8 穏やかな朝食
朝が来た。
ぱちっと目を覚ましたライラは一瞬、ここはどこなのかと逡巡した。そして徐々に昨日のことを思い出し、はっとして振り返る。
ユリウスは寝ている間にライラを抱きしめる腕を引っ込めていたようで、今は両腕を折りたたんですやすや眠っていた。
ライラの首筋に顔を埋めるようにして眠っている彼は、相変わらず肌の色は悪いし目元もくぼんでいるが、ひとまずよく眠れているようでほっとする。
(不眠症……本当に治ったのかな?)
そうっと手に触れてみると、ほんのり温かい。なんとなく、自分の熱をユリウスに分けられたように思われて面はゆくなってくる。
そこで、寝室のドアが遠慮がちにノックされた。
「おはようございます、ユリウス様……と、ライラ様」
「ん……ん、うう……」
ヴェルネリの声に反応し、ユリウスがもぞもぞ動いて寝返りを打ち、ライラに背中を向けた。まだ寝ていたいのか、頭を掛け布団の中に突っ込んでヴェルネリの声が聞こえないようにしているみたいだ。
その様がなんだかぐずる子どもみたいでライラはくすっと笑ったが、ヴェルネリは鍵を使って容赦なく入ってきた。
ライラはすぐに体を起こし、ドアの前でヴェルネリが呆然と立ち尽くしているのを見て首を傾げる。
「おはよう……ヴェルネリ? どうかしたの?」
「……ユリウス様が、寝てらっしゃる」
「え、ええ。起こそうか?」
「い、いえ。無理にはなさらなくても……あっ」
「ん……ライラ」
さすがに近くで会話されるとそれ以上眠れなかったようで、再びライラの方を向いたユリウスがとろんと目を開いた。
「おはよう……もう朝?」
「はい。ヴェルネリが起こしに来ましたよ」
「……。……ヴェルネリ」
「は、はい」
「……すごい、ぐっすり寝られたよ」
寝起きだからか少し舌っ足らずにユリウスが言った途端、ヴェルネリは息を呑み、ふらふらとベッドに歩み寄ってライラたちの前に膝を突いた。
「ま、まことですか……!? お体は……?」
「辛くない。むしろ、ここ最近で一番体が軽いんだ。このまま空でも飛べそうだ」
それはさすがにやめた方がいいのでは、とライラは心の中で突っ込むが、ヴェルネリは驚愕の表情になって、うっと呻いた。
「……まさか、本当にこのような結果になるなんて……このヴェルネリ、嬉しゅうございます!」
「あ、あの……?」
「……ライラ様。あなたのおかげでユリウス様は不眠を解消できそうです」
おずおず声を掛けたライラに真摯な眼差しを送り、立ち上がったヴェルネリはさっとお辞儀をした。
「本当に……ありがとうございます」
「うん、本当にライラのおかげだ。……ありがとう、ライラ」
「え、ええ……」
男たちに両側から礼を言われ、ライラは右を見たり左を見たりしつつ、困ってしまう。
(本当に解消できるなんて……でもこれって、どういうことなんだろう?)
本日の朝食はユリウスたっての希望で、隣室のリビングで彼と一緒に取ることになった。
(うう……緊張する……)
一旦自室に戻って着替えをしてから再び三階に上がったライラは、向かいの席で優雅に脚を組んでいるユリウスを見、その場に硬直してしまった。
痩せすぎていることもあるが、彼は身長もあるため当然脚も細くて長い。黒のスラックスに包まれた脚から同じく細い腰にかけてのライン、そして思いの外しっかりしている肩などを見ると、無性に恥ずかしくなってくる。
ヴェルネリが朝食を届ける前に紅茶を飲んでいたユリウスはライラを見ると、落ちくぼんだ目を少し見開いた。
「……そのドレスは、僕が贈ったものかな」
「はい。クローゼットに入っていたので。……どうでしょうか?」
ユリウスによく見えるようにスカートの裾を摘んでひらひらさせつつ、ライラの胸は朝っぱらから高鳴っていた。
ドレスは淡いブルーの生地で、全体的にすとんとしたデザインになっている。室内用なので簡素な作りになっているのは当然だが、肌を滑る布は非常に心地よく、胸元のレース部分などには品性と可愛らしさが同居している。
(すごく可愛いドレスだけど、私が着ても浮いていないかな……)
不安半分、期待半分でユリウスの反応を待っていると、カップを置いた彼はしげしげとライラを見た後、満足そうに微笑んだ。
「……とてもよく似合っているよ」
「あ、ありがとうございます!」
「さ、とても可憐な僕の婚約者さん。君の分のカップもあるから、一緒にお茶を飲もう」
「っ……はい」
いきなりとろりと甘い言葉を囁かれ、褒められて浮き立っていた心が緊張と驚きでどきどきしてくる。
(び、びっくりした……ユリウス様、こういうことを結構さらっと言われるんだ……)
病気のために窶れた彼だが、ライラを「とても可憐な僕の婚約者さん」と呼ぶ時の声は優しくて、青白い頬にもほんのり赤みが差したように思われた。
(……あ、よく見たら昨日より少しだけ隈が薄くなっているかも)
彼に勧められて席に着き、茶を飲みながら観察していて気付いた。頬の色や痩せ具合は一晩ではどうにもならないだろうが、ライラと一緒にぐっすり寝たことによる効果はきちんと現れているようだ。
間もなくヴェルネリがカートを押し、二人分の食事を持ってきた。
そうしてヴェルネリが黙って給仕をする中、朝食が始まるのだが――
(すご……さすが名門のご子息……!)
ユリウスの骨張った手は優雅にカトラリーを操り、ナプキンで口元を拭う様やパンを千切る手つきさえ洗練されている。ライラも一応上流市民階級の娘として最低限のマナーは身につけているが、名家の令息は格が違う。
目の前で完璧なカトラリーの扱いの見本を見せられるものだから、ライラはおそるおそるナイフでベーコンを切る。よく見ると、ユリウスとライラでメニューは同じでほとんどのものは分量も変わらないが、カリカリに焼いたベーコンだけはユリウスの方に多めに盛られている。ベーコンが好きなのだろうか。
「……おいしいね」
ぽつり、とユリウスが呟いた。
確かにヴェルネリの作る食事はどれもおいしいので、ライラは深く考えず頷く。
「そうですね。ユリウス様は、こんなにおいしい料理を毎日食べられているのですよね」
「……。……ヴェルネリは毎日僕の健康を考えた食事を作ってくれる。でも、朝食がこんなにおいしいと感じたのは……本当に、何年ぶりなんだろう」
カチン、とライラのナイフの先が皿に当たったが、誰も咎めない。
ライラとヴェルネリの視線を浴び、ユリウスは苦笑をこぼす。
「……僕にとって夜は恐ろしい時間で、朝は憂鬱な時間だった。でも今日はとても気分がいいし、料理もおいしく感じられる」
「……そう、なのですか……」
「そうなんだよ。……ねえ、ヴェルネリ。もう少しベーコンある?」
「……さすがにこれ以上だと脂分の取りすぎになりますので」
「そうか……残念だ」
見るからにしゅんとしたユリウスを見、ヴェルネリが緑の目をほんの少し揺らしたのをライラは見逃さなかった。