7 とんでもない仕事②
カンテラを持つヴェルネリに続き、ライラは階段を上がって三階に向かった。
人気のない廊下は寒々しく、物寂しい。両親やメイドたちと一緒に暮らしていたライラには、この屋敷で二人暮らしなんて耐えられそうになかった。
三階にもいくつか部屋があるので、ヴェルネリが順に紹介してくれた。
「こちらが浴室、手洗い場、書斎、リビング、書庫――そして一番奥のこちらが、寝室です」
階段から一番遠い角部屋の前でヴェルネリは足を止め、ライラを見た。
「……私はここで失礼します。朝になりましたら伺いますので、それまでお二人でごゆっくり」
「……」
「……ライラ様。ユリウス様は、お優しい方です」
黙って俯いていると、思いの外優しい声が降ってきた。
顔を上げると、カンテラに照らされたヴェルネリの顔が見える。相変わらず陰険で意地悪そうな表情だが、彼が発する言葉は昼間よりもゆっくりだった。
「あの方はずっと、ご自分の体質に悩んでらっしゃいます。……あの方のことを心ない言葉で貶す輩も多いのですが、そういう連中を糾弾することもなさらない。優しすぎて……不安になるくらいなのです」
「……」
「……ユリウス様があなたを選ばれた理由は、明日ヘルカが到着してからご説明します。どうか、ユリウス様をよろしくお願いします」
そう言い、ヴェルネリは深く頭を下げる。
そこまでされるとライラは何も言えず、きゅっと唇を引き結んで頷くしかできなかった。
ヴェルネリに見守られながらドアをノックすると、返事があった。すぐにユリウスが顔を覗かせ、約半月ぶりに見るやつれた顔の青年を見、ライラの胸が苦しくなった。
(気のせいかな……前見た時より、元気がなさそう)
前回は正装姿で髪も整えていたが、今は就寝前なので髪は解き、ゆったりとしたガウンを着ている。
だが髪は明らかにくたびれていて、肌艶も悪い。ドアに触れる手も骨張っていて、顔にも生気が感じられなかった。
だが彼はライラを見ると、ほんのり微笑んだ。
「……ライラ、だね。こんな挨拶になって、すまない」
「いいえ。お体の調子が優れないとのことですし……私のことは、大丈夫です。あの!」
「うん」
「ふつつか者ですが……これからどうぞ、よろしくお願いします」
そう言ってライラが淑女のお辞儀をすると、くすりと笑う声が聞こえた。
「……ふふ。僕の未来のお嫁さんは、とても元気いっぱいで可愛らしい人なんだね」
「かっ……!?」
「真っ赤になって、本当に可愛い。……ヴェルネリ、ご苦労だったね。ライラと一緒に寝るから、君も休んでくれ」
「はい。……おやすみなさいませ、ユリウス様、ライラ様」
ヴェルネリは一礼し、カンテラの明かりを揺らしながら去っていった。
とたん、心細くなってライラはもぞもぞ指先をすり合わせるが、骨張った手が肩に触れてきたため、びくっとしてしまう。
「ひっ!」
「あ、ごめん。……ここにいても冷えるから、中に誘おうと思って」
「は、はい! お邪魔します!」
骸骨のような手に触れられてぞくっとしてしまったが、遠慮がちに声をかけられると申し訳ない気持ちになってくる。
(本当に、私と一緒に寝るくらいで改善されるのかな……)
だが、悩んでいても仕方ない。
ほのかな明かりの灯る寝室の中央には、大きなベッドが据えられている。おそらく、ライラの部屋にあったベッドの倍は幅がある。大人二人は余裕で寝られそうだ。
ユリウスがベッドに腰掛けたので、ライラもガウンを脱いでおずおずと彼の隣に座る。ユリウスはそんなライラを見ると、視線を落とした。
「……寝間着、サイズが合っていたようでよかったよ。よく似合っている」
「え、あ、ありがとうございます。その、ユリウス様がくださったようで……服も何もかも、ありがとうございます、本当に」
「これくらい、男の甲斐性だから気にしないで。……でも、デザインも僕が考えようとしたのに、ヴェルネリたちが止めるんだよ」
「そ、それは……」
「ユリウス様は黙って見ていてください、だってさ。ひどくない?」
「……くっ。今の、ヴェルネリの真似ですか?」
「似てたでしょ? ……ああ、よかった。笑ってくれた」
ヴェルネリの真似をして唇を突き出して言うユリウスに、思わず笑ってしまった。
だが、笑ったライラよりもユリウスの方が嬉しそうで……ライラははっとして、ユリウスの窶れた顔を見つめる。
「亡霊魔道士」という蔑称で呼ばれ、屋敷での生活を余儀なくしているユリウス。
確かに病人である彼の窶れ方はむごたらしいものだが、その口調はゆったりとしているし、ライラを見つめる眼差しにも優しさが込められている。
『優しすぎて……不安になるくらいなのです』
ヴェルネリの言葉が耳の奥に蘇り、ライラはぎゅっとネグリジェの裾を掴む。
ユリウスはそんなライラを静かに見つめていたが、やがてそっと肩に手を載せて「寝よう」と囁いた。
「僕の我が儘を聞いてくれて、本当にありがとう。……きっと僕の顔を見ていたら寝られないと思うから、僕に背を向けていていいよ。ただ、君の体に片腕だけ回していたいんだけど……いいかな?」
「そ、そんなに遠慮なさらなくていいです。ヴェルネリにも言いましたが……痛いことと怖いこと以外なら何でもしますので、どうぞユリウス様のお気持ちのままになさってください」
「うーん……そういうことを言われると男は調子に乗っちゃうんだけど……まあ、いいや。それじゃ、後ろから君を抱きしめて眠らせてもらうね」
「……はい」
靴を脱ぎ、ふわふわのマットレスの上を這って枕のところまで向かう。上掛けを引き上げようと思ったら、「僕がする」と言ってユリウスが布団を掛けてくれた。
ライラがユリウスに背を向けて横になると、ふっと部屋の明かりが落ちた。何かを操作する気配はなかったので、ユリウスが魔法か何かで明かりを消したのだろう。
寝室が薄暗くなって視界が遮られると、耳が研ぎ澄まされる。そうすると、それまではあまり気にならなかったユリウスの息づかいやシーツが擦れる音などが無性に大きく聞こえてきて、頬が熱くなった。
(いや、これから寝るんだから! 落ち着いて、目を閉じれば……朝になる、はず)
そうしていると、背後から腕が伸びてきてライラの腰に遠慮がちに回された。背後から片腕で抱きしめられるような格好になり、どうしてもライラの背中とユリウスの胸が密着してしまい、どきっと大きく心臓が跳ねた。
(う、わ、わっ! 胸が、鳴って、顔、熱い……!)
どっどっと音を立てる心臓がうるさい。無駄に熱を放つ頬が憎らしい。ユリウスの低めの体温を感じて強張る体が、情けない。
「……ライラ、眠れそう?」
「……。……無理です」
問われたので正直に答えると、ふふっと笑う声がし、「僕も」と、つむじのあたりに温かい吐息が掛かった。
「それじゃあ、君がよく眠れるように魔法を掛けるのはどう?」
「……ご自分に、ではなくて?」
「これ、自分には掛けられないんだ。それに、僕の不眠症には効果がないみたいで。……もしよかったら、君がぐっすり眠れるようにするけど」
背中から問われ、ライラはしばし考える。
魔法、というのを遠目に見たことはあるが、自分も家族も従業員も使えないので、正直かなり興味がある。それに、病弱とはいえバルトシェク家の養子になるくらいなのだから、彼の魔法の腕前は安心してもいいだろう。
「……分かりました。お願いします」
「了解。それじゃあ、目を閉じて。呼吸をして――」
ユリウスに言われたように、ライラは平常の呼吸を心がけて大きく息を吸い、吐き――
次の瞬間には、ことんと眠りに落ちていたのだった。
ユリウスは、ちょっと驚いていた。
「……え? もう寝たの?」
触れるライラの体に眠りの魔法を掛けて、一秒。
一瞬前までは肩を強張らせていたライラの体から力が抜け、すうすうと気持ちよさそうな寝息が聞こえてきた。
眠りの魔法自体は難度も低いのだが、こんなにさくっと眠りに落ちるとは。ライラは非魔道士だから効きやすいだろうとは思っていたが、かなり疲れていたのかもしれない。
「……」
ユリウスはライラの形のいい頭を見つめ、空いている手でそっと彼女の髪に触れた。
肩先までの長さのダークブロンドはとても触り心地がよく、いい匂いもする。洗髪剤の匂いもあるだろうが、何かそれとは違う甘い匂いもして、なんだか心の奥がむずむずしてきた。
「……ライラ」
ぐっすり眠る婚約者に呼びかけ、ユリウスはぎゅっと彼女を抱き寄せると目を閉じた。
ライラの首筋から香るいい匂いは、ユリウスがとろとろとまどろんで眠りに落ちるまで続いていた。