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シエナ色の記憶  作者: 田中にゃん吉
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西やんとしての日々

「西やん」のはじまり


 気がつけば、「西やん」と呼ばれていた。

「○○やん」という呼び名は中年のおっさんたちの専売特許だと思っていたが、なのにまさか花盛りの二二才で、自分にそんなあだ名がつけられることになろうとは……。

 くせ毛ながらも風に揺れる爽やかなショートカット、細身のストレートデニムをすっきりと履き、ジェラートを片手に笑顔を見せている色白の女の子。少し内股気味に足をそろえ、もう一方の手でピースをして、カメラに向かっている一枚の写真。

「おかしいなあ。これが私だったはずなのに」

 むしゃむしゃとクッキーをむさぼりながら、パソコンに保存した写真を見ながら呟いた。キーボードにクッキーのかすがポロポロ落ちるが気にしない。今日もひと袋、一気食いだ。そういえば、最後に化粧をしたのはいつだっただろう。もうそれも思い出せないが、そんなことはどうでもいい。日焼け止めさえ塗るのをやめた肌は、いつの間にかすっかり浅黒くなっていた。

 大学二年生の春休みに旅行で訪れたイタリアにすっかり魅せられて、大学を卒業したらすぐに留学しようと決めていた。新卒でのUターン就職を希望していた両親の反対を押し切り、必死にバイトを三つ掛け持ちして手にした渡伊。「頑張ってね!」と皆に背中を押され、夢追い人として出発した日が懐かしい。応援してくれる友達から届くメールや手紙に励まされ返事こそすれど、「写真送って!」という要求には答えられずにいた。いや、正確にいうと、景色だけの写真は送っていた。そこに自分が映り込むことを徹底的に避けながら……。――だって私は、「西やん」になってしまったのだから。

 イタリアはトスカーナ州に位置する世界遺産の古都シエナ。「シエナの土」という名の色の絵の具があるほど美しいレンガ造りの中世の町並み、扇形のかんぽ広場、空に延びるマンジャの塔、羽を休める白鳥を思わせる白い大聖堂。本当にこんな美しい街が実在していいものかと言葉を失うほど完成された景観に溶け込んで、充実した日々を送るはずだった。

 ところがどうだ。いざ生活を始めてみると、お昼の一時に学校が終わるともうすることがない。毎日雨で晴れ間もなく、肌寒い。仕方なく部屋に帰るもテレビはないし、インターネットもない。イタリア語で本など読めるレベルじゃない。友達もいない。金銭的な余裕もない。ないないづくしの環境で、いたずらに余りまくる時間をどうややり過ごそうか。答えはひとつだった。――昼寝。ところが、たいして疲れていない体は、睡眠を欲しない。じゃあ一体、どうすれば眠くなるだろうか。答えはひとつだった。――満腹。そんなわけで、私は食っちゃ寝のぐうたらの極みに堕ちていき、気がつけば「西やん」と呼ばれてしかるべき風貌を手にしていた。

 美食の国イタリアで太るのは、百歩譲るまでもなく致し方ないこととも言える。現に街を見渡せば、でっぷりとしたお腹はそこらじゅうにある。だから私を「西やん」に変えたのが、よだれも滴るイタリアの珠玉の品々であればまだよかった。ピザ、パスタ、ジェラート、生ハム、チーズなど、イタリアの至宝の数々に勝てるわけなどないのだから。しかし私にはその美食を堪能するだけの経済的かつ精神的な余裕などなかった。つまるところ、私が纏うこのだらしない肉鎧は、スーパーで売られているムリノ・ビアンコのクッキーとヌテッラ(チョコレートソース)で培われた、そこに深みもなければ語るべきストーリーもない、実にチープなものだった。

 体重計がないのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。何キロ増えたかを数字として可視化せずにすんだのだから。それでも、事の全てを雄弁に語る背信の輩がごく身近にいた。その輩とは、今やおはらい箱となったが、かつてはこの両足を包んでいたデニムのこと。そう、先程眺めていたあの写真で私が履いていたものだ。奴はつい三日前、肉圧に耐えかねて「もう無理です」と悲鳴をあげて散っていった。

 奴がもう限界に近いとは、私だってうすうす心のどこかで気づいていた。だが決定的証拠を手にするその瞬間まで、信じたくはなかったのだ。無理矢理足を入れ込むも収まりが悪く、さらに押入れようといつものように伸展をしたその時だった――

「ビリッ」

 一瞬、我が耳を疑った。確かデニムは、馬二頭に引っ張られても裂けないはずでは? おいおい、冗談はよしこちゃんにしておくれ。西やんの肉圧はそれ以上だとでも言うのかい? 

 恐る恐る股下に手をやった。間違いない、認めたくはないが受け入れざるを得ない……。西やんの肉圧の完全勝利だった。


                                           ≪続く≫






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