06話 転校生
特訓は三日目に入った。
今は三時間目と四時間目の間の休憩時間。場所は教室の中。結月は今、教室の扉の前にいる。もちろん横に僕もいる。
「扉ね」
「そうだ。扉だ」
僕は先ほど言ったのだ。
「開けてみろ」
……と。
「私は駄々をこねるわ」
「その駄々のこね方は間違っているように思うぞ」
「いいえ。お母さんからしてみればきっとこっちの方が良いに違いないわ。店先でジタバタされるよりずっとマシよ」
「確かにそうだが一度くらい見てみたい姿だと思うぞ。可愛げがないだろ」
「ジタバタなんかしたら汚れてしまうわ」
「仕方にもよるだろ!」
「特に地面に寝そべってジタバタするなんて論外よ。ジベタリアンと一緒よ。近づかないでほしいわ」
「子供のわがままとジベタリアンを同一視するんじゃない!」
「親が注意しないからああなるのよ」
「そうだけど!」
扉の前を陣取ってする会話ではない。
「とにかく開ければいいんだよ! みんな気ぃ使って違う扉使ってんだぞ!」
クラスの皆は今日、ほとんどこの扉を使っていない。
ほんとごめんなさい。
「くっ……」
「扉は敵じゃない!」
扉を親の敵のように睨みつける結月さん。もう敵だらけだ。
「扉なんてなければいいのよ」
「なかったら色々まずいだろ!」
寒いのとか暑いのとかプライバシーとか。
「学校の扉を全て自動扉にすることを要求するわ」
「授業中に教室の前を人が通っただけで扉が開きそうなんだが!?」
「狭いものね」
「あなたはその学校に通ってんだよ! 忘れてないか!?」
この時、唐突に真横から水崎に声を掛けられた。
「くだらない」
僕が楽しく結月と喋っていたところだというのに。
「ん? ああ、ごめんごめん」
扉を明け渡した。そういえば扉の前をずっと占拠していた。
「なにしてんの? さっきから」
冷たい。
水崎の話し方を言い表すのなら、これが一番ふさわしい表現だろう。
「ごめんごめん。ちょっと特訓してて」
「特訓? こんなとこで?」
彼女の言いぶりは興味がないように見えるけれど、それは違う。馬鹿にしたいのか、喧嘩を売りたいのか……。何をしたいのかは分からないが、僕が説明を始めれば彼女の思うつぼだろう。だからといって、無視するわけにもいかない。
だだまあ、とにかく、関わったら面倒だ。
「そう。こんなところで」
「扉……。いくわよ」
結月さん?
スルーという技術を知らないのか? ん? 僕の考察をすべて無にする気かい?
「彼女を先に通してあげようか」
「そうね、やっぱり私には荷が重いわ」
「諦めろと言ったわけじゃない!」
「邪魔」
「通れるだろ? 通ってくれ」
「何その言い方? しかも『通してあげようか』っていったよね? 何その上から目線」
珍しい高校生だ。こんな絡み方、久しぶりにされた。
「やっぱり自動扉よ」
「その欠点をさっき話してたんだろ?」
「なに無視してくれてんの」
何この板挟み!
「無視してないから!」
「無視してんじゃん」
「してない!」
「扉なんていらないわ」
「いるから! 扉はいるから!」
「ねえ」
「なんだよ! 今大事な話してんだよ! 扉の存続の危機なんだよ!」
「まあまあ」
一条!(いちじよう)
助かったあ!
「一条! 僕の体力はもう限界……!」
「良く頑張った」
一条の顔は完全に眺めて楽しんでいたそれだ。
くそっ、もっと早く助けにきてくれても……!
「水崎さん、休み時間、もう終わるよ?」
「えっ」
授業まであと一分だ。
一条の一声で、この場はおさまった。
「結月、昼休みに再チャレンジだ」
「わかったわ」
本当にえらくつかれた。
○
「ちょっと面倒なことになってるね」
昼休みに僕たちが昼食を食べている所に一条が話しかけに来た。
面倒なこと? どういうことだ?
「言ってる意味がわからないんだが」
一条はにこにこしている。
「とりあえずご飯終わったら屋上に来てよ。柏葉さんは面倒だったらいいよ。とりあえず必要なのは幸助だけだから」
「わかったわ。ここで待っていてあげるわ」
「とか言いつつ特訓したくないだけだろ」
「よくわかったわね」
「鎌をかけただけなんだけどな!」
結月さんは口元にすっと手を持っていきました。そしてその後に斜め下を向きました。
「そんな酷いことを……!」
「動作があざとい! 普段そんな動きしないだろ!」
「ばれたわ」
「当たり前だ!」
「詰めが甘かったのかしら」
「ちがう! もっと根本的なところだ!」
一条は笑っていた。そして、
「とりあえず昼休み中には来てね」
と言い残して去って行った。
「急用のようね」
「そうだな」
長い付き合いなため、僕も結月もそのことはわかる。しかも必要性の高いことのようだ。
信頼できそうな男友達に結月の事を見守っていてもらい、屋上に僕が向かうと、一条は屋上の出入り口から一番離れた欄干の前にいた。
「一条、どうした?」
「……あのね、少し面倒なことになってるんだよ」
ここで話されたことは、本当に少し面倒なことだった。
○
金曜日。ゆとり教育の恩恵を受けているこの私立高校では、土曜日と日曜日の授業はない。
「明日は休みだ。明後日も休みだ。今日のうちにやれることはやっておこう」
「死亡フラグよ」
「そんな簡単に立ってたまるか!」
「眠たいわ」
「唐突過ぎる! 会話が成り立ってない! 大体まだ学校始まる前だろうが!」
雀がちゅんちゅん鳴いている。どす黒い雨雲が空を覆っているのは嘘だと思いたいけど。
扉の開閉は一応素手で出来るようにはなった結月だが、まだまだ課題は多い。そこで僕はある秘策を用意した。
「裏技がある」
「レベルの数値だけを上げる裏技かしら?」
「昔あったけどな!? ステータス全く上がらないやつ! そんなにせこいものではない!」
「あら、現実にそのような裏技があったのならぜひともお目にかかりたいと思っていたのに」
「これを使えば少しずつ克服できるはずだ!」
「本当なのね!」
「ああ。無意識にやっていることを意識的にやるんだ」
結月は首をかしげた。
「なにかを触る時、何か越しに触ることがあるだろ?」
「ええ」
「それを意識的にするだけでも違う。それと、どうせ家に帰ったら身体を隅々まで綺麗に洗い、その上で制服は隔離されて、部屋に一切汚れはもちこまれない。そうだな?」
「もちろんよ」
「なら、制服は少しくらい汚れても大丈夫だろ。むしろ汚れているものな」
「そうね」
「身体を洗うということは自分が汚れていると認識しているという事だ。違うか?」
「……そうよ」
「自分の手が汚くても汚くなくても、家の中、特に部屋の中以外では自分の顔も触らない。外で顔を触りたければ、手を綺麗に拭くしかない」
「……確かに」
「他のものは元々汚いという認知のもとで扱っている。ということは、それらのものは汚い手で触れる。これも確かなことだな」
「ええ……」
確認の前置きが長くなったが、これが言いたかった。
「自分に触れるためには手を綺麗にしなくてはならない。逆にいえば」
「……」
「自分に触れるために手を綺麗するだけで良い、ということにならないか?」
「…………反論できない自分が悔しいわ」
外に出た時点で結月の自分の手に対する認識は、汚れたもの、になる。結局、何かに触っても触らなくても、汚れたものに変わりはないのだ。しいて言うならば、自分の制服に触れるか触れないかの違いくらいだろう。どのみち結月は、制服も汚れた物扱いしているわけであるから、汚れた手で触っても支障はないはずだ。家の中でどういう振る舞いをしているのかはわからないが、この反応なら問題はないのだろう。
「そこでだ。ハンカチを持つ」
「ハンカチ」
「そうだ。ハンカチだ。」
僕は一枚のハンカチを取りだした。
「触らなくちゃいけないけど、どうしても触りたくないものはこれ越しに触る」
「……」
「もともと綺麗好きな人の方が多いもので、手袋やら軍手やらというものを、そういう心づもりで使っている人も少なくない。いちいち手袋をするのも結構だが、蒸れる可能性もある上に、なにより面倒だ」
「そうね」
「だからこそハンカチを使う」
結月は神妙な面持ちで聞いている。
「みんなから潔癖症だと言われる人たちは、自分の部屋をまるで神格化でもしているかのように扱っている。部屋だけは清浄な領域に仕立て上げることで、そこに入る前までは自分が汚れてもいいと自分を欺いているわけだ。お前の中で神格化されている部分はどこだ?」
「……部屋よ。お父さんもお母さんも、そこまで綺麗好きじゃないから、部屋だけよ」
「なるほど。そこに汚れを持ちこまない事を、今からの目的にしよう。いままでは何の区別もなく、汚れをシャットアウトしてきた。それではつらい」
「なるほど。差し障りがないだけにむかつくわ」
「制服も汚れていい。手だって汚れていい。洗えば済むんだからな。あとは、除菌できるウエットティッシュと、普通のティッシュ、捨て駒としてのハンカチと、普通に使うハンカチ、財布などを持ち運ぶことを忘れないようにするだけだ。今までは全て僕が用意していたが、一人で外出するとなると、用意というものを欠かしてはいけない」
「そうね」
「服や手を汚す一瞬を、触れる一瞬を怖がってはいけない」
「だって触れなければ必要以上に汚れないもの」
「汚れないようにするのはいいことだ。だがな……お前の場合は日常生活に支障が出てんだよ!」
「ひどいわ」
「ひどくない!」
酷い目にあってきたのは僕だ。
「とにかく、トイレに行くときだってそうだ」
信じられない、といった顔を結月さんはしました。
「トイレ? 外でトイレに行くなんて……!」
「綺麗なトイレあるから!」
「トイレなんて我慢すればいいわ」
「水分ほとんど摂らないもんな!」
「水分は適宜摂取しているわ。トイレも乾きも、後は忍耐よ」
「忍耐力を使う場所が違う!」
よく何年も我慢できたものだな!
「トイレットペーパーとティッシュを用意しておけば扉の開閉と蛇口捻るのは出来るだろ!」
「私なら出来るわ」
「その自信があるなら初めからやれ!」
無駄な努力をしてんじゃない!
そのしわ寄せが全部僕にきてるんだ忘れるな!
「レバーは足で踏むタイプが多い。手で操作するタイプならトイレットペーパーを使って捻ってすぐさまトイレットペーパーを便器に放り込み、流す。最近では手をかざせばそれを感知して自動で水が流れるものもある」
「学校はそれを導入すべきよ」
「最悪マイトイレットペーパーいくつか丸めといて持参すればいいだけの話じゃねえか!」
「確かにそうね……」
「座るのが嫌なら和式を使うんだぞ。垂れるスカートなどの衣服にも注意する」
「わかったわ」
「よし一回行ってこい」
「なんですって!? 会話の流れを考えなさい」
「不自然な流れじゃないだろ! むしろ自然すぎる流れだ!」
目の前には校内で一番綺麗なトイレがある。
その時、後ろから足音が聞こえた。
「くだらない」
まったく、余計なところで……。
「なにか?」
「仕方ないわね。行ってくるわ」
結月さん!?
「あたしもトイレ」
今まさに歩を進めようとしていた結月の腕を僕は掴んだ。
「もうホームルームの時間だ」
面倒事は避けようと、教室に向かう。
「だっさ」
水崎がそう吐き捨てた。
自分がどんな目をしていたのかもわからない。ただ、十分すぎるほどに相手を見下した目をしていたのは確かだ。
さらに水崎は言う。
「ほんと、なにしてんの?」
自分がここまで無関心になれるというのを、今知った。
「うざいんだけど」
だがここで、数日間蓄積されたものが、僕の中で弾けた。ここで感情的になって怒るということは、興味があったのかもしれない。
気がつけば目の前に水崎がいた。僕は既に右腕を振りかぶっていて、それを振り抜こうとしていた。
僕が女の子を殴ろうとしている。でも、こいつが悪い。
しかし、拳は水崎に届かなかった。状況を認識し硬直した一瞬の隙に、僕は第三者に取り押さえられたのだ。
僕は立ったまま腕を背中にまわされ、腰を折り、中腰のような体制になっている。
「ありがとう」
「殴りかかるなんて珍しい。怪我してないよね? 力抜いて体預けてくれたし」
第三者は、僕にしか聞こえないような小さな声でそういった。
「僕だって痛いのは嫌だ」
「……彼女はまだ分かっていないんだ。数の暴力も、言葉の暴力も、こちらが圧倒的だということをね。それに、どれだけ悪ぶろうが、彼女がやってもごっこ遊びにしかならないことも、まだ分かっていないようだね。この学校は、普通じゃないことを、彼女は知らなきゃいけないんだ」
僕は君たちの味方だから。一条は僕を解放してそう言った。
「ホームルームが始まるよ、水崎さん」
見上げると、一条の屈託のない笑顔が、そこにはあった。
この子、こわくない子。。