07話 水崎の誤算
ホームルームが始まる前。教室に足を踏み入れると、僕は何か違和感を感じた。
教室の空気が明らかに変わっている。空気が何か重い。教室全体にプレッシャーの塊のようなものがある。
そのすぐ後に一条が教室にやって来た。
「一条」
一条もすぐにこの違和感を感じ取ったらしい。
「……どうやら、誰かが見ていたようだね」
「そうらしい」
「謝罪がない限り、水崎さんの居場所はないかもね」
「……ああ」
「毎日毎日君たちがあれだけ騒いでも、このクラスでは誰一人として何もしないことの意味を、水崎さんは考えてなかったみたいだね」
種を明かせば、一条と僕とで封殺したのだ。その中には結月の毒気に中てられた者もいる。しかし、ほとんど一条が陰で動いてくれているおかげだ。いずれにしても敵となるのは少数派だ。その他を完全にとりこんでしまった一条の力は圧倒的に大きい。敵にすらなり得ないのだ。
「保身のために言っておくけど、俺は何もしてないからね」
「わかってるよ。そんな時間はなかった」
僕と結月の方が、一条より先に教室に入った。その時にはすでに、この有り様だった。
「水崎さんは明らかに焦ってるよ。まさか自分が敵にされるなんて思ってなかったんだろうね」
「普通は水崎に付くもんだろうしな」
「そうだね」
「……これからどうなると思う」
「学校に来なくなったりしたら、困るな」
「これ以上の進展、もとい悪化はないだろうが、しかしなあ……」
「とりあえず、悪化のないようにだけしてもらおう。後で皆に言っとくよ。君の方でも、水崎さんがもし何か接触してくるようなことがあったら、意識の改善を促してみてくれる?」
「ああ、もう大丈夫だ。出来る」
「頼んだよ」
「……いつもありがとうな」
「いえいえ、こちらこそ」
一条は笑っていた。いつもそうだ。一条が笑うということは、問題はないということだ。
もちろんこの後、水崎の方から接触があった。昼休みのことだった。
○
僕は一人で教室から少し離れた人気のない廊下まで歩いた。結月は一条に任せた。といっても一条は何もせず、ただ見守っているだけなのだが。
こうやって一人になると、思惑通り、水崎はついてきてくれた。
「何か用?」
僕は自分でも驚くほど冷静で、先ほど理性を失ったことが嘘のようであった。
水崎は肩を震わせ鬼のような形相でこちらを睨んでいる。
「なにしたの?」
僕達は何もしていない。
「どうしたのさ」
「ふざけないで!」
憤慨しているような目つきだ。
「やめた方がいいよ。憐れみを受けるだけだから」
「ふざけんじゃないわよ」
「話し合うのなら、違うことを言ったらどうだ?」
水崎に対して言いたいことなど、掃いて捨てるほどある。だが、言わない。この状況で言ってもどうせろくに聞いてくれないだろうし。これも勝手な決め付けだけど、あまり刺激するのもよくないだろうから、これでいい。
「は?」
「それだよ。一文字だけ。一単語だけ。話し合いでは極力用いない方がいい」
「……」
「そっか」
水崎は俯き歯を噛み締めていたが、ぐいと顔を上げた。
「何よ」
「本当のバカなら、忠告は忠告にならないものなんだけど」
「うるさい」
「何か用?」
「……あんたが仕掛けたんでしょ」
「違う」
「違わない」
「水崎のほうが先に教室に居たじゃないか」
「じゃあなんで!」
水崎がどうして分かっていないのかが、僕にはわからなかった。
「まったく、水崎は何を見てきたんだよ。水崎が僕たちばかりを見てたときに、クラスの皆は水崎ばかり見てたんだろ」
水崎は目を見開いた。
「水崎が来るまでは、皆は、クラスの皆を見てたんだよ。そんなところに水崎が来て、皆が水崎をクラスの皆と同じ扱いに出来るくらいの、水崎の情報を欲しがらないなんて、そんな変なことが起こると思うか。そんな中で、いきなりやってきた水崎が、いきなりあんな態度をとりだしたら、どう思う」
「……それは」
「良い印象を抱くと思うか?」
「……」
「抱くわけないだろ。逆の立場だったら絶対にむかつくだろ」
また水崎は俯いた。
「僕たちのことが気になるのか」
「……そうよ」
「大体見当はついてるんだろう。その通りだよ。見ての通りだ。でもな、自己紹介さえもろくに出来ない奴に、僕は他人の情報を渡したりなんかしない」
「……」
「少しくらい、他人を見たらどうだ?」
水崎が、また目を見開いた気がした。それと同時に、水崎の顔に力が入った気もした。
「……」
「人の上っ面ばかり見てないで、中身を見たらどうなんだ。それができるのが賢い人間だと思うぞ。……僕は賢い人間を知ってるぞ」
「……」
水崎の顔が、僅かに上がった。
「人のことをちゃんと見てんだよ。見たうえで、どれだけ気に入らない奴でも評価しやがる、褒めやがる。どれだけ気に入っている奴でも、批判しやがる。それができるから、全幅の信頼を寄せられることもしばしばある」
「……一条?」
「そ。小学校のころから、ずっと世話になってきた」
水崎がすっと顔を挙げた。
キョトンとしてやがる。
なんだ?
「小学校からあんな生活してんの?」
「ああ、そうだ」
水崎のこの顔は絶対に訝し(いぶか)んでやがる。
「ばか?」
「馬鹿じゃねえよ!」
「……苦労してんのね」
「憐れんでんじゃねえ!」
どいつもこいつも! まあ、おかげで重い空気がなくなったわけだけど。
「とにかく、教室戻って結月に謝ったらいいんだよ。それだけであの空気はなくなるから」
水崎は負けを認めた様な顔をしている。
まあ、この手の言い争いで僕サイドの主張が負ける意味がわからないけど。
僕が教室に戻ろうと歩きはじめたら、水崎が小さな声で怒鳴った。
「心の中で、迷惑してなければいいけどね!」
鼬の最後っ屁、といえば語弊がある。どちらかというと、負け惜しみに近い。
「……そうだな」
でも、水崎のその最後の一言は、その内容は、僕の中で一番大きな不安そのものだった。