1章
「おやおや、変わったお方が迷い込んだみたいだ」
見た目は古風なカフェのようだがカウンター越しにマスターと思われる老紳士がティーカップを磨きながら語りかけてきた。
ここに来たのはいつなんだろうか。思い出そうとしても途中で記憶が途切れてその先が書き消される。
「思い出せないのでしょう、無理もありません。普通はここに迷い込むことは無いのですがね」
左腕に目をやると腕時計は午前0時を指したまま動いている気配がない。焦っては状況が悪くりかねない。早鐘のように打つ心臓を抑えるため呼吸を整えカップを磨いている老紳士に話しかけた。
「ここは永い時を過ごされ使命を全うされた神が最後に訪れる場所、喫茶神送り《かむおくり》。」
にわかには信じがたい話だが今の状況を考えると信じざるを得ない。
彼によると、ここでいう神というのは日本の神道の神で古くから伝えられてきた八百万の神のことを指し、神にも代替わりというシステムがあるらしくここを訪れるのはほとんどがそういう神らしい。代替わりをしたらもとの神は時間とともに消えてしまい、そういう神を最後に導く役目を老紳士が担っているというわけだった。どうやらここには人間が来ることはないようでこの店の性質上現世に帰ることはできないようだ。
俺もこのままここで消えてしまうのか。帰りたくないと言ったら嘘になるがこのまま消えてしまってもいいと思っていた。適当に選んだ大学を中退して実家に帰るも帰れず、生きるために最低限のバイトをしながら孤独に生きていた。大学時代の友達とも次第に連絡は途絶え最終的には自ら拒否するようになり今では一切連絡は来なくなった。たとえ俺がこのまま消えようとも悲しむものはいないだろう。けれど最後に母に会いたかったな。知らずのうち両目からは涙が溢れていた。口からこぼれだした言葉を彼は時折うつむきながら聞いていた。
「私もここに迷い込んで随分長い間いろいろな神様を送ってきたが、いつしか元居た場所や両親の顔、先に逝ってしまった妻の顔も忘れてしまった。」
この人も人間で俺と同じくここに迷い込んだ一人ということだ。
「私の務めもこれで終わる。私の代わりに神様を送ってはくれないか。」
老紳士の話によると、神送りは代々人間が行うものであり今までも数多くの人が迷い込んできては神送りをしてきたという。神送りは務めを果たし終えたのちに新たに輪廻転生するのかここでの記憶を消して現世へ戻ることもできるそうだ。答えは決まっていた。何がなんでも現世に戻ってやると。そう決心した俺を安心したかのような顔で見た老紳士は今までにない声色で唱え始めた。
「神送りの代替わりをここに申し上げ奉り候。我転生を望み給う。新たなる神送りの使いの名は。」
ふいにこちらを見られ名を求められた。
「俺の名は、相楽史紀。」
名を答えた瞬間どこからともなく声が響いてきた。
「その願い聞き届けたり」
一瞬光が目の前を包んだと思ったらそこには老紳士はいなくなっていた。急な出来事で全く理解できずに座り込んだまま放心状態になり体が動かなかった。おそらく数秒だったのだろうが永遠と思えるほど長い時間座っていたような感覚だ。あっけにとられている俺の目の前にどこから来たのだろう一匹の三毛猫が座り込んだ。
「まったく今回の神送りのマスターは随分頼りなさそうだにゃー。」
俺はそのまま気を失ってしまった。