03話 健康を害する一歩手前の清潔さを
そして、本当に僕はゴミになった。
そうだなあ……。形容するなら生ゴミだ。
「確かに合理的だ」
「ほめないで」
「ほめてない!」
僕は今、巨大なゴミ袋に下半身を突っ込んでいる。前かがみになって両手でゴミ袋を持ち、ゴミ袋をガサガサといわせながら風呂場まで小股で歩いているところだ。
ぱしゃり。
柏葉がスマートフォンを構えていた。ストラップなどついてはいない。丸裸のスマートフォン。
「なに撮ってんだああああ!」
トラウマ級の一枚が今、柏葉の手に渡った。
「記念」
「他人が見たら変質者だろ!」
「大切に保管しておくわ」
「やめい!」
それからすぐに風呂場に移動し、風呂場内で脱ぎ、ゴミ袋に衣類を詰め込む。これも柏葉の指示だ。
まあ仕方ない。
「あれ? 何を着ればいいの?」
着替えなんてない。あるわけない。
「柏葉? いるか?」
「いるわ」
がちゃり。
扉が開いた。
「開けるなあああ!」
必死で押さえ込む。ゴミ袋に衣類を詰め込み、全裸でシャワーも浴びずに風呂場で扉を押さえ、物思いに耽る僕。
ただの変態だ。
「減らない」
「そういうときは、減るもんじゃない、って言うの! この姿見られたら死にたくなるから!」
柏葉の動きがなぜか止まった。
でも、納得して力を抜いたというような雰囲気じゃない……。
「自信がないのね」
「うるさい!」
そうじゃない!
「何の用なの?」
「服だよ服! この後僕は何を着ればいいの」
柏葉は扉を閉めた。
助かった。
「しっかり隅々まで洗いなさい」
全然助かってない。こわいよー。皮膚を全て取り替えて許してもらえるのなら、そうしたい。
また声が飛んできた。
「ここにタオルとジャージがあるわ」
なるほど。
だが納得はできない。
「なんだと?」
「身長差は今のところ大丈夫のはずよ」
そうだ。身長差はそこまでない。
「そうじゃない。そうじゃないんだ」
不安要素が膨れ上がってきた。
「なに? そればっかりね」
「一応聞くが、誰のジャージだ?」
「私のよ」
「もうひとつ!」
「なに?」
まだ何かあるの? とでも言いたげな声だ。
「下着は穿いていいのか?」
「駄目よ!」
今までで一番強い語気だった。
「……え? なに? 下着をつけるなと?」
「ジャージがあるからいいじゃない」
いや、でもさあ……。
「でも、まずくない?」
「女々しいわよ」
「そういう問題?」
「下着がないならジャージを着ればいい」
「パンとケーキみたいに言うな」
常日頃から暴君のような振舞い方だからか違和感はないけど。
「ジャージがあればなんとかなる」
「なるけど!」
問題が山積みなんだ!
「言ってる意味、わかってる?」
「『私のパンツも貸せ』と」
「やっぱりわかってない!」
そんなわけあるか!
「わかっているわ」
「わかってない!」
「わかっているわ。パンツ」
「おお、それ名前か」
まあ問題がパンツにあることは間違いない。
「……いいわね」
「提案じゃないぞ!」
「ところでパンツ」
定着してしまった。いずれ訂正しよう。
「それより、僕がノーパンでジャージを着ることはいいのか?」
「今言おうとしたことよ。気が合うわね」
「……」
嬉しさを感じている余裕はない。判決が下される……。
「さっきも言ったけど、しっかり隅々まで洗いなさい」
その後、僕は頑張った。
○
健康を害する一歩手前の清潔さを手にした僕は、体をふき、表に用意してあったジャージを恐る恐る手にとった。欲望にまみれた男子学生のする変体的な行動の中の一つに、こういう類のものがあったような、なかったような。
胸が高鳴る。
柏葉のジャージだからだ。
柏葉を意識しての胸の高鳴りと、ミスったら死ぬという恐怖が起こさせる胸の高鳴りが相乗効果を生み出している。
……良いにおいがする。
これを汚したら地獄に落ちそうな気がする。
変態じゃないよ!?
みんな、こうなるよ!?
「ごめんなさい」
とりあえず謝った。
そして、恐る恐るズボンに足を通す。
「……っ!」
心臓発作を起こしそうだ。まずい。無心になって着てしまったほうがいい。
「よし!」
だが、着た後もドキドキは収まらない。当たり前だ! この下はすっぽんぽんだ!
「柏葉? き、着たぞ」
急いで柏葉の指示をあおごう。妄想が妄想をかき立て始めたので、妄想できないようにしてしまわねばならない。
「着たのね」
「着た。とりあえず着た!」
「風呂場のごみも一緒に持ってきてね。置き忘れないでね」
「あれはゴミじゃない!」
さっきまで僕が着ていた服だ!
「早く来て」
僕はゴミ袋をひっつかみ、柏葉のあとを追った。
○
柏葉の家はなかなか大きな一軒家。二階に柏葉の部屋があった。
中は、普通。おそろしく、普通。もっと掃除道具とかゴロゴロしてると思ってた。
予想通り、外に持ち出すもの、たとえば制服などは、廊下に保管されている。部屋には持ち込まれていない。教科書の類も例外ではなかった。
きょろきょろしていると、柏葉の冷たい視線が僕に突き刺さった。
「何を見ているの?」
「い、意外と普通だな……と思って」
これは本音だ。その場しのぎの言葉でもない。
僕の言葉を聞いてか、柏葉は笑っていた。こんな笑顔、久しぶりに見た気がする。
「当たり前よ」
柏葉がまわりを見渡している。
「当たり前?」
「ここは、私のテリトリーよ」
「……」
そうでした。
気持ちの問題なのだ。綺麗なものと汚いものの境界は、柏葉の主観による。
ここは、柏葉の部屋。柏葉がここは綺麗だと思っているのだ。
「だから、あなたを綺麗にすれば、この部屋ならいろいろできる」
たしかにそうだ。外では、吊革も握れないし、トイレなんて絶対行かない。でも、この家ならそれができる。
「……なにをするの?」
柏葉はベッドに腰掛けている。ポンポンと自分の横を叩く。
「ここに座って」
「え」
何がおかしいって?
全てだ!
「座りなさい」
「はい」
少し間隔をあけて座る。
「よろしい」
勢いよく柏葉が間を詰めてきた。
肩と肩がぶつかり衝突事故並みの衝撃が肩を襲った。
痛がったのは柏葉だ。あたり前だ。真横でごろごろ悶えている。
まあ、普通ならドキッとするところだ。もちろんドキッとはする。
でも状況がおかしい。変なことを考えたら理性が……。
「大丈夫か?」
「ばか……」
柏葉が涙目になっている。
基本何にも触らない人間があの勢いで衝突したらそりゃ痛い。
……この状況で上目づかいに睨まれてもこわくないんだけど。
「とにかく起きろよ。ほら」
手を差し出すと、それを掴んできた。やっぱり触れるらしい。
柏葉の柔らかい手を握り、腕にぐっと力をこめた。でも起き上がる気配はない。
「……」
「あの」
「……仕返しがしたい」
「……」
……はい?
「仕返しをする」
「まって なに」
「仕返し……」
ぐいと手をひっぱられた。
「……」
しかし、か弱いというか何というか……。
「ぐぬ……」
力、入れてるのか?
それほど力がこもっていない。
そういえば、鞄は基本、僕が持っている。
……嫌な予感がする。
「お箸以上に重たいものを持ったことは?」
「ランドセル」
「そういや持ってたな!」
「うん」
小学校で騒ぎが起こる前までは、確かに自分で持っていた。
諦めたのか疲れたのか、柏葉は真横でぐったりしている。いちいち艶めかしい。
「それからは……?」
また睨まれた。まだ涙目だった。
「正直、ない」
人生で一番驚いたといっても過言ではない。
なんでもありなのか、この少女は。
「そうか。……まあ、仕方ないよな」
汚いと思ったら触れないのだから。
「あ」
「……なに?」
「ふとん」
「そういや、ふとんのが重いな!」
恨めしそうな目をしている。
「教科書一式持ってる」
「ほとんど一瞬だろ!」
基本鞄は僕が持っている。鞄の表面が汚れているから。
柏葉は鞄とは別にもう一つ、ナップサックのようなものを持っていて、いつも折りたたんで、ポケットに突っこんでいる。在宅時は、ビニール袋で包んだ教科書をそれに入れているのだ。
表面の汚い鞄は僕が持ち運んでいる。登校時、会ったらナップサックからビニール袋ごと教科書を鞄に移し、下校時は家の前でその反対の作業をする。
つまり鞄の内側と中身はそこまで汚いという認識にはなっていないのだ。
その程度の作業で済むのなら楽なものだ……。
「甘やかしたのはあなた」
甘やかしただと……。
「あれ? 僕のせい」
「……やっぱちがう」
「……」
罪悪感を覚えたらしい。
よし、からかってみよう。
「そんな風に思っていたとはな……」
「え?」
「重いものは持たせるようにしないと……」
「え? いやそれは……」
いつも、からかわれているんだ。このくらいしても罰はあらない気がする。
「そんな風に捉えられていたとは……」
「……ごめんなさい」
……罪悪感が……。
「…………」
「ごめんなさい」
言いながら、くっついてきた。僕の体を這い上がるように。
理性を保つのが難しい。体を支えていた右手の力が抜けてしまい、押し倒される形になった。柏葉の頭が僕の胸の上に乗っかっている。
僕の負けです。
「柏葉。もういい。もういいから」
「でも……」
柏葉の声には、軽くではあるが嗚咽が混じっている。
「もういいんだ。……もういいから」
ぎゅっと、柏葉の体に力が入った。
「ゆるして」
僕の体の真上に乗っかっていた柏葉が、僕の体の右側にずり落ちた。それでも、半分以上乗っかっているわけだが。
「ああ。気にしてないから」
嗚咽を漏らしながら、また胸に頭を乗せてきた。
「……」
あったかい。
いやむしろ、あつい。汗ばんでくる。
「私、もっと色々出来るようになりたいの」
少なくともこれは本音だ。
体が密着したこの状態。僕なら本音を言いやすい。
柏葉もそうなのだろうか。
「……なにがしたい?」
「……お買い物とか」
そういえば買い物の話を聞いたことがない。
人ごみに行けないから。
「一緒に行くか?」
昔からそうだ。こいつには優しくしたくなってくる。不思議なものだ。
「最初は無理だけど……最終的には、私一人で行くの」
「ああ。それでいい」
無理はしなくていい。少しずつやっていけばいい。
「……あなたの心音、落ち着いてきたわ」
「ああ。押し倒された時はどうなるかと思ったが……」
ノーパンのせいで余計に、だ!
「ねえ」
「なんだ?」
「甘やかしてるとか言ってたとき」
「ああ」
「私を」
「ん?」
「からかってたでしょ」
しまった!
心臓が!
「いや、その……」
柏葉は僕の両の二の腕をしっかりと握り、その腕で体重を支えて体を起こし、ぐっと顔を上げ、四つん這いになって見下ろしてきた。跨がれている。
「あせ、すごいよ?」
「ごめんなさい! ついでにもう一度洗ってきます!」
柏葉の手に、さらに力が籠もった。ぐっと押さえこまれている。
「いい」
「……え?」
柏葉は右手を、すっと僕の耳のあたりにもってきた。汗が手に着いたはずだ。そのまま、僕の髪の中にぐっと手を入れてきたのだから。
「触れるから」
「……」
「触れるから!」
そう小さく叫んだと思ったら、柏葉の体の力が抜け、僕の右半身に被るように覆いかぶさってきた。
「……っ!」
柏葉の、さらさらした長い髪の毛が僕の顔にかかった。
僕の顔の真横に、柏葉の顔がある。
「柏葉」
顎を引いている柏葉の額が、こめかみに当たった。温もりが、体温が直に伝わってくる。今まで嗅いだ事のない良い匂いもする。
寿命が縮まるんじゃないかというくらい、心臓は働いていた。
まずい。
完全に柏葉を意識してしまっている。
「お、おい……」
「ん」
柏葉の体は、運動してないはずなのに細いし、やわらかいし、良い匂いがする。胸もないわけじゃない。大きくもないし、小さくもない。
今、覆いかぶさられて、完全に当たっているのだ。
頭の中がぐるぐるする。ぐらぐらする。くらくらする。
普段は触ることすら少ないのに、今、これだけ密着している。触ってくれただけでも嬉しかったのに、この状況は……。
「柏葉……」
「名前」
「え?」
「苗字やだ」
いつものことだけど、急な奴だ。
心の準備が必要なんですよ?
わかってます?
「ゆづき」
「ん」
「結月」
「……ん」
心臓は鍛えられるのだろうか? 哺乳類はどこまで優秀なのだろうか……?
そんなことを考えていないと、どうにかなってしまう。
「ありがとう」
いままで顎を引いていた柏葉結月が、引いていた顎を上にあげた。
結月の鼻息が、僕の首筋をなめた。
「……っ」
この少女はいろんな衝撃を僕に与えてくれる。しかも一気に。
「もっと、このまま」
「……え」
汗が……。
ふとんと、柔らかい女の子に挟まれている。
動きたくないという下心もあるにはあるが、暑い!
体全体に汗をかいている。
てか何この状況!? 意味分かんないんですけど!
「……いや?」
ぎゅっと抱きしめられた。
「……いいよ」
もう、どうにでもなれ……。熱中症患者はこうやって増えてゆくのです。
壁時計が見えた。気がついたら、家に着いたときから既に二時間が経過していた。
○
「そういえばさあ」
汗にまみれた僕の体からは、力というものが抜け落ちていた。
疲れたんだよ……。単純に。
「……………なに?」
結月の眠そうな声が返ってきた。
「なに寝ようとしてるの?」
「気のせいよ」
「嘘だ!」
絶対にうとうとしてやがる。
「それで、何なの?」
「話逸らしたな……。なんで、ここまで綺麗好きになったんだ?」
僕の疑問の中で一番大きく、訊けなかったことの一つだ。ずっと気になっていたのだが、困らせたくなくて訊けなかった。
「……何と言えばいいのか」
「話したくないなら、無理しなくていいぞ」
「いいえ。大丈夫よ。本当に些細なことだから……何と言えばいいのかわからないの」
「……」
もう、言葉を待つしかない。
「小さい時、虫にやられたの」
虫にやられた?
どういう意味だろう。
「手に、虫がいたの。知らないうちに乗っかっていたの」
結月はもぞもぞと動いている。
うごくな……!
下心の封印が解けそうだ。
「お母さんに、汚いと虫が寄ってくるって言われて……」
そういうことか。
「僕も、虫が駄目なんだ。小さい時、肩に蜘蛛が乗ってた。それを指摘されて、見たらトラウマになって」
肩に乗った蜘蛛。そこまでの至近距離でなら、たとえ一センチメートル程度の大きさの蜘蛛でも、ある程度の視力があれば、顔の細部まではっきりと見えてしまう。
「僕の弱点だ」
教えても大丈夫だ。
虫なんか触れない結月に、僕を虫で攻撃することなど不可能だ。
「そろそろ、起きていいか?」
もうね、暑いの。無茶苦茶に暑いの。下心とかそういう考えを持っていた頃が懐かしいの。
「いやなの?」
「そういうわけじゃないけど、もう汗だくなんだよ」
「健康的よ?」
「健康的だけど!」
よく見ていなかった、いや、見られなかった結月の顔を見た。
汗ばんでいる。髪の毛も額に張り付いていて、うつろな目つきをしている。
見ていると、どうしようもない感情がわき上がってくる。ずっと制御してきた感情だ。扱いに困るこの感情は、柏葉を傷つける可能性が非常に高い。
もう、見ちゃだめだ。
天井を見つめて言う。
「鍵、かけてないだろ。……部屋、開けられたらやばいだろ?」
柏葉が小さく頷いた。
「でも、あとすこし」
そう言いながら、ぐっと力を入れて密着してきた。
「……わかった。とにかく、来週から特訓してみるか」
ちらっと見ると、結月の横顔が見えた。ベッドに顔を押し付け、結月はほほ笑んでいる。
「うん」
そのあとは大変だった。
服を着替えなおすのに、さらに一枚のごみ袋を用意し、計二枚のごみ袋を駆使して元の服に着替え、外まで出たのだ。
ごみ袋は僕がリユースする予定だ。