05話 特訓は大変だという話
その後は特に何もなく、あと少しで放課後という時間帯になってしまったわけだが、これからやることが多すぎて考えているうちに疲れてきた。
とりあえず終礼があと数分で始まる。それまでは体と頭を休ませよう。
そんな僕に話しかけてきた男がいる。
「今日はなかなか活動的だね、二人とも」
……休みたい。
「そうだろ。特訓中なんだよ」
一条一樹。
小学校からの友達で、数少ない男友達だ。女友達は、もっといないけど。
もちろん、結月の事情も熟知している。小学校からずっと助けてもらっている。小学校、中学校、高校と、裏でよく動いてくれていたらしく、一番感謝しなくてはいけない人物だ。
「どうして今になって?」
「一人で出歩きたいみたい」
「ふーん」
一条はなにかを考えている様子だ。
「大変じゃない?」
「いつもの三倍は大変」
けらけらと笑われてしまった。
笑うなという方が無理な相談か……。
「大変なのは諦めろ。死ぬ気で頑張れ」
「受験生に言う台詞みたいだな」
「先輩に言ったらノイローゼ起こすだろうね」
一条は柔道部に所属している。次期部長候補らしい。
「そんな酷い状況なのか?」
「酷いもなにも、勉強してこなかった先輩が悪いんだよ。そのくせメンタル弱いし。ネガティブに考えまくって自滅してる」
「受験戦争って言われてる意味がなんとなくわかった気がする」
「あの人の場合は勝手に内部紛争起こしてるから特にダメージがでかいんだよ」
「そんな先輩をいつも投げ飛ばしてるんだろ?」
「いいよ。ストレス解消になる」
嫌みのない、さわやかな笑顔だ。
こいつ相手じゃ先輩は文句も言えないんだろうな……。
「ストレスため込んでる人を使ってストレス解消してるのか」
「人の目の前で絶対に聞こえるくらい大きな溜め息吐かれたらさすがにストレスになるって」
なるほど。
ストレスを与えられていたわけだ。
「ストレスを返品してたのか」
「そういうこと」
投げ返していたわけだ。
僕も投げやりな返答をしたものだ。言ったあとに恥ずかしくなってきた。
「なあ」
気になっていたことを一つ訊いてみよう。たぶん知ってるだろう。
「ん?」
「転校生さんは、うまくやってるのか?」
名前は確か水崎。
「水崎さん? うまくやってるみたいだよ。ただ、住所の問題とかじゃないみたいだけどね」
「住所の問題? ああ、転校の理由か」
「そう。訊いてほしくないみたいだから、訊かない方がいいよ」
「なんでそうだとわかるんだ?」
「だって、自分から言わないからね」
「……そうか」
「普通は言うだろう? 会話のきっかけ作りにもなるしね」
「確かに……」
詮索する気はさらさらないが、言われたら気になってくる。
「ま、そのうち絶対いいことあるって」
「誰が?」
話題をいきなり変えられ、話が分からなくなってしまった。
「君だよ。持木幸助君」
「はい?」
「ま、気にするな。じゃねー」
そう言い残し、席に戻っていった一条。
釈然としない。
「まあいいか」
いつものことだ。
少しすると担任の石塚先生が教室に入ってて、ホームルームをものの三十秒ほどで終わらせ、にこにことしながら職員室に戻って行った。
これもいつものことだ。
ちなみに、水崎玲奈という生徒は、その日のうちに教室になじんだようだ。こっちはそれどころではないゆえ関われず、それゆえ情報が少ないが、たぶんそうだ。他の女子とも一緒に話していた。
○
「結月。いまからが今日の最終課題だ」
「明日にしましょう」
「明日ならやるのか?」
「きっと同じことを言うわ」
「意志が弱い!」
「大丈夫よ。なんとかなるわ」
「ならねえからこうやって特訓してんだよ!」
今、駅の改札口の前にいる。
このゲートを結月に突破してもらわないといけない。
「……狭き門ね」
「嘆くほど狭くない!」
大抵の人はすんなりと通れるサイズだ。
僕は二人分の定期券を取りだした。
「この定期券を持って、あの改札を通るんだ。至近距離でかざせば通れる。基本、みんなは押し付けるんだけどな。まあ、かざす位置は見ればわかる。それと、定期券なら、基本的に、定期区間内は出入り自由だ。だから、出て、すぐに入り直すことだって、その逆だってできる」
結月の定期券を手渡す。
仕方がないという面持ちでこれを受け取った結月は、改札を睨みつけた。
「敵じゃない。仲間だと思え。それと、馬鹿なことをすると、とどのつまりボケたおすと改札は容赦なくボケた奴をシャットアウトしてくる。余計なことをせず素直にピッとかざして、スッと通りぬけろ」
結月は定期券をじろじろ見ている。
何見てんだ?
「どっちの面をかざせばいいの?」
なるほど。確かに不安になる要素の一つだ。今になってみれば、内部構造も大体わかっているから、愚問にすら思えてくる。
「どっちでもいける」
「嘘だ!」
目をむいて怒鳴ってきた。
やめて恥ずかしい!
「本当だ! やったことないからわからないだけだ!」
「嘘はよくない!」
「お願い信じて!」
周囲の目が痛い!
「信じられないわ。キャッチセールス並みに信じられない」
「いいキャッチセールスも世の中にはきっとあるから!」
会ったことないけど!
「会ったことない!」
ちくしょう。言ってきやがった!
「むしろ誰からも話しかけられないだろ!」
常に話しかけられるのは僕だ。それに基本的にショッピングモールにすら行かないから、キャッチされかけることすらほとんどない。
「でも聞いていたことはあったわ」
「……え?」
そんなことあったの?
「『この世のしがらみから抜け出せます』って」
「それはキャッチセールスじゃねえ!」
きっと、あぶない何かだ。
「『向かう先は清浄』とも言っていたわ」
「ついていくなよ! 綺麗じゃないからな! むしろ汚いことの方が大半だから!」
偏見にとられるかもしれないが、その通りなのだから仕方がない。
「ついていくわけないわ! あのおじさん普通より汚かったもの!」
「綺麗でもついて行っちゃだめ!」
「でも清浄という言葉には何かを感じるわ」
「ほんとについて行くなよ あなたは十分綺麗だから! ていうか何を悟ろうとしてるの!」
心配になってきた。
「清浄教でもつくろうかしら」
うわあ。なんか、どこぞの都み(みやこ)たい。
「ものすごい狂信的な信者が集まりそうだな」
いやマジで。
「良い金もうけになるわ」
「考えが汚い! てかなんだその宗教は!」
「人任せを信条にするものよ、きっと」
「悪質すぎるわ!」
その結果、誰が一番迷惑を被るかって? 僕だ。
「冗談よ」
「心の底からほっとしたわ!」
脱線してしまった。やはり脱線は危険だ。
「どっちでもいけるから! お願いだから信じてくれ!」
定期券の話に戻そう。
「じゃあ先に行って」
そうか、その手があったか!
「なら、こう持つぞ。同じように持つんだ」
名前とかが書いてある方を上にして持った。
「こうね」
「失敗しても慌てるな。落ち着いてかざしなおせばいいんだ」
「わ、わかったわ」
僕が前を行き、結月がその後ろをぴったり付いてくる。
「あと数メートルだ」
「わかっているわ」
そして、通過した。
何事もなく。
「行けた……」
「行けたわ!」
見事な手際だった。
結月は本当に何にも触れていない。結月は自分の手足を、恐ろしいことに服までをも、一ミリの誤差なく操っている。
「当然といえば当然の結果だがな」
「私の力量をもってすれば確かに当然の結果ね」
「そういう意味じゃない! 誰にでも出来ることだと言いたいんだ!」
「感慨にも耽られないなんて、可哀そうな幸助君」
「改札通ったくらいでいちいち感慨に耽られるか!」
ていうか、そりゃそうだよ。
幼稚園児でも、教えたら出来ることだもの。
「初めての体験よ」
「確かにそうだね! 今まで全部僕がやってたんだもの!」
「初体験よ」
「公共の場で何言ってんの!? わかったよ! でもそこまで感動することじゃないだろ!」
「まあ、確かに思ったより感動は薄かったわ」
「そりゃそうだろうね!」
「だってもう忘れかけているもの」
「早い! もうちょっと耽ってろ!」
さっきと主張が逆になってしまった。
「いいわ。さあ、帰路を急ぎましょう」
「いつも急いでないよね!?」
「今日の特訓はここまでよね」
「そうだけど!」
運よく電車は空いていて、今日は珍しく早く帰ることが出来た。
○
家の前まで結月を送るのが日課だ。いつもはそのまま帰る。だが今日は、結月に帰り際に呼び止められた。
これは、なんだ。…‥一体。
「健康的よ」
僕の腕の中には大量の天然水。これを渡された、いや、押しつけられたのだ。五百ミリリットルのペットボトルで六本。
かすかに抱いた淡い期待を返せ。
「これだけ飲めば身体の中から綺麗になるな」
「そうね」
「で、これをどうして僕が?」
「家に、冷たい水を飲める何かが来たのよ」
「何かって何だよ」
「大きなボトルを機械の上に突き刺して、そこから水を抽出して飲んでいるわ。蛇口を捻れば水が出てくるの。機械は丹念にお掃除したのよ」
ウォーターサーバーか……。
抽出って言うな。お水はただ重力に従っているだけだ。
というより、お掃除された機械が無事なのがすごい。
「そしてお前が好んで飲んでいたこの水たちは、飲めなくなったと」
「いいえ。飲めるわ。でも余ったのよ」
「置いとけよ。どうせこれも綺麗にお掃除したやつだったんだろ?」
「そうだけど、賞味期限が今日なの」
……え。
「なんだって?」
「水だって傷むのよ」
「どうやって処理すんだよ!」
「これで行水でもする?」
「逆に水が足りん!」
そんなことをしたら水たまりで遊ぶ残念な高校生が出来上がってしまう。
「とにかく手伝って。あと六本ほど家にあるの」
「なんでそんなに溜めこんだ!」
「私は今、ペットボトル飲料の中でもミックスジュースにはまっているわ」
「水が余った真の理由はそっちじゃねえか!」
「味があって美味しいの」
そりゃあるだろうよ。ジュースだもの!
「まあ、今までは水しか口にしてないようなもんだからな」
小学校で問題が起こってからずっと水を飲んでいた。変なものが入っているのではないかと、水しか飲まなかった。
さすがに食べ物は火を通せば大丈夫だったみたいだが。……よく、焦げた物を食べていた気もするけど。
「身体の中から綺麗になったからもう大丈夫」
「飽きただけだろ!」
「……」
「なぜ黙る」
「いい加減、飽きたのよ」
「本当に飽きやてがった……。いまさらだな……」
「高校一年生になって、私は変わろうとしたのよ。一歩を踏み出さなくてはいけないと思って、飲み物の種類を増やしたの」
「心変わりしたのは当然だと思うがな……」
でも、お茶から始めろと言いたい。
「他のレパートリーは?」
「お湯」
「今日とりあえず、お茶を飲んでみろ」
水を加熱しただけじゃねえか。
水、お湯、ミックスジュース。全部で三択かよ。
いや、むしろ二択だ。
「盲点だったわ。そうね。わかったわ」
食べたり飲んだりしているところを見ると、結月はとりあえず企業を信用しているのだろう。
たしかに、不備があったらすぐに問題にされるから、企業側も衛生面には恐ろしく敏感になってるみたいだし……。
「親が飲んでる物なら大丈夫だろ?」
今のあなたなら……。
「そう考えたら、大丈夫よ」
毒味役に親を使うのもどうかと思うけど、この際、どうこう言っていられない。
「ついでに訊くけど、生ものは食べれるようになったのか?」
「ええ。つい最近食べられるようになったわ」
ゆっくりではあるが、結月の、綺麗好きの度合いがマシになってきている。
酷い時は本当に酷かったらしい。生ものを食べなかったのもそうだが、手の洗い過ぎで手が荒れて傷だらけになったらしい。その時は、痛いのと、手を洗うのが面倒臭くなったのとが合わさって、奇跡的に肌荒れから開放されたらしいが……。
「そうか、よかった」
「お茶……。懐かしい響き!」
「……」
常人には簡単に理解できない、独特の感動があるらしい。
そんなことより、早く家に帰ってこの水を消費しなければ使いきれない。ここで行水するのも嫌だし。
「とりあえず帰るからな」
「そうね。私はお茶と戯れ(たわむ)てくるわ」
「……火傷には、気をつけろよ」
この晩の、僕と、僕の家族の飲み物は全て水となった。
平日なので、次回以降は、朝の8時に予約しておきます。