していた総合病院に通うことにしていた。職場からもそう遠くはないし。
なによりも、私を治療してくれた下条先生に診てもらうことが一番。
病院に来たのはひと月ぶりだった。正面の入口から中に入ると、頭の怪我をしたところが少しうずくような気がする。
あの日の自分の記憶はいまだに戻らない。
受付に顔を出すと、事務の人が、「桐島さん、予約されているのに申し訳ございませんが、下条先生は不在にしております。
本日の外来は別の先生が担当しておりますが、そのまま受診されますか?」と聞いてきた。
「下条先生はいないんですか?」
「はい、急な変更でございまして。」
「そうですか。でも、予約して来たのでお願いします。」
「分かりました。では、待合席でお待ちください。」
「はい。」
待合席で診察の順番を待っていると、間もなく名前を呼ばれた。
「失礼します。」私が診察室に入ると、口髭を蓄えた先生が椅子に掛けたまま微笑んでいた。
「桐島さん、どうぞお掛けください。下条先生は不在なので、今日は私が診察を担当します。」
「はい、よろしくお願いします。」
「では、傷口を確認します。」口髭の先生はそう言うと、私の頭の傷の状態を確認した。
そして、問診した後、「何か気になっていることはありますか?」と聞いてきた。
私は、すぐに例の不思議な現象のことを聞こうと思ったが、下条先生じゃなかったので思いとどまった。
にわかには信じ難い内容だし、あまり他の人には言いたくない。
「いえ、特にありません。」
「分かりました。ではこれからMRIの検査をします。」
「はい、お願いします。」
……
数時間かけて検査したけど、傷は完治していて、脳にも特に問題は無いらしい。
ああ、良かった。て、ならないわよっ!
結局、怪我をした日の記憶が戻るかどうかは、検査をしても分からないまま。
そして、私の脳内で起きていることは、現代の医学をもってしても解明できないのかもね。
診察を終えた私は、時間的に余裕があったので、病院の中庭に出てみることにした。
ひと月入院していたので、勝手知ったるってとこだ。
青空の昼下がり、窓越しに見える中庭は陽だまりになっていて、暖かそうだった。
私は入院していた時によく座っていたベンチに座った。
ふぅ。
ホッとひと息。
こうしてベンチに腰掛けて、青空を見上げていると、世の中は穏やかに時を刻んでいるように思えてしまう。私の置かれている状況とは違って……
私の脳内は今、とっちらかってる。
あの日、一体何があったんだろう。スマホと財布がなくなっているから、強盗にあったのよね。たぶん……
さて、そろそろ帰ろうかな。日が陰って肌寒くなってきた。
私は駐車場に出る裏玄関から帰ることにした。こっちの方が駅に近い。
裏玄関へ続く通路を歩いていると、鈍痛のような頭痛が起き始めた。
あっ、始まった。3回目だ。
3回目ともなってくると、痛さ以上に誰のどんな光景が見られるのか、その興味のほうが圧倒的に強くなった。
立ち止まって周りを見回したけど、近くに人はいなかった。
再び歩き始めると、少しずつ頭痛が強まっていく。
裏玄関のほうだ。このまま歩こう。
私の頭は、ほとんど探知機と化している。
裏玄関にたどり着くと、玄関口にリネンサービスのトラックが停まっていた。
そのトラックの荷台では、ドライバーのおじさんがシーツやタオルを慣れた手つきで積み込んでいるところだった。
ほかに人影は無さそうだ。
発信源は間違いなくあのおじさんだ。
頭痛をこらえて、シレッとおじさんに近づいてみる。
私に気づいたおじさんは、私のほうに顔を向けた。
「お疲れ様です。」私は精一杯の笑顔を作って、何気に挨拶してみた。
頭痛のせいで、笑顔になっているのか自信が無かったけど。
「はい、どうも。」おじさんは快活に返事をしてくれた。
その瞬間、新たな光景の記憶がおじさんの頭から私の頭に流れ込んできた。
同期完了。
なんだろう……
道幅があまり広くない道沿いに、ライトか何かに照らされた、何十メートルにも渡って金属製のフェンスで仕切られている一角が写っている。その中には、夜空を背景にして、足場や幕で覆われた建設中の建物が見える。完成するとそれなりの高さになりそう。
この日の工事はすでに終わったようで、作業員は誰もいないようだ。
道の先の方には、ライトの光に浮かび上がっている男性の後姿があった。その姿からすると私の知らない人だ。
ほかには人影がない。
……人影がない?
私は?
いないと、脳内ルールが崩れるじゃない。
探さなきゃ。
ん?
よくよく意識すると、この光景を見ている視点の位置が高いことに気づいた。道を見下ろしているような光景。
そうか、ドライバーのおじさんがトラックを運転しているときの光景だからだ、きっと。
それはそうと、私はどこ?
道を歩いてはいない。
建設中の建物にいる訳もないし、反対側の道沿いにも見当たらない。
この光景の中にいる人は通行人の男性だけ。
残念ながら、脳内ルールが間違っていたのか。
いやいや、往生際の悪い私は、光景の中の自分探しをそう簡単には諦めない。
気が付くと、おじさんが運転するリネンサービスのトラックは、とっくに病院を後にしていた。
私がどこかに写っているはず……
トラックが停まっていた場所に立ちつくしたまま、私は意識を集中していた。
いないなぁ。
でも、きっとどこかにいるはず。
通行人は男の人。
当然、私じゃないけど、ライトに照らされた後ろ姿、見たことがあるような気もする……
おっ!男の人に重なるように、前を歩く人がいるみたいだ。
顔や肩の向きからすると横を向いているようなので、道を曲がろうとしている瞬間だろうか?
かろうじて、男の人の陰になっていない、ライトの光が当たっている部分からすると、私っぽいなぁ。
私でしょ。
それにしても、後ろの男の人と距離が近いように思える。夜だから、そう見えるだけかな?
実は知り合い?それは無いよね。
僅かに垣間見える私の表情は、うつむき加減で微笑んでいるようにも見える。スマホを見ているようだ。
一体何がどうなっているんだろう。
あの日、何があって、私は山手通りで発見されたんだろう。
全然分からない。
とにかく、現場に行ってみよう。
私は、はやる気持ちを抑えて、タクシーに乗るために正面玄関に向かった。
3枚目の光景は、空の暗さからすると2枚目の光景の続きのはずだから、2枚目の光景の場所でタクシーを降りた。
さあ、ここからは、建設中のあの建物を探そう。
大正通りからこの路地に入って……
取り敢えず、路地の先にある通りを歩いてみよう。
数分歩いたところで建設中の建物が見えてきた。意外と近かった。
その建物が面した通りを眺めてみると、3枚目の光景と同じだった。
ただ、建物の足場や幕は取り除かれていて、外観は完成しているように見えた。
私は、あの日、更にそこの角を曲がろうとしていた。
実際に曲がってみると、2枚目の光景と同じような路地が続いている。
何かのヒントになりそうなものは見当たらない。
ここから先は、どこに向かったんだろう。
また、行き詰まった感、閉塞感……
どうしたらいいんだろう?
こうなったら、他力本願チックに考えて、下条先生と刑事の如月さんが何とかしてくれないかな?
そもそも警察の捜査は進展しているんだろうか?如月さんから連絡は来ないし。
袋小路に入ってしまったエスパー探偵の私は、今日の捜査を諦めて、家路に付くことにした。