2 バルコニーでの出会い
フられた。
いや、恋愛感情があったわけではないのだから、フられたのではなくただ単に捨てられただけか。
「……ないわ……ああ、ないわぁ……」
賑やかな会場から離れ、ライラが向かったのは人気のないバルコニー。さすが名門バルトシェク家は、こんな小さなバルコニー一つでも小綺麗で、疲れた体を休めるには最適だ。
バルコニーの入り口にいた番兵は、ライラの様子を見ると何も言わずに道を空け、「少し離れますね」と言ってくれた。別に、大声を上げて泣く気はなかったが、今は一人になりたい気分だったのでありがたい。
きれいな手すりに身を預け、しばしぼうっとして夜の風に身を遊ばせる。
眼下には整然と手入れされた庭園が広がっており、遠くに目をやれば明かりを灯す王都の邸宅の波が見えた。
婚約予定だったヨアキムと、友人のカロリーナが結婚する。
その事実は重石を飲み込んだかのようにライラの胃をきりきり痛めるが、それは失恋の痛みとかではないとすぐに気付く。
(私は、ヨアキムに恋していなかった)
三年ほど前、それぞれの両親に連れられて初めて顔を合わせた時から、「好きになれそうにないなぁ」と思っていた。それはヨアキムも同じだったようで、両親がいなくなった後の部屋で、「俺、好きでおまえと結婚するんじゃないから」と余計な釘を刺してきたものだ。
それでも、年月が経てばヨアキムのことを好きになれるかもしれない、と思っていた。もしくは、結婚すれば。さらには、子どもが生まれれば。
「昔はこんな風に思っていたね」と、笑いあえるのかもしれないと思っていた。
だが、ヨアキムが選んだのはカロリーナだった。
カロリーナの実家であるレヴィー家は準男爵位を受けているものの、身分としてはライラと大差ない。そういうこともあり八年前、お互い十歳の時に入学した学院で同じクラスになって以来、それなりに親しくやってきていた。
カロリーナは勉強は苦手だったが、人付き合いが上手で男性の友だちも多かった。一方ライラは女性の友人はいたが、男性となるとクラスメイトともまともに話したことがないくらいだった。
卒業後も、手紙のやり取りをしたり一緒に買い物に行ったりしていた。三年前にヨアキムとの婚約の話が持ち上がった時にカロリーナに報告したら、「素敵! 結婚式には呼んでね!」と祝ってくれたではないか。
男爵家はキルッカ家の金が目当てだったようだが、レヴィー家もキルッカ家ほどではないが資産がある。男爵側としたら、金があって子を生めるのならライラだろうとカロリーナだろうと、構わないのだろう。
(……なんだろう。すごく、虚しい)
結婚するはずの相手を盗られたこととか、友人に裏切られたこととか、そういうことで悲しむ心はなく、むしろ「負けた」と思っていることに気付いて思わず笑ってしまう。
ライラは、カロリーナに負けた。
勉強では学院時代一度も負けなかったけれども、結婚という人生の大舞台においてカロリーナに惨敗した。
それも、大勢の人々の目の前で敗北を喫する姿を見られた。
結婚は人生の大舞台だが、ライラたちにとってはひとつの「勝負」だ。その時、親友やきょうだいがライバルになることだってあり得る。
まさか、他人の屋敷であんな大切なことを切り出されるとは思っていなかった。ライラの方は今日のためにめいっぱい着飾り、ヨアキムが来るのを待っていたというのに。
(ああ、でも、これで私の結婚への道は険しくなったか……)
ライラは今年で十八歳になった。レンディア王国の平民女性は二十歳前後で結婚することが多いので、年齢だけで考えるとまだまだチャンスはある。
だが、あんな大勢の目の前で敗北したライラを拾ってくれる人は、いるのだろうか。ただでさえライラは男性との交遊関係が狭いし、ヨアキムとの話が持ち上がってからはライラも縁談を遠ざけていたと。そんなライラに、「では私が」と声を掛けてくれる人はいるのか。
(いなかったら……どうすればいいんだろう)
両親は、娘がヨアキムと結婚することを楽しみにしていたようだ。
キルッカ商会はなかなか繁盛しているが、やはり貴族との縁を持つというのは平民なら誰もが夢見ることだ。ライラの父も、「結婚するなら貴族か魔道士がいいな」と冗談交じりに言っていた。
レンディア王国で魔道士の素質を持って生まれる確率は、二割ほど。平民は圧倒的に非魔道士が多く、逆に貴族の大半は魔力持ちがほとんどだ。だから、魔道士と結婚して魔力を持つ子を生みたいという女性も少なくない。
とはいえ、両親もライラのことを政略結婚の駒扱いはしていない。商会は最初から、ライラの従弟が継ぐことになっている。もしライラが農夫と結婚すると言っても、最後には快く送り出してくれるはずだ。
(でも……そうなると、父さんたちの目標が)
実家の足枷にはなりたくない。だからヨアキムと結婚するために勉強も頑張ってきたし、裁縫や詩作など、貴族の嫁として必要な能力だって磨いてきた。最初は趣味だった菓子作りに関しては、今では店を出せるとまで言われるくらいだ。
ぐっと拳を固め、とんとんと胸を叩く。
(弱気になったらだめだ! まだ、チャンスはある。ちゃんと前を向いて、これまでは苦手だった男の人とのお喋りにも乗り込んで、手紙も書いて……)
社交的なカロリーナではないのだから、自分から男性に近づくなんて考えただけでげんなりしてしまう。だが、足掻けるものなら最後まで足掻き、両親に「ヨアキムはだめだったけれど、もっといい人が見つかった」と笑いながら報告したい。
軽く頬を叩いて気合いを入れ、よし、と夜空を見上げる。ちょうどいい感じに、ライラの頭上を流れ星が過ぎっていく。
他国では不吉の証しとも言われるらしい流れ星は、レンディア王国では幸運の前触れだとされている。
一人で見れば強運を、二人で見れば末永い縁を、大勢の人と見れば平和をもたらすと言われているのだから、きっと今の流れ星もライラを応援してくれているはずだ。
(まずは、会場に戻らないと。ヨアキムが父さんたちに説明したはずだから、私も話を……うわっ!?)
振り返り、ずんずんと歩いていたライラはいきなり目の前に黒い影が飛び出してきたため、悲鳴を口の中で転がしてつんのめった。
(倒れるっ!?)
がくっと体が折れ、そのまま前のめりに倒れ――そうになった体を、誰かの腕がさっと抱き留めてくれた。胸の下に腕を回されたので、弾みで髪とドレスの裾がふわっと揺れる。
「……えっ?」
ライラは、顔を上げる。
そして――色々な意味で、悲鳴を上げそうになった。
ライラを片腕で抱きかかえているのは、知らない男だった。レンディア王国成人男性の正装である裾の長いジャケット姿で胸にどこかの家紋付きのバッジを付けているので、夜会の参加者であることは分かる。
だが白と青と金色で彩られたその衣装を纏うのは、華やかなジャケットに似つかわしくない不健康そうな顔の男性だった。
首筋で結われている麦穂色の長い髪は艶がなく、ヘーゼルの目の周りは落ちくぼんでいる。頬は削げており、星明かりの下だということを差し引いても肌が青白く、スマートを行き過ぎた痩せすぎの体型は病的だと言える。
おそらく二十代半ばくらいだろうが、その顔立ちと生気のない表情が、彼の見た目年齢をもっと引き上げているように感じられた。
外見だけでは、なかなか近づきがたい印象がある男。
自分は、そんな男に抱き寄せられているのだ。
(……だ、だめだだめだ! この人は、倒れそうになった私を助け起こしてくれている! ちょっと見た目は怖いけど、お礼を言わないと!)
「あ、ありがとうございます。すみません、重いでしょう」
そう言ってライラは体を起こしたが、なぜか男はライラの体に腕を回したまま黙っている。ヘーゼルの目にじっと見つめられ、ライラは視線を逸らした。
かなり不躾に見つめられているが、不思議とそれほど嫌な感じはしない。とはいえ、知らない男に抱き寄せられたままというこの状態は、色々な意味で非常によろしくない。
「あ、あの。私、もう大丈夫です。おかげさまで、倒れずに済んだので」
「……」
そろそろ、何か言ってほしい。もしくは解放してほしい。
軽く男の胸を押してみたが、ぺらぺらの胸筋のわりに頑としてライラを手放そうとしない。
(こ、これは……困る! かなり困る!)
そのあたりに番兵がいるはずだから、通報しようかと思っていたらようやく、男が薄くて青白い唇を開き――
「……君」
「は、はい!」
「僕と、結婚してくれないか」
「……はい?」
求婚してきた。