08話 僕と結月の関係
僕が柏葉結月と出会ったのは小学二年生の時だ。一学期の中ごろあたりのことだった。
柏葉は、転校生だった。
先生が柏葉を紹介して、柏葉が自己紹介をしている間、僕はずっと視線を動かさなかった。。
「……」
見ただけで運を使い果たした気がした。それくらい柏葉は可愛くて、僕は次の休み時間に、緊張することも忘れて話しかけに行った。
「ねえ!」
でも、勇気を振り絞って声を掛けた僕を前にしても、机に座っている柏葉は視線すら動かさなかった。
「唾が飛ぶわ。近づかないで。きたない」
様々なイメージ、その他もろもろが打ち砕かれた瞬間だった。
「現実って、厳しいんだね……」
「……」
「無視!?」
当時、スルー、などという自分のダメージを軽減するための言葉、もとい、心の逃げ道はない。
「……」
「直視できないよ?」
もう涙目だ。
言葉の暴力なんて信じていなかった、いや、理解すら出来ていなかった僕に、柏葉はその凶悪さを教えてくれたのだ。
美談ではない。
「消えて」
勇気を振り絞ることの愚かさを知った瞬間でもあった。でも、諦めたら負けだとも思った。だから僕は諦めなかったのだ。
「負けない!」
それから僕は、独り言を呟き(つぶや)まくる残念な子に成り下がり、毎日諦めずに話しかけた。独り言を言わないと泣きたくなるのだ。
「いやもう絶対負けないもん」
もちろん同級生の前で言ったりはしない。言った後に、聞かれているのではないかとヒヤヒヤする毎日が始まった。
そんな僕とは関係のないところで、転校初日から問題が発生する。汚いから何にも触りたくないという柏葉の姿勢が、我が儘だと捉えられたためだ。
先生が怒ると、柏葉は完全な沈黙を返した。これはまわりの反応に対してとった柏葉の態度でもある。いや、これは、まわりに対する答えなのだ。今ならそう言える。柏葉の状況は、言ってもすぐには理解してもらえないのだから。
そんな状況が何日か続いた。
僕はそれでも柏葉に喋り掛け続けた。触らないようにする、唾が飛ばないようにするなど、最大限の配慮をする。
「なんで触りたくないんだ?」
「……」
メンタル面の強さはここ数日で大分向上した。はずだ。そう思っていた。
「せめて視線をちょうだい……?」
「消えて」
僕の頬を伝った涙が、向上していないことを示していた。
心を鍛えるには、凄まじいほどの労力と時間が必要なのだ。
こんなことが続いても、僕は決して諦めることはなかった。
○
ある日事件が起こった。先生が柏葉を触ったことで、事態が急変したのだ。
悪化させたのだ。
この日、柏葉が泣いた。泣いて、ありとあらゆるモノから遠ざかった。涙を、指や手の平や手の甲、袖ではなく、袖を捲って腕で拭いていた。今でも鮮明に覚えている。そんな状態の柏葉を案じたのか、業を煮やしたのかは知らないが、先生が近付こうとした。それを受けて柏葉は案の定、暴れた。次々と他の先生も来て、大騒ぎになった。
まだそのころ僕は、まだ柏葉を理解出来ていなかったが、可哀そうだとは思った。
そしてこの日、柏葉の親が学校に来て、次の日から柏葉は学校に来なくなった。
「会いに行くしかない!」
短絡的な発想である。とりあえず朝と放課後の二回が日課となる。もちろん、会ってくれるわけがないので、親御さんに差し入れを渡しまくる日々が続いた。
柏葉のお母様は優しかった。
「これ、あの、きれいなので……」
「いつもありがとう。渡しておくわね」
飴、チョコレートなどのお菓子や、パン、鉛筆などの文房具類、など、など、思いつくものをいろいろ渡した。
この時期だ。柏葉の親御さんととても仲良くなったのは……。
結局、二週間。二週間、ずっと通い続けた。でも不思議と心は折れなかった。というより、直接話すよりダメージはずっと少なかった。あら不思議。
そして、十五日目。その朝。
「……うそだ」
外に、既に母親がいた。その傍には柏葉がいる。
ぼそっと、柏葉が言った。
「行きましょう」
「え?」
いやいやいや、急展開過ぎる。
そういえばこのときだ。未来の出来事にも恐怖を覚える、ということを知ったのは……。
そうやって動揺しまくっている僕に、柏葉のお母様が、
「この子、連れて行ってくれる?」
「……え」
その後の説明によれば、柏葉が休んでいる間に、学校に先生が来ていたらしい。というか、乗り込んで怒鳴るように説教していったらしい。病院から、医者という名の先生が……。
だからもう大丈夫とのことだった。校長先生や担任からも謝罪を受けたらしい。
「…………」
医者は偉大だと思った。
「ほら、ランドセル持って」
お母様が柏葉にランドセルを手渡す。
しかし柏葉は見るだけで受け取らない。柏葉の目を見ると、心の底からこのランドセルを触りたくないと思っていることがうかがえた。
「……」
「これもだめなの?」
「僕が持ったら、行くか?」
断られた時のことを考えたらぞっとするけど、とりあえずそう言ってみる。すると、
「……ん」
小さくだが、柏葉は首を縦に振った。
「よし」
役に立てるだけで幸せだった。なにより、柏葉が自分の私物を触るのを許してくれたのだ。
進歩だ。
学校についても、靴の履き替え、扉の開閉は進んで請け負った。
「どうした?」
「つくえ。いす……」
学校に来なくなる前、柏葉はかろうじて給食を食べていた。その程度の状態だった。つまりランドセルも触れるし、机にも触れた。
だがこの時点では触れない。僕は柏葉の触れないものが増えていることを確信した。柏葉が泣いていた時、自分の手であっても自分の服であっても、他の何かに触れたところは、もう自分に触れさせなかったことを思い出した。
でも僕は心の中でほくそ笑んだ。
「これ、つかう?」
ウエットティッシュというやつだ。除菌、とでかでかと書いてあるお徳用サイズ。とにかく綺麗にしなくてはという意識から、柏葉との邂逅二日目にして母親に頼みこんで買ってきてもらった。母親がなかなか承諾してくれなかったので僕は頭まで下げた。
ようやく使う時が来たのだ!
これで机やら椅子やらをしっかり拭くことで、座ることへの抵抗は取れたようだった。
「これなら座れる?」
「……ん」
でも、柏葉は触ろうとしなかった。
「触りたくないの」
理由はよくわからなかったが、触りたくないのはわかった。医者が怒鳴りこみにくるくらいの事情なのだから。
「これでどうだ?」
椅子を引いてやる。もちろん、背もたれなどの触れる可能性のある個所には触らず、器用に背もたれの裏側の金属部分を引っ張る。
が、柏葉はまだ座らない。
「……」
「あ」
机の脚が邪魔で足が通らなかったのだ。
「こうか!」
机も前にどける。もちろん、触れる場所には配慮する。
「……ありがと」
「うん!」
もう嬉しくて飛び上がりそうになった。
立つ時も帰る時もその繰り返し。でも、それ以外では口もきいてくれなかった。それはやはり辛かった。
ちなみに、柏葉は給食も食べられなくなっていて、弁当を持参していた。
この、僕が柏葉の世話をしている光景を見た先生は、その日じゅうに席の調節を図った。そして僕はこの三日後、パシリという言葉を知る。
柏葉と仲良くなったのは、いや、柏葉がまともに口を利いてくれるようになったのは、これから
さらに一カ月もあとのことだ。
○
それは放課後のことだった。
「……何やってんだろ僕」
僕は折れかけた心をなんとか自己修復しようと気を紛らわせていたそんな時、柏葉が下足場を出たところで思い切り転んだのだ。
「あ!」
僕は素っ頓狂な声をあげ、一目散に柏葉のもとへ駆け寄った。
この時点ですでに折れかけた心なんて忘れており、ただ心配だった。
「大丈夫」
手を差し伸べた。でも、すぐ引っ込めた。自分でも驚いたが、ここにきて、こわくなったのだ。
嫌われたくない。嫌われるのはいやだ。
この状況で拒絶されたら、この気持ちが壊れそうで、考えれば考えるほど、どうすればいいかわからなくなった。
「え、えと、あの……」
僕は立ったまま硬直してしまったのである。思考が停止し、行動には移せないが状況だけは掴めてきて、頭の中はぐちゃぐちゃになっていく。そしてまた気付くことがあった。僕がこうして色々と悩んでいる間も、柏葉はうつ伏せに転んだまま動かなかったのだ。それに気が付いて、僕は別の恐怖を覚えた。
「……どうしたの? だいじょうぶ?」
柏葉は動かなかった。立ち上がろうとしないのだ。
「柏葉?」
跪い(ひざまず)て、顔を覗き込む。
触れない。唾も息も掛からないように配慮する。
「なあ。起きろよ」
やっと柏葉が少しだけ顔をあげた。見ると、柏葉は泣くのを必死でこらえていたのである。
「……」
僕は声が出せなくなった。同時に、頭の中が急に整理された心地がした。
不意に、柏葉の気持ちがわかってしまったのだ。
「……」
柏葉は、痛くて泣いていたわけではない。
顔も手も服も髪も土で汚れ、泣いていたのだ。
「ごめんなさい」
僕はへたり込んでしまった。
柏葉の今にも泣き出してしまいそうな声が聞こえてくる。
「……え? なんで?」
悪いことをした。そう思った。
「ごめんね……」
「なんで?」
嫌なことを一杯してきたんだ。嫌われて当然だ。
後悔の涙を流したのは、今のところこの時が最初で最後の体験だ。
「いっぱいイヤなことした。いっぱい汚いことした。……ごめんなさい」
「……」
柏葉も泣きだした。すぐに僕と柏葉の顔が涙でぐちゃぐちゃになった。
泣いてる場合じゃない事はわかっていた。もし誰かが通ったら、もっと柏葉が泣いてしまう。助けられるということは、触られることと同じだ。
嫌がるにきまっている。
でも、触れない。助けられない。
小学二年生の時点で、僕は己の無力さを痛感した。
「たすけれない。……ごめんね」
また泣いて、二人ともぼろぼろになった。
そんなとき、柏葉が自分で起き上がった。
「ごめんなさい」
彼女が誤ったのも、今のところこれが最初で最後。
「え?」
柏葉はうつむいていたが、顔は見えた。涙と土で、顔はぐちゃぐちゃだ。
声にはまだ嗚咽が残っている。
「ひどいこと言って、ごめんなさい。……いままで」
その後もしばらく、僕と柏葉は俯いていた。
今思えば、この時だったと思う。
運を使い果たしたのは……。
○
このときから僕はずっと、結月の傍に居続けた。
どう思われているのかなんて、怖くてもう聞けなかった。
ほんとうに、怖かった。
今でもずっと、怖いのだから。
読んでくださり、ありがとうございます。