9(狐)
香織の部屋を出た私は、ドアの外側にも御札を貼り付けました。さすがに悪目立ちするので、上から「起こさないでください」の札をつけて隠しておきます。
明日の朝はぶっ飛ばします、などと言いましたが、実際には今夜こそが山なのです。
今夜、香織は狼になる。怪異に化ける。
目くらましの御札を使っていると言っても、本格的に彼女が向こう側の状態では、狩人がいつ踏み込んできてもおかしくはありません。今夜が最大のリスクです。
私は駐車場に降り、きつね色のアクアの後部座席から、小ぶりのスーツケースを取り出しました。リモワの限定のイエローのやつ。母から借りたものです。ガラガラと引きずって、自分の部屋に戻ります。狭い部屋なのでスーツケースを広げる十分なスペースがなく、若干いらつきますが廊下のところで中身を広げます。いや……このスペースは廊下って言えるんですかね? ユニットバスを部屋から切り取った結果必然的に発生してしまったスペース、くらいの雰囲気ですが……。まあ良いです。取り出したアイテムをベッドの上に並べます。
これが私の秘密兵器です。まあ全部、父からの借りものですが。まずはパッと見は普通の紐ですが、伝説の宝具であるところの魔紐。同じく単なる年季の入った扇子にしか見えないですが、由緒ある陰陽師アイテムである扇子。次にこれは小さなポーチに入っていますが呪的逃走三点セット。さすがに呪的逃走三点セットって。
やってやろうじゃないですか。
付け焼き刃に違いありませんが、私が香織を守るのです。
と。
聞こえてきました。
グルルルル、という低い唸り声。隣の部屋から微かに聞こえてきます。音響遮断効果があってもこれくらいは聞こえるのですね。反対側の部屋の人はお気の毒ですが……。
時計を見るとそろそろ真夜中です。窓の外には満月が浮かんでいます。
詳しくは聞きませんでしたが、狼になっているときの香織は、意識はあるものの、短絡的になったり攻撃的になったりするようだ、とのことでした。別に完全に意識が動物になってしまうわけではなく、ですから自分の身体を拘束したりする必要はまるでないのですが、自分のことが信用できない彼女は毎月自分の体を拘束して夜に臨み、満月を望むのだそうです。
しかし、今日は、拘束は無しでお願いしてあります。本当にいざというときは、逃げ出す必要があるわけで、拘束なんかされていたら面倒この上ない事になってしまいます。香織がホテルの備品を破壊しないかだけが心配ですが……。
私はもう一度、香織の狼のことを考えます。私が自分勝手にも香織の素性を調査し、みとはちさんの前で披露した推理は、結局の所ほとんど正解でした。やはり、怪火憑きであった香織の怪火を封じるために、あの狼は道具として導入されたのです。けれど今ではこの話に、私は言いようのない不審を感じざるを得ません。その狼の提供者に対する不信を、感じざるを得ないのです。
私達の研究室のボスにして。
西洋の半人半獣伝承、特に、人狼の専門家。
藤木圭吾先生のことを、私はそれほどよく知りません。ただ、先生が香織を見る目は、どこか親密な色を帯びていたことははっきり思い出されます。二人がもともと知り合いであるということまでは、最初から気付いていました。けれど、それ以上の関係がどうだったのか、そこまで私は読み解こうとせず、すぐに先生は海外に行ってしまったのでした。
先生の正体と過去を、一度洗い直す必要があるでしょう。素性の調査を誰かに依頼しましょうか。香織に狼を背負わせた件も、香織本人の話を鵜呑みにせずに、もう一度調査すべきです。コピーしてきた新聞記事などの資料も、実は一式持ってきてありますから、明日にでも読み直してみましょう。今夜はそれどころではありませんが……。
隣の部屋から、グルルルル、という低い唸り声が続いています。私は今夜使いそうな装備を全部リュックサックに移し終えて、すぐに背負えるようにしておきます。邪魔なスーツケースは閉じて、窓のように寄せておいて、ベッドに腰掛けてスマートフォンで地図をチェックします。逃走経路をいくつかのパターンでシミュレーションします。
しかし逃走といっても。車は使えないのです。市内は少しは交通量があるでしょうし、信号もありますから、簡単にはスピードが出せません。狩人に簡単に追いつかれます。かといって無理な走りをすれば、普通の警察に追われる事になってしまいます。狩人は朝になれば追跡をやめるでしょうが、警察に手配されてしまったらおしまいです。一方で、じゃあ車を捨てて他の手段で逃げるかと言うと、それもまた悪手です。まだ先は長く、移動手段は絶対に必要です。レンタカー借りるという手も無くはないですが、できれば我が家の愛車をしっかりと父に返したいものです。そうなると、今夜狩人に襲撃を受けた場合、車は使わずに一旦狩人から逃げ切って、そのあとで車を回収してこの街を脱出する、というのが現実的なプランでしょう。
いや、何が現実的なプランだというのでしょうか……。それって厳しすぎやしませんか。今晩はホテルなんかに泊まらず、どこか田舎の探知されにくいところで車中泊でもしたほうが良かったかも知れないと今更のように思います。いえ、この街を選んだのは父からのアドバイスでもあり、作戦でもあって、一番勝率が高い賭けだろうと思ってはいるのですが。
ただ、一番勝率が高いからと言って、それが勝てる賭けなのかは、未だに不安です。
ん。私は顔を上げます。唸り声が止まりました。反射的に、リュックサックに手をかけます。
今度は明らかに、違う種類の鳴き声が聞こえます。
いわゆるこれは、遠吠え、でしょう。
オオオオオオオオオ――。
本来はかなり大きな音なのでしょう。音響遮蔽されているはずの隣の部屋からでもはっきり聞こえます。警報サイレンのように徐々に高くなる遠吠え。これは、一度様子を見に行ったほうが良いのか……。
オオオオオオオオオ――。
遠吠えは続きます。これは何か起きているのかも知れない、と思い、頭の一部は警戒信号を発しているのに、身体に力を入れることが出来ません。その遠吠えは、神秘的で、不思議とずっと聞いていたくなるような……。
オオオオオオオオオ――。
しかし、その時、そこに別の音が交じるのを私は聞き取ります。バタン、バタン、と何かを叩く音。続けざまに、遠吠えは止まり、犬の吠え声のような、ワン、バウ、という声。
私は弾かれるように立ち上がり、部屋を出て、香織の部屋のドアを開け放ちました。
*
部屋の中はほとんど灰色の塊に、毛で覆われたその背中で埋まっていました。お、おっきい……。狼はこちらをチラりと見て目を見開きますが、同時に私も、その奥、ベッドの向こう側の窓を認めます。窓の外にいるのは、空中に浮遊する銀色のボディ。父に見せてもらった画像の通り。
実証実験中の妖異排除自動機械、『狩人』です。
「逃げますよ!」
叫んで香織の手を取ります。手? 前足? うまく取れないので肩の辺りにちょっと触って、部屋の外に走り出ます。ガウッと狼が吠えた瞬間、窓が轟音を立てて砕け散り、すっと狩人が入ってきます。部屋のドアを閉めます。両面に札がはられているのでこれで多少時間稼ぎができるはずです。私達は廊下を走り、非常階段を駆け下ります。私は一段飛ばしで。狼は踊り場から踊り場まで一足飛びに。どう考えても狼のほうが、脚が速いですね。これでは私が走っているのは効率が悪いですし、やはりプランAが妥当でしょう。
非常階段を地上まで降りて、道路に出た瞬間、上空からキィンと金属音が追いかけてきて、狩人が外に出てきたことが知れます。
ガウウッ――。
狼が、香織が大きく吠えます。後手に、いや、後ろ足に? 私を押しやりながら、上空に浮いている狩人を睨みつけます。
「香織、戦っても勝ち目はないですから。逃げますよ」
グルルルル――。
「いえ、それは意味がありません。そもそもあれの狙いは香織なんですから、私が一緒にいようが逃げようが、どっちでも同じことですよ。それなら二人のほうが良いでしょう」
ガウッ、グルルルル――。
狼がこちらを向いて私を見ます。ぴんと立った耳の間の毛が、いつもの前髪のハネと同じように立っているのに気付いて私はちょっと笑ってしまいます。
「だから、あれは対怪異専用で作られてるんですから、香織が戦うのは全く意味がないんです。私に作戦がありますから一緒に逃げましょう」
本当は父がくれたアイデアですけどね。私のものだということにしておきましょう。
ガウウッ――。
狼は首を振り、前足で地面を叩きます。
「聞き分けが悪いですね……」
やはり、この状態では香織はいつもの冷静さを失っているんでしょう。喧嘩したらまた噛まれてしまうかも知れません。今は喧嘩している場合ではないのです。私はリュックサックから魔紐を取り出します。この紐は、猫の足音、女の髭、岩の根、熊の腱、魚の息、そして鳥の唾液から作られたのだそうです。狼を縛って遣うのに絶大な効果を発揮するのだとか。
「香織って、縛られるの、好きですよね?」
*
魔紐のリードを取り付けた狼に跨がり、夜の道路を疾走します。深夜だけあって車通りはありません。冷たい夜風が頬を叩きます。けれども跨った背中は、灰色の硬くて分厚い毛に覆われて温かく、力強く躍動します。
ワオオオオオオオオオン――。
大きく香織が吠えて、跳躍します。跳び越えるは弘前公園追手門。櫓を軽々と飛び越えて、公園の敷地内に降り立ち、スピードを殺さぬままに駆け抜けます。着地の瞬間、しっかりと首元に掴まると、ほのかに香織のにおいがします。普通ならばこんなにうまく乗りこなすことは出来ないでしょう。魔紐のおかげで、私のバランス感覚は狼の身体にまで拡張され、一体化した身体のように動くことが出来ます。駆け抜けると夜風が気持ちよく、私の気分は高揚します。
閉門後の弘前公園内は無人です。ここならば誰かに目撃されるリスクはない。多少派手に動いても問題ない。理想的なフィールドでしょう。
グルルルッ――。
「真っ直ぐです。三の丸の広場まで行きます」
ガウッ、グルル――。
「あの狩人はおそらく単独ですが、まずは動きを見極めましょう。大丈夫、勝算はありますよ」
狼香織は魔紐のリードで私の思い通りに動きますが、意識が無くなったわけではありません。反抗は諦めてはいるものの、納得はしていないようです。しかし今は生き残るため、少し我慢してもらわねば。
公園内は木々が青々と茂り、そこかしこに花壇があって、春や秋のシーズンにはきっと綺麗なのでしょう。さっき調べた時も桜まつりの情報がたくさん出てきましたし。いつかシーズンの昼間に来たいものですね。私は背中の上で頑張ってバランスを取って、駈歩で進みます。四つ足の三拍子で、東北の冷たい風が心地よいです。
つと立ち止まり、振り返ります。四足で振り返るの、結構難儀なものですね。
ピクニックができそうな広場の向こう側、キンと微かな金属音を奏でながら、『狩人』が浮遊しています。
実証実験用妖異排除自動機械。
昔は妖異の退治は、専ら人間の仕事だったようです。いわゆる陰陽師とか、神職や僧がその機能を成していた時代も長かったと言います。しかし、公安妖異局は時代の流れに合わせて、妖異の無害化をこの自動機械にやらせようとしている。それが父から聞いた説明でした。
稼働している型式は三つあるそうです。あそこにいるのはそのうちの一つ、耳と腕のあるタイプ。ちょうどコケシのような身体と頭に、ちょんと三角の耳のような突起がついています。コケシでいうところの頭の部分の中央には、大型の赤く発光するセンサーがあり、それは大きな目玉のようで、鳥よけの案山子の意匠のようです。頭部から大きく垂れ下がる二本の腕のようなパーツが特徴で、三つの型式の中でも最も速度と近接攻撃力があるそうでした。
その目は私達を捉え。
瞬間、まるで反動というものを無視した動きで、強烈な加速度を効かせた狩人がこちらに轟と向かってきます。私は左手で魔紐を握り、狼香織の動きを抑えながら、リュックサックから取り出したるは呪的逃走三点セットの一、朽木細工の狐火の玉。天に投げれば茫と浮かび上がる橙赤色の狐火が、揺ら揺らと震えながらゆっくりと舞い落ちる様、そのまさに狐の嫁入りとでも言うべき光景に狩人は気を取られ、間隙をついて狼は一気に地面を蹴って中濠を越え、二の丸の方へ駆けます。背後を見やれば狩人は、幾重にも増える狐火を一つ一つ、腕を振り回して地面に叩きつけているところ。
「やはり基本は打撃ですか」
それは良いニュースでしょう。香織を撃ったような重火器タイプのほうが厄介です。飛び道具で狙われたらひとたまりもありません。
ガウッ――。
見れば狩人が最後の燐火を叩き消すところです。すぐにこちらに向かってきます。
「南内門まで引きつけます」
私は魔紐を握り、狼と駆け出します。姿勢を低くして、香織の首筋に顎を乗せながら。
狩人の基本的な動作は、人間に対して現に危害を及ぼしている、あるいは差し迫って危害を及ぼすおそれのある妖異の排除、です。その判断は自律的に行われ、現地での危険度評価が優先されるそうです。ですから、手配されている香織の存在よりも、差し迫って公園内で火事に至るおそれのある狐火を見ると、その除去を優先してしまうわけです。
ガウッ、グルル――。
「次はギリギリまで引きつけて、門の上に飛び上がってください」
キィン、と別乾坤の天音色を発しながら、狩人はこちらに接近してきます。その姿が大きく伸び上がり、ストップモーションのごとく急接近した狩人の腕が、いよいよ振り降ろされようというその瞬間、狼はしなやかな脚で跳び、一息に門の上に登り、大棟がギシリと撓んで受け止めて。狩人もその動きに追従し、地面を蹴ることもなく浮かび上がって殴りかかりますが、瞬間、その動きは逸れ、私達はそのまま門の向こう側に降ります。着地の刹那に膝を丸めて、私と香織は地面を転がるように、間髪入れず叩き込まれる狩人の追撃を躱します。地面にえぐりこむように撃ち込まれた腕は、大地を爆縮させ、瓦解した地面に数メートルの虚。
これは当たれば即死。狼はもちろん、私だって真人間ではありませんから、命が危ないでしょう。けれど、見ましたか? 狩人は、門を破壊するのを避けました。ずいぶんとまあ、聞き分けが良い。
私はリュックサックから三点セットの二であるところの葛の葉を取り出し、空中に放ります。口の中で唱えます。恋しくば尋ね来て見よ。葛の葉はたちまち白狐に姿を変え、その細長い顔に炎を滾らせ、狩人に向かって駆けていきます。狩人はまた、この囮の対応を余儀なくされ、その間に私達は後退します。
「本丸に移動します」
ガウッ――。
弘前城は日本七名城の一つと言われるそうです。元ネタは司馬遼太郎だそうですが、現在では専ら弘前城側がそう名乗っていて、他の六つの人たちは特にそういう主張はしてないのだとか。まあ、日本三大とか五大とか、そういうのって、だいたいそうかも知れませんね。
弘前藩津軽氏四万七千石に対し、司馬遼太郎は「三十万石以上の規模の城郭」などと書いているそうで、それは盛り過ぎだろうという話ですが、確かにこの弘前公園は広大ですし、立派な城であることは間違いないでしょう。
現存十二天守の最北端。私達の移動ルートから大きく外れず、夜間に人払いがされ、広大なスペースがある史跡。理想的な条件を満たす場所はここであると、作戦会議で父は言いました。
満月に照らされた本丸跡からは、弘前の街と、遥かに岩木山の影が望めます。
しかし、主役であるはずの天守は不思議な状態です。周囲を足場に囲まれ、地面にはレールが組まれてゴテゴテとしています。
まるでこれから、天守が動くとでも言うかのように。
そう、この天守はこれから動かされるのです。老朽化した石垣の修繕工事のため、この400トンの天守は、これから百年ぶりの曳家工事を行い、本丸の真ん中まで、70メートル移動します。これだけ巨大なものが、石垣から切り離されて移動されるだなんて大掛かりな話です。本丸の堀の水が抜かれているのも、工事の準備なのだとか。私としては、この環境条件を活かさない手はありません。
この天守を前に決着を付ける、それが私の作戦なのです。
さて、この作戦はうまく行くのでしょうか。うまく行かなければここで敗退、私はともかく香織がどうなってしまうかわかりません。狼部分が消されるだけなら良いですが、本人に危害が及ぶ可能性はもう否定できないと父は言いました。それは嫌です。そうはいかないのです。突然私は、心臓が早鐘のように打っていることに気づきます。はて、私はあまり緊張とかしないと、そう思っていたのですが。
「ちょっと我慢してくださいね」
そう言って、私は香織の背中の毛を抜きました。
ヒィン――。
「悲しい声が出ましたね」
グルルルルルルル――。
「すみません、我慢してください。好きですよね、我慢」
私はその灰色の硬い毛を、三点セットの最後、木彫りの人形に差して、地面に転がします。たちまち人形は狼の姿に膨らんで、大きく伸びをします。同じものを二つ作って、狼が全部で三匹になります。
オオオオオオオオオ――。
オオオオオオオオオ――。
遠吠えが呼応し、高まっていきます。
オオオオオオオオオオオオ――。
オオオオオオオオオオオオオ――。
どうしてでしょう、この声は不思議です。恐ろしいのに、聞き惚れてしまう。緊張しながら、恍惚を呼び起こす。
その声の向こうに、遥か彼方のジェットエンジンのような金属音を立てて、浮遊する狩人。狩人と狼たちが天守をバックに向かい合います。
キィンと爆燃音を纏いながら。赤い目の狩人が両の腕の鉄槌で、狼を狙って振り下ろしたる夢の血の香に、三匹は吠えながら互いにコンビネーションを取り縋り、狩人との間合いを保ちながら回転し、交錯して見上げ果てた夜空には月明かりにかき消された何れかの星座があり、狼の星座は北狄の守りのこの城からは望めず、一匹の狼が追いつかれそうになると、別の一匹が背後から狩人に飛び掛かり、すると狩人はそちらに気を取られ、そのすきにもう一匹がまた背中に齧り付かん勢いで向かい、それを繰り返してダンスのように、回りながら、満月を廻して、銀箔を振りまいて、天守に駆け上がっては駆け下りて、狩人の裁きは空を切り、虚を殖やし、ついにその腕が狼の一匹を捉え、贋作の狼は背中をくり抜かれて虚構に還り、霧散した影の中に落ちるは木偶の欠片で。その瞬間を捉えた狼が仇とばかり狩人を蹴倒し、水の抜かれた堀に転がって牙を突き立てるけれども、狩人の鎧鋼の身体に傷などはつかず、やがて向けられた拳にこちらも夢となり消え、その赤銅の目が、私を負う本物の狼を、神谷内香織が負う仮初の狼を捉えて、反動無く加速して。
もう後がありませんが、しかし、狼二匹が稼いでくれた時間で、私は最適なポイントを見極めました。私はリュックサックから扇子を取り出し、
「香織、私を降ろしたら、堀の下に飛び込んでください」
ガウッ――。
肉薄する狩人の軌道を反転させ、私は地面に転がり、香織が水の抜かれた堀に飛び込むのを見ると、天守の表側に全力で走り込みます。これがうまくいかなければ。そのことを思い私は心臓がギュッと冷たい手に握りつぶされたように感じます。そのときには香織は、木偶の狼たちのように虚となり空に消えてしまうのか、私はそれを考えないように、考えないように狙った位置について、手にした扇子をバチンと音を立てて開いて、口の中で真言を唱えます。父から教わった秘密兵器を構えます。そうして両手で捧げ持った扇子で、めいいっぱいの力を込めて天守を扇げば。
天守の周囲の足場が弾き飛ばされ。
曳家を控えて余計なものを取り払われた天守は、扇子の偉力に為す術もなく、羽毛のごとく軽々と浮かび上がり。
跳躍し、はるかに望む岩木山。
白漆喰と鉄扉がそれぞれに月光を反射して。
400トンの塊が飛んでいったその先、空中に浮かんでいる銀色のボディへと。
ギィィィン、とおよそ天守閣からはしそうにない、してはならない音を立てて、重さを取り戻した天守が、狩人の上に覆いかぶさります。
*
狩人は公安妖異局の所属です。そしてこの天守は、文化庁の調査に基づき文化審議会が審議し、文部科学大臣が指定した国の重要文化財です。そもそもこの弘前城跡全体が、文部科学大臣が指定する史跡であって、文化庁の息のかかった領域なわけです。いわば狩人にとってはアウェイ。そこでさらに天守を破壊するなどということになれば、公安にとっては非常に面倒です。最悪の場合、狩人の運用を停止させられてしまうリスクがある。そんな事態は可能な限り避けるよう、狩人はプログラムされている。
だから、狩人とやり合うなら国宝や重文や史跡を活用しなさい。城址とか、寺社とか、燈花が通っている大学とかも、フィールドとしては良いだろうね。そう父は言いました。
父からこのアドバイスを聞いたときは、なんて面倒な、くだらない大人の事情なんだろうと思いましたが、ここまで覿面に効果があるのを見てしまうと、驚き呆れる思いです。
狩人は天守の下でもがいています。
落としてはならない大切なものを、必死に支えるように。
それはそうです。なんて言ったって、重要文化財です。天守ですよ? これがただの鉄塊であったなら、この狩人は片手でそれを、虚に帰することが出来たでしょう。それは何の抵抗にもなりません。けれどこれは天守です。大切に扱ってもらいませんと。
異形の怪力を誇る狩人ですが、さすがに400トンを支えるのはギリギリと言った様子で、二本の腕はカクつき、ブレてうまく結像できず、息も絶え絶えと言った風情。せいぜい頑張って元に戻してくださいな。
その朦朧とする狩人の下に見えるは、間一髪で無傷の。
「香織!」
ガウッ――。
「怪我はないですか」
グルルルルル――。
私は香織の頭をわしわしと撫でました。香織はまだ硬い表情で唸りました。ふむ。私は魔紐を取り、狼に跨ると勝鬨を上げて弘前城を後にします。
ワオオオオオオオオオン――。
やったぜ。
*
ホテルの地下の駐車場まで戻って、車の後部座席に香織を詰め込み(かなり詰め込まないと入りませんでした)、部屋に戻って荷物を回収し、ガラスが割れているのは申し訳ないけど、割ったのは私じゃなくて公安だから……と言い訳しながら気持ちだけ現金を枕元に置き、車に戻って荷物を助手席に放り込み、エンジンをかけて北へ爆走します。あの天守を元に戻すのにどれだけ時間がかかるかは分かりませんが、一筋縄にはいかないでしょう。
ミラーで後ろを見れば、後部座席は灰色の毛で埋まっています。
「香織、大丈夫ですか?」
グルルルル――。
「怪我もなく済んで良かったです。これで最大の難所を突破しましたよ」
本当に。一番リスクの高い夜をうまくやり過ごし、このまま本州を出てしまえばかなり安全になります。目的地もすぐそこですし、もうほとんど決着はついたようなものでしょう。
見れば東の空が白んでいます。私は助手席からタオルと着替えを取って後ろにやりました。なんて準備が良いのでしょう。今夜の私は冴えているようです。歌でも歌いたい気分です。東の空が明るくなってくるにつれ、灰色の毛の塊は小さくなり始め、最終的にタオルをかぶった女の子に戻りました。
「お疲れ様です」
ミラー越しに、呆れたような香織の目が見えました。
「あのさぁ、燈花……」
「はい」
「なんで僕の言ってること無視するの」
「はい?」
「いや、助かったから良いけどさ、僕の意見完全無視で、その縄で引っ張り回すのはさ、ちょっと怖い……怖かった……」
香織の目が潤んでいます。鼻をすする音。
あれ。
あれ、私、またやらかしました?