09話 ことの顛末
放課後、僕と結月と一条の三人は、今の時間、他に誰も来ないであろう屋上に上がっていた。雨雲が空を覆っていて、屋根のない屋上でも少し暗い。
「水崎さんのことなんだけど」
一条が言う。前の学校でなにがあったかが分かった、と。
水崎は自分のことをあまり話さない。特に、前にいた学校のことは何も話さない。
「結論から言うよ。水崎さんが悪いのかどうかは、わからないんだ」
「どういうことだ?」
「水崎さんの友達が言うには、水崎さんは不純異性交遊を咎められたらしい」
「堂々とやってたのか?」
「違うんだ」
「話が見えないな」
「推測しだすとキリがないんだけど、とにかく話をきいた皆は、濡れ衣だと」
「濡れ衣?」
「普通、不純異性交遊でばれるって言ったら、妊娠」
「それ以外ってあるのか……?」
「期間的に妊娠はあり得ないから、まあ、ラブホテルに行ったところを捕まった、とかかな。あるとしたら」
「なるほど、それもあったか」
「そのくらいだろ? でも、アリバイがあるんだ」
「アリバイ?」
「妊娠はしていない。咎められたであろう日の前日の夜は、家にいた。それは家族や友達が証人な上に、彼女の家には監視カメラもある。その朝も、家を出た時間は登校時間に間に合うぎりぎり。スムーズに電車の乗り継ぎをしてぎりぎり学校に間に合う時間に、ちゃんと登校してるんだ。証人は家族と監視カメラ、学校の水崎さんの友人が数人」
「それで?」
「どこで捕まったんだって話なんだよね。彼女は、咎められたその日のうちに学校に来なくなって、転校を決めたらしいから」
「そうなのか」
「水崎さんの友達は、元々あった証拠で捕まったのか、濡れ衣を着せられたかのどっちかだって言ってた」
「あいつ自分のこと何も話さないからわからないよな」
一条は困った風な声を出しながら頭をかいた。
「普通さあ、生徒指導の先生って、情報を握ったら次の日にでも咎めに行くのが普通だと思うんだけどね。とにかく、水崎さんが柏葉さんのことを深く探ってくるなら、こちらもこれくらいの情報は持っておいた方が良いと思うよ」
「なるほど」
一条が目を細めた。
「この距離だから聞こえてないはずだけど、一応しらを切っておいて」
「わかった」
結月も頷いた。
かつ、かつ、と階段を上がってくる音がしたのだ。どんどん音は大きくなり、聞きなれた声が聞こえてくる。
「やっぱり三人はグルだったんだ」
「グルって言うな」
やってきたのは、もちろん水崎だ。
「二人して一人の女の子狙ってんの?」
一条が吹きだして笑いはじめた。
「まさか。そんなことしたら持木君に殺されちゃうよ」
「私なら引くわね」
結月さん!
「お前ら酷いこと言うな!」
「幸助君が私の身体目的で近づいてきたことはもはや周知の事実だけど、一条君がそうだと私はどうしたらいいかわからないわ」
「変なこと言ってんじゃねえ!」
「身体目的……幸助は確かにそうだ!」
「おのれらぁぁ!」
お前らどれだけ僕に恥をかかせれば気が済むんだ!
もういやだ! 僕ばかりダメージを負ってる!
「一条君、これ以上やると拗ねるわよ」
「じゃあこのくらいにしよう」
そう言って一条は少し下がって距離を置いた。
「いつもより状況が悪化している気がする!」
僕の恋心を返せ!
「グダグダだから! 生産性のある話をしようか!」
と、言うのもですね、横目にちらっとわなわなと震えている水崎さんが見えたんですよ。
「完全にあたしを無視してくれて」
「ごめんごめん。で、何の用?」
水崎は一拍おいて呼吸を整えた。
「……二人はどういう関係なの?」
さて、どう答えたものか。話し出すと長いんだよこれ。
返答をちょっとだけ考えていたら、代わりに結月が、
「主従関係よ」
「結月さん!」
少し遠くで一条が笑っているのが見える。もっとやれと言わんばかりの顔だ。
ちくしょう!
「……なら奴隷かしら?」
「なお悪い!」
「ま、恋人未満よ」
合ってるけど!
「友達以上とつけてくれれば嬉しかった」
「知り合い以上ね」
「変に言い直さないの! ちょっと微妙になっちゃったでしょ!」
「関係の位置づけが微妙なのは元々よ」
「元々だけどさ!」
「まあ、少しずつ進展してはいるわね」
「……その認識にすごく安心したわ」
疲れが……。
「ギャラリーがいるだけでこんなに疲れるんだな……」
「反応がどこか新鮮で面白いわ」
「そりゃそうだろ!」
水崎は怒り心頭に発するといった感じだ。
「あたしを無視してなに惚気てんの?」
「忘れてました」
「普通忘れないでしょ」
「返す言葉もございません」
一条は大笑いしています。助けに来い。
「……四六時中一緒にいて、うざくないの?」
水崎は結月に話しかけている。
僕の本音を言えば、この問いの答えは聞きたくなかった。聞けば後戻りができない気がしたからだ。ぐっと心が重たくなるのを感じる。
水崎のこの問いに対して、結月は首をかしげた。
「……何を言っているの? むしろ私は感謝しているのよ」
「……は?」
「一条君にも、もちろん、幸助にも」
初めて呼び捨てにされてドキドキしているのは内緒だ。
「……なんで」
「なんで? 私に向き合ってくれたからよ」
「……」
ぽかんとしているのは、むしろ結月のほうだ。水崎が何を言っているのかが分からないといった様子だ。
「私の過去が知りたいのなら幸助にきく方が早いわ。とにかく、今私がここにいるのは、幸助や一条君のおかげなのよ」
ああ、よかった。
心の底からそう思った。
ずっと、心に引っかかっていたものが、なくなった。
僕はとにかく確認したいことがあった。この場でしておかなければならない事だ。
「結月」
「なに?」
「今までみたいに、傍にいていいのか?」
結月が失笑した。
「何を言っているの? いてくれないと困るわ」
訊きたくても訊けなかった。
でも、ようやく訊けた。
「水崎。……だ、そうだが」
水崎の顔からは、困惑がうかがえる。
「なんで」
よた、よた、と近づいてくる。
「なんで!」
叫んだ後、水崎は結月に手を伸ばした。
結月はパッと飛び退くと、僕の後ろに回った。長い髪の毛が結月の顔を覆い隠したが、それは結月の手で取り払われる。
「触るな」
結月の目には、言葉には、明らかな拒絶がある。それを受けて水崎の表情があからさまに硬直した。
「私に触れていいのは家族を除いて幸助だけ。それ以外の例外はない!」
結月の敷いたある一定のラインを踏み越えるようならば、それは何であろうと敵である。例外は結月の両親と僕。それ以外は敵になる。一条はそれをわきまえていて、結月からの警戒がかなりゆるくなっているだけに過ぎない。
「椅子に座っているのは、仕方がないからよ。それ以外はたとえ物でも、私は許さない」
「それを克服しようと、僕たちは最近特訓してたんだ」
水崎は突然のことで返答に窮している様子だ。
「結月は変わろうとしてるんだ。僕の誇りでもある。こうやって傍にいられることもな。過去について、聞きたいのなら話してやる。話せないような過去は持ってない。自分の過去も話せないような奴が、僕達にとやかく言わないでくれるか」
水崎は身体を震わせていた。
「……好奇心で訊いただけなのに、自意識過剰」
水崎の顔が歪んでいる。負けを認めたくないのだろう。
「自分で何言ってんのかわかってんの?」
「二人は真面目だよ」
そう言い、一条が近づいてきた。
「……」
「好奇心で訊いてたんだ。本当?」
水崎の目が見開かれた。すぐに、いびつな形に狭められる。
「本当に決まってんじゃない。何言ってんの」
「違うでしょう? 君の動機は、好奇心でもなければ、嫌悪感でもない」
「何言ってんの」
「ねえ、水崎さん。転校してくる前、何があったの?」
空から、ゴロゴロと雷の音が落ちてくる。
一条の言葉は、水崎の顔に影を落とした。
いや、引き出した、と言った方が正しいのかもしれない。
「なにもない」
「自分みたいにならないように注意をしようと、近づいたの?」
「……違う」
暗い。
見ていられない。
先ほどとは打って変わって、水崎の顔は、怒りと悲しみに支配されているように見える。
こういうとき、どんな事情があっても、一条が甘い顔を見せないというのを僕は知っている。容赦のないひと言ひと言は、矢のように、水崎に刺さっているはずだ。一条はある程度の情報を掴んでいて、離れて見ている間に、なにかの確信を得たのだろう。
「じゃあなに? 聞かれちゃまずいことしたの?」
「してない!」
一瞬光が走り、雷鳴が轟いた。そして、打って変わってあたりは静かになった。
「……君の中にあったのは紛れもない、妬み、だよ」
激しい雨が、降り出した。あたりの雑音が一斉に取り払われ、雨音だけが耳に入ってくる。
水崎の体が瞬く間に濡れていく。髪から雨水が滴りだす。髪が濡れて乱れようとも、服が濡れて透けようとも、それでも、水崎は動かなかった。
身体を小刻みに震わせ、ただただ、雨に打たれていた。
「俺たちにとって、君は大した問題になり得なかった」
そう、それも、水崎が身体を震わせている原因の一つだろう。
僕たちは、どこまでがイタズラなのか、どこからが嫌がらせなのかすらも、わからなかった。それどころか、結月の中では問題にすらなっていない。
結局の所、元々そういう人間じゃなかったのだろう。
そういうことをしたことがない人間が、今回初めてそういうことをしたのだろう。
「水崎さん、何も話せないの? 人に話せないような過去を持って、それを悔いることもなく、反省することもなくこの学校に逃げて来たんじゃないの? だから――」
「――違う!」
甲高い、今まで聞いた中で水崎の一番心のこもった声だ。
「何もしてない!」
一条は一歩踏み出した。
「何があったのさ? 俺たちにとって、君は問題になり得なかった。だからこそ、君に向き合ってるんだけど」
数秒の沈黙の後、水崎の目じりが、強く下がった。
水崎は目に見えぬところで、途轍もない敗北感を味わっていたはずだ。僕たちに絡んでも、目に見える形で全く影響が見られない。それどころか、僕に説き伏せられ、一条を含めた四人でいる時も、あからさまに、水崎だけが蚊帳の外だった。とどめは恐らく、クラスの皆に目に見える形で敵視されたことだろう。味方がいない状態を自分で作り出してしまったのだ。だからこそ僕と一対一で話した時には、すでに戦意を失いかけていた。
優しく問いかける一条の言葉は、こんな状態にある水崎にとって、あらがえない力を持っているはずだ。
今、一条以外は皆、水崎の中では敵なのだろうから。
雨か涙か、水崎の目から、しずくが垂れた。
「私は何もしてない……!」
(あぁ……)
こうやって、一条は本音をさらっていくんだ。
「何もしてないんだね」
「そうよ」
「話してよ」
水崎が僅かに嗚咽を漏らした。
「……満員電車に乗っていたの」
「満員電車。それで?」
「自分が痴漢にあってることなんか気付かなかった! 満員電車で、当たりまくってるんだし!」
「うん。それで?」
「学校の門で、呼び止められた」
「だれに?」
「生活指導の先生」
「なんて呼び止められたの?」
水崎の口が止まった。俯いている。話すのを拒んでいるのは一目瞭然だ。
「ここにいる連中が、笑うと思う?」
水崎は首を横に振った。
「なんて言われたの?」
「『それはなんだ』って」
「……なにがあったの?」
水崎が顔を上げ、一条を見た。睨むような形相だが、怒気は感じられない。雨水に濡れて乱れた髪の下で、目は赤く腫れていた。口もとを震わせ、時折、きゅっと引き締めていた。
「言いたくない」
「言いたくないもの?」
一条も、ずぶ濡れだ。
「そう。言いたくない……もの」
「それで、その後は?」
「……『何してきたんだ』って」
「『何してきたんだ』って、問い詰められたの?」
「そう。……違うって言った! 証拠だってあった! でも聞いてくれなかった! 痴漢にあってわからないわけがないって!」
地響きのように雷が鳴っている。
雨音が一層激しくなった。五月蠅いくらいだ。でも、もっと五月蠅くなって欲しいくらいだった。
もう、聞きたくない。水崎の嗚咽が、この雨音の中、何故かはっきりと聞こえてくる。
負の感情が拭い去られるには時間がかかる。水崎はこの後、どうやったら笑ってくれるのだろう。
僕たちはしばらく、雨に打たれていた。
そこに聞こえてきたのは、意外にも、結月の声だった。
雨が降り出してから、校内に逃げ込んだらしい。一人だけ濡れていない。
「自分ですれば触らずとも痴漢出来るものね」
結月さん、なぜ僕を見る?
「確かに、あなたは悪くないわ」
「そうだな」
僕もそう、ぽつりと漏らした。
一条は水崎に「風邪ひくから、とりあえず戻ろう」と言い、結月のいる屋上の入り口の方へと先に歩いて行った。僕もそれに続いた。もう身体中が水浸しで、髪の毛を伝って水が流れているのが分かる。
雨をしのげる場所まで来て振り返ると、水崎はいなかった。
水崎は、入り口の対面の欄干の前にいた。
「水崎! 風邪ひくぞ!」
僕がそう言っている間に、一条はパッと雨の中へ駆けだしていた。一条のその顔には、血の気がない。
水崎の目がうつろなのを見たのだ。水崎の目にも、顔にも、生気がない。
「来ないで!」
走っていた一条が止まった。雨は激しさを増していく。屋上の地面を大量の雨水が流れていくのが見える。
一条は叫んだ。雨音が大きいため、普通に話しても、もう声は届かない。
「水崎さん! 何をする気だ!」
「何すると思う?」
「良いことじゃない!」
水崎の顔が歪んだ。
「ええ、悪いことよ!」
「言っておくけど、君の一番の理解者は、ここにいる三人だよ!」
「わかってる!」
水崎は欄干を跨いだ。
それを見て一条は焦りをあらわにした。
「わかってないだろう!」
水崎は首を左右に大きく振った。濡れた髪が遅れてそれに従っていた。顔を伝う水は、一体何なのだろう。
「やっと冷静じゃない顔を見せたじゃない。……教室に行っても、あたしの居場所はない」
「……まだただの噂だよ。俺たちと話しているのを見たら、自然とおさまる!」
「信じると思う?」
「信じてもらわないと困る!」
一条と水崎は、互いに互いを見つめていた。
水崎の視線がそれた隙をついて、僕は少しずつ回り込むようにして水崎の所に近付いていた。
「私がこんなことするなんて、自分でも驚いてる!」
「じゃあ止めろ!」
「止めれるわけないじゃない! こんなこと知られて、私はこれからどうしたらいいの!? どんな顔して教室で過ごせばいいのよ!」
僕たち以外の人間も、少しずつ、違和感に気づき始めたらしい。下が、ざわつき始めた。教師の怒鳴り声が聞こえてくる。
しかしそれも雨音にかき消され、ノイズのようなざわつきにしか聞こえない。
「水崎さん!」
しばらく、沈黙が続いた。五分ほど、硬直していた。
「あたしは、どうしたらいいの……!」
絞り出したような、小さくて、甲高い声だった。
「今みたいに話せばいいだろ! 心の中見せないと、相手が見せてくれるわけないだろ!」
「信用できない!」
「じゃあ俺たちだけで良いだろ! 話したくないことまで話さなくていいんだよ!」
「うるさい!」
必死に説得する一条の言葉が途切れた瞬間、僕は駆けだした。この位置なら、飛び降りる前に捕まえられる。
「――っ! 来るな!」
僕の姿を認め、水崎が飛び降りようと重心を傾けたが、僕はその間に捕まえ、水崎の胸ぐらを掴みなおした。
「一条がどれだけ裏工作してくれたのか知らねえからそういうことが言えるんだ、お前は! 飛び降りる暇があったらクラスの皆に話す言い訳でも考えてろ! 僕がどれだけ無難な言い訳を探してると思ってんだ! ちょっとくらい自分でも考えろ!」
そう言い、欄干に足を掛け、真上に持ち上げるように力を入れ、水崎を強引に屋上側に引っ張ったその瞬間であった。
足が滑った。
「え」
欄干の高さは腰の位置位の高さ。水崎が跨げたくらいだ。
水崎は屋上側に引き戻したが、僕の重心は屋上と反対側に傾き、体は空中に投げだされた。というより、転げ落ちた。
「うわあああ!」
見ると、でかいマットのようなものがあった。綱渡りとかする時に使う下に敷くあれだ。
体育館の真上を陣取っていたため、教師の指示ですぐに配置されたらしい。
僕はその上に落ちた。
記憶は、そこで途絶えた。